
母国でのF1初レース(1977 カナダGP)
ビルヌーブがフェラーリで初めて走ったF1GPは、1977年のカナダ、彼の母国だ!!
このレースでは、ニキ・ラウダ、カルロス・ロイテマン、そしてジル・ビルヌーブの3人で出走するということが決まっていた。
しかし、ニキ・ラウダはビルヌーブがナンバー3ドライバーで走る・・・
つまりフェラーリが3台走ることについて不満を持っていた。
ラウダは既に来シーズンにブラバムチームに入ることが正式に発表されていたのだが、そのラウダの穴埋めとしてビルヌーブが入ること自体はラウダは文句を言わなかったのだが・・
ナンバー3ドライバーの管理までピットクルーがまかなえるはずがないとつまり自分のマシーンは手を抜かれるとラウダは思ったらしい。
それに対してフェラーリチームは、「ラウダは既に今年のチャンピォンが決定しているから、目的がなくてただイラついているんだろう」というような返事をしたのだが・・
この返事がラウダを激怒させた。
その返事の直後、ラウダはチームに何も言わずに自宅に帰ってしまって、その瞬間、フェラーリチームと決別・フェラーリチームを離脱してしまったのだ。
このように、レース前にいろいろとゴタゴタがあって、結局カナダGPを走るのはカルロス・ロイテマンとジル・ビルヌーブの2人だけとなった。
予選では、ロイテマンはコースのグリップの低さのために順位を上げられず、またビルヌーブは、彼の312T-2が今まで乗っていたラウダ用にアンダーステア気味にセッティングされていた為、彼本来の走り(オーバーステアにセッティングしてテールを大きく振ってフルカウンターステアリングを使ったドリフト走行)ができず、やはり順位を上げられなかった。
それにビルヌーブは無理にそのアンダーステアなセッティングのマシンで自分の走りをしようとしてコースアウトし、マシンをぶつけて壊してしまう。
決勝までにメカニック達は必死でビルヌーブの壊れたマシンを修理しなければならなかった。
しかしフェラーリの2台は、予選結果は全くサエなかった。
決勝では、かなりの混戦でいろんなマシンが接触・コースアウト・スピンなどをしながらコースを荒らしていたが、ビルヌーブはそれに巻き込まれることはなく、冷静にかわしながら走っていた。
順位こそサエなかったが、なんとか走行を続けていた。
その内にチームメイトのロイテマンのマシンは不調が出始めジリジリと後退していった。
やがてビルヌーブにも不運が訪れた。
マリオ・アンドレッティのロータス78(1977年のロータスのマシンは78という名前が付けられていた)のエンジンが火を噴いてオイルをコース上に撒き散らし、そのオイルに乗ってスピンするマシンが続出し、中にはコースアウトしてクラッシュするマシンもあった。
ビルヌーブもアンドレッティのオイルを踏んでスピンした一人だったが、コースアウトはせずに、彼の得意なスピン中のヒール・アンド・トゥで勢いよく全開走行を再開しようと思ったその瞬間、彼の312T-2のドライブシャフトが折れてしまった為に、彼の母国でのGPはリタイアとなった。
ビルヌーブはその時のことを「オイルフラッグに気づくのが遅れてオイルに乗ってスピンした。スピンした後についクラッチを急激に繋いでしまったためにドライブシャフトに過大な負荷がかかって折れたんだ。だからリタイアしたのは僕のミスだ」と語った。
この態度に報道陣の誰もが驚いた。
当時のF1ドライバーたちの多くは、他人が原因(今回はアンドレッティ)でリタイアした場合にはひたすら他人のせいにして自分のミスを一切認めないドライバーが大半だったからで、そういうドライバーたちに報道陣は嫌気が差していたからだ。
だからビルヌーブの素直さに驚いたのだった。
しかしビルヌーブは、次に行われるレースで、取り返しのつかないとんでもない失敗をして、世界中の新聞のトップ記事にされるほど、悪名を売ってしまうのであった・・・
それは今でも語り種となっている、1977年の「魔の日本GP」・・
第1コーナーでの大惨事(1977 日本GP)
F1日本GPは、富士サーキット(富士インターナショナル・スピードウェイ)で開催。
日本からはコジマ009と言うマシーンで日本人ドライバーが走ったF1ですよね。
既にニキ・ラウダはフェラーリから抜けてしまったのは先にも書いたとおりだが、そのラウダの乗っていたカーナンバー11のマシンにビルヌーブは乗っていた。
日本でもこのニキ・ラウダが来ないF1に残念の声が上がった。
それも聞いた事も無い新人だからなおさら・・
チャンピオンのラウダのマシン、そのマシンは皮肉にもビルヌーブにとってはこの上なく扱いにくいシロモノだった。
ビルヌーブ
「312T-2は僕にはとてつもなく扱いづらいマシンだ。同じマシンでカルロス(ロイテマン)が速く走るのが信じられない。一体この312T-2で、僕の走り方で、どうやったら速く走れるんだろう…。悩んでしまうよ」
そんな不安を抱えたまま、日本GPの予選は始まった。
富士サーキットの危険性についてカルロス・ロイテマンは語ったことがある。
第1コーナーや最終コーナー(まだシケインが設けられていなかった頃である)の危険性は見逃せないし、気が抜けないとのことだった。
フェラーリの2台はここでもいいところがなく、不安定な挙動のマシンに悩まされ、ロイテマンは辛うじて予選結果はトップ10以内、ビルヌーブはもっと後ろのグリッドしか確保できなかった。
決勝レースでは、スタート後間もなくマリオ・アンドレッティがクラッシュした。
その時のロータスのタイヤがコースに残されてしまい、これをかわそうとしたハンス・ビンダーが高原敬武のコジマ009と衝突してクラッシュ。
ビンダーも高原もリタイアとなった。
しかしこのクラッシュは、この数周後に起こる大惨事の、序曲にしか過ぎなかった。
ビルヌーブは予選でかなり後ろのグリッドしか確保できなかった為、必死に追い上げようとしていた。
コーナーに進入するたびにタイヤからブレーキング・ロックによる白煙が上がった。
アンダーステアが激しい312T-2をドリフト走行で無理矢理ねじ伏せるようにして真横になってコーナーを抜けていた。
それでも上位には追いつけない。
不安定な312T-2では、これが限界ギリギリのドライビングだった。
そして6周目、大惨事は起こった。
ピット前のストレートを、ロニー・ピーターソンのティレルの真後ろにピッタリとはり付いて走っていたビルヌーブは、第1コーナーのブレーキングでピーターソンをインから抜きにかかった。
ビルヌーブは富士サーキットの第1コーナーの危険な路面状態を忘れていたのだろうか?
コントロール可能と考えたのだろうか?
当時の富士サーキットの第1コーナーはとても路面が荒れていて、ブレーキング勝負に出るには極めて危険なコーナーだったのだ。
そしてその直後、不安定なブレーキング状態のため、ビルヌーブのフェラーリの左前輪とピーターソンのティレルの右後輪が接触、ティレルはフェラーリに乗り上げられたためリアウイングがもげてスピンしたのみに収まったが、ビルヌーブのフェラーリは時速250km以上の速度で空に舞い上がった。
そしてノーズから地面に叩き付けられたフェラーリ312T-2は狂ったようにトンボ返りをうちながら、激しく横転を続けた。
コース外のダートに飛び出してもフェラーリはその横転をやめず、ダートの向こう側にあったキャッチフェンスに飛び込んでもまだ横転を続けた。
そして、そのキャッチフェンスの向こうは立ち入り禁止区間だったにも関わらず、かなりの観客が居た。
その観客が居る場所に横転を続けるフェラーリ312T-2が突っ込んだ!
この事故で、立ち入り禁止区間に入っていたカメラマンが即死。
そして、この事故が起こる少し前から「ここは危険だから立ち去るように」と誘導していたコースマーシャルが即死。
2人の命が奪われた。
他にも多くの人間が、横転するフェラーリ312T-2の下で重傷を負った。
やっと横転をやめて止まった312T-2は、見るも無残な姿になっていた。
タイヤやサスペンションやボディワークなどは全てちぎれ飛んで無くなって、エンジンやミッションまでズタズタに破損していた。
辛うじてマトモに残ったのはアルミがむき出しになったモノコックフレームの一部だけだった。
しかし、マシンに乗っていたビルヌーブは無傷だった。
すぐにビルヌーブはマシンから降りてピットへと歩いた。
この時点では彼は観客が死んだとは知らずに、ただ自分自身に腹を立てていた。
自分のブレーキングミスに腹を立てて、むすっとした表情でピットに帰ってきた。
やってきた報道陣に囲まれても、これだけすさまじい大事故の直後だというのに、ビルヌーブは眉ひとつ動かさず、全く冷静だった。
普通のF1ドライバーならば、大抵はこれだけの事故の直後はひどく興奮して動揺してしまうものだが、ビルヌーブは平然としてピットクルーに伝えた。
「第1コーナーでミスって事故を起こした。僕は見てのとおり無傷さ」
そして彼はぶつけてしまった相手のロニー・ピーターソンのピットへ行き、自分のミスであることを伝え、ピーターソンに謝罪をした。
やがてレース自体は終わったが、もちろんそれだけでは事は収まらなかった。
ビルヌーブのマシンの下で死んだ人や重傷を負った人が居るという事実が・・・
これについて日本の関係者はビルヌーブに激しく質問の嵐を投げかけた。
調査も進んだが、結論は、ビルヌーブもピーターソンも悪質なことはしておらず、F1レーシングの規定に沿って走った結果の偶発的な事故だという結論になり、事故の原因のビルヌーブは書類送検をされただけにとどまった。
ピーターソンにも責任が無いとはいえなかった。
ピーターソンはビルヌーブのラインを塞ぐような形でコーナーに進入していたのだ。
しかしこれは6輪車(当時のティレルは6輪車だった)を操るための独特のテクニックだったために、ピーターソンのことも責めようが無かった。
いずれにしてもF1レーシングでの事故のひとつと捉えられ、結局2人とも責任は問われなかった。
1977年のF1シーズンはこの日本GPで終了したのだが、この日本GPの第1コーナーでのショッキングな事故シーンの写真は、後日、全世界の新聞のトップ記事を飾ってしまったのだった。
世界中からの非難の声
「フェラーリはとんでもない死神を拾った!」
「ビルヌーブは狂っている。F1マシンに乗せるべきじゃない。即刻F1の世界から叩き出せ!」
「エンツオ・フェラーリ、人生最大の過ち。それはビルヌーブを採用したことだ」
「帝王ニキ・ラウダが乗っていた栄光のカーナンバー11の312T-2を、ビルヌーブは殺人凶器に変えてしまった」
「なぜあれだけすさまじい大事故の直後も、あんなに平然としているのか。あいつの神経は普通じゃない」
「あいつは未熟なくせに、あまりにも急ぎすぎていたんだ。その結果があのザマだ」
「あまりにも危険な走り方をする、クレイジーな壊し屋・解体屋」
「偶発的な事故とはいえ、人を2人も殺しておいて平然としているなんて、その神経が疑われる」
「エンツオ・フェラーリが即刻ビルヌーブを解雇するのは確実だ!」
ビルヌーブは世界中のレース関係者たちから非難を浴びた。
確かに彼はまだF1の経験はほとんど無かったし、取り返しのつかない大事故を起こして彼の312T-2の下で2人の観客が死んだのも事実である。
ビルヌーブが死亡事故を起こしたことについて、彼がいかにも無感情で平然としているかのように世界中のマスコミは騒いだが、実はビルヌーブは、自分の感情を表情に出すことが非常に苦手だったのだ。
無感情だと言われるのはその性格のためだったのだ。
もちろん死亡事故については彼自身かなりショックを受けていて、相当精神的に落ち込んでいたようである。
その彼の精神的な落ち込み具合はエンツオ・フェラーリが一番よく知っていたとも言われている。
そして、今回の事故に関しての記者会見によるエンツオ・フェラーリ直々の言葉は、これはこれで世界中を驚かせた。
「ビルヌーブを解雇する気など毛頭無い。彼はまだF1での経験が浅いだけだ。いずれ必ずウチのチームにふさわしいドライバーに成長させる自信が我々にはある。諸君は今回の事故で人が亡くなったことについてかなり感情的に騒ぎ立てているが、過去にもF1でドライバーや観客の死亡事故はたくさんあっただろう。忘れたかね? これがF1レーシングの世界なのだ。諸君は今までのF1レーシングをずっと見てきているのだろう? 違うかね?」
F1界のゴッド・ファーザーによる重く深みのある言葉は、ジャーナリスト達を一括して黙らせた。
そして世界中のレース関係者も、ビルヌーブの才能に疑いを持ちながらではあるが、記者会見でのエンツオ・フェラーリの言葉により、ようやく気持ちを落ち着かせたようだった。
そのエンツオ・フェラーリの気持ちに答えるように、ビルヌーブはシーズンオフの最中、フェラーリのテストコースで他のどのF1ドライバーよりも長い走行距離をテストドライブし続けたのだった。
一日中コクピットに収まり、食事もロクにせず、設備さえあれば深夜でもテストドライブをしそうなほどの勢いだった。
それほど彼は練習に情熱をかけていた。
また、彼のチームメイトであるカルロス・ロイテマンは、例の事故については批判的だったが、ビルヌーブに接する時は意外にも友好的だった。
気難しい性格で有名なロイテマンだが、物事に全力で真剣に取り組むビルヌーブのことを気に入った様子だった。
こうして、だんだんとチームの中でビルヌーブは家族的な雰囲気で溶け込んでいくことになる。
フェラーリでの初の完走(1978 アルゼンチンGP)
1978年になり、ビルヌーブがフェラーリでフルシーズンを走る時がやってきた。
第1戦はブエノスアイレスで開催されたアルゼンチンGP。
ここはビルヌーブのチームメイトであるカルロス・ロイテマンの母国だ。
まだフェラーリの新シーズンのマシンはレースには登場していないので、昨年のマシン(312T-2)で2人はこのGPに挑まなければならなかった。
それでもロイテマンは予選で奮闘し、フロントローにマシンを置くことができた。
一方のビルヌーブは、例によってスピンしまくり、それでマシンとコースの兼ね合いを掴んでいくという荒業をやっていた。
相変わらずの方法だったが、昨年と比べると確実にスピンの回数が減ってきていた。
これはおそらく、シーズンオフにおける相当な量の走り込みにより、彼にF1マシンを操るカンが養われたのだろうと思われる。
それでも彼はオーバースピードでコーナーに進入してはスピンをした。
お得意のスピン最中のヒール・アンド・トゥのリズムも軽快に、タイヤから白煙をあげて立ち直り、何事も無かったかのように全開走行に移る。
そのテクニックに観客は声援を送った。
「いいぞビルヌーブ!」
「いいぞスピン野郎!」
という皮肉を込めた声援だったのが問題なのだが。
予選は結果を出さねば何の意味も無い。
そんなことは百も承知のビルヌーブは自分なりにアタックし、4列目のグリッドを確保した。
決して悪い順位ではない。
走行方法は、もう完全に彼の定番になったフルカウンターとフルスロットルのドリフト走行だった。
彼はこの走り方が自分でも気にいっているらしく、クレイジーな走り方が好きだったと思われる。
決勝レースでは、彼らしい派手なコースアウトもして順位を落としたが、それでも何とかチェッカーフラッグを受けることができた。
順位は平凡なものだったが、フェラーリでの初の完走だった。
レースは走りきらねば結果は出ないことはビルヌーブも頭では解っているのだろうが、どちらかというとレース中のアグレッシブな走り方を観客に見せたかったのかもしれない。
自分の独特な走り方をみんなにアピールした結果の完走なので、ビルヌーブはとても喜んだ。
テール・ツー・ノーズの基準(1978 ブラジルGP)
ブラジルGPの予選では、ビルヌーブはグリッド3列目についた。
決勝ではそこから追い上げをして、地元の英雄エマーソン・フィッティパルディのコパスカーを自力で抜いた。
エマーソン・フィッティパルディといえば、2度もワールドチャンピォンに輝いた男だ。
そのエマーソン・フィッティパルディを自力で抜いたビルヌーブは、明らかに天賦の才を持っていた。
ところが、上位陣に食い込んでいくにつれ、目の前にロニー・ピーターソンのロータスが現れた、この時点で彼らは4位争いをしていたのだが、ビルヌーブはまたしてもピーターソンのテールにぶつからんばかりのぎりぎりの距離まで接近してパスを試みた。
コーナーに入った時は接触して両車スピン。
ビルヌーブは再走行を続けたが、結局その後コースアウトしてクラッシュ。
リタイアしてしまった。
一方、彼のチームメイトのカルロス・ロイテマンは優勝した。
ビルヌーブはテール・ツー・ノーズの基準というものを極端に接近した状態とみていた。
端から見れば完全にぶつかっているのではないかという状態が彼にとってのテール・ツー・ノーズの基準だった。
そのためにピーターソンと接触したものとみられる。
昨年の日本GPの時と同じく、ピーターソンはビルヌーブのテール・ツーノーズの基準を恐れていた。
フェラーリ312T-3登場(1978 南アフリカGP)
南アフリカGPでやっと、1978年モデルであるフェラーリ312T-3がレースに姿を見せた。
今までの312T-2に比べるとシャープなデザインでダウンフォースもだいぶ得られそうな印象で、ビルヌーブの好みにも合ったハンドリングだった。
決勝ではロニー・ピーターソンがトップを走行。
それにマリオ・アンドレッティやパトリック・デパイエやリカルド・パトレーセが続いていた。
リカルド・パトレーセはビルヌーブとほぼ同じ時期にF1デビューした男だったが、このレースではトップ陣営の仲間入りをするほど奮闘していた。
その後ろでビルヌーブは走っていたが、追い上げをしている最中、突然312T-3のエンジンがブローアップしてオイルを派手にコース上に撒き散らしリタイアとなった。
運の悪いことにチームメイトのロイテマンはそのオイルに乗ってスピン・クラッシュしてしまい、その衝撃で燃料に引火し312T-3から炎が舞い上がった。
すぐにマシンを降りたロイテマンは無事だったが、312T-3のデビューレースは散々な結果に終わった。
初めてトップを走る(1978 ロングビーチGP)
アメリカの西にあるロングビーチでのレース。
これは正式には「西アメリカGP」というようだが、「ロングビーチGP」という愛称で親しまれていた。
ロングビーチの公道を閉鎖して作られたコースで幅は狭いし滑りやすいし、ほとんどのドライバーにとっては走りにくいサーキットだ。
しかしビルヌーブは公の場で「公道サーキットは大好きだ」と明言して、実際に彼は公道サーキットでのドライビングがとても得意だった。
予選でなんと彼はロイテマンに次ぐ2位。
ビルヌーブが公道サーキットを得意とすることを証明する出来事が、決勝レースで、これでもかというほど見受けられた。
スタート直後トップ陣営は激しく接近し合ったのだが、チームメイトのロイテマン、ロータスのマリオ・アンドレッティ、ブラバムのジョン・ワトソンとニキ・ラウダ、これらのドライバー達が第1コーナーに向かってブレーキング競争をしていたその時、第1コーナーのイン側のコンクリート壁ギリギリに、本当に壁にこすれそうなくらいギリギリの位置にビルヌーブはマシンを飛び込ませた。
これは感覚が飛びぬけて研ぎ澄まされているビルヌーブにしかできない四台ごぼう抜きだった。
これには観客や報道陣の誰もが驚いた。
「信じられないことだ! 新人のビルヌーブがトップ! ビルヌーブがトップを走っている!」
と興奮していたようだった。
トップに躍り出た彼を追いかけるのは、カルロス・ロイテマン、ニキ・ラウダ、ジョン・ワトソン、マリオ・アンドレッティ、アラン・ジョーンズ。
しかしこれらのドライバーの追従を許さず、ビルヌーブは周回を重ねるごとにどんどん差を広げていき、なんとトップ独走体制に入っていた。
ビルヌーブが公道サーキットを得意と言っていたことに誰もが納得した。
並み居る強豪たちをもってしてもビルヌーブの走りには追いつけないからだ。
公道サーキットでのビルヌーブの走りは、どんなベテランドライバーよりも優れていた。
当時「公道サーキットで速いドライバーは本物」という基準もあったからだ。
レースの実に約半分をトップで独走していたビルヌーブに、やがて周回遅れをパスする時がやってきた。
シャドウのマシンに乗るクレイ・レガゾーニが最後尾を走っていた。
そのレガゾーニを周回遅れにしようとして、ビルヌーブはシケインの入り口でレガゾーニのイン側に並びかけた。
その時、ビルヌーブの右リアがレガゾーニの左リアに接触、皮肉なことにビルヌーブのマシンだけが弾かれて宙を舞い、レガゾーニの頭上を飛び、シケイン脇のタイヤバリアーにクラッシュした。
この瞬間ビルヌーブのロングビーチGPは終わってしまったのだが、クラッシュの直後彼はすぐにマシンから降りて、何事も無かったかのようにピットへと歩いた。
1977年の日本GPでの大事故の時も同じだったが、F1数戦目にして初めて走ったトップの座を不本意な接触で失っても、彼は全く冷静だった。
レガゾーニに腹を立てたりもしなかった。
レガゾーニいわく「あそこで抜くのはムチャというものだろう。彼は強引すぎるよ」だったが、周回遅れにされそうな時は常にラインを意識して譲らなければならないのが規則だ。
他のドライバーやマスコミからも
「ビルヌーブはもっと自分自身の焦りを抑えるべきだ」
「速さは認める。確かに天才的な速さだが、抜き方が強引すぎる」
「クレイジーな追い越し野郎だ」
などの批判が出ていたが、その反面、新人がレースの約半分もの周回をトップで独走したことについて、ビルヌーブのF1界での評価は大幅に向上したのだった。
つづく・・