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2009年07月27日 イイね!

②Joseph Gilles Henri Villeneuve F1デビュー・悪夢の日本グランプリ

②Joseph Gilles Henri Villeneuve F1デビュー・悪夢の日本グランプリ母国でのF1初レース(1977 カナダGP)

ビルヌーブがフェラーリで初めて走ったF1GPは、1977年のカナダ、彼の母国だ!!

このレースでは、ニキ・ラウダ、カルロス・ロイテマン、そしてジル・ビルヌーブの3人で出走するということが決まっていた。

しかし、ニキ・ラウダはビルヌーブがナンバー3ドライバーで走る・・・

つまりフェラーリが3台走ることについて不満を持っていた。

ラウダは既に来シーズンにブラバムチームに入ることが正式に発表されていたのだが、そのラウダの穴埋めとしてビルヌーブが入ること自体はラウダは文句を言わなかったのだが・・

ナンバー3ドライバーの管理までピットクルーがまかなえるはずがないとつまり自分のマシーンは手を抜かれるとラウダは思ったらしい。

それに対してフェラーリチームは、「ラウダは既に今年のチャンピォンが決定しているから、目的がなくてただイラついているんだろう」というような返事をしたのだが・・

この返事がラウダを激怒させた。

その返事の直後、ラウダはチームに何も言わずに自宅に帰ってしまって、その瞬間、フェラーリチームと決別・フェラーリチームを離脱してしまったのだ。

このように、レース前にいろいろとゴタゴタがあって、結局カナダGPを走るのはカルロス・ロイテマンとジル・ビルヌーブの2人だけとなった。

予選では、ロイテマンはコースのグリップの低さのために順位を上げられず、またビルヌーブは、彼の312T-2が今まで乗っていたラウダ用にアンダーステア気味にセッティングされていた為、彼本来の走り(オーバーステアにセッティングしてテールを大きく振ってフルカウンターステアリングを使ったドリフト走行)ができず、やはり順位を上げられなかった。

それにビルヌーブは無理にそのアンダーステアなセッティングのマシンで自分の走りをしようとしてコースアウトし、マシンをぶつけて壊してしまう。

決勝までにメカニック達は必死でビルヌーブの壊れたマシンを修理しなければならなかった。

しかしフェラーリの2台は、予選結果は全くサエなかった。

決勝では、かなりの混戦でいろんなマシンが接触・コースアウト・スピンなどをしながらコースを荒らしていたが、ビルヌーブはそれに巻き込まれることはなく、冷静にかわしながら走っていた。

順位こそサエなかったが、なんとか走行を続けていた。

その内にチームメイトのロイテマンのマシンは不調が出始めジリジリと後退していった。

やがてビルヌーブにも不運が訪れた。

マリオ・アンドレッティのロータス78(1977年のロータスのマシンは78という名前が付けられていた)のエンジンが火を噴いてオイルをコース上に撒き散らし、そのオイルに乗ってスピンするマシンが続出し、中にはコースアウトしてクラッシュするマシンもあった。

ビルヌーブもアンドレッティのオイルを踏んでスピンした一人だったが、コースアウトはせずに、彼の得意なスピン中のヒール・アンド・トゥで勢いよく全開走行を再開しようと思ったその瞬間、彼の312T-2のドライブシャフトが折れてしまった為に、彼の母国でのGPはリタイアとなった。

ビルヌーブはその時のことを「オイルフラッグに気づくのが遅れてオイルに乗ってスピンした。スピンした後についクラッチを急激に繋いでしまったためにドライブシャフトに過大な負荷がかかって折れたんだ。だからリタイアしたのは僕のミスだ」と語った。

この態度に報道陣の誰もが驚いた。

当時のF1ドライバーたちの多くは、他人が原因(今回はアンドレッティ)でリタイアした場合にはひたすら他人のせいにして自分のミスを一切認めないドライバーが大半だったからで、そういうドライバーたちに報道陣は嫌気が差していたからだ。

だからビルヌーブの素直さに驚いたのだった。

しかしビルヌーブは、次に行われるレースで、取り返しのつかないとんでもない失敗をして、世界中の新聞のトップ記事にされるほど、悪名を売ってしまうのであった・・・

それは今でも語り種となっている、1977年の「魔の日本GP」・・

第1コーナーでの大惨事(1977 日本GP)

F1日本GPは、富士サーキット(富士インターナショナル・スピードウェイ)で開催。

日本からはコジマ009と言うマシーンで日本人ドライバーが走ったF1ですよね。

既にニキ・ラウダはフェラーリから抜けてしまったのは先にも書いたとおりだが、そのラウダの乗っていたカーナンバー11のマシンにビルヌーブは乗っていた。

日本でもこのニキ・ラウダが来ないF1に残念の声が上がった。

それも聞いた事も無い新人だからなおさら・・

チャンピオンのラウダのマシン、そのマシンは皮肉にもビルヌーブにとってはこの上なく扱いにくいシロモノだった。

ビルヌーブ

「312T-2は僕にはとてつもなく扱いづらいマシンだ。同じマシンでカルロス(ロイテマン)が速く走るのが信じられない。一体この312T-2で、僕の走り方で、どうやったら速く走れるんだろう…。悩んでしまうよ」

そんな不安を抱えたまま、日本GPの予選は始まった。

富士サーキットの危険性についてカルロス・ロイテマンは語ったことがある。

第1コーナーや最終コーナー(まだシケインが設けられていなかった頃である)の危険性は見逃せないし、気が抜けないとのことだった。

フェラーリの2台はここでもいいところがなく、不安定な挙動のマシンに悩まされ、ロイテマンは辛うじて予選結果はトップ10以内、ビルヌーブはもっと後ろのグリッドしか確保できなかった。

決勝レースでは、スタート後間もなくマリオ・アンドレッティがクラッシュした。

その時のロータスのタイヤがコースに残されてしまい、これをかわそうとしたハンス・ビンダーが高原敬武のコジマ009と衝突してクラッシュ。

ビンダーも高原もリタイアとなった。

しかしこのクラッシュは、この数周後に起こる大惨事の、序曲にしか過ぎなかった。

ビルヌーブは予選でかなり後ろのグリッドしか確保できなかった為、必死に追い上げようとしていた。

コーナーに進入するたびにタイヤからブレーキング・ロックによる白煙が上がった。

アンダーステアが激しい312T-2をドリフト走行で無理矢理ねじ伏せるようにして真横になってコーナーを抜けていた。

それでも上位には追いつけない。

不安定な312T-2では、これが限界ギリギリのドライビングだった。

そして6周目、大惨事は起こった。

ピット前のストレートを、ロニー・ピーターソンのティレルの真後ろにピッタリとはり付いて走っていたビルヌーブは、第1コーナーのブレーキングでピーターソンをインから抜きにかかった。

ビルヌーブは富士サーキットの第1コーナーの危険な路面状態を忘れていたのだろうか?

コントロール可能と考えたのだろうか?

当時の富士サーキットの第1コーナーはとても路面が荒れていて、ブレーキング勝負に出るには極めて危険なコーナーだったのだ。

そしてその直後、不安定なブレーキング状態のため、ビルヌーブのフェラーリの左前輪とピーターソンのティレルの右後輪が接触、ティレルはフェラーリに乗り上げられたためリアウイングがもげてスピンしたのみに収まったが、ビルヌーブのフェラーリは時速250km以上の速度で空に舞い上がった。

そしてノーズから地面に叩き付けられたフェラーリ312T-2は狂ったようにトンボ返りをうちながら、激しく横転を続けた。

コース外のダートに飛び出してもフェラーリはその横転をやめず、ダートの向こう側にあったキャッチフェンスに飛び込んでもまだ横転を続けた。

そして、そのキャッチフェンスの向こうは立ち入り禁止区間だったにも関わらず、かなりの観客が居た。

その観客が居る場所に横転を続けるフェラーリ312T-2が突っ込んだ!

この事故で、立ち入り禁止区間に入っていたカメラマンが即死。

そして、この事故が起こる少し前から「ここは危険だから立ち去るように」と誘導していたコースマーシャルが即死。

2人の命が奪われた。

他にも多くの人間が、横転するフェラーリ312T-2の下で重傷を負った。

やっと横転をやめて止まった312T-2は、見るも無残な姿になっていた。

タイヤやサスペンションやボディワークなどは全てちぎれ飛んで無くなって、エンジンやミッションまでズタズタに破損していた。

辛うじてマトモに残ったのはアルミがむき出しになったモノコックフレームの一部だけだった。

しかし、マシンに乗っていたビルヌーブは無傷だった。

すぐにビルヌーブはマシンから降りてピットへと歩いた。

この時点では彼は観客が死んだとは知らずに、ただ自分自身に腹を立てていた。

自分のブレーキングミスに腹を立てて、むすっとした表情でピットに帰ってきた。

やってきた報道陣に囲まれても、これだけすさまじい大事故の直後だというのに、ビルヌーブは眉ひとつ動かさず、全く冷静だった。

普通のF1ドライバーならば、大抵はこれだけの事故の直後はひどく興奮して動揺してしまうものだが、ビルヌーブは平然としてピットクルーに伝えた。

「第1コーナーでミスって事故を起こした。僕は見てのとおり無傷さ」

そして彼はぶつけてしまった相手のロニー・ピーターソンのピットへ行き、自分のミスであることを伝え、ピーターソンに謝罪をした。

やがてレース自体は終わったが、もちろんそれだけでは事は収まらなかった。

ビルヌーブのマシンの下で死んだ人や重傷を負った人が居るという事実が・・・

これについて日本の関係者はビルヌーブに激しく質問の嵐を投げかけた。

調査も進んだが、結論は、ビルヌーブもピーターソンも悪質なことはしておらず、F1レーシングの規定に沿って走った結果の偶発的な事故だという結論になり、事故の原因のビルヌーブは書類送検をされただけにとどまった。

ピーターソンにも責任が無いとはいえなかった。

ピーターソンはビルヌーブのラインを塞ぐような形でコーナーに進入していたのだ。

しかしこれは6輪車(当時のティレルは6輪車だった)を操るための独特のテクニックだったために、ピーターソンのことも責めようが無かった。

いずれにしてもF1レーシングでの事故のひとつと捉えられ、結局2人とも責任は問われなかった。

1977年のF1シーズンはこの日本GPで終了したのだが、この日本GPの第1コーナーでのショッキングな事故シーンの写真は、後日、全世界の新聞のトップ記事を飾ってしまったのだった。

世界中からの非難の声

「フェラーリはとんでもない死神を拾った!」

「ビルヌーブは狂っている。F1マシンに乗せるべきじゃない。即刻F1の世界から叩き出せ!」

「エンツオ・フェラーリ、人生最大の過ち。それはビルヌーブを採用したことだ」

「帝王ニキ・ラウダが乗っていた栄光のカーナンバー11の312T-2を、ビルヌーブは殺人凶器に変えてしまった」

「なぜあれだけすさまじい大事故の直後も、あんなに平然としているのか。あいつの神経は普通じゃない」

「あいつは未熟なくせに、あまりにも急ぎすぎていたんだ。その結果があのザマだ」

「あまりにも危険な走り方をする、クレイジーな壊し屋・解体屋」

「偶発的な事故とはいえ、人を2人も殺しておいて平然としているなんて、その神経が疑われる」

「エンツオ・フェラーリが即刻ビルヌーブを解雇するのは確実だ!」

ビルヌーブは世界中のレース関係者たちから非難を浴びた。

確かに彼はまだF1の経験はほとんど無かったし、取り返しのつかない大事故を起こして彼の312T-2の下で2人の観客が死んだのも事実である。

ビルヌーブが死亡事故を起こしたことについて、彼がいかにも無感情で平然としているかのように世界中のマスコミは騒いだが、実はビルヌーブは、自分の感情を表情に出すことが非常に苦手だったのだ。

無感情だと言われるのはその性格のためだったのだ。

もちろん死亡事故については彼自身かなりショックを受けていて、相当精神的に落ち込んでいたようである。

その彼の精神的な落ち込み具合はエンツオ・フェラーリが一番よく知っていたとも言われている。

そして、今回の事故に関しての記者会見によるエンツオ・フェラーリ直々の言葉は、これはこれで世界中を驚かせた。

「ビルヌーブを解雇する気など毛頭無い。彼はまだF1での経験が浅いだけだ。いずれ必ずウチのチームにふさわしいドライバーに成長させる自信が我々にはある。諸君は今回の事故で人が亡くなったことについてかなり感情的に騒ぎ立てているが、過去にもF1でドライバーや観客の死亡事故はたくさんあっただろう。忘れたかね? これがF1レーシングの世界なのだ。諸君は今までのF1レーシングをずっと見てきているのだろう? 違うかね?」

F1界のゴッド・ファーザーによる重く深みのある言葉は、ジャーナリスト達を一括して黙らせた。

そして世界中のレース関係者も、ビルヌーブの才能に疑いを持ちながらではあるが、記者会見でのエンツオ・フェラーリの言葉により、ようやく気持ちを落ち着かせたようだった。

そのエンツオ・フェラーリの気持ちに答えるように、ビルヌーブはシーズンオフの最中、フェラーリのテストコースで他のどのF1ドライバーよりも長い走行距離をテストドライブし続けたのだった。

一日中コクピットに収まり、食事もロクにせず、設備さえあれば深夜でもテストドライブをしそうなほどの勢いだった。

それほど彼は練習に情熱をかけていた。

また、彼のチームメイトであるカルロス・ロイテマンは、例の事故については批判的だったが、ビルヌーブに接する時は意外にも友好的だった。

気難しい性格で有名なロイテマンだが、物事に全力で真剣に取り組むビルヌーブのことを気に入った様子だった。

こうして、だんだんとチームの中でビルヌーブは家族的な雰囲気で溶け込んでいくことになる。

フェラーリでの初の完走(1978 アルゼンチンGP)

1978年になり、ビルヌーブがフェラーリでフルシーズンを走る時がやってきた。

第1戦はブエノスアイレスで開催されたアルゼンチンGP。

ここはビルヌーブのチームメイトであるカルロス・ロイテマンの母国だ。

まだフェラーリの新シーズンのマシンはレースには登場していないので、昨年のマシン(312T-2)で2人はこのGPに挑まなければならなかった。

それでもロイテマンは予選で奮闘し、フロントローにマシンを置くことができた。

一方のビルヌーブは、例によってスピンしまくり、それでマシンとコースの兼ね合いを掴んでいくという荒業をやっていた。

相変わらずの方法だったが、昨年と比べると確実にスピンの回数が減ってきていた。

これはおそらく、シーズンオフにおける相当な量の走り込みにより、彼にF1マシンを操るカンが養われたのだろうと思われる。

それでも彼はオーバースピードでコーナーに進入してはスピンをした。

お得意のスピン最中のヒール・アンド・トゥのリズムも軽快に、タイヤから白煙をあげて立ち直り、何事も無かったかのように全開走行に移る。

そのテクニックに観客は声援を送った。

「いいぞビルヌーブ!」

「いいぞスピン野郎!」

という皮肉を込めた声援だったのが問題なのだが。

予選は結果を出さねば何の意味も無い。

そんなことは百も承知のビルヌーブは自分なりにアタックし、4列目のグリッドを確保した。

決して悪い順位ではない。

走行方法は、もう完全に彼の定番になったフルカウンターとフルスロットルのドリフト走行だった。

彼はこの走り方が自分でも気にいっているらしく、クレイジーな走り方が好きだったと思われる。

決勝レースでは、彼らしい派手なコースアウトもして順位を落としたが、それでも何とかチェッカーフラッグを受けることができた。

順位は平凡なものだったが、フェラーリでの初の完走だった。

レースは走りきらねば結果は出ないことはビルヌーブも頭では解っているのだろうが、どちらかというとレース中のアグレッシブな走り方を観客に見せたかったのかもしれない。

自分の独特な走り方をみんなにアピールした結果の完走なので、ビルヌーブはとても喜んだ。

テール・ツー・ノーズの基準(1978 ブラジルGP)

ブラジルGPの予選では、ビルヌーブはグリッド3列目についた。

決勝ではそこから追い上げをして、地元の英雄エマーソン・フィッティパルディのコパスカーを自力で抜いた。

エマーソン・フィッティパルディといえば、2度もワールドチャンピォンに輝いた男だ。

そのエマーソン・フィッティパルディを自力で抜いたビルヌーブは、明らかに天賦の才を持っていた。

ところが、上位陣に食い込んでいくにつれ、目の前にロニー・ピーターソンのロータスが現れた、この時点で彼らは4位争いをしていたのだが、ビルヌーブはまたしてもピーターソンのテールにぶつからんばかりのぎりぎりの距離まで接近してパスを試みた。

コーナーに入った時は接触して両車スピン。

ビルヌーブは再走行を続けたが、結局その後コースアウトしてクラッシュ。

リタイアしてしまった。

一方、彼のチームメイトのカルロス・ロイテマンは優勝した。

ビルヌーブはテール・ツー・ノーズの基準というものを極端に接近した状態とみていた。

端から見れば完全にぶつかっているのではないかという状態が彼にとってのテール・ツー・ノーズの基準だった。

そのためにピーターソンと接触したものとみられる。

昨年の日本GPの時と同じく、ピーターソンはビルヌーブのテール・ツーノーズの基準を恐れていた。

フェラーリ312T-3登場(1978 南アフリカGP)

南アフリカGPでやっと、1978年モデルであるフェラーリ312T-3がレースに姿を見せた。

今までの312T-2に比べるとシャープなデザインでダウンフォースもだいぶ得られそうな印象で、ビルヌーブの好みにも合ったハンドリングだった。

決勝ではロニー・ピーターソンがトップを走行。

それにマリオ・アンドレッティやパトリック・デパイエやリカルド・パトレーセが続いていた。

リカルド・パトレーセはビルヌーブとほぼ同じ時期にF1デビューした男だったが、このレースではトップ陣営の仲間入りをするほど奮闘していた。

その後ろでビルヌーブは走っていたが、追い上げをしている最中、突然312T-3のエンジンがブローアップしてオイルを派手にコース上に撒き散らしリタイアとなった。

運の悪いことにチームメイトのロイテマンはそのオイルに乗ってスピン・クラッシュしてしまい、その衝撃で燃料に引火し312T-3から炎が舞い上がった。

すぐにマシンを降りたロイテマンは無事だったが、312T-3のデビューレースは散々な結果に終わった。

初めてトップを走る(1978 ロングビーチGP)

アメリカの西にあるロングビーチでのレース。

これは正式には「西アメリカGP」というようだが、「ロングビーチGP」という愛称で親しまれていた。

ロングビーチの公道を閉鎖して作られたコースで幅は狭いし滑りやすいし、ほとんどのドライバーにとっては走りにくいサーキットだ。

しかしビルヌーブは公の場で「公道サーキットは大好きだ」と明言して、実際に彼は公道サーキットでのドライビングがとても得意だった。

予選でなんと彼はロイテマンに次ぐ2位。

ビルヌーブが公道サーキットを得意とすることを証明する出来事が、決勝レースで、これでもかというほど見受けられた。

スタート直後トップ陣営は激しく接近し合ったのだが、チームメイトのロイテマン、ロータスのマリオ・アンドレッティ、ブラバムのジョン・ワトソンとニキ・ラウダ、これらのドライバー達が第1コーナーに向かってブレーキング競争をしていたその時、第1コーナーのイン側のコンクリート壁ギリギリに、本当に壁にこすれそうなくらいギリギリの位置にビルヌーブはマシンを飛び込ませた。

これは感覚が飛びぬけて研ぎ澄まされているビルヌーブにしかできない四台ごぼう抜きだった。

これには観客や報道陣の誰もが驚いた。


「信じられないことだ! 新人のビルヌーブがトップ! ビルヌーブがトップを走っている!」

と興奮していたようだった。

トップに躍り出た彼を追いかけるのは、カルロス・ロイテマン、ニキ・ラウダ、ジョン・ワトソン、マリオ・アンドレッティ、アラン・ジョーンズ。

しかしこれらのドライバーの追従を許さず、ビルヌーブは周回を重ねるごとにどんどん差を広げていき、なんとトップ独走体制に入っていた。

ビルヌーブが公道サーキットを得意と言っていたことに誰もが納得した。

並み居る強豪たちをもってしてもビルヌーブの走りには追いつけないからだ。

公道サーキットでのビルヌーブの走りは、どんなベテランドライバーよりも優れていた。

当時「公道サーキットで速いドライバーは本物」という基準もあったからだ。

レースの実に約半分をトップで独走していたビルヌーブに、やがて周回遅れをパスする時がやってきた。

シャドウのマシンに乗るクレイ・レガゾーニが最後尾を走っていた。

そのレガゾーニを周回遅れにしようとして、ビルヌーブはシケインの入り口でレガゾーニのイン側に並びかけた。

その時、ビルヌーブの右リアがレガゾーニの左リアに接触、皮肉なことにビルヌーブのマシンだけが弾かれて宙を舞い、レガゾーニの頭上を飛び、シケイン脇のタイヤバリアーにクラッシュした。

この瞬間ビルヌーブのロングビーチGPは終わってしまったのだが、クラッシュの直後彼はすぐにマシンから降りて、何事も無かったかのようにピットへと歩いた。

1977年の日本GPでの大事故の時も同じだったが、F1数戦目にして初めて走ったトップの座を不本意な接触で失っても、彼は全く冷静だった。

レガゾーニに腹を立てたりもしなかった。

レガゾーニいわく「あそこで抜くのはムチャというものだろう。彼は強引すぎるよ」だったが、周回遅れにされそうな時は常にラインを意識して譲らなければならないのが規則だ。

他のドライバーやマスコミからも

「ビルヌーブはもっと自分自身の焦りを抑えるべきだ」

「速さは認める。確かに天才的な速さだが、抜き方が強引すぎる」

「クレイジーな追い越し野郎だ」

などの批判が出ていたが、その反面、新人がレースの約半分もの周回をトップで独走したことについて、ビルヌーブのF1界での評価は大幅に向上したのだった。

つづく・・
2009年07月27日 イイね!

①Joseph Gilles Henri Villeneuve ドリフトキング「優勝への執念とクレイジーな走り」

①Joseph Gilles Henri Villeneuve ドリフトキング「優勝への執念とクレイジーな走り」ジル・ビルヌーブ

最高のF1レーサーで、最も速いレーサーと言われたジル・ビルヌーブ

1982年のベルギーGPで亡くなっていますからね・・もう二十五年以上になるんですよね・・

僕の一番好きなレーサーなんですが意外と説明が難しいんですよね・・

ジル・ビルヌーブ列伝と言う本を参考にこんな人だったという人物像を書いてみたいと思います。

ジョゼフ・ジル・アンリ・ヴィルヌーヴ
(Joseph Gilles Henri Villeneuve, 1950年1月18日 - 1982年5月8日)は、カナダ人のカーレーサー。

1950年1月18日、カナダのケベック州モントリオールに程近いリシュリューで生まれ、近郊のベルティエヴィルで育つ。
フランス系カナダ人であり、フランス語を母国語とした。

青年時代まではスノーモービル競技の選手で、チャンピオンを獲得。

1973年(23歳)から自動車レースを始め、フォーミュラ・フォード、フォーミュラ・アトランティックのチャンピオンを獲得。

1976年(26歳)トロワ・リビエールと言うレースで彼は運命を変えることになる。

トロワ・リビエール

トロワ・リビエールとはカナダの公道を閉鎖して作られたサーキットで行われました。

このレースには、F1のドライバーも数名招かれていました。

アラン・ジョーンズ、ビットリオ・ブランビラ、パトリック・デバイエ、ジェイムス・ハント等

予選で、これら現役のF1ドライバーを相手に、全く無名のビルヌーブは彼らを上回るタイムを叩き出しました。

それも・・ドリフトで!!!!!!

マシンを真横にして走らせるドリフト走行で、時には後ろ向きになりそうなほど(!)マシンを滑らせて、ビルヌーブはトロワ・リビエールの狭い公道サーキットを激しく攻め立てポールポジョンを獲得。

決勝レースでもビルヌーブは、現役のF1ドライバー達を押さえて、2位に10秒の差を付けてブッ契りの優勝!!

正に圧勝でした。

何が凄いのかというと・・トロワ・リビエールでのレースは、「フォーミュラ・アトランティック」という、カナダ国内のシリーズレースのことで、このレースに使われるマシンは、当然のことながらF1マシンの性能とはほど遠いものだった・・しかしこのレースでビルヌーブは彼らと全く同じ「フォーミュラ・アトランティック」のマシンに乗っていた・・つまり完全なイコールコンディションなのだ。

ドライバーのウデのみにかかっているレースだったのだ。

このレースで、まだ全くの無名だったビルヌーブはF1ドライバー達に圧勝した。

これがどんなに凄いことかは誰でも解る。

ヨーロッパ全土のモータースポーツ雑誌もこのことを大きく取り上げ、この無名の青年がなぜ簡単にF1ドライバー達を完全に打ち負かすことができたのか?!

ジャーナリスト達はどうしても理解できない様子だったようである。

ドリフトが速い訳が無いという観念があった時代であるから同然と言えば当然なのだが・・誰も何故と言う部分に関しては答えれる者が無かった。

実際その通り全員が同じマシンで走った事とレース結果を見れば一目瞭然である。

この無名の新人が現役F1レーサーをブッちぎる事件はビルヌーブがF1でも充分に通用するドライバーだということを世に示した事件として、F1の世界にデビューするきっかけを掴んだのである。

完敗のジェイムス・ハントは自分自身のためにビルヌーブのことを誉めちぎったとも言われている。
ハント曰く、

「いいかい? よく聞けよ。F1ワールドチャンピォン最有力候補のこの俺が完全に負けたんだぞ。信じられないよ。あのビルヌーブというカナダ人ドライバーはとんでもない才能を持っているに違いない」

ハントがビルヌーブを誉めちぎる発言の理由は、ハントが自分の名声とプライドを保とうとしていたことも理由のひとつだと思われる。

翌1977年F1シーズンは、いくつかのF1チームがビルヌーブを採用するかもしれないという噂が飛び交っていた。

ビルヌーブは1977年シーズンをマクラーレンのF1マシンで「オプション契約で参戦」という形で走ることが決定。

オプション契約の内容は、1977年シーズンの後半辺りにおいて、任意的に選ばれた5つのレースに、ジェイムス・ハントとヨッヘン・マスに次ぐナンバー3ドライバーとして走るというものだった。

ビルヌーブが1977年シーズン初頭からすぐにマクラーレンのF1マシンで走れるという好条件は、なかった。

1977年の後半になるまで、ビルヌーブはF1ドライバーとしての称号は与えられなかったのである。

ビルヌーブは、1977年の前半は今まで通りカナダ国内で参加してきたフォーミュラ・アトランティックのシリーズに参戦することを決めた。

フォーミュラ・アトランティック

F1で走るのを待ちきれないためか、もどかしい気持ちを紛らわせるために間を持たせるとでもいうのだろうか、おそらくそんな気持ちがビルヌーブにはあったのだと思われる。

モスポートで行われたフォーミュラ・アトランティックレースで、ビルヌーブは彼のマシンであるマーチ77Bの到着が遅れてしまったことに不安を抱いた。
ろくに調整もしていない未完成なマシンで予選走行に挑まなければならなかったのだ。

それでもビルヌーブは予選で果敢にアタックし、未完成なマシンのテスト走行を兼ねるという荒業をやり遂げた。
予選終了間際、ケケ・ロズベルグ(1982年のF1ワールドチャンピオン)のタイムを何とか上回るタイムを叩き出し、ビルヌーブはポールポジションを得た。

決勝のスタートではビルヌーブはロズベルグに追い越されたが、ビルヌーブはすぐに真後ろに食らいつき、時折ロズベルグのマシンに並びかけ、挑戦的な突っ込みでホイールをぶつけ、その度に火花が飛んだ。

それがずっと続き、何周か回った後、ビルヌーブはロズベルグと一緒に勾配のあるコーナーへ突っ込んだ。

イン側がロズベルグ、アウト側がビルヌーブ。

両車は接触して放り出された。

ロズベルグはコントロールを取り戻して走行を続け、ビルヌーブはロズベルグにはじかれた結果コースアウト。

砂ボコリを撒き散らしながらコースに復帰した時には数台に抜かれていて、かなり順位を落としていた。

そこからビルヌーブはトップのロズベルグを猛追した。

やがて、ロズベルグのマシンは不運にも故障で止まってリタイアとなってしまったが、ビルヌーブはコースアウトした時の順位の遅れを取り戻そうと死にもの狂いで全開走行を続けた。

その結果、なんとか2位でゴールすることができた。

次に行われたエドモントンのレースでもビルヌーブはポールポジションを獲得し、やはりロズベルグと激しい戦いをした。

ビルヌーブの走りがクレイジーなのは、このレースでも見かけられた。

トップ争いで、ロズベルグのマシンのサイドボディがむしり取られるほど、ビルヌーブはロズベルグのマシンにホイールをぶつけまくったのだ。

その結果ビルヌーブは優勝、ロズベルグは2位だった。

ロズベルグがゴールした時のマシンは、ズタズタだった。

ロズベルグは、ビルヌーブの「優勝への執念とクレイジーな走り」を痛感させられた。

しかしロズベルグはビルヌーブの危険を省みない行動に対しては否定的で「たぶんビルヌーブは恐怖心というものがあまりないのかもしれない。僕はああいう走りはできない。彼の走りはあまりにも危険すぎるよ。僕には相手のマシンのサイドボディをむしり取るようなクレイジーな走りはできない」というようなコメントをしたことがある。

その後も彼らはいろんなレースでやり合うのだが、そうこうしている内に月日は過ぎ、いよいよビルヌーブがマクラーレンのマシンでF1を走る時期がやってきた。1977年後半に差し掛かってきたのだ。

F1デビューレース(1977 イギリスGP)

ビルヌーブがF1にデビューした時のレースは、イギリスGPのシルバーストーンサーキットだった。

そこで彼は予選前の練習走行で、見ている者たちをひやひやさせるような走りを続けた。

それは、ありとあらゆるコーナーでビルヌーブのマシンはタイヤから白煙をあげて派手にスピンをしたのだ。

この練習走行での彼の走りを見ていた報道陣やチームスタッフは、始めのうちは、あまりにも荒っぽく危険でせっかちなドライバーだと批判した。

しかし、それは浅はかな批判だった。

正確に言うとビルヌーブは「マシンをわざとスピンさせた」のであった。

彼はありとあらゆるコーナーにわざとかなりのオーバースピードで突っ込んではスピンをして、その次にそのコーナーを回る時には少しだけスピードを落として進入する。

それでスピンしなくなったら次からはそのスピードで入ればいい・・と、このような方法をとっていたのだ。

かなり危険な荒業だが短時間でF1マシンの限界を知るためには非常に効果的な方法だった。

それに、彼のこの方法をマネできるようなドライバーは一人も居なかった。

彼があらゆるコーナーでスピンしているのはその方法を実行しているからだと報道陣やチームスタッフは知り、それからは特に、彼のスピンから立ち直る時のテクニックに注目した。

そのテクニックは、マシンがタイヤから白煙を上げてグルグルとスピンしている最中に「フォンフォンフォン!」とヒール・アンド・トゥを使ってシフトダウンし、マシンが進行方向に向いた瞬間に、何事もなかったかのようにまた全開走行を再開するというものだった。

このテクニックを見ていた者たちは、信じられないという様子だった。

何せ他のF1ドライバー達は、超高速でスピンしている最中にマシンの向きを見極めながら冷静にヒール・アンド・トゥを使ってシフトダウンしてまた全開走行に移るというワザは誰もできなかったからだ。

それほどまでにビルヌーブは冷静で、感覚が研ぎ澄まされていた。

予選でビルヌーブは更に人々の関心を誘う走りを見せた。

F1マシンを横滑りさせて走らせるのはロニー・ピーターソンが有名だったが、ビルヌーブのそれは更に輪をかけたもので、ドリフト最中も決してアクセルは緩めずに全開で、ほとんど後ろ向きになりそうなほどマシンのテールを振り、カウンターステアリングは常にフルロック状態だった。

他のカテゴリーのレースならともかく、F1でのこんな走行はそれまで誰も見たことがなかった。

そして彼はそのクレイジーなドリフト走行で、初めて乗ったF1マシンで初めて走ったサーキットにも関わらず、予選9位のグリッドを確保した。

決勝レースでは彼のマシンにトラブルが発生し始めた。

レース前半彼のマクラーレンの水温計の針がどんどん上がっていたのだ。

オーバーヒートの危険性があると判断した彼は、即座にピットインした。

しかし皮肉にも、水温計が壊れているだけで、実際の水温は正常だった。

それをピットクルーから知らされた彼は、勢いよくコースに復帰。

トップグループから脱落してレース結果は平凡なものに終わってしまったが、この不必要なピットインでのタイムロスがなければ、彼はデビューレースにして表彰台に登る可能性をも持っていたのだ。

F1という世界がどんなに厳しく過酷なものかは言うまでもない。

この世界で、しかもデビューレースで速い走りを見せ付けたビルヌーブに対して報道陣は、「F1レーシングの新星であり、このレースの主役だった」という賞賛の言葉を記事にして、モータースポーツ雑誌で彼の才能を大きく取り上げた。

イギリスGPでの走りをF1関係者から認められたにも関わらず、ビルヌーブがF1をマクラーレンのマシンで走ったのは実はこれが最初で最後だった。

マクラーレンのボスのテディ・メイヤーは、他の新人ドライバーを1978年シーズンに起用することを決めていたのだ。

ビルヌーブはカナダ人だったが、テディ・メイヤーはどうやらフランス人ドライバーが欲しかったらしいといわれている。(後にテディ・メイヤーは、ビルヌーブを手放したことをひどく後悔することになる)

ビルヌーブはテディ・メイヤーから契約を断られ、とても落ち込んでいた。

1977年シーズンはまだ残っているのに、F1の世界で何もできない、乗るマシンがない、自分のF1人生には未来がない、と嘆いていた。

彼が焦りを感じていたそんな折、1977年後半も残り僅かという時期に、予想もしていなかったとんでもない内容の電話がビルヌーブの自宅にかかってきたのだった、レーシング界の名門と言われてきたF1チームであるフェラーリ、そのフェラーリチームのボス、エンツオ・フェラーリ本人からの直々の電話だったのだ。エンツオ・フェラーリの言葉は、「ウチのマシンでF1を走ってみないかね?」だった。

その時のビルヌーブの気持ちは、F1界のゴッド・ファーザーとも呼ばれていたエンツオ・フェラーリ直々の電話ということもあり、かなり緊張していた。(最初ビルヌーブはあまりの意外さに誰かのイタズラ電話ではないかと疑ったほどだったという) しかしすぐに冷静になり、イタリアに飛んでいき、フェラーリの本部で契約書にサインをしたのだった。

マクラーレンの時のようなスポット契約ではなかった。

フェラーリのマシンで1977年後半そして1978年のレースの全てを走るフルシーズン契約だった。

エンツオ・フェラーリがビルヌーブを採用することに批判をする者もたくさん居た。

まだまだ未熟で荒っぽく、走りがクレイジーで、しかも無名の青年だからという理由が主なものだった。

しかしエンツオ・フェラーリの意見は、ビルヌーブがかつての天才ドライバー「ヌボラーリ」と非常によく似た外見的雰囲気や走り方だから採用した、というものだった。

エンツオ・フェラーリが出した答えは「ニキ・ラウダがウチのチームに来た時は、彼もまた無名のドライバーだった。ウチでラウダをここまでのドライバーに育て上げることができたのだから、我々にはドライバーを育てる自信がある。ビルヌーブはあのヌボラーリとよく似ている部分があるし、ウチで速いドライバーに育て上げられる可能性は充分にある。だからビルヌーブに賭けてみよう。今彼がどういう状態かと言うような問題ではないのだ。これからの可能性の問題だ」というような内容だった。

ニキ・ラウダがどんなに凄いドライバーかについては何も話さなくてもお解りだろう。

彼があれだけの偉大なドライバーにのし上がったのは、無名だったラウダを採用したエンツオ・フェラーリのおかげであると言われている。

彼が初めて乗ったフェラーリのマシンは312T-2だった。

フェラーリのテストコースで勢いよく走り出したビルヌーブは、とたんにコーナーでスピンをした。

例の、わざとオーバースピードでコーナーに入り、わざとマシンをスピンさせ、超高速でタイヤから白煙をあげてスピンしている最中に「フォンフォンフォン!」とヒール・アンド・トゥでシフトダウンし、進行方向に向いた瞬間に全開走行を再開するという走りだ。

エンツオ・フェラーリは彼のこのテクニックを間近で見て、そのあまりにクレイジーで恐れを知らない攻撃的かつ冷静な走りに、感動の笑いを浮かべていたという。

この時のエンツオ・フェラーリの気持ちは、「やはりビルヌーブを採用したのは正しかった。確かに危険でクレイジーだが、彼は今後大きく成長するドライバーだ」というものだったのであろうといわれている。


ビルヌーブはその契約のことを「フェラーリのF1マシンに乗るというのは、特別なことなんだ。フェラーリのドライバーになることは、それだけでとても名誉なことだ。スーパースターの勲章を貰ったような気分だよ。これはF1関係者の誰もが認めることだよね」と語った。F1関係者の言葉もまさしく彼と同じだった。

こうして、以後ビルヌーブは、F1人生をフェラーリという名門チームで過ごすことになる。

つづく・・

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「二回目のノーマルエキマニクラック。対策品は新品しか無いのかね?ヤフオクの方が安いが入りすぎ(((((((・・;)」
何シテル?   05/02 19:36
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