
走り方に合わないグランドエフェクト(1979 イギリスGP)
イギリスGPは超高速サーキットのシルバーストーンで行われたが、ここでは312T4のグランドエフェクトの性能が逆にアダになってしまった。
サイドポンツーン内部に設けられたウイング機能やサイドスカートの機能が強すぎて、最高速が伸びなかったのだ。
ビルヌーブもシェクターもこれには参ってしまったようだった。
超高速サーキットで最高速が伸びないのでは話にならない。
フェラーリチームは、フロントウイングとリアウイングの角度をメいっぱい寝かせて少しでもダウンフォースを減らそうと試みたが、それでも最高速が伸びず、結局予選グリッドはシェクター11番手、ビルヌーブ13番手と、かなり悪い位置になった。
しかもビルヌーブの場合は超高速サーキットでもマシンをドリフトさせて走るクセがあったため、ダウンフォースを少なくし過ぎたマシンではハンドリングが不安定で、更に定番のお粗末ミシュランタイヤのせいで、更にハンドリングが悪くなっていた。
そのため決勝レースでも思ったように走れず、ビルヌーブの決勝レース結果は予選グリッドよりも悪い14位になった。
これに対してとことんグリップ走行が基本のシェクターは、不安定なマシンをいたわりながらも無難に地味に走り、決勝レースでは5位の結果を得た。
ビルヌーブにしてみれば、流行のグランドエフェクトカーもサーキットによって不利になる、と思ったレースだった。
リアウイングの損傷など眼中に無い(1979 ドイツGP)
ドイツGPはホッケンハイムサーキット。
このサーキットは前回のシルバーストーンほどの超高速サーキットではないため、312T4のグランドエフェクト機能が大体マッチングしており、予選はシェクターが5番手、ビルヌーブが9番手だった。
決勝レースではビルヌーブのマシンに異常が出始めた。
なんと、ラップを重ねるごとにだんだんとリアウイングの一部が外れかかっていたのだ。当然リアタイヤのグリップがどんどん落ちてきてオーバーステアがひどくなっていった。
ビルヌーブはリアウイングの損傷に気付いたもののピットインすることなく、構わずに飛ばした。
「たかがリアウイングの損傷ごときでいちいちピットインするのはバカバカしい」とビルヌーブは思ったのだ。
普通ならば、リアウイングの損傷でオーバーステアがひどくなった時点ですぐに緊急ピットインをするのが常識なのだが、ビルヌーブの頭の中にはそんな「安全策」はカケラもなかった。
危険をおかしてでもとにかくタイムロスをしないで走る、それがビルヌーブの考えだったからだ。
「僕の走行はドリフトが基本なんだから、リアウイングの損傷なんて眼中に無いよ。リアが派手に流れようが構わないさ。いつものようにフルカウンターを当てればいいだけの話さ」といわんばかりに、かなり派手なテールスライドをしながら、リアウイングが損傷した312T4をあえて放置し、まるでそれを楽しむかのような綱渡り的な走り方を続けた。
おまけに、マシンがこんな状態にもかかわらず、ビルヌーブはなんとファーステスト・ラップを叩き出していたのだから恐ろしい。
しかし、やはりというか、リアウイングの損傷がひどくなっていくにつれて、どうしてもコーナリングが不安定になっていき、ペースがだんだんと落ちてきて、レース結果は8位に終わった。
もし緊急ピットインをしてリアウイングを修理していたら、もっと悪い順位になってしまっていただろう。
順位はともかく、ビルヌーブがリアウイングの損傷を抱えながらもファーステスト・ラップを叩き出したことに、誰もが驚いたレースだった。
本物のロケットスタート(1979 オーストリアGP)
オーストリアGPのエステルライヒリンクサーキットでは、フェラーリ勢はハンドリングの不調に悩まされ、ビルヌーブの予選結果は5番手、シェクターはもっと後ろのグリッドしか確保できなかった。
「このレースでもフェラーリ勢はいいところがないか」と噂されたが、その噂を一瞬で跳ね除けるようなとんでもない走りを見せつけたのは、ビルヌーブだった。
決勝のスタート直前、グリッド最前列に居るアラン・ジョーンズとルネ・アルヌーは、共にスタートダッシュに集中するべく、「スタートでアルヌーには負けないぞ」「スタートでジョーンズを引き離すぞ」と、彼らは互いにシグナルが青に変わる瞬間を見つめていた。
そしてスタート!!しかしジョーンズもアルヌーも全く不意をつかれることになった。
はるか後方のグリッド3列目につけていたビルヌーブのフェラーリが一瞬で彼らの横をかすめていったからだ。
スタートダッシュでビルヌーブが抜いていったのはレガゾーニ、ジャブイーユ、ラウダ、アルヌー、ジョーンズだった。
抜かれた彼らだけでなく観客までもが「一体何が起きたんだ!?」という表情であっけに取られてしまった。
まさに本物のロケットスタートと言うにふさわしいビルヌーブのスタートダッシュだったのだ。
決してフライングスタートではなかった。
ビルヌーブはシグナルが変わる瞬間を神業のような正確さで読み取り、アクセルを床に踏んづけたまま目にも止まらない速さでシフトアップ、まるでドラッグレースさながらのスタートダッシュだった。
しかしマシンそのものの性能はジョーンズのウイリアムズのほうが上回っていたために、その後間もなくビルヌーブはジョーンズに抜き返されてしまい、ビルヌーブは2位でレースを終えた。
言い換えればビルヌーブはマシンの性能差をスタートダッシュでカバーしたわけだが、性能の劣るマシンでロケットスタートを決めたビルヌーブの恐ろしいまでのテクニックを誰もが味わわされたレースだった。
レース後のインタビューでアラン・ジョーンズは言った。
「スタートでは本当に驚いた。てっきりアルヌーが並んでくると思ったらビルヌーブが真横に居るじゃないか! 一体どうやったらあんなスタートができるんだ!?」と。
これはジョーンズの個人的な感想などではなかったのだ。
実際、後日のモータースポーツ雑誌で「20年に一度見られるかどうか解らないほどのすさまじいロケットスタート」と、ビルヌーブのスタートのことを絶賛する記事が載せられた。
ピットまでの激烈な三輪走行(1979 オランダGP)
1979年のオランダGPほど、ビルヌーブのクレイジーぶりを印象づけたレースはない。
そのクレイジーぶりは派手に新聞のトップ記事にされ、良かれ悪かれ世界中から様々な評価を得たレースだった。
ビルヌーブは予選6位のポジションを得て、決勝では得意のスタートダッシュを決め、レガゾーニ、ジャブイーユ、アルヌーを次々と抜き去った。
抜かれた彼らは「誰かと思ったらまたビルヌーブか! かんべんしてくれ!」と絶望的な気持ちになってしまったようだった。
それほどまでにビルヌーブのスタートダッシュは素晴らしかったのだ。
間もなく、ルノーのアルヌーがウイリアムズのレガゾーニと接触、レガゾーニのマシンは一つのホイールが吹っ飛んだものの、なんとか無事に停止できた。
レガゾーニのマシンはかなりのハイスピードで三輪状態になるという危険な状態だったのだが、レガゾーニはマシンをコントロールして無事に停車し、その場でマシンを降りた。
しかしこのレガゾーニの三輪状態でのリタイアは、この後に起きるショー・ラップの序曲に過ぎなかった。
6位からスタートダッシュを決めて2位にまでつけたビルヌーブだったが、彼は前を行くジョーンズのウイリアムズに追いつくまでには10周もかかってしまった。
これはマシンの性能差によるものだが、本来ならばまず追いつけないほど、ウイリアムズのマシンのほうが性能が上だったのだ。
そのハンデをビルヌーブは鬼のような走りでカバーしながらジョーンズのウイリアムズに追いついていた。
これだけを考えても信じがたいことである。
ジョーンズに追いついたビルヌーブは、コーナーのアウト側に並びかけ、かなり無謀なブレーキングでタイヤを激しくロックさせて抜きにかかった。
ビルヌーブは一瞬挙動を乱しながらもギリギリの突っ込みでジョーンズを抜き去った。
限界走行を見せてトップを奪ったビルヌーブに観客は大声援を送った。
しかし、ビルヌーブがあまりにも激しくブレーキングしたためにタイヤにひどいフラットスポットができてしまったのか?それ以外の原因かは解らないが、ビルヌーブの312T4の左リアのタイヤからだんだんと空気が抜けていってしまったのだ。
やがて左リアのタイヤは完全に空気が抜けてグリップしなくなってしまった。
そしてビルヌーブは最高速の出るストレートの終わりでいつものようにフル・ブレーキングをしたのだが、三輪状態でのブレーキングでは減速しきれなかった。
タイヤ一つ分ブレーキが利かない状態なのだから、減速しきれないのも当然である。
「まずい、進入スピードが高すぎる。このままの状態ではバリアーにクラッシュする」ととっさに判断したビルヌーブは、わざとコース上でマシンをスピンさせて減速をするという芸当をやってのけた。
ビルヌーブのフェラーリは派手にグルグルとスピンをしてタイヤから白煙を上げながら首尾よく減速され、バリアーにクラッシュすることなく、コースを背にする状態でコース脇の草地に停まった。
この時ビルヌーブはエンジンまでストップさせてしまったのだが、観客は「どうせリタイアするのだからエンジンが止まっても関係ないよな。今のスピンテクニックは見事だったぞ、よくやったビルヌーブ!」という調子だった。端から見れば、どう見てもビルヌーブがマシンを壊さずに無難にリタイアしたように思えたからだ。
「ビルヌーブでもマシンを壊さないでリタイアするような、そういうマシンへの心使いもあるんだなぁ」程度にしか観客は思っていなかった。
だが真相は全く逆だったのだ。
ビルヌーブはタイヤ交換をするためにピットまで戻ろうと思って、そのためにマシンを壊さないようにしたのだった。
彼は何度も何度もフェラーリのエンジンスターターのボタンを押しつづけ、それでもエンジンがかからないもどかしさから、彼は愛用のGPAヘルメットのシールドをカパッと開けて、スターターボタンを睨みつけながら押しつづけた。
やがてエンジンがかかり、ビルヌーブは即座にバックギアに入れてコースまでバックをして戻った。もう、左リアのタイヤはぺしゃんこというよりも既にタイヤの形さえしておらず、ただホイールにゴムの破片がくっ付いているような状態だった。
観客は全員、「ああ、なるほど。タイヤが一つ無いから、極度のスローダウン走行でゆっくりゆっくりピットまで向かって、とりあえずタイヤ交換をして、レースの順位は捨てて完走だけを目指すつもりなんだな」という風に思ったのだが、次の瞬間、観客は呆然とするような光景を見てしまった。
バックしてコースに戻ったビルヌーブは、ギアを1速に入れて、急いでヘルメットのシールドを閉めると、なんといきなりアクセルを全開にしてフル加速に入ったのだ。
2速、3速、4速とどんどんシフトアップしていき、ほとんどレーシングスピードといってもいいほどの走りでピットに向かったのだ。
左リアのタイヤが無いためにデファレンシャルはLSDが利きっぱなしである。右フロントのタイヤも頻繁に地面から浮いた。であるから、常時マトモにグリップしているのは二輪だけということにもなる。
ビルヌーブはピットまで向かう途中のラップで、三輪状態のためにコーナーでは糸の切れた凧のようにフラフラと限界ギリギリの三輪ドリフト。
そしてストレートでは完全にアクセル全開で312T4が出せる最高速を出していた。
他のドライバーたちも「なんだ!? なんだあれは!? 奴は正気か!?」という表情でビルヌーブの三輪での全開走行を見ていた。
こんな状態で全開走行をすればマシンがタダで済むハズがない。
サイドスカートはおろかサイドポンツーンまで激しく壊れ、左リアに至っては、サスペンションアームの前の部分が外れてホイールが真横を向き、そのホイールが引きずられた状態で路面と激しくこすれて火花を散らし、どんどん原型をとどめなくなっていった。
やがてマシンの左リアのフロア部分からも激しく火花が散り、フロアまでもがメチャメチャに壊れ、ビルヌーブのフェラーリは左リア部分がクラッシュしたマシンと同様の状態にまで壊れていった。
それでも彼は全開走行をヤメなかった。
観客は、完全に予想を裏切られ、あまりにもクレイジーなビルヌーブの行動に肝を冷やされたのだった。
見ている観客のほうが寿命が縮まる思いだったことだろう。
全開走行のままピットまで戻ったビルヌーブは、ピットクルーに「タイヤ交換をしてくれ! 早く!」と告げた。
しかしビルヌーブは、マシンが見るも無残な姿に変わり果てていたことを知らなかったようである。
真っ青な顔をしたピットクルーから「左リアを見てみろ…」と言われて見てみたビルヌーブは、そこで初めて左リアの激しい損傷に気付いて、仕方なくリタイアを決断した。
ビルヌーブが言うには、「スピンしてエンストした時に、マシンがまだ走れる状態だと思ったから、急いでピットまで戻ってきたんだ。もちろんコースに復帰して少しでも上の順位でゴールするためさ。でも、まさかあんなに壊してしまっていたなんて知らなかったよ。せいぜいタイヤがぺしゃんこになっていてグリップしていないんだと思っていた」ということだった。
周りの者達は「三輪状態なのにレーシングスピードで走るなんて、それだけで狂っている! 壊して当たり前だ! 気付いていなかったはずはない!」と怒っていたが、あまりにもレースへの執念が強いビルヌーブゆえに、本当に左リアの損傷に気付いていなかったのかもしれない。
後日、レース雑誌のコメント欄では、マスコミによる賛否両論が出された。
「信じられないほどの自己顕示欲だ!」
「良かれ悪かれ、彼は最高のショー・マンだ。F1にこういうドライバーが一人居ても面白い」
「エンツオ・フェラーリが名づけた ”破壊の王子” にふさわしいリタイアぶりじゃないか! さすがにあれ以上は壊せまい!」
「レースへの執念も、度が過ぎればただのクレイジーだ!」
「三輪で全開走行なんて聞いたことがない! あまりにも危険すぎる前代未聞の行為だ!」
「いいや違う、彼は勇者だ。あんな状態でも見事にマシンコントロールをして全開走行をするなんて、彼は最高のテクニックを持つ勇者だ」
「勇者だなんてとんでもない! マシンコントロールは確かに素晴らしいが、ただの大バカ者だ!」
「奴は狂っている! 今すぐに危険意識を持つべきだ! 2年前の日本GPで起こした死亡事故を忘れたのか!?」
こんな風にビルヌーブは、マスコミから「勇者」とも「大バカ者」とも呼ばれた。
しかし、エンツオ・フェラーリを筆頭とする古くからのF1を知っている者は、過去にローズマイヤーやアスカリが三輪走行をしたシーンとビルヌーブをオーバーラップさせていた。
エンツオ・フェラーリがマスコミに向けた言葉は
「確かにあの行為は危険極まりなかった。だがね諸君、思い出していただける方々もおられるだろう、ヌボラーリがかつて三輪走行をして優勝した事実を。これは、若い人たちに言っても解ってもらえないかもしれないが、あれくらいの執念と熱意を持ったドライバーというのは近年では稀なのだよ。その意味でビルヌーブは貴重なドライバーだ。今回のことで私が彼に罰を与えるというのかね? 貴重なドライバーに罰などは与えられない」という風に、ビルヌーブはお咎め無しになった。
エンツオ・フェラーリは、ビルヌーブの執念に燃えた走りに負けて無罪放免にしたフシがあったのだろうが、マスコミに向けて最後に一言だけ付け加えた。
「諸君、このF1の世界には、レースをすぐに諦めてしまうドライバーが居る一方、ビルヌーブのような絶対に諦めることを知らないドライバーが居る。F1の世界にとってありがたいのは、もちろん後者なのだよ」
この一言に、昔からのF1をよく知っている古い年代の人間たちが静かに頷いた。
残念なことに、今回のリタイア=無得点が原因で、ビルヌーブが1979年のワールドチャンピォンになる可能性はほとんど消えてしまったのだが、当のビルヌーブは落胆することもなく、「今後も、1レース1レースを誰よりも速く走れればそれでいいんだ」と考えていた。
セカンドドライバーとしての自覚(1979 イタリアGP)
イタリアGPは、毎年恒例の熱狂的なティフォシの声援でいっぱいだ。
ここでシェクターが優勝すれば彼のワールドチャンピォンが決定する。
場所がフェラーリの地元だけにティフォシにはたまらない興奮の、おあつらえ向きのシチュエーションだ。
ビルヌーブにもワールドチャンピォンの可能性が僅かにあったが、このレースを含めた残りの3レースを全て優勝しなければならないという条件付きの、まったくもって絶望的な状況だ。
予選でフロント・ローに並んだのはアルヌーとジャブイーユ駆る2台のルノー。
高速サーキットでターボエンジンのパワーを生かした結果である。
2列目にはシェクターとジョーンズ、そして3列目にレガゾーニと並んでビルヌーブが居た。
とことんエンジンパワーに物を言わせたルノー、せっかくのイタリアGPの雰囲気が白けてしまいそうなグリッド順位だったが、決勝スタートではシェクターがかなりの集中力を見せてトップを奪った。
ビルヌーブもジャブイーユを抜いて、アルヌーに次ぐ3番手となって、ティフォシたちは満足したようだった。
シェクター、アルヌー、ビルヌーブという順番がしばらく続いた。
やがてシビレを切らせたアルヌーがターボのパワーを限界以上にまで引き出して、アルヌーはエンジンパワーの助けを借りてシェクターを抜いてトップに立った。
しかしこのオーバーテイクがアルヌーにとっての命取りとなってしまう。
今で言う「オーバーテイクボタンを何回も使いすぎたためにエンジンが不調になる」という状態になったのだ。
アルヌーのルノーはペースが落ちて、あっけなくシェクターとビルヌーブに抜かれた。いくらエンジンパワーがあるといっても、それに頼りすぎてしまっては痛い目にあうといういい例だろう。
これでシェクターとビルヌーブがワン・ツー体制となり、ティフォシは興奮のるつぼになった。
しきりに「フェラーリ! ジョディ! チャンピォン! ジョディ!」というシェクターへの声援が続いた。
ビルヌーブはその気になればシェクターを抜くこともできた。
事実彼らの距離はほんの1秒以内だった。
しかしビルヌーブは自分の立場をよく解っていて、「僕はあくまでもセカンドドライバーに過ぎない。だから今、この状況で僕がやらなければならない仕事は、後続車をブロックしてシェクターの安全を確保すること、シェクターのワールドチャンピォン獲得に協力することだ」という、どこまでもフェアな考えでいた。
ビルヌーブには気持ちの余裕があり、「ただ後続車をブロックするだけじゃ退屈だ。ちょっとショー・タイムをティフォシたちに提供してあげよう」と思って、時折トップのシェクターに並びかけて、今にもトップを奪うような素振りを見せた。
それによってティフォシたちや報道陣はヒヤヒヤさせられることになる。
しかしビルヌーブは決してシェクターの前には出ず、並びかけたと思ったらまた下がって…という走りを繰り返した。
これはどう見てもティフォシたちへのサービスにしか見えない。
その証拠に、このショー・タイムを披露するかなり以前からビルヌーブは「セカンドドライバーとしてシェクターを援護する」というゼスチャーをピットクルーに送っていたからだ。
ビルヌーブは「ただ速く走ればいい」という観念を持ちながらも、セカンドドライバーとしての自覚をしっかり持ち、決して目の前にちらつく優勝の誘惑に負けることなく、2位を走りながら自分の仕事を謙虚にキッチリこなしたのだ。
その謙虚なフェア・プレイはティフォシたちから高く評価されたことは言うまでもない。
(ちなみにこの3年後、1982年のサンマリノGPで逆の立場になったビルヌーブだが、彼の生真面目さがアダとなって、チームメイトのピローニに裏切られてしまうとは、なんとも皮肉なことである)
そしてシェクターは無事にトップでゴールして、念願のワールドチャンピォンを決めた。
表彰台ではシェクターへの祝福はもとより、ビルヌーブの理性的でサービス精神旺盛な行動にも惜しみない拍手を送った。
イタリアGPとしては最高のシチュエーションだった。
晴れて大暴れできることの嬉しさ(1979 ノンタイトルGP)
次に行われたレースは、チャンピォンシップポイントとは無関係のノンタイトルGPで、やはりフェラーリの地元であるディノ・フェラーリ・サーキットで行われた。
ここでビルヌーブは、もうシェクターのサポートをする必要がなく、チームからも「チームオーダーは忘れて好きに走っていいぞ」と言われていた。
その晴れて大暴れできることの嬉しさはビルヌーブをよりハイテンションにさせた。
ビルヌーブはそのハイテンションよろしく予選はポールをとり、決勝スタートでも元気よくトップを快走。
そしてシェクターは2位につけるという、今度は前回のレースとは逆の配置でのフェラーリのワン・ツー体制だった。
しかし、フェラーリの履いた例の低性能ミシュランタイヤがまたしてもへたってきてグリップが下がり、シェクターはブラバムのニキ・ラウダに抜かれてしまう。
ビルヌーブもラウダに抜かれるかと思いきや、かなりの周回数抜かれなかった。
これはグリップの下がったタイヤを逆に利用したもので、「タイヤがタレてきて滑り出したら、あえてそれを武器にしてドリフト走行しまくればいい」という、ドリフトのテクニックが飛びぬけて優れているビルヌーブだからこそできる走りによるものだった。
ラウダも果敢にビルヌーブにアタックしていき、二人の順位は度々入れ替わった。
しかしラウダが前を走っている時に彼はブレーキングミスをし、ラウダのブラバムのテールぎりぎりにつけていたビルヌーブはノーズをぶつけて壊してしまう。
ビルヌーブは仕方なくピットインしてノーズ交換をし、ファーステストラップを叩き出し続けながらレースを終えた。
順位こそ下がってしまったものの、ラウダとのバトルで見せたドリフト走行は観客を大いに惹きつけた。
ビルヌーブ本人も「なんだか走ることだけに集中できて、かえってスッキリしたよ」とあっさりしたコメントを見せ、晴れて大暴れできたことを満足していた。
つづく・・