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2009年07月27日 イイね!

⑨Joseph Gilles Henri Villeneuve 頑丈さ「だけ」が売り

⑨Joseph Gilles Henri Villeneuve 頑丈さ「だけ」が売り126Cの開発開始(1980 フランスGP)

本当はこの間にスペインGPが行われたのだが、FISAとFOCAとの対立でゴタゴタがあったため、スペインGPはノンタイトル扱いになってしまった。

優勝したアラン・ジョーンズには気の毒なレースだったが、このフランスGPでがんばってもらうしかない。

この時期あたりから、早々と312T5の戦闘力に見切りをつけたフェラーリチームの開発スタッフは、ニューマシン126Cの開発に取り掛かっていた。

126Cはフェラーリ初のターボエンジン搭載でパワーの面ではかなり期待ができそうだったが、完成&デビューまでにはまだまだ時間がかかる見込みだったので、今回のレースも312T5のままである。

ビルヌーブ

「来シーズン、いやもしかしたら今シーズンにニューマシンの126Cのデビューが間に合うかもしれないし、先は明るいはずだよ。僕はフェラーリチームが気に入っているから今後もずっとここに在籍したい。312T5を開発した時のような、あんな設計ミスをやらかさないためにも、126Cのテスト走行は慎重にやっているよ。さて、それはともかく、いつまでクズ鉄312T5に乗らなきゃならないんだろうねぇ。早くポンコツ屋に売り飛ばしたいんだけど」

と笑いながら冗談を言った。

そんなわけで、すっかり312T5の愛称が「クズ鉄」に定着してしまった。

今回のレースでは、ビルヌーブは17番手のグリッドから得意のロケットスタートを決めた。

第一コーナーの手前で既になんと10台近くも抜き去っていた。

とにかく全くいいところのない312T5においてはスタートダッシュだけが頼りだったのだ。結果は6位入賞で、できすぎと言ってもいい。


結果だけが全てではない(1980 イギリスGP)

イギリスGPの前に、徹底的な312T5の改良テストが繰り返されていたのだが、失敗に次ぐ失敗で、結局シェクターとビルヌーブは、今までの仕様のままの312T5でレースに臨まなければならなかった。

このレースでビルヌーブはエンジンの回しすぎによるエンジンブローのためリタイア。

片やシェクターは地道に10位で完走した。

今まで言われてきたことではあるものの、ここまでビルヌーブの不振=レース結果が出ないことが続くと、さすがのエンツオ・フェラーリもビルヌーブの走り方に対して色々言うようになっていった。

チーム全体の人間関係が少しギクシャクし始めていたのだ。

そのためビルヌーブとエンツオ・フェラーリが直に連絡をし合うということも少なくなった。

これがよくなかったのだ。

ビルヌーブはスクラップ寸前のガタガタのマシンで限界ギリギリの走りをしていたということ、そしてマシンを叩きのめすように走らせないといけないこと、当然エンジンブローなどのマシントラブルも常に背中にしょっていること、その感覚がエンツオ・フェラーリに伝わっていなかったのだ。

これにはビルヌーブもだいぶ焦ったようで、無理を言ってエンツオ・フェラーリと直に、頻繁に連絡を取り合うようにして、ようやく解ってもらうことができた。

つまり、ドライバーが悪いのではなくマシンが悪いという単純な事実をだ。

この単純な事実は案外、見かけからでは解らないもので、ただ「ビルヌーブのウデが落ちた」「走りが荒くなっただけ」という風にしか見てもらえない。

だが事実は全く逆で、昨シーズンよりももっと頑張って走っているのに、マシンのほうが貧弱すぎてネをあげて故障するのである。

ビルヌーブはエンツオ・フェラーリにまでドライビング・テクニックを疑われて、よっぽど「結果だけが全てじゃない。大事なのは過程だ」と言いたかったことだろう。

なんとかエンツオ・フェラーリにも事情が解ってもらえたおかげで、チーム全体に「また一緒に頑張ろう」という団結心が戻ってきたのである。

と同時に、ビルヌーブは1981年もフェラーリチームに在籍するという意を表明して、記者会見でも正式に発表された。

チームの雰囲気が元に戻ったおかげで、本来のアットホームな「ビルヌーブ&フェラーリ」の楽しさも戻ったのだ。

一件落着である。


パトリック・デパイエの事故死(1980 ドイツGP)

ビルヌーブの安心感を叩き壊すように、ドイツGPの予選前のフリー走行でパトリック・デパイエが事故死するというショッキングな出来事があった。

デパイエは昨年のハンググライダーでの大怪我から見事にF1へと復帰したドライバーだった。

それだけに彼の死には皆ショックを受けた。

それとほぼ同時期に、チームメイトのシェクターが「今シーズン限りでF1から引退する」という声明をした。

シェクター

「僕のF1キャリアもだいぶ長くなって年をとってしまったし、昨年ワールドチャンピォンを獲得したし、もういいんじゃないかなと思うんだ」

と言ったのだが、312T5の不調ぶりが彼の引退に拍車をかけたことも充分考えられる。

そんな出来事が続いても、ビルヌーブのレースにかける闘争心は揺るがなかった。

もう既にパターン化された・・というよりパターン化するしかないレース戦略すなわちスタートでの一発勝負にビルヌーブは賭けていた。

ビルヌーブは16番手のグリッドから猛烈なスタートを見せて、5位にまで順位を上げてチェッカーを受けた。

デパイエの事故死があったために、3位までのドライバーたちが力なくウイニングポーズをしていた。

それを横目で見ていたビルヌーブは、一言報道陣に漏らした言葉がある。

「今のような走り方をしていたら、いつか僕は取り返しの付かない大事故をやらかすかもしれないし、最悪の場合はデパイエのようになるかもしれない。だけどそんなことを考えていたらF1ドライバーが務まると思うかい? 僕は今までと同じ走り方を続けるよ」。

シーズンの初頭で豪語した「事故は僕に何の影響も与えない」というビルヌーブの信念は、どんな出来事が起きようとも変わらなかった。


余儀ないタイヤ交換(1980 オーストリアGP)

オーストリアGPでもミシュランタイヤの貧弱さは変わらず、ビルヌーブにとってはミシュランタイヤは、もはやスタートダッシュのためだけに使われていたと言ってもおかしくはない。

毎レース毎レースで必要の無いタイヤ交換を余儀なくされていたためだ。

そのために、せっかくスタートダッシュで稼いだ順位も、レースが終わる頃には水の泡となってしまっていた。

そんな経験をイヤというほど味わわされた今シーズンのビルヌーブは、決勝レースで予選用タイヤに近いコンパウンドのタイヤを履いた。

どうせタイヤがタレてピットインを余儀なくされるのならば、開き直って、周回のもたない柔らかいコンパウンドのタイヤを履いてピットインしても大して変わらないと思ったようだ。

そのためにレースの序盤の数周でビルヌーブは6台ものマシンを抜いた。

スタートダッシュ以外で抜くという芸当は、本来の312T5の性能では無理な注文だった。

それならばタイヤの貧弱さを逆手にとった戦法でいこうとビルヌーブは思ったのだ。

その結果、7位でフィニッシュ。

さて、どちらの戦法が312T5に向いているのであろうか。

元々がクズ鉄なだけに、あらゆる戦法を使ってもあまり効果は望めそうもなかった。


ミシュランの首の皮(1980 オランダGP)

ミシュランが新しいコンパウンドを開発して、ハイグリップの予選用タイヤをオランダGPまでに間に合わせてきた。

新しいミシュランタイヤのおかげでビルヌーブは予選で7番手のグリッドを得ることができた。

決勝レース用のタイヤの性能もまぁまぁで、ビルヌーブはレース中3番手にまで上がった。

ミシュランよ、やっとF1用のマトモなタイヤを開発したか、という感じだった。

それでも312T5のシャシー性能の低さをカバーしようとして限界ギリギリのドリフトコーナリングを続けていたビルヌーブ。

さすがに新しいミシュランタイヤも悲鳴をあげて、やはりタイヤ交換のピットストップをしなければならなかった。

それも二度もである・・。

この結果ビルヌーブは予選と同じ7位でゴールした。

ミシュランタイヤの復活ぶりは素晴らしかった。

今まで散々な目に遭わされてきたフェラーリチーム。

もはやこれ以上我慢ならじ、と判断して来シーズンからはグッドイヤーと契約するつもりでいたらしい。

しかし今回の新しいタイヤによって、ミシュランとしてはフェラーリチームの怒りを抑えることが出来、辛うじて首の皮が繋がった感じである。

今シーズン最大のクラッシュ(1980 イタリアGP)

フェラーリの地元イタリアGPのイモラサーキットでは、タイミングよくというべきか、遂にターボエンジン搭載のフェラーリ126Cが登場した。

ルノーの後を追ってフェラーリも本格的にターボ時代への参入を果たしたのだ。

126Cは予選前のフリー走行で、ビルヌーブによって初走行となった。

今シーズンの裏方でテストにテストを重ねてきた126C、思ったとおり今までの312T5よりはラップタイムは上だった。

というより、312T5がクズ鉄扱いだったのだから、126Cは普通の性能とも言うべきだろうか。

しかし、出来立てホヤホヤの126Cでさえも、手放しでニューマシンと喜べるほどの性能ではなかった。

当然エンジンパワーは格段に上がっていたのだが、312T5の頃のシャシー開発スタッフと同じスタッフだったために、シャシーグリップが今ひとつだったのだ。

名門フェラーリの期待に添うだけのシャシー設計・開発技術スタッフが居なかったのである。

それに、126Cはニューマシンなだけにどうしてもセッティングに手間がかかるし、予想し得ないマシントラブルの危険性も含んでいる。

こういった理由から、ビルヌーブとシェクターは312T5で予選と決勝レースに挑むことにした。

結果論ではあるが、もし126Cのほうに乗って出走していたら、ビルヌーブもシェクターもあんな事態にはならなかったかもしれない・・

予選が始まってから間もなく、シェクターのマシンはトサの超高速コーナーでいきなり後ろ向きになり、そのままの勢いでコンクリートウォールに叩きつけられた。

タイヤが充分に温まっていない状態でトサ・コーナーに進入したために起きたクラッシュだった。

シャシーグリップの足りない312T5の泣き所がモロに出てしまったのだ。

シェクターはしばらく首の痛みを訴えていた。

それでもシェクターは首を医療用具で固定して決勝レースに挑んだ。

そして決勝レース5周目、今度はビルヌーブに災難が降りかかった。

しかも同じトサ・コーナーだ。

ビルヌーブの312T5はトサ・コーナーを時速300km近いスピードで駆け抜けようとした。

その時、突然右リアのタイヤがバーストし、ノーズの浮いた312T5はダウンフォースを失い、宙に舞い上がってそのままの勢いで左側からコンクリートウォールにクラッシュ。

言わば揚力の無くなった飛行機が地面に叩きつけられるのと同じで、ビルヌーブの312T5の左側のボディワークは完全に千切れ飛んで無くなってしまった。

モノコックまでもが激しく歪み、スクラップとなった312T5はコースを完全に塞いでしまい、後続車は障害物回避に必死だった。

ビルヌーブはしばらくマシンから降りることができなかった。

このクラッシュで外れた左フロントタイヤが、ビルヌーブのヘルメットを強打したために、ビルヌーブはほんの数十秒間だが視力を失ってしまったのだ。

しばし放心状態だったビルヌーブは、そのうちに我に返り、「どうやら助かったようだけど、目が見えない! このままヘタにマシンを降りたらかえって危ない! 

仕方が無いから両手をできるだけハデに振り上げて後続車にアピールしよう」と、できるだけのことはした。

しかし、体中に激痛が走り、ようやく視力が回復してマシンを降りようとした時も足を引きずるような格好でコース脇まで走っていった。
(この打撲の痛みが完治するまで三日かかったという)

今シーズン最大のクラッシュだったにもかかわらず、ビルヌーブがなんとか動けたのは、312T5のモノコックの頑丈さにあった。

頑丈さ「だけ」が売りの312T5は、思わぬところで二人のドライバーを守ってくれたのだ。

シェクターは地道に走り、8位でレースを終えることができた。

しかしシェクターもビルヌーブも同じコーナーで同じような事故を起こすとなると、イモラサーキットは312T5で走るにはかなり無理があったと言えるだろう。

終わったことを言っても仕方が無いが、二人ともニューマシンの126Cで出走していたら、ここまでひどい事故になることは免れたのではないだろうか?!

フェラーリチームの考え方として、ニューマシン126Cをこのレースで登場させたのはファンへのサービスであって、実際には126Cは来シーズンから投入する、というものがあった。

つまり後の2レースは312T5でいく、というものだ。

しかしこの考え方は、次のカナダGPの予選結果を見てみれば、相当後悔せざるを得ないものとなる。

つづく・・
2009年07月27日 イイね!

⑧Joseph Gilles Henri Villeneuve クズ鉄312T5と本物のドリフト走行を極めた男

⑧Joseph Gilles Henri Villeneuve クズ鉄312T5と本物のドリフト走行を極めた男試練の始まり(1980 アルゼンチンGP)

アルゼンチンGPが開催される前から、ビルヌーブとシェクターは、今シーズンのニューマシン312T5に対して失望していた。

ビルヌーブとシェクターがフェラーリの自前のテストコースでテスト走行をやってみた結果、ダウンフォースは得られない、ハンドリングはめちゃくちゃ反応が悪い、エンジンパワーだけはなんとか旧マシンの312T4のままというひどい性能だったからだ。

旧マシンの312T4よりも遥かに性能が劣っていたのだ。

これではもはや312T5はニューマシンとは言えない。

この原因は、フェラーリのマシン開発スタッフが、性能のよかった旧マシン312T4に、数字上の計算だけで出したデータを元に手を加えたからに他ならない。

間抜けなことにその肝心の計算が合っておらず、結果的にかなりの改悪状態になってしまったのだ。

手を加えている途中で慎重にテスト走行を重ねて開発を続けていれば、これほどまでにひどい改悪にはならなかったはずなのに、である。

結局、開発スタッフの自信過剰と怠慢さが招いた最悪の結果が、312T5だったのだ。

こんな状態のため、アルゼンチンGPの予選結果は望めそうも無い。

シェクターは辛うじて15~20番手あたりのグリッドを得られそうな有様だった。

しかしビルヌーブは死にもの狂いで走り、8番手のグリッドを得た。

この時点でビルヌーブの走りが尋常でないことがイヤというほど解る。

スタート直後の第一コーナーで早くも312T5の不安定さが出て、ビルヌーブはダートに飛び出して順位を落としてしまう。

しかし彼得意の限界ギリギリのドリフト走行を駆使してじわじわと順位を上げ、終盤ではなんと2位にまで浮上した。

だが、やがてビルヌーブの激しい走りに悲鳴をあげたのか、312T5のサスペンションが突然壊れてしまった。

恐ろしいことに最高速の出るストレートエンドでサスペンションが壊れてしまったのだ。

第一コーナーでビルヌーブの312T5は、完全にグリップとコントロールを失った超高速状態のまま横に吹っ飛び、バリアーに激しく叩きつけられた。

大クラッシュだったが、ビルヌーブは無傷だった。

ピットに戻ってきたビルヌーブは言った。

「312T5はマシンと呼べるほどの性能を持っていない、ただのクズ鉄さ。だけどクズ鉄なだけに頑丈でドライバーを守ってくれるんだね。おかげで僕は無傷なんだから。これで安心して事故を起こせるよ」と。

もちろん開発スタッフに対する皮肉を込めた冗談である。

ビルヌーブもシェクターも、今後少しでも早く312T5の改良を進めてほしいとスタッフに願い出たが、基本的なシャシーからして設計ミスなのだからということで、今後の改良はあまり期待できそうもなかった。

ビルヌーブは「今シーズンは極めて厳しい試練のシーズンになる。優勝なんてまず望めないだろう。それならばレース結果を完全に犠牲にしてもいいから、このクズ鉄312T5でどこまで速く走れるか、それだけに心血を注げよう」と思い、今まで以上の限界走行に挑戦する覚悟を決めたのだった。

本物のドリフト走行を極めた者(1980 ブラジルGP)

ブラジルGPが行われたインテルラゴス・サーキットは、タイトなコーナーが連続するサーキットで、ダウンフォースの少ないマシンにはそれほど不利にはならない特性を持っている。

言い換えれば312T5のようなマシンでも少しは有利になるのだ。

ビルヌーブはこのコース特性を最大限に生かした走りをして、予選では3位につけた。

もちろんコース特性を生かしただけでなく、彼の本物のドリフト走行が物を言った結果だった。

今でも時折いろんなレースで話題に上がることだが、「グリップ走行よりも、本物のドリフト走行のほうが速い。ただしその本物のドリフト走行を極めることができるのはごく一握りのドライバーだけだ」ということである。

当時のF1ドライバーに限って言えば、本物のドリフト走行を極めていたのは他界したロニー・ピーターソン、そしてビルヌーブくらいだった。


更にビルヌーブにはもっと強い、ロケットスタートという武器がある。これをスタートで生かさないテはない。

決勝でビルヌーブは、ジャン・ピエール・ジャブイーユとディディエ・ピローニの後ろから猛烈なロケットスタートを決めて、ジャブイーユとピローニのマシンの真ん中、しかもホイールとホイールが接触せんばかりのギリギリの隙間を見事にすり抜けてトップに立った。

スタートでのドラッグレースが得意なビルヌーブの、おなじみの光景である。

しかし、観客の間からは「今のビルヌーブのスタートはあまりにも速すぎないか? フライングスタートじゃないのか?」との声もあり、競技委員の間でも同じことがささやかれた。

にも関らずスタート時のビデオカメラに写ったビルヌーブのスタートの映像は、グリーンライトが点いた瞬間にスタートラインを超えていることが解り、本当にフライングギリギリというスタートだったのだ。

つまりビルヌーブは、シグナルが変わる瞬間を誰よりも正確に見極めるワザを身に付けるべく、なんと普段の私生活での公道走行で練習をしていたのだった。

彼の自家用車308GTSで公道を走行していて、交差点の赤信号で一旦止まり、信号が青になる瞬間を一瞬のうちに読み取ってスタートしていたのだった。

それをレースに応用したわけだ。

というか、レースのスタートのテクニックを更に磨くために公道で練習をしていたのだ。

そんな努力を重ねた結果の、今回のスタートダッシュだったが、312T5のシャシーとミシュランタイヤの性能の悪さから余儀なくピットインをせねばならず、せっかくスタートでトップに立った努力もムダになってしまう。

それどころか、ピットアウト後の追い上げで果敢に先行車にアタックしていた最中、ビルヌーブのアクセル操作とは関係なく、突然リアタイヤが「ギャギャギャギャーーー!!」とホイールスピンをして、ビルヌーブのマシンは自動的にスピンをする状態になった。

原因はコーナリング途中でスロットル・リンケージが開きっぱなしになってしまったためだった。

これはメカニックの整備ミスもあるだろうが、ビルヌーブの過激な走りにスロットル・リンケージが負けて壊れたという見方もある。


タイヤ交換の義務化は有利だが…(1980 南アフリカGP)

今回の南アフリカGPからは、レース中でのタイヤ交換が義務化された。他の(ミシュランタイヤを履いていない)ドライバーたちにとっては不利なルール変更だったが、ビルヌーブにとっては少しは有利になるルール変更だった。

なにしろ、ただでさえレース中にミシュランタイヤがどんどんタレてきてイヤでもタイヤ交換をしなければならなかったのだから。

だからタイヤ交換が正式に義務付けられれば、他のドライバーたちとあまり落差はなくなるだろう、とビルヌーブは思ったからだ。

しかし悲しいかな、シャシー性能の劣る312T5で限界ギリギリの走行を続けた結果、ギアボックスが壊れてしまい、ビルヌーブはピットインしてそのままリタイアしてしまう。

この原因は、タイヤ交換の面でややマージンができたとはいえ、それ以上に312T5の性能がひどかったからに他ならない。

その大きなハンデを走りでカバーしようとしたビルヌーブのマシンのギアボックスが悲鳴をあげてしまったのである。

ビルヌーブが言っていたとおり、正に312T5は使いものにならないクズ鉄と言っても過言ではない。


信念と決心は少しも変わらない(1980 ロングビーチGP)

ロングビーチGPでは、ビルヌーブは10位のグリッドにつけてスタートから猛烈に飛ばし、ありとあらゆるコーナーでドリフト走行を披露したが、またしてもビルヌーブの過激な走りに今度はドライブシャフトが折れてしまい、リタイアとなった。

かつてエンツオ・フェラーリが「ビルヌーブは頑丈なマシン作りに欠かせない、良い意味での破壊の王子である」と言ったことがあったし、開発スタッフやメカニックはその言葉に応えてマシンのシャシーを強化し続けていたが、さすがにドライブシャフトの強化までには手が回らなかったようで、それにより折れてしまったのだった。

一方、クレイ・レガゾーニが、ブレーキの故障からノーブレーキのままで、時速300キロ近い速度のままコンクリートウォールに激突するという大事故があった。

レガゾーニは病院に運ばれて、結局両足を切断するはめになり、レースからは引退せざるをえなくなったのだ。幸いにも下半身不随だけで済み、それ以後はコメンテーターとしてF1レースの関係者となっている。
(昔、ホンダのCMで車椅子の人用のNSXでサーキットを攻めていたお爺ちゃん)

そんなレガゾーニの顛末を見ても、ビルヌーブは全く事故を恐れることはなかった。

これは彼がシーズン前のインタビューで答えたとおりである。

彼の「事故は僕に何の影響も与えない」という信念は変わっていなかった。

それは自分だけでなく、レガゾーニのような他人の大事故を見た時も決して変わることはなかった。

ビルヌーブは事故を全く恐れないどころか、開幕戦のアルゼンチンGPで思った「このクズ鉄312T5でどこまで速く走れるか、それだけに心血を注げよう」という決心さえも少しも揺らぐことはなかったのである。


やっとの思いで1ポイント(1980 ベルギーGP)

ベルギーGPの予選ではビルヌーブは12位のグリッドにつけて、例によって果敢な走りを見せ、決勝では6位に入った。

ポイントは1ポイントだが、クズ鉄312T5のことを考えれば相当上の順位である。

なにしろチームメイトのシェクターは常にテールエンダーに近いような位置をいつもうろちょろしていたからだ。

もちろんビルヌーブのウデがケタ外れだったことに尽きる。

こうなっては、本来ならばビルヌーブにナンバー1ドライバーの称号が与えられるべきなのだが、彼は相変わらずそんな称号には全く興味が無く、「ただ速く走れればいい」という考えでいた。

一方、優勝を飾ったのはリジェのディディエ・ピローニだったが、ピローニは地位欲と名誉欲に駆られてF1の世界に入ったようなものだった。

もちろんピローニも速さではトップクラスのドライバーだったし、そういうドライバーは他にも居るのだが、今シーズンのピローニは速いマシンに恵まれていたことも、かなり優勝の助けとなったのだった。


跳ね返りドリフトコーナリング(1980 モナコGP)

モナコGPでもピローニの快調ぶりは見られて、ピローニはリジェをポールポジションにつけた。

一方のビルヌーブは、このモナコこそが彼にとって最高のパフォーマンスを見せる場所であり、昨年までのモナコで見せた走りよりも更に過激さを増していた。

なにしろ昨年までは、ドリフト中のマシンのリアタイヤをガードレール数センチのところでコントロールしていたのが、今度はなんと、わざとガードレールにリアタイヤを「ドンッ!!」とぶつけて、その反動でテールを跳ね返らせて、次に迫る逆向きのコーナーに突入していくのだ。

つまり前のコーナーでのリアタイヤの跳ね返りを利用して、次の逆向きのコーナーのドリフト走行に備えるという、とんでもない荒業を平然とやっていたのだから恐ろしい。
(バリバリ伝説のガードレールキックターンのような感じ)


もちろんこんなワザができるのはビルヌーブしか居ない。

こんな走りをガードレール越しに見ていたカメラマンは、昨年よりももっと恐れをなし、ビルヌーブがコーナーに入ってくるはるか前から逃げ出す始末だった。

おそらく余程の勇気のあるカメラマンでなければ、ビルヌーブの「跳ね返りドリフトコーナリング」を撮影できなかっただろう。

なんといっても、コーナーというコーナーで、ビルヌーブの312T5のリアタイヤが「ドンッ!! ドンッ!!」とぶつかる音がしていたのだから。

それでも予選の順位はあまり上がらないビルヌーブ。

マシンの性能上で仕方が無いこととはいえ彼は焦ってしまい、あるコーナーでスピンをしてエスケープゾーンにはみ出た時に、うかつにも自動消火装置のボタンを押してしまい、燃えてもいない312T5を消化剤がくるんでしまった。

ごくたまに見せるこういうドジなところにも、彼の人間臭さが感じられる。

それでも彼は気を取り直し、得意のモナコのコースで6番目のグリッドを得た。

決勝では、スタート直後にトップグループで多重クラッシュが起きて、デレック・ダリーのマシンに至ってはハデに宙を舞い、コース上は大混乱だった。

ポールからスタートしたピローニも結局、クラッシュでリタイアしてしまう。

ビルヌーブはぶつけられこそしなかったものの、多重クラッシュをしたマシンにほとんど道を塞がれてしまった。

だが僅かな隙間から猛烈な勢いで飛び出してコースに復帰した。

やがて雨が降り出したのだが、雨になるとビルヌーブは特に速い。

他のマシンたちが無難にペースダウンして走る中、ビルヌーブだけは例によってウエットの路面を華麗に滑りながらコーナーを攻めて、スタート直後の多重クラッシュでかなり順位が下がった分を取り戻して、5位でチェッカーを受けた。

もしスタート直後でのタイムロスをしなければ、もっと順位は上がっていただろう。

チームメイトのシェクターが中団グループから下位グループに甘んじてフィニッシュしたことを考えれば、改めてビルヌーブの異常な速さが浮き彫りにされるというものだろう。

ビルヌーブが昨年以上の過激な限界ギリギリの走りに燃えている証拠である。

更に、この時期辺りになって、ビルヌーブへの評価が昨年よりも変わってきたのだった。

報道陣やF1ファンの目から見て、ビルヌーブが過去最悪のマシンであるクズ鉄312T5でこれだけ速く走るのを見て「昨年のワールドチャンピォンのシェクターがあんなに下方に沈んでいるのに、ビルヌーブはものすごく限界ギリギリの、いや既に限界を超えたドライビングをしている。見ているほうにもそれがひしひしと伝わってくるし、あの出来そこないの312T5であの順位はとんでもなく信じがたいことだ。もし他のマトモな性能のマシンに乗らせたらどれだけ速く走れるのか、考えただけでも恐ろしい。きっと誰もヤツには追いつけないだろう」という言葉を発した。

これは当然、昨年までのビルヌーブに対する評価が更に上がったことを意味するのは言うまでも無い。

つづく・・
2009年07月27日 イイね!

⑦Joseph Gilles Henri Villeneuve 「事故は僕に何の影響も与えない」

⑦Joseph Gilles Henri Villeneuve 「事故は僕に何の影響も与えない」双方対照的な表情の表彰台(1979 カナダGP)

カナダGPはモントリオール・サーキットで行われたのだが、レース期間の前からビルヌーブはヘトヘトになってしまっていた。

彼の今までの活躍を知っている地元カナダのマスコミから引っ張りだこで、テレビ出演やイベントでの出演を始め、あちこちに出演させられたからだった。

ビルヌーブは「これにはまいった。体がいくつあっても足りないよ。もちろん地元でこんなに人気が出るのは嬉しいことだけど、これじゃ僕はF1レーサーじゃなくて芸能人だよ。早くレース期間に入ってほしいもんだね。僕は笑顔を売るためにカナダに帰って来たんじゃなくてレースをしに来たんだからね」とこぼした。

それでもマスコミは容赦してくれず、盛んにビルヌーブに出演依頼をした。

どんなに疲れていてもそこにファンが居る限り気さくに応対するビルヌーブは断りきれずに、ついつい出演して更に疲れてしまうことになる。

やがてレース期間になり、「やっと開放された。サーキットだけが安堵の場所だ」とビルヌーブは喜んだ。

しかしフェラーリ312T4の調子が今ひとつでセッティングがピッタリ決まらずにいた。

エンジンやシャシーには問題はなかった。

つまりお決まりのミシュランタイヤの粗悪ぶりが原因だったのだ。

ここまで長い間フェラーリを不利にしてきた低性能のミシュランタイヤ、さっさとグッドイヤーに乗り換えればよさそうなものだが、グッドイヤーに乗り換えられないフェラーリチームの事情があったのかもしれない。

どの道、今シーズンの残りはイヤでもミシュランタイヤで走らなければならないのだ。これはかなりキツいものがある。

このカナダGPで、なんとニキ・ラウダが引退を発表してしまうということがあった。

ラウダは1976年のドイツGPでの大事故から見事に復活を果たしたドライバーだったが、だんだんとレースに対する情熱が消えつつあったらしい。

また、斬新なデザインのブラバムのニューマシンが発表されて今レースから走ることになり、ラウダ本人が「やっと勝てるマシンに乗れる」と喜んでいたにもかかわらず、実際に走らせてみるとまったくの期待外れの性能だったことも、ラウダの意気消沈に追い討ちをかけてしまい、引退を決意させてしまったのだ。

それはともかくこのレースではビルヌーブが主役だ。

観客はビルヌーブのことしか頭にない。

タイヤに問題を抱えた2台のフェラーリは、予選で見事にウイリアムズのアラン・ジョーンズに負けてしまった。

とはいえ、ポールポジションがジョーンス、そして2番手にビルヌーブという状況なので観客の期待と緊迫感はそのまま保たれた。

シェクターはずっと後ろのグリッドしか確保できなかったが、シェクターの表情は「チャンピォンも獲得したし、あとは気楽にシーズンを走りきろう」という印象でリラックスしていた。

そして決勝のスタート。

2位につけていたビルヌーブは超人的なスタートダッシュを見せてジョーンズを抜き、スタート早々からトップに立った。

ビルヌーブのスタートダッシュが速いのにはいろんな理由がある。

まるでドラッグレースのマシン操縦のように、シフトアップする時にアクセルを戻さないという、オーバーレブ承知の危険な方法。

そして自分がフォーメーションラップでわざとホイールスピンさせて作ったタイヤのブラックマークの上に自分のタイヤを置き、スタートでのグリップを少しでもよくする方法である。

しかし彼の集中力とテクニックがあって初めて有効になる方法なので、結局このスタートダッシュはビルヌーブにしかできないことになる。

ビルヌーブの真後ろに張り付いているジョーンズのウイリアムズは、明らかに性能ではフェラーリを上回っていて、シャシーだけでなくタイヤの性能でもかなり有利な立場に居る。

にもかかわらずジョーンズは、いつまでたってもビルヌーブを抜けずにいた。

ビルヌーブがコーナーというコーナーでマシンをドリフトさせて横を向き、完璧なブロックをしていたからだ。

こういう形のブロックは正当なレーシング・テクニックであり、性能の劣るマシンで行うのは至難のワザである。

それをビルヌーブは全てのコーナーで平然とやってのけて周回を重ねていた。

まるで機械のように、毎周毎周正確にである。

このブロックテクニックにはジョーンズも困ってしまった。

ジョーンズは「ビルヌーブがいつかミスをするのを待とうか」とも思ったが「いや、超人的な集中力を持つビルヌーブのことだ、こういう逆境に置かれた時は、ヤツは絶対にミスなんかしやしない。ミスを待っていたら僕は2位のままで終わってしまう! 何とかしたい!」と切羽詰っていた。

そこでジョーンズは作戦を変え、レースの終盤まで極力マシンをいたわって走り、パワーを温存することにしたのだ。

ビルヌーブのスリップストリームから外れてあおるようなことはヤメて、じっと我慢しながらスリップストリームで引っ張ってもらうことにしたのだ。

こうすればマシンは終盤までかなりパワーを温存できるので、「終盤でマシンのパワー差を頼りに抜けるかもしれない」とジョーンズは思ったのだ。

ジョーンズの作戦は成功した。

終盤近くになって、ジョーンズはあるコーナーからの立ち上がり加速を利用してビルヌーブに並びかけ、それほど長くはない次のストレートでパワーに物を言わせて僅かにビルヌーブを引き離したのだった。

しかしそんなことで諦めるビルヌーブではない。

ビルヌーブは激烈なドリフト・コーナリングを駆使して、挙動が不安定なマシンながらもジョーンズにぴったりと張り付き、今にもノーズがぶつからんばかりの距離で迫った。

だが今まで存分にマシンを温存してきたウイリアムズを抜くには至らず、今度はビルヌーブがジョーンズのミスを待つかしかない状態になった。

どんなに集中力とテクニックがずば抜けているビルヌーブでも、マシンの大きな性能差まで覆せるほどF1は甘くない。

しかもジョーンズは終盤の追い抜きに賭けていて、「この後も決してミスをするまい」と集中していた。

ゴールラインまで2台はまるで牽引フックで繋がれたような状態だったが、ジョーンズは最後の最後までミスをすることなく優勝を飾った。

表彰台で2位に立ったビルヌーブは悔しさの表情はほとんど無く、むしろ爽快な表情をしていた。

「やれるだけのことはやった。これがレースだ。でもなんだか物足りない感じだなぁ。まだまだ全開走行ができるだろうな」とビルヌーブは思っていたのだ。

しかしジョーンズのほうは疲れきった表情で語った。

「もう、本当にカンベンしてくれよ。どんな逆境に置かれても冷静でタフだし、あんなクソタイヤ(フェラーリの粗悪なミシュランタイヤのこと)を履かされても、絶対に最後まで諦めないんだからな。辛うじてトップに立てた僕の身にもなってくれ。一瞬でもミスをすればもう僕には優勝のチャンスは無かったんだから。あれじゃ一瞬足りとも集中力を切らせなくて、今はもうヘトヘトだよ」。そう言ってジョーンズは、疲れきった様子でビルヌーブの腕を掴みあげて祝福した。

マシンの性能差や表情を見るに、もしかしたら、精神的にはビルヌーブのほうがラクに優勝しているのかもしれない。

そういう印象を受ける表彰台だった。



11秒もの大差(1979 アメリカGP)

最終戦となるアメリカGPはワトキンズグレン・サーキットで行われた。

予選第一セッションは大雨となり、どのドライバーもコースに走り出るのを敬遠していた。

走るには走るが、あまりにもひどいどしゃ降りのために、かなり安全マージンをとって走らないと即コースアウトしてしまう。

各ドライバーは慎重に慎重に第一セッションを走っていた。

そんな中、ビルヌーブだけは全く違っていた。

彼は勢いよくコースに出ると、お構いなしにアクセルを全開にして、ものすごい勢いで水しぶきを上げながら走っていた。

まるで革靴を履いてスケートリンクを駆け足で走るようなコース状態なのに、ビルヌーブはコーナーというコーナーを真横になって走り抜け、川になったコーナーの水を弾き飛ばしながら激走していた。

ビルヌーブは無理にこんなことをしているのではなく、心から楽しんでスケートリンク状態のコースを華麗に「滑って」いたのだ。

その結果予選第一セッションのタイムは、ビルヌーブが2位のシェクターに11秒もの大差をつけるという、各車同じコンディションの予選では考えられない結果が出た。

暫定ポールとはいえ、報道陣の誰もが「神業だ! こんなタイムを出すなんて、しかもヤツは楽しみながら余裕で走っているなんて、信じられない!」と叫んでいた。

そんな報道陣の声を聞いていたジャック・ラフィーは「あれがビルヌーブなのさ。彼はね、僕たちとは全く別の世界に居るんだよ。もう言葉では表せないよ。あのコーナリング・テクニックは既に芸術の域に達していると言っても過言じゃないね」と言った。

第二セッションの天気は晴れになって、ビルヌーブはミシュランのドライタイヤの貧弱さに悩まされることになる。

ドライコンディションではタイヤの弱点がモロに出るのだが、それでもビルヌーブは何とか最終予選3位のグリッドを手に入れた。

しかし決勝レースの前にいきなり激しい雨が再び落ちてきて、各チームは慌ててレインタイヤに交換。

そしてこの雨はビルヌーブにとっては当然、絶好のチャンスとなる。

ビルヌーブはスタートダッシュでネルソン・ピケを難なく抜いて、更にトップのジョーンズに第一コーナー早々から襲い掛かった。

勢いがよすぎたビルヌーブは片方のタイヤ2つをダートにはみ出させて挙動を乱すが、それでもアクセルを緩めずにジョーンズを抜いて、1周目からトップに立ち、30周以上もトップを保っていた。

それでもジョーンズは速く、ビルヌーブに遅れてなるものかと意気込んで食らい付いて行った。

とうとうビルヌーブとジョーンズは他のマシンたちを全て周回遅れにしてしまうほどの速さだった。

ワトキンズグレンの雨は実に気まぐれだ。

決勝レースの中盤あたりで雨がやみ始め、各車次々とドライタイヤに交換するためにピットイン。

ビルヌーブのタイヤ交換は無事に終わったが、ジョーンズのほうはアンラッキーとしかいえない結果になる。

ジョーンズのマシンはピットアウトしたとたんにホイールが外れてしまったのだ。

ピットクルーが焦っていたために、ホイールナットを充分に締めなかったのが原因だ。

とぼとぼとピットに戻ってきたジョーンズに、ピットクルーは「すまない。ビルヌーブがあまりにも速いから、こっちもタイヤ交換に焦ってしまって…ナットをよく締めなかったようだ」と言った。

ビルヌーブの鬼のような走りが、ウイリアムズのピットクルーのミスまでをも誘ったのかもしれない。

その結果ビルヌーブは優勝。

シーズンの最後をまたしても優勝で締めくくることができて、ビルヌーブは満足していた。

ジョーンズと同じくシェクターもホイールが外れてリタイアしたのだが、シェクターの312T4は間違ってもビルヌーブのような3輪走行はしなかった。

もちろんジョーンズやシェクターの判断のほうが遥かに一般的なのだが。

今シーズンを振り返ってみれば、ワールドチャンピォンになったのはシェクターだが、シェクターに僅か4ポイント差でチャンピォンシップ2位につけたビルヌーブは、ポイント差だけを見れば実に惜しいシーズンだったとしか言いようが無い。

しかし、各レースで見せた激烈な走りは、本物の「レーサー」として、また他のドライバーたちに対する「脅威」として人々の記憶に深く深く残った。


1979年のシーズンは、ビルヌーブにとって最も恵まれていた時期であり、一段と評価が高まった時期でもあった。

こうして1979年シーズンは幕を閉じた。

しかし、ビルヌーブへの評価が更に高まるのは、実はこの後1980年シーズンのフェラーリ低迷期からで、そのひどい逆境における神業のような走りを人々から評価されることになるのだった。

更なる逆境と試練が待っていることなど、今のビルヌーブ自身知る由もなかった。

1980年シーズン開始までのシーズンオフ最中に、ビルヌーブは今までのF1戦歴について、ジャーナリストのインタビューに答えたことがある。

―――ジル、今までの戦歴を振り返ってみて、全体的にどういう風に思った?

「僕のF1キャリアは最悪なスタートをきったものだった。あの頃はとても焦りすぎていたし、まだまだ経験が足りなかったんだ。今でも忘れられないよ…」



―――1977年の日本での事故のことを言ってるの?

「そう…。僕は無傷だったけど、まさか僕のマシンの下で二人も死んでしまうなんて思ってもみなかった。あの直後、ボス(エンツオ・フェラーリ)からはかなり慰められて励まされもしたけど、僕としては取り返しのつかない事故をやらかしてしまった、という気持ちでいっぱいだったんだ。食事なんて全くノドを通らなくて、半分ノイローゼになりかけていたさ。でも記者会見でのボスの強い言葉…死亡事故は今までにもたくさんあった、これがF1の世界なんだ、という言葉には僕もかなり勇気付けられたんだ」



―――日本での観客は立ち入り禁止区域に入っていたんだから、あんなことになったのも仕方が無いのかもしれないね。その事故だけじゃなくて、1978年のロングビーチやモナコでも、君は大きな事故を経験しているよね。(ロングビーチではトップを独走しながらも周回遅れのレガゾーニと接触して宙を舞うクラッシュ、モナコではトンネル内でクラッシュしている)

「ロングビーチでは本当に勿体無いことをしたとは思うけど、レースの半分以上をトップで独走するのは爽快だったね。何しろ前走車がいないもんだから、前走車が散らかすタイヤのコンパウンドのカスとかオイルとかが全くシールドに付いていないんだ。リタイアしてマシンを降りた時、シールドのあまりの綺麗さにびっくりしてしまったよ」



―――モナコのほうも、やはりミスをして事故を起こしたのでは?

「いや違うんだ。トンネルに入ってかなりの高速になって強い横Gがかかった時、サスペンションのどこかが急にガクン! という感じで壊れたのが解ったんだ。コントロールを失った瞬間に僕は思ったよ。”こんな高速だとひどい事故になることは免れないから、とにかく落ち着いていよう” ってね。気持ちを落ち着けていると、不思議とケガをしないものなんだ。マシンはバラバラ状態だったけど、僕はやっぱり無傷だったんだ」



―――今まで大事故を何度も経験してきて、怖いと思ったり、安全な走り方に変えようと思ったことは無い?

「一度も無いね。そりゃぁ変えようと思えば変えられるけど、安全マージンをとって確実に走るよりは、事故を起こすかもしれないと思いつつ全開走行をするほうが性に合っているからね。結果的にそれでどんな大きい事故を起こしても、僕は自分の走り方を変えるつもりは無い。だからこれだけはハッキリ言える。事故は僕に何の影響も与えないよ」



事故を全く恐れないビルヌーブの信念は、昔初めてレースに出場した時から変わらなかった。
レースの結果を優先するのではなく、レース中のスピードやタイムアタックやバトルに集中することこそが、彼の喜びだったからだ。
その結果優勝することもあれば、クラッシュでリタイアすることもある。
ビルヌーブのようなタイプのレーサーには、「優勝か無か」「優勝がダメならエンジンブローか大クラッシュ」という表現がよく似合う。

ビルヌーブには少なくとも表面上に現わす恐怖心が殆ど無いということになるが、それを裏付けるエピソ-ドがある。
今シーズンも同じくチームメイトとなっているシェクターをビルヌーブが自家用ヘリコプターに乗せた時のことである。
もちろん操縦はビルヌーブで、かなりの高度を飛行中にインパネの警告ランプが点滅し出した。
シェクターがおそるおそる「ジル、これはなんだ? 何の警告ランプなんだ?」ときいたところ、「バッテリーが加熱して破裂する危険性がある、そういう意味のランプだよ。バッテリーが破裂しちゃったら墜落しちゃうよね」と平然と答え、次の瞬間ビルヌーブはなんとエンジンを切ってしまった。
当然揚力を失ったヘリコプターはものすごい勢いで落ちていく。
シェクターは「もうダメだ! もう死ぬ! もう終わりだ!」と半狂乱になっていた。
ところがしばらく急降下した後、ビルヌーブは再びエンジンをかけてゆっくりと上昇していく。
そんなことを数回に渡って繰り返した。
ビルヌーブに言わせれば少しでもバッテリーを冷やすための行動だったらしいのだが、シェクターの肝はバッテリーよりも遥かに冷えたようで、「ジルには恐怖心が全く無い! 二度とジルの操縦するヘリになんて乗るものか!」という決意をシェクターはした。

もう一つのエピソードは、イタリアンレッドにペイントされたビルヌーブの自家用車フェラーリ308GTSにシェクターが初めて同乗した時のこと。
混雑していて殆ど車の切れ目の無い高速道路を、ビルヌーブは時速220キロ以上のスピードで車の流れを目にも止まらない速さでジグザグ走行をしながらすり抜けていたのだ。その時、前を走る大型車がいきなり進路変更をしてきて308GTSの目の前をふさぎ、どう見ても308GTSが激しく追突してしまう状況になった。
シェクターは両目を覆って、もはやこれまでと観念した。
だがビルヌーブは少しも動揺せずにサイドブレーキを引いて瞬時に308GTSを真横に向け、ラリーでいう「直ドリ」状態のまま、ドリフトによる減速でこれを回避した。
大型車のリアバンパーすれすれに308GTSのサイドボディが迫りながらも、ビルヌーブは余裕の表情を浮かべていた。目的地に着いて308GTSを降りたシェクターは「二度とジルの運転する車には乗らない!」と言ったそうな。
だが車だけに利用する機会が多いので、仕方なく同乗を続けているうちにシェクターはビルヌーブの運転に少しは慣れたらしい。
それでも毎回決まって「今日は死にませんように」と心の中で祈っていたという。


恐怖心を全く見せないビルヌーブの信念は、どんな場所でも同じだったのだ。
だからF1レースにおいて「事故は僕に何の影響も与えない」と豪語できたのである。

つづく・・
2009年07月27日 イイね!

⑥Joseph Gilles Henri Villeneuve 三輪で全開走行

⑥Joseph Gilles Henri Villeneuve 三輪で全開走行走り方に合わないグランドエフェクト(1979 イギリスGP)

イギリスGPは超高速サーキットのシルバーストーンで行われたが、ここでは312T4のグランドエフェクトの性能が逆にアダになってしまった。

サイドポンツーン内部に設けられたウイング機能やサイドスカートの機能が強すぎて、最高速が伸びなかったのだ。

ビルヌーブもシェクターもこれには参ってしまったようだった。

超高速サーキットで最高速が伸びないのでは話にならない。

フェラーリチームは、フロントウイングとリアウイングの角度をメいっぱい寝かせて少しでもダウンフォースを減らそうと試みたが、それでも最高速が伸びず、結局予選グリッドはシェクター11番手、ビルヌーブ13番手と、かなり悪い位置になった。

しかもビルヌーブの場合は超高速サーキットでもマシンをドリフトさせて走るクセがあったため、ダウンフォースを少なくし過ぎたマシンではハンドリングが不安定で、更に定番のお粗末ミシュランタイヤのせいで、更にハンドリングが悪くなっていた。

そのため決勝レースでも思ったように走れず、ビルヌーブの決勝レース結果は予選グリッドよりも悪い14位になった。

これに対してとことんグリップ走行が基本のシェクターは、不安定なマシンをいたわりながらも無難に地味に走り、決勝レースでは5位の結果を得た。

ビルヌーブにしてみれば、流行のグランドエフェクトカーもサーキットによって不利になる、と思ったレースだった。


リアウイングの損傷など眼中に無い(1979 ドイツGP)

ドイツGPはホッケンハイムサーキット。

このサーキットは前回のシルバーストーンほどの超高速サーキットではないため、312T4のグランドエフェクト機能が大体マッチングしており、予選はシェクターが5番手、ビルヌーブが9番手だった。

決勝レースではビルヌーブのマシンに異常が出始めた。

なんと、ラップを重ねるごとにだんだんとリアウイングの一部が外れかかっていたのだ。当然リアタイヤのグリップがどんどん落ちてきてオーバーステアがひどくなっていった。

ビルヌーブはリアウイングの損傷に気付いたもののピットインすることなく、構わずに飛ばした。

「たかがリアウイングの損傷ごときでいちいちピットインするのはバカバカしい」とビルヌーブは思ったのだ。

普通ならば、リアウイングの損傷でオーバーステアがひどくなった時点ですぐに緊急ピットインをするのが常識なのだが、ビルヌーブの頭の中にはそんな「安全策」はカケラもなかった。

危険をおかしてでもとにかくタイムロスをしないで走る、それがビルヌーブの考えだったからだ。

「僕の走行はドリフトが基本なんだから、リアウイングの損傷なんて眼中に無いよ。リアが派手に流れようが構わないさ。いつものようにフルカウンターを当てればいいだけの話さ」といわんばかりに、かなり派手なテールスライドをしながら、リアウイングが損傷した312T4をあえて放置し、まるでそれを楽しむかのような綱渡り的な走り方を続けた。

おまけに、マシンがこんな状態にもかかわらず、ビルヌーブはなんとファーステスト・ラップを叩き出していたのだから恐ろしい。

しかし、やはりというか、リアウイングの損傷がひどくなっていくにつれて、どうしてもコーナリングが不安定になっていき、ペースがだんだんと落ちてきて、レース結果は8位に終わった。

もし緊急ピットインをしてリアウイングを修理していたら、もっと悪い順位になってしまっていただろう。

順位はともかく、ビルヌーブがリアウイングの損傷を抱えながらもファーステスト・ラップを叩き出したことに、誰もが驚いたレースだった。


本物のロケットスタート(1979 オーストリアGP)

オーストリアGPのエステルライヒリンクサーキットでは、フェラーリ勢はハンドリングの不調に悩まされ、ビルヌーブの予選結果は5番手、シェクターはもっと後ろのグリッドしか確保できなかった。

「このレースでもフェラーリ勢はいいところがないか」と噂されたが、その噂を一瞬で跳ね除けるようなとんでもない走りを見せつけたのは、ビルヌーブだった。

決勝のスタート直前、グリッド最前列に居るアラン・ジョーンズとルネ・アルヌーは、共にスタートダッシュに集中するべく、「スタートでアルヌーには負けないぞ」「スタートでジョーンズを引き離すぞ」と、彼らは互いにシグナルが青に変わる瞬間を見つめていた。

そしてスタート!!しかしジョーンズもアルヌーも全く不意をつかれることになった。

はるか後方のグリッド3列目につけていたビルヌーブのフェラーリが一瞬で彼らの横をかすめていったからだ。

スタートダッシュでビルヌーブが抜いていったのはレガゾーニ、ジャブイーユ、ラウダ、アルヌー、ジョーンズだった。

抜かれた彼らだけでなく観客までもが「一体何が起きたんだ!?」という表情であっけに取られてしまった。

まさに本物のロケットスタートと言うにふさわしいビルヌーブのスタートダッシュだったのだ。

決してフライングスタートではなかった。

ビルヌーブはシグナルが変わる瞬間を神業のような正確さで読み取り、アクセルを床に踏んづけたまま目にも止まらない速さでシフトアップ、まるでドラッグレースさながらのスタートダッシュだった。

しかしマシンそのものの性能はジョーンズのウイリアムズのほうが上回っていたために、その後間もなくビルヌーブはジョーンズに抜き返されてしまい、ビルヌーブは2位でレースを終えた。

言い換えればビルヌーブはマシンの性能差をスタートダッシュでカバーしたわけだが、性能の劣るマシンでロケットスタートを決めたビルヌーブの恐ろしいまでのテクニックを誰もが味わわされたレースだった。

レース後のインタビューでアラン・ジョーンズは言った。

「スタートでは本当に驚いた。てっきりアルヌーが並んでくると思ったらビルヌーブが真横に居るじゃないか! 一体どうやったらあんなスタートができるんだ!?」と。

これはジョーンズの個人的な感想などではなかったのだ。

実際、後日のモータースポーツ雑誌で「20年に一度見られるかどうか解らないほどのすさまじいロケットスタート」と、ビルヌーブのスタートのことを絶賛する記事が載せられた。


ピットまでの激烈な三輪走行(1979 オランダGP)

1979年のオランダGPほど、ビルヌーブのクレイジーぶりを印象づけたレースはない。

そのクレイジーぶりは派手に新聞のトップ記事にされ、良かれ悪かれ世界中から様々な評価を得たレースだった。

ビルヌーブは予選6位のポジションを得て、決勝では得意のスタートダッシュを決め、レガゾーニ、ジャブイーユ、アルヌーを次々と抜き去った。

抜かれた彼らは「誰かと思ったらまたビルヌーブか! かんべんしてくれ!」と絶望的な気持ちになってしまったようだった。

それほどまでにビルヌーブのスタートダッシュは素晴らしかったのだ。

間もなく、ルノーのアルヌーがウイリアムズのレガゾーニと接触、レガゾーニのマシンは一つのホイールが吹っ飛んだものの、なんとか無事に停止できた。

レガゾーニのマシンはかなりのハイスピードで三輪状態になるという危険な状態だったのだが、レガゾーニはマシンをコントロールして無事に停車し、その場でマシンを降りた。

しかしこのレガゾーニの三輪状態でのリタイアは、この後に起きるショー・ラップの序曲に過ぎなかった。

6位からスタートダッシュを決めて2位にまでつけたビルヌーブだったが、彼は前を行くジョーンズのウイリアムズに追いつくまでには10周もかかってしまった。

これはマシンの性能差によるものだが、本来ならばまず追いつけないほど、ウイリアムズのマシンのほうが性能が上だったのだ。

そのハンデをビルヌーブは鬼のような走りでカバーしながらジョーンズのウイリアムズに追いついていた。

これだけを考えても信じがたいことである。

ジョーンズに追いついたビルヌーブは、コーナーのアウト側に並びかけ、かなり無謀なブレーキングでタイヤを激しくロックさせて抜きにかかった。

ビルヌーブは一瞬挙動を乱しながらもギリギリの突っ込みでジョーンズを抜き去った。

限界走行を見せてトップを奪ったビルヌーブに観客は大声援を送った。

しかし、ビルヌーブがあまりにも激しくブレーキングしたためにタイヤにひどいフラットスポットができてしまったのか?それ以外の原因かは解らないが、ビルヌーブの312T4の左リアのタイヤからだんだんと空気が抜けていってしまったのだ。

やがて左リアのタイヤは完全に空気が抜けてグリップしなくなってしまった。

そしてビルヌーブは最高速の出るストレートの終わりでいつものようにフル・ブレーキングをしたのだが、三輪状態でのブレーキングでは減速しきれなかった。

タイヤ一つ分ブレーキが利かない状態なのだから、減速しきれないのも当然である。

「まずい、進入スピードが高すぎる。このままの状態ではバリアーにクラッシュする」ととっさに判断したビルヌーブは、わざとコース上でマシンをスピンさせて減速をするという芸当をやってのけた。

ビルヌーブのフェラーリは派手にグルグルとスピンをしてタイヤから白煙を上げながら首尾よく減速され、バリアーにクラッシュすることなく、コースを背にする状態でコース脇の草地に停まった。

この時ビルヌーブはエンジンまでストップさせてしまったのだが、観客は「どうせリタイアするのだからエンジンが止まっても関係ないよな。今のスピンテクニックは見事だったぞ、よくやったビルヌーブ!」という調子だった。端から見れば、どう見てもビルヌーブがマシンを壊さずに無難にリタイアしたように思えたからだ。

「ビルヌーブでもマシンを壊さないでリタイアするような、そういうマシンへの心使いもあるんだなぁ」程度にしか観客は思っていなかった。

だが真相は全く逆だったのだ。

ビルヌーブはタイヤ交換をするためにピットまで戻ろうと思って、そのためにマシンを壊さないようにしたのだった。

彼は何度も何度もフェラーリのエンジンスターターのボタンを押しつづけ、それでもエンジンがかからないもどかしさから、彼は愛用のGPAヘルメットのシールドをカパッと開けて、スターターボタンを睨みつけながら押しつづけた。

やがてエンジンがかかり、ビルヌーブは即座にバックギアに入れてコースまでバックをして戻った。もう、左リアのタイヤはぺしゃんこというよりも既にタイヤの形さえしておらず、ただホイールにゴムの破片がくっ付いているような状態だった。

観客は全員、「ああ、なるほど。タイヤが一つ無いから、極度のスローダウン走行でゆっくりゆっくりピットまで向かって、とりあえずタイヤ交換をして、レースの順位は捨てて完走だけを目指すつもりなんだな」という風に思ったのだが、次の瞬間、観客は呆然とするような光景を見てしまった。

バックしてコースに戻ったビルヌーブは、ギアを1速に入れて、急いでヘルメットのシールドを閉めると、なんといきなりアクセルを全開にしてフル加速に入ったのだ。

2速、3速、4速とどんどんシフトアップしていき、ほとんどレーシングスピードといってもいいほどの走りでピットに向かったのだ。

左リアのタイヤが無いためにデファレンシャルはLSDが利きっぱなしである。右フロントのタイヤも頻繁に地面から浮いた。であるから、常時マトモにグリップしているのは二輪だけということにもなる。

ビルヌーブはピットまで向かう途中のラップで、三輪状態のためにコーナーでは糸の切れた凧のようにフラフラと限界ギリギリの三輪ドリフト。

そしてストレートでは完全にアクセル全開で312T4が出せる最高速を出していた。

他のドライバーたちも「なんだ!? なんだあれは!? 奴は正気か!?」という表情でビルヌーブの三輪での全開走行を見ていた。

こんな状態で全開走行をすればマシンがタダで済むハズがない。

サイドスカートはおろかサイドポンツーンまで激しく壊れ、左リアに至っては、サスペンションアームの前の部分が外れてホイールが真横を向き、そのホイールが引きずられた状態で路面と激しくこすれて火花を散らし、どんどん原型をとどめなくなっていった。

やがてマシンの左リアのフロア部分からも激しく火花が散り、フロアまでもがメチャメチャに壊れ、ビルヌーブのフェラーリは左リア部分がクラッシュしたマシンと同様の状態にまで壊れていった。

それでも彼は全開走行をヤメなかった。

観客は、完全に予想を裏切られ、あまりにもクレイジーなビルヌーブの行動に肝を冷やされたのだった。

見ている観客のほうが寿命が縮まる思いだったことだろう。

全開走行のままピットまで戻ったビルヌーブは、ピットクルーに「タイヤ交換をしてくれ! 早く!」と告げた。

しかしビルヌーブは、マシンが見るも無残な姿に変わり果てていたことを知らなかったようである。

真っ青な顔をしたピットクルーから「左リアを見てみろ…」と言われて見てみたビルヌーブは、そこで初めて左リアの激しい損傷に気付いて、仕方なくリタイアを決断した。

ビルヌーブが言うには、「スピンしてエンストした時に、マシンがまだ走れる状態だと思ったから、急いでピットまで戻ってきたんだ。もちろんコースに復帰して少しでも上の順位でゴールするためさ。でも、まさかあんなに壊してしまっていたなんて知らなかったよ。せいぜいタイヤがぺしゃんこになっていてグリップしていないんだと思っていた」ということだった。

周りの者達は「三輪状態なのにレーシングスピードで走るなんて、それだけで狂っている! 壊して当たり前だ! 気付いていなかったはずはない!」と怒っていたが、あまりにもレースへの執念が強いビルヌーブゆえに、本当に左リアの損傷に気付いていなかったのかもしれない。

後日、レース雑誌のコメント欄では、マスコミによる賛否両論が出された。


「信じられないほどの自己顕示欲だ!」

「良かれ悪かれ、彼は最高のショー・マンだ。F1にこういうドライバーが一人居ても面白い」

「エンツオ・フェラーリが名づけた ”破壊の王子” にふさわしいリタイアぶりじゃないか! さすがにあれ以上は壊せまい!」

「レースへの執念も、度が過ぎればただのクレイジーだ!」

「三輪で全開走行なんて聞いたことがない! あまりにも危険すぎる前代未聞の行為だ!」

「いいや違う、彼は勇者だ。あんな状態でも見事にマシンコントロールをして全開走行をするなんて、彼は最高のテクニックを持つ勇者だ」

「勇者だなんてとんでもない! マシンコントロールは確かに素晴らしいが、ただの大バカ者だ!」

「奴は狂っている! 今すぐに危険意識を持つべきだ! 2年前の日本GPで起こした死亡事故を忘れたのか!?」



こんな風にビルヌーブは、マスコミから「勇者」とも「大バカ者」とも呼ばれた。

しかし、エンツオ・フェラーリを筆頭とする古くからのF1を知っている者は、過去にローズマイヤーやアスカリが三輪走行をしたシーンとビルヌーブをオーバーラップさせていた。

エンツオ・フェラーリがマスコミに向けた言葉は「確かにあの行為は危険極まりなかった。だがね諸君、思い出していただける方々もおられるだろう、ヌボラーリがかつて三輪走行をして優勝した事実を。これは、若い人たちに言っても解ってもらえないかもしれないが、あれくらいの執念と熱意を持ったドライバーというのは近年では稀なのだよ。その意味でビルヌーブは貴重なドライバーだ。今回のことで私が彼に罰を与えるというのかね? 貴重なドライバーに罰などは与えられない」という風に、ビルヌーブはお咎め無しになった。

エンツオ・フェラーリは、ビルヌーブの執念に燃えた走りに負けて無罪放免にしたフシがあったのだろうが、マスコミに向けて最後に一言だけ付け加えた。

「諸君、このF1の世界には、レースをすぐに諦めてしまうドライバーが居る一方、ビルヌーブのような絶対に諦めることを知らないドライバーが居る。F1の世界にとってありがたいのは、もちろん後者なのだよ」

この一言に、昔からのF1をよく知っている古い年代の人間たちが静かに頷いた。

残念なことに、今回のリタイア=無得点が原因で、ビルヌーブが1979年のワールドチャンピォンになる可能性はほとんど消えてしまったのだが、当のビルヌーブは落胆することもなく、「今後も、1レース1レースを誰よりも速く走れればそれでいいんだ」と考えていた。

セカンドドライバーとしての自覚(1979 イタリアGP)

イタリアGPは、毎年恒例の熱狂的なティフォシの声援でいっぱいだ。

ここでシェクターが優勝すれば彼のワールドチャンピォンが決定する。

場所がフェラーリの地元だけにティフォシにはたまらない興奮の、おあつらえ向きのシチュエーションだ。

ビルヌーブにもワールドチャンピォンの可能性が僅かにあったが、このレースを含めた残りの3レースを全て優勝しなければならないという条件付きの、まったくもって絶望的な状況だ。

予選でフロント・ローに並んだのはアルヌーとジャブイーユ駆る2台のルノー。

高速サーキットでターボエンジンのパワーを生かした結果である。

2列目にはシェクターとジョーンズ、そして3列目にレガゾーニと並んでビルヌーブが居た。

とことんエンジンパワーに物を言わせたルノー、せっかくのイタリアGPの雰囲気が白けてしまいそうなグリッド順位だったが、決勝スタートではシェクターがかなりの集中力を見せてトップを奪った。

ビルヌーブもジャブイーユを抜いて、アルヌーに次ぐ3番手となって、ティフォシたちは満足したようだった。

シェクター、アルヌー、ビルヌーブという順番がしばらく続いた。

やがてシビレを切らせたアルヌーがターボのパワーを限界以上にまで引き出して、アルヌーはエンジンパワーの助けを借りてシェクターを抜いてトップに立った。

しかしこのオーバーテイクがアルヌーにとっての命取りとなってしまう。

今で言う「オーバーテイクボタンを何回も使いすぎたためにエンジンが不調になる」という状態になったのだ。

アルヌーのルノーはペースが落ちて、あっけなくシェクターとビルヌーブに抜かれた。いくらエンジンパワーがあるといっても、それに頼りすぎてしまっては痛い目にあうといういい例だろう。

これでシェクターとビルヌーブがワン・ツー体制となり、ティフォシは興奮のるつぼになった。

しきりに「フェラーリ! ジョディ! チャンピォン! ジョディ!」というシェクターへの声援が続いた。

ビルヌーブはその気になればシェクターを抜くこともできた。

事実彼らの距離はほんの1秒以内だった。

しかしビルヌーブは自分の立場をよく解っていて、「僕はあくまでもセカンドドライバーに過ぎない。だから今、この状況で僕がやらなければならない仕事は、後続車をブロックしてシェクターの安全を確保すること、シェクターのワールドチャンピォン獲得に協力することだ」という、どこまでもフェアな考えでいた。

ビルヌーブには気持ちの余裕があり、「ただ後続車をブロックするだけじゃ退屈だ。ちょっとショー・タイムをティフォシたちに提供してあげよう」と思って、時折トップのシェクターに並びかけて、今にもトップを奪うような素振りを見せた。

それによってティフォシたちや報道陣はヒヤヒヤさせられることになる。

しかしビルヌーブは決してシェクターの前には出ず、並びかけたと思ったらまた下がって…という走りを繰り返した。

これはどう見てもティフォシたちへのサービスにしか見えない。

その証拠に、このショー・タイムを披露するかなり以前からビルヌーブは「セカンドドライバーとしてシェクターを援護する」というゼスチャーをピットクルーに送っていたからだ。

ビルヌーブは「ただ速く走ればいい」という観念を持ちながらも、セカンドドライバーとしての自覚をしっかり持ち、決して目の前にちらつく優勝の誘惑に負けることなく、2位を走りながら自分の仕事を謙虚にキッチリこなしたのだ。

その謙虚なフェア・プレイはティフォシたちから高く評価されたことは言うまでもない。
(ちなみにこの3年後、1982年のサンマリノGPで逆の立場になったビルヌーブだが、彼の生真面目さがアダとなって、チームメイトのピローニに裏切られてしまうとは、なんとも皮肉なことである)

そしてシェクターは無事にトップでゴールして、念願のワールドチャンピォンを決めた。

表彰台ではシェクターへの祝福はもとより、ビルヌーブの理性的でサービス精神旺盛な行動にも惜しみない拍手を送った。

イタリアGPとしては最高のシチュエーションだった。


晴れて大暴れできることの嬉しさ(1979 ノンタイトルGP)

次に行われたレースは、チャンピォンシップポイントとは無関係のノンタイトルGPで、やはりフェラーリの地元であるディノ・フェラーリ・サーキットで行われた。

ここでビルヌーブは、もうシェクターのサポートをする必要がなく、チームからも「チームオーダーは忘れて好きに走っていいぞ」と言われていた。

その晴れて大暴れできることの嬉しさはビルヌーブをよりハイテンションにさせた。

ビルヌーブはそのハイテンションよろしく予選はポールをとり、決勝スタートでも元気よくトップを快走。

そしてシェクターは2位につけるという、今度は前回のレースとは逆の配置でのフェラーリのワン・ツー体制だった。

しかし、フェラーリの履いた例の低性能ミシュランタイヤがまたしてもへたってきてグリップが下がり、シェクターはブラバムのニキ・ラウダに抜かれてしまう。

ビルヌーブもラウダに抜かれるかと思いきや、かなりの周回数抜かれなかった。

これはグリップの下がったタイヤを逆に利用したもので、「タイヤがタレてきて滑り出したら、あえてそれを武器にしてドリフト走行しまくればいい」という、ドリフトのテクニックが飛びぬけて優れているビルヌーブだからこそできる走りによるものだった。

ラウダも果敢にビルヌーブにアタックしていき、二人の順位は度々入れ替わった。

しかしラウダが前を走っている時に彼はブレーキングミスをし、ラウダのブラバムのテールぎりぎりにつけていたビルヌーブはノーズをぶつけて壊してしまう。

ビルヌーブは仕方なくピットインしてノーズ交換をし、ファーステストラップを叩き出し続けながらレースを終えた。

順位こそ下がってしまったものの、ラウダとのバトルで見せたドリフト走行は観客を大いに惹きつけた。

ビルヌーブ本人も「なんだか走ることだけに集中できて、かえってスッキリしたよ」とあっさりしたコメントを見せ、晴れて大暴れできたことを満足していた。

つづく・・
2009年07月27日 イイね!

⑤Joseph Gilles Henri Villeneuve 破壊王子

⑤Joseph Gilles Henri Villeneuve 破壊王子過激な走りの代償(1979 ベルギーGP)

ベルギーGPの予選第一セッションは雨だった。

誰もが第二セッション、第三セッションに備えてクールダウンして走る中、ビルヌーブだけはストレートでもコーナーでも激しく水しぶきを上げ、果敢に攻めていたため、ビルヌーブは暫定ポールを取った。

しかし第三セッションになった頃には雨がやみ、ドライコンディションとなって各車タイムアタックを始めてからは、それまでのビルヌーブの派手な走りも暫定ポールのタイムも、他のマシンたちの中に霞んでしまう。

結局フェラーリの履いていたミシュランの予選用タイヤの性能は、グッドイヤー勢に比べて遥かに劣っていたため、ただ雨に助けられていただけという事実が浮き彫りになってしまった。

このベルギーGPのあたりで、わずか2~3周しかグリップしない予選用タイヤの危険性を、ドライバーたちやF1関係者は訴えていて、予選用タイヤの廃止を呼びかけていたのだが、当時は却下されてしまった。

ビルヌーブも「もっとドライバーに安全を」と呼びかけていた一人だった。
(この3年後に、ここベルギーのゾルダーサーキットでビルヌーブが予選用タイヤの最大の犠牲者になってしまうとは、なんとも暗示的で皮肉なことである)

最終予選結果はビルヌーブが6位、シェクターが7位で、まったくパッとしなかった。

決勝での天気は晴れとなり、ドライコンディションで不利なミシュランタイヤを履いているフェラーリにとっては苦しいレースとなった。

トップからパトリック・デパイエ、アラン・ジョーンズ、ネルソン・ピケ、ジャック・ラフィー、マリオ・アンドッレッティと続き、そしてシェクター、ビルヌーブと2台のフェラーリが続いた。

2周目のシケインで、フェラーリ勢の間に割って入った形でウイリアムズのクレイ・レガゾーニがシェクターを抜きにかかり、狭いシケインなことも相まってレガゾーニとシェクターは接触、シェクターのマシンはわずかに挙動を乱しただけで済んだが、レガゾーニのマシンはスピンをしてクラッシュし、その直後に居たビルヌーブはモロにとばっちりを食らった。

レガゾーニのマシンにビルヌーブのフロントウイングそして前輪が乗り上げ、昨年のロングビーチGPとまったく同じように、ビルヌーブの312T4はレガゾーニのマシンの頭上を飛び越えた。

しかしコース脇にはクラッシュせずにコース上に着地。

ビルヌーブは「フロントウイングさえ交換すれば何とか走れる」と判断して、急いでピットへと向かい作業を済ませたものの、順位は最下位になってしまった。

幸いレースは始まったばかりで、サスペンションなどの損傷は殆ど無かったので、ビルヌーブは飛ばすことだけに専念できた。

ストレートでパワーにものをいわせて抜くのなら緊張感も半減するというものだが、たった一つのコーナーだけでビルヌーブが数台をゴボウ抜きする様は圧巻としかいえなかった。

それでもまだ順位はかなり下のほうである。

その後トップ集団の5台がクラッシュ、そして更に6台がマシントラブルに見舞われ、ジリジリと後退していった。

そのためビルヌーブの順位が自動的に5位にまで上がった。漁夫の利ではあるものの、それまで数台をゴボウ抜きするほどのすさまじい走りをしていなければ得られない順位である。

ビルヌーブはかつてのフォーミュラ・アトランティックでケケ・ロズベルグに対してやったように、前を行くリカルド・パトレーゼのアロウズに並びかけて激しくホイールをぶつけ、強引に抜き去って4位に上がった。

このままいけば表彰台は確実だ。

うまくすればトップ争いにも加われるだろう。

ビルヌーブを始めとする誰もがそう思った中、トラブルは突然、しかも最終ラップのゴール直前にやってきた。

あまりにも飛ばしすぎたための、ガス欠だったのだ。

最終ラップのゴールラインのわずか数百メートル手前で、ビルヌーブの312T4は「シュゴゴ、ゴゴゥ…ボボゥ…」と急激なサージングを起こし、コースをゆっくりと惰性で動いて、遂にはゴールラインの300メートル手前で完全に停止してしまった。

それとは対象的に、シェクターはこのレースで勝利を飾った。

飛ばしすぎたためとはいえ、なぜビルヌーブのマシンだけがガス欠になったのか? その疑問の答えは、いかにもビルヌーブらしい理由だった。

彼はシフトチェンジする際にアクセルを床まで踏みっぱなしにすることがクセになっていて、路面のバンプでマシンがジャンプする時もアクセルを床から離さなかったのだ。

そのためにエンジンは一瞬とはいえオーバーレブし、当然その分燃費も悪くなる。

こういうことが原因でビルヌーブのマシンだけがガス欠になったのだった。

優勝者のシェクターは言った。

「ビルヌーブは自分の走り方を変えていかなければ勝つことはできないだろう。F1はただ速く走れればいいというものではないし、結果を出さなくては意味が無い。しかし、あの走り方があるからこそのビルヌーブでもある。事実彼はこのレースで誰よりも速いラップをたたき出したのだから」

と、批判しているのか認めているのか、シェクターの複雑な心境をよく表したコメントだった。


「破壊の王子」という誉め言葉(1979 モナコGP)

モナコGPの予選では、ビルヌーブはあの狭くて曲がりくねったコースをドリフトさせながらも、観客の表情を読み取れるまでに余裕ができていた。

「クレイジーな走りに恐れをなしている観客の表情を見て楽しむ」という意味で、ビルヌーブ自身も「観客」気分でいたのだ。

公道サーキットでのビルヌーブは心底レースを楽しんでいるようだった。

しかし、ビルヌーブのマシンは予選で燃料漏れのトラブルがあり、スペアカーに乗り換えたもののセッティングが合わず、シェクターのタイムを超えることはできなかった。

なんとか決勝までにはメインのマシンが修理されて間に合ったものの、決勝でのビルヌーブは焦りからスタートでミスをしてしまい、彼の得意技であるスタートダッシュを決めることができなかった。

ビルヌーブは気を取り直して追い上げ、再度トップグループに加わるものの、今度はギアボックスのトラブルに見舞われてしまい、ピットイン=リタイアとなってしまう。

前回のベルギーGPでも触れたように、ビルヌーブの走り方はエンジンをしばしばオーバーレブさせるもので、更にギアボックスにも負担がかかってしまう走り方だった。

そのために今回のようなトラブルも、起きるべくして起きたようなものだった。

ビルヌーブはチームスタッフたちから「もっとマシンをいたわって走ってくれ。どんなに頑丈に作ってもお前にかかったら壊れてしまうよ」と言われたのだが、ビルヌーブは自分の走り方を変える気はさらさらなかった。

「マシンを壊してもいいから少しでも速く走りたい」という彼の本能が、チームスタッフの言葉を受け付けなかったのだ。

スタッフは仕方無しに、更に頑丈なマシンを作らざるを得なくなる。

ビルヌーブのオーバーレブな走り方をよく知っているエンツオ・フェラーリの意見はこうだった。

「マシンが壊れるのも、いいではないか。ビルヌーブが運転しても壊れないマシンを作る、すなわち故障が極力出にくい頑丈なマシンを開発することも、これまた重要なことだ。設計者やメカニックの諸君、ビルヌーブが壊したマシンをよく研究して、もろい部分を強化するように、開発・改良に精を出したまえ」。

このように、エンツオ・フェラーリはビルヌーブのことを肯定的に見ると同時に「ビルヌーブは頑丈なマシン開発に欠かせない。彼は良い意味で ”破壊の王子” である」とまで言う始末で、まるでビルヌーブを自分の息子のように可愛がっている様がよくうかがえる。



F1史上に残る伝説の大バトル(1979 フランスGP)

1979年のフランスGP、ディジョン(プレノア)サーキットで行われたレースは、今でも伝説となっているほどのすさまじいバトルがあったレースだ。

「ビルヌーブは紛れも無く真のレーサーだ」というイメージを世界中に決定付けさせたほど、印象深いバトルのあったレースである。

その傍ら、かつてワールド・チャンピォンにもなったことのあるジェイムス・ハントが引退する、という出来事があった。

ハントは昨年のロニー・ピーターソンの死亡事故で真っ先に救出にあたった人間だったが、その時からハントはF1の世界に恐怖を感じていて、遂にこのフランスGPからはコントロールタワーでのコメンテーターとなり、完全にF1マシンの運転からは引退してしまったのだ。

その昔、ティレルで走っていたジャッキー・スチュワートがチームメイトのフランソワ・セベールの大事故を目の当たりにし、引退を決意した、それとほぼ同じような感覚をハントも抱いていたのだろう。

更に時を同じくして、パトリック・デパイエがハンググライダーの事故で大ケガをするというニュースもあった。

デパイエのハンググライダー事故はF1とは直接は関係ないものの、まるでF1界全てが暗く重苦しい雰囲気に包まれたような様子だった。

誰もが、人間の命のもろさというものを痛感させられていた。

しかし、このフランスGPは、そんな重苦しい雰囲気など吹き飛んでしまうかのような熱いレースとなった。

予選が始まり、地元フランスのルノーチームの二人、ジャン・ピエール・ジャブイーユとルネ・アルヌーがフロント・ローを獲得し、3位にビルヌーブが並んだ。シェクターは5位だった。

ルノーのマシンは当時初のターボエンジンでパワーに満ち満ちていたのだが、ルノーのターボエンジンはスタート直後やコーナー出口での立ち上がりが悪い、いわゆるターボラグがあり、そこにビルヌーブの勝機があった。

ディジョンサーキットは極めて勾配とコーナーの曲がり具合がキツく、ドライバーの体にかかるGは想像を絶するものだった。

そのために多くのドライバーたちはヘルメットをロールバーに固定してGに耐えるという、今でいうHANSのようなものを装着しなければ、レースを完走するだけの体力がもたなかったのだ。

モナコのコースなどは中低速コーナーが主体だが、このディジョンは高速サーキットな上にGのかかりが強いので、ディジョンのほうがはるかに大変な疲労度である。

そんなコース条件にもかかわらず、ビルヌーブはスタートから猛烈なダッシュを決め、2台のルノーのスタートでのターボラグを見逃さずトップに立ち、少しのペースダウンをすることもなくトップを走りつづけた。

だが、トップに立ったとはいえビルヌーブの心の中は、決して楽観的なものではなかった。

なぜならターボエンジンのルノーはあまりにもパワーがあり、ルノーの2台がストレートでパワーに物を言わせてどんどんタイムを縮め、ビルヌーブのノンターボな312T4に追いついてくる可能性が充分にあったからだ。

ジャブイーユは2位につけている。

そしてアルヌーはスタートでかなり順位が下がったものの、彼もかなり順位を回復して迫ってきている。この2台のルノーのエンジンパワーはビルヌーブにとって脅威だった。

だからビルヌーブはトップに立っている今のうちに少しでもルノーの2台を引き離しておく必要があった。

ビルヌーブは予選走行さながらの猛烈なペースで周回を続け、後続をどんどん引き離していった。

しかし、312T4の信頼性自体はそれほど問題は無かったのだが、肝心のタイヤがタレ始めてきた。

性能の悪いミシュランタイヤを履いた宿命といえるもので、どんなにエンジンやシャシーが頑丈に改良されていても、タイヤの悪さだけはフェラーリチームにとってはどうにもならなかった。

実際、シェクターはタイヤのあまりの不安定さに緊急ピットインまでする始末で、これを見てもビルヌーブが置かれた境遇がいかに苦しいものかが解る。

トップを走っているとはいえ、ビルヌーブの走りには余裕など全く無かったのだ。

そしてその時は訪れた。スタートからたった15周しか走っていないのに、もうルノーの2台がビルヌーブの312T4の真後ろに迫ってきていた。

パワーの劣るマシンで、更に性能の劣るタイヤで、この2台とトップ争いをしなければならないビルヌーブ。こういう境遇になった時のビルヌーブは更に過激さを増し、走りが殺気立ってくるものなのだ。

観客は極度に緊張していた。

地元のルノーチームももちろん応援したいところだが、ビルヌーブがどうやってトップを死守するかにも興味が大いにある。

性能の劣るマシンで打ち勝とうとするビルヌーブの勇姿に、観客は国籍の違いなど関係なく見入った。

「絶対に負けるわけにはいかない」。ビルヌーブの心はそれ一つだった。

と同時に、どんどんグリップが低下していく貧弱なミシュランタイヤを抱えての全開走行は、一歩間違えればコーナーで横っ飛びして大クラッシュという極限状態にまでいっていた。

312T4が履いているミシュランタイヤの貧弱ぶりは、それはそれはひどいもので、周回を重ねていくごとに、右コーナーでは極度のオーバーステア、左コーナーでは極度のアンダーステアになるという、本当にF1用のタイヤなのであろうか? と疑いたくなるほどのお粗末な性能だった。

しかもエンジンパワーでも劣っている。

そんなどうにもならないほどの絶望的な状態で、ビルヌーブは全神経を注いで懸命に飛ばした。

しかしビルヌーブの鬼のような走りもマシンの性能差をカバーすることができず、46周目、メインストレートの終わりのほうでルノーのターボエンジンのパワーを頼りに、ついにジャブイーユがビルヌーブを抜いてトップに立った。

観客はビルヌーブに対し、「ここまで頑張ってきただけでも充分すぎるほどのパフォーマンスだ。よく頑張ったな、素晴らしいぞビルヌーブ!」という声援を送った。

あとはジャブイーユが地元で無事に優勝するのを待つのみである。

ビルヌーブのパフォーマンスはここで終わりだ、と誰もが思った。

しかし、それはとんでもない勘違いだった。

本当のドラマはここから始まったのだ。

ジャブイーユに抜かれたビルヌーブは、マシンの性能上どうしても再度抜き返すことができず、2位をキープしていた。

それどころかすぐ後ろには同じルノーに乗るルネ・アルヌーが居る。

「まんまとルノーの2台に1-2フィニッシュを譲ってなるものか」。

そう決意したビルヌーブは、アルヌーと激しく競り合った。

アルヌーはどことなく、人間的にビルヌーブと似ているところがあった。

マシンを降りている時は口数が少なく引っ込み思案で、いざマシンに乗ったらかなりの過激な走りをするというタイプだった。

そういう似通った性格のドライバー同士だったために、お互いに一歩も譲らず、激烈な2位争いのドッグファイトがいつまでも続いた。

残りわずか3周というところで、とうとう、アルヌーのルノーがビルヌーブのフェラーリの真横にノーズを滑り込ませ、そのままアルヌーは2位へと順位が上がった。

観客は大喜びし、「もう、やっとこれで本当に全てが終わった。ルノーの1-2フィニッシュは決定した」と信じ込んだ。

しかし、ビルヌーブは決して諦めなかった。

抜いていったアルヌーのルノーが意外にペースが上がらないことにビルヌーブは気付いた。
(実はアルヌーのルノーは燃料タンクからの燃料の吸い上げが不調で、わずかなサージングを起こしていてエンジンパワーが上がらない状態だったのだ)

 このためにフェラーリ312T4とルノーの性能差はほとんど無くなり、互角の性能のマシン同士となり、2台の2位争いのバトルは果てしなく続いた。

コーナーごとのビデオカメラだけでなく、レースを上空から実況するために、サーキットの上ではヘリコプターが飛び、上空からのビデオカメラで彼らのバトルを実況していた。

第一コーナーでビルヌーブはギリギリのブレーキング競争に出た。

フェラーリのズタズタに痛んだミシュランタイヤをバーストさせるかのような激しい白煙があがり、マシンの挙動を乱しながらも、ビルヌーブはアルヌーのインを奪った。

しかしアルヌーも負けじと食らいつき、2台はコーナーというコーナーで真横に並び合い、両車は全く横の間隔が無い状態で数え切れないほどホイールをぶつけ合い、その反動であわや2台ともコースアウトかという瞬間もあったほどである。

上空から実況しているヘリコプターのレポーターは、

「ビルヌーブとアルヌー、どっちが前だ!? アルヌーがノーズを出して…いやビルヌーブもそれに体当たりしていく! 極めて激しいバトルだ! あっ! またホイールがぶつかった! 両車とも全く間隔が無い! もうこれで何回ホイールがぶつかったか解らない! どっちが前に出ているのかさえも全く解らないほどの超接近戦だ! またホイールがぶつかった! ホイールからものすごい火花が飛んでいる! すごい! すごい! こんな激しいバトルは今まで見たことが無い!」

と興奮していた。

まさに、このバトルは今までのF1史上無かったほどの、ハイスピードかつ超接近戦だった。

二百数十キロ出ているハイスピードバトルにもかかわらず、2台の間隔はものの数センチも無かった。

このバトルでは2台が何度接触してホイールから火花を散らしたか、誰も数えることができないほど接触の多いものだった。

更にアルヌーはコーナーでビルヌーブにぶつけてダートに押し出し、ビルヌーブのマシンは一瞬真横になって姿勢を崩す。

アルヌーも姿勢を崩してタイムロスをする。これでバトルは終わりか!? と思いきや、ビルヌーブはダートの土をけたたましく蹴飛ばしながらも再びアルヌーに接近。

アルヌーも姿勢を立て直して先のようなバトルがまた繰り広げられた。

遂に最終ラップ。

ゴールラインの二つ前のコーナーで、ビルヌーブがほんのわずかに前に出ていた。

アルヌーは最後のチャンスとばかりに、イチかバチかの賭けに挑み、インとアウトが入れ替わるカウンターアタックで勝負に出た。

しかしビルヌーブのコーナリングスピードがわずかに上回っていたため、アルヌーのアタックは失敗に終わり、そのままの勢いでビルヌーブがゴールラインを通過した。

ゴール時の両車の差はわずか0.24秒差という、最後の最後まで超接近戦だった。ビルヌーブはこの激烈なバトルに勝ったのだ。

フィニッシュの瞬間、レポーターは「ビルヌーブが2位だ! アルヌーは3位…」という、嬉しいやら悔しいやら複雑な心境のトーンの声でレポートしていた。

どちらも応援したい、という心境だったのだから無理も無いことである。

と同時にレポーターは「二人ともありがとう! 素晴らしいバトルを見せてくれてありがとう!」と叫んでいた。

レースの終盤のわずか数周の出来事だというのに、とてもとても長く感じられた、極度に緊迫したバトルだった。

ゴール後のスローダウン走行で、ビルヌーブとアルヌーはお互いに手を振り合い、お互いを祝福しあった。

パドックに戻ってきてからも彼らは純粋なバトルを演じた満足感で笑顔に満たされて、彼らのバトルを心から祝福する観客に取り囲まれた。

また、これを機会にビルヌーブとアルヌーは仲のいい友人にもなったのだ。

このレースで優勝したのはジャブイーユではあるものの、事実上のスターはビルヌーブ、そしてアルヌーだった。

それは報道陣や観客の視線や祝福の内容を見れば一目瞭然だった。

ただ、こういうバトルに付き物の批判の声があったのも事実である。

他のドライバーたち、特にベテランドライバーたちは

「ひとつ間違えば大事故になっていたのに嬉々としているなんて、二人とも危険意識のカケラもない!」

と批判し、マリオ・アンドレッティに至っては

「ただ単に、二頭の若いライオンが牙を向き合っただけだ。危険極まりないくだらないバトルだ」

と批判した。

それに対してビルヌーブとアルヌーは、

「僕たちはお互いに怯えなかった。尻込みして譲ることをしなかった。お互いにお互いのウデを信頼し合っていた。だからあのバトルができたんだし、心から楽しむこともできたんだ。あんたらにそれができるかい? あんたらなら、たぶん怯えてアクセルを緩めてしまっていただろうさ」

と返事をしてケロッとしていた。

実際、彼らのバトルをマネすることなど、他のドライバーにはできなかったのだ。

ビルヌーブとアルヌーだからこそできたバトルだったのだ。

エンツオ・フェラーリの言葉は今回の二人のバトルを絶賛するもので、

「我々はビルヌーブという、勇気と冷静さを併せ持つ素晴らしいドライバーを持っていることを誇りに思う」とコメントした。

確かに危険なバトルだった。

テクニックと勇気と冷静さと判断力、すべてがうまく合わさっていなければできないことだ。

しかしそれをやってのけた彼らに対し、マスコミは

「まぁ、まだ若いから血の気が多いんだろう。事故にならなかったんだからいいじゃないか」

と大目に見て、今回のレースの特ダネ記事ができたことを喜んでいた。

実際のレース経験が無いマスコミなど、いいかげんなものである。

後日、モータースポーツ雑誌の「オート・テクニック」誌の見出しで、今回のフランスGPについて「ジャブイーユ&ルノーのフランス革命」という、ジャブイーユが優勝したことだけを伝える、いかにも雑誌の体面を守るためだけのような見出しが載せられていた。

しかし実際にレースの現場でビルヌーブとアルヌーのバトルを見た人間から言わせれば、「オート・テクニック」誌のあまりに事務的な苦し紛れの見出しに笑ってしまうほどであった。

誰もフランス革命などという言葉には反応せず、ビルヌーブとアルヌーのバトルのことで噂はもちきりだったからだ。

こうして、1979年のフランスGPは「ビルヌーブとアルヌー、伝説の大バトル」として語り継がれていくことになる。

つづく・・

プロフィール

「二回目のノーマルエキマニクラック。対策品は新品しか無いのかね?ヤフオクの方が安いが入りすぎ(((((((・・;)」
何シテル?   05/02 19:36
速く走る事に繋がらないテクニックは曲芸にしかならないと常々思っている走る事が好きな親父です。 基本は慣性ドリフトゼロカウンター ゼロヨンでも最高速で...
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