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2009年07月27日 イイね!

④Joseph Gilles Henri Villeneuve ハットトリック

④Joseph Gilles Henri Villeneuve ハットトリック1979年シーズン開始前の内輪話

世間一般から言われていた「フェラーリチームは外部からの干渉を受け付けず、とても気難しいチームで、チーム内の雰囲気もきっと完全にドライなビジネスライクな重苦しい雰囲気に違いない」という評価を、ビルヌーブは「とんでもないよ!」と真っ向から否定した。

というのも、ビルヌーブが実際にフェラーリチームで約一年間暮らしてみると、そのあまりにも家庭的な雰囲気に囲まれて幸せいっぱいの生活をしていたからだ。

もっとも、これにはビルヌーブだからこその理由がある。

もともとフェラーリチームは(今はずいぶん違っているようだが)やはりビジネスライクな重苦しい雰囲気が基本的にあったのだ。

それでもビルヌーブが「家庭的で楽しい」と言ったのは、何を隠そう、ビルヌーブがとことん裏表の無い真っ正直な性格のために、エンツオ・フェラーリはもとよりチームスタッフの全員が、その極めて素直で真摯で純粋な態度に心を許し、「ビルヌーブとならどんなことも胸を割って話せる・あいつは本当にいいやつだ・とても仕事が楽しくてやりやすい」という印象を持ったからだ。

もちろんフェラーリチーム自体は言うまでもなく、勝利への執念に燃えて全力で努力するチームで、F1チーム最高のテストコースを持つほどの、優勝への執念と緊張感の固まりのようなチームだが、その職場のムードメーカーとしてビルヌーブが居たために、チームメイトたちは仕事も楽しく続けることができたのだ。

まさに理想的なチームの形態だった。

また、ビルヌーブの今年のチームメイトとなったジョディ・シェクターは、ビルヌーブがどこまでも「優勝か無か」という限界ギリギリの走りをするのに対し、あくまでも完走してポイントをかせぐタイプという、対照的なドライバーだった。

その意味ではビルヌーブとシェクターはウマが合わないと思われがちだが、実際はとても仲がよく、二人ともマシンの調子が悪くとも不平を言わず、「文句を言うヒマがあったら自分達が原因を究明してチームメイトに伝えて少しでもマシンの状態を良くしていこう」という考えを二人とも持っていたために、尚更二人のウマは合ったのだった。

フェラーリチームがこれほどうまくいっていた時期は極めて珍しい。

シェクターはフェラーリチームに入った当初、ビルヌーブのことを過小評価していたようだったが、その考えはすぐに改めざるをえなかった。

なにしろ、実際に同じマシンに乗ったときビルヌーブのほうが遥かに速かったからだ。

カーナンバーはシェクターが11番、ビルヌーブが12番すなわちナンバー2ドライバーとなったが、それに対してビルヌーブは何一つ不平を言わなかった。

「レースで速ければそれでいいのさ」という、実に単純明快な考えをビルヌーブは持っていて、肩書きなどはどうでもよかったのだ。

このあたりにも彼の、ものにこだわらない素直な心がうかがえる。

このビルヌーブの素直な心こそ、彼の速さだけでなく人間性としても観客やジャーナリストたちの好感を得たのだった。

それも助けとなって、現在でも彼を賞賛するファンは多いのである。


幸先の悪いシーズンのスタート(1979 アルゼンチンGP)

フェラーリのニューマシン(312T4)は、このGPには間に合わなかったため、前シーズンでの312T3で二人とも挑まねばならなかった。

ビルヌーブの予選結果は10位で、シェクターも似たようなものだった。

スタート直後に多重クラッシュが起きたのだが、かなり大きなクラッシュだったにも関らず、どのマシンからも出火しなかったのがせめてもの救いだった。

クラッシュによって軽いケガをしたシェクターやネルソン・ピケは出場を断念。

フェラーリでビルヌーブだけが決勝の再スタートを切った。

しかし焦ったためか6週目にスピン。

タイヤを痛めてしまったためにピットインしてタイヤ交換して追い上げを始めたはいいが、今度は彼のマシンをエンジンブローが襲い、リタイアとなった。

旧型の312T3で周りのニューマシン群に打ち勝とうとするビルヌーブの意気込みも空回りに終わった。


悪いレース結果ながらも、チームは明るい表情(1979 ブラジルGP)

ブラジルGPでは、ミシュランタイヤの性能の悪さのために苦戦を強いられ、ビルヌーブは5位、シェクターは6位という平凡な結果に終わったが、彼らのみならずチーム全体の表情も、レース結果とは裏腹に明るいものだった。

なぜなら、いよいよ今シーズンのためのニューマシンである312T4が、次回の南アフリカGPに登場することになっていたからだ。

312T4はウイングカーそのもので、時代に合ったエアロダイナミクスを充分に考慮して設計されたものだ。

今回のレース結果はみんな殆ど気にしていないくらいの嬉しい予定だった。

この312T4こそ、ビルヌーブがF1人生の中で最も輝いていたと言うか・・・

いろんな意味で、いかにも彼らしいアグレッシブでクレイジーな走りによる注目を浴びた時期のマシンになるのである。


「醜いアヒルの子」という汚名の312T4(1979 南アフリカGP)

南アフリカGPにデビューした312T4は、そのあまりの奇抜なデザインのために、外部のみんなから「醜いアヒルの子」とののしられた。

しかし、実際の性能はずば抜けて優れていた。

ポールポジションはルノーのジャン・ピエール・ジャブイーユが取り、次にシェクター、ビルヌーブと続いた。

ビルヌーブは、「予選で決まったスターティンググリッドの順位のまま、お互いに追い抜きをしない」というチームオーダーをしっかり守っていた。

これは彼が「レースは速く走るためのものであるが、あくまでも仕事であるから、オーダーはしっかり守るべきだ」という考えを持っていたからだ。

ビルヌーブはどこまでもフェアだった。

にもかかわらず、おそらくビルヌーブの激しい闘争心のためであろう、ジャブイーユとシェクターとビルヌーブはスタート直後から壮絶なるバトルを演じた。

ここでもビルヌーブがトップ争いをしているとレースが決まってスリリングなものになることが見られた。

彼は二台に接触せんばかりに接近し、ハタから見れば危険極まりない走りのように見えたであろうが、彼はその接近戦を心から楽しんでいた。こういうことから考えても、彼はドライバーというよりは、限界ギリギリのバトルを心から楽しむ根っからの「レーサー」なのである。

空模様は雨が降るのかやむのかハッキリしない天気だった。

こんな状況では誰でもスリックタイヤに変えるかレインタイヤに変えるか迷うところであるが、シェクターがスリックタイヤを選んだのに対し、ビルヌーブはレインタイヤを選んだ。

やがて雨がやんできて、誰もが「ビルヌーブはスリックタイヤにすぐさま変えるだろう」と思ったが、彼はレインタイヤのままで、それこそタイヤが熱でバーストする寸前のギリギリのところまで全開で走りつづけた。

イチかバチかの賭けである。

ビルヌーブは、こういうタイプのドライビングだった。

すなわち、タイヤをいたわって無難な順位でゴールするか、タイヤをバーストさせるかもしれない危険をおかしてまでも全力でトップを守ろうとするか、ドライバーとしてどちらを選ぶかと聞かれたら、ビルヌーブは迷うことなく危険をおかしてまでも全力でトップを守るタイプだったのだ。

彼がドライバーではなく「レーサー」と今でも呼ばれているのは、その「優勝か無か」という姿勢の走りのためである。

それが効を奏したのか、結果的にシェクターは自分のささいなミスでタイヤにフラットスポットを作ってしまいジリジリと後退、ジャブイーユはタイヤ交換の戦略でミスり、思ったようにペースを上げられない。

片やビルヌーブは2位以下に42秒の大差をつけて、見事に優勝を飾った。

昨年のカナダGPから数えて2度目の優勝である。

ビルヌーブが「レーサー」としての走りをこれでもかというくらいに実行したために勝ち取った優勝の、典型的な例となるレースだった。


南アフリカに続いて2連勝(1979 ロングビーチGP)

ロングビーチGPでは、ビルヌーブは昨年のようなミス(周回遅れのレガゾーニと接触してリタイア)などをすることはなかったが、予選で312T4のフロントをクラッシュして壊してしまった。

しかし気を取り直して果敢にタイムアタック。

なんと予選の二日間ともトップタイムをたたき出し、堂々のポールポジションを得た。

F1で初めての、しかもかなり難しいコースといわれているロングビーチの公道サーキットでのポール獲得である。

ガードレールやタイヤバリアに囲まれた、エスケープゾーンなど殆ど無い、まるでクラッシュしてくれと言っているようなコースでもそれをものともせず、むしろ、その危険なコースを楽しむかのように、彼は例によってクレイジーなドリフト走行で、ガードレール数センチのところでマシンをコントロールしていたのだ。

オーソドックスなグリップ走行でさえガードレールに当たらないように気を使って走るのが一般のドライバーだが、ビルヌーブはどんなに逃げ場の無いコースでも完璧にドリフト走行をこなしていた。

ちょっと笑えるエピソードもある。

F1で初めてポールをとったビルヌーブは、F1という特別な舞台で、先頭に立ってフォーメーションラップでみんなを引っ張ることには慣れていなかったのだ。

フォーメーションラップの途中でロータス80のカルロス・ロイテマンが故障に見舞われ、ピットインしてしまったため、スターティンググリッドのポール位置につけたビルヌーブの真横には、2位のグリッドについているハズのロイテマンの姿は無く、これがビルヌーブを面食らわせた。

「どういうことだろう?」と不安になったビルヌーブは、うっかりして、なんとなしにもう一度フォーメーションラップを回ってしまったのだ。

いつも冷静な彼らしからぬミスであるが、こういう間の抜けたドジをするのも、却って人間臭くて親近感が沸くというものだろう。

おかげで彼は罰金を食らってしまったのだが、レース的なペナルティは課せられなかったため、ポールから見事なスタートを決め、全く問題なくパーフェクトなポール・トゥ・ウィンを飾った。

南アフリカに続いて2連勝である。

このレースの時点で彼はなんと、早々にチャンピォンシップポイント争いで堂々の1位に踊り出たのだ。

もはや彼をトップドライバーとして認めない者は誰も居なくなった。


まさかのハットトリック(1979 イギリス・ノンタイトルGP)

次にイギリスのブランズハッチサーキットで行われたレースは、ノンタイトルGPといわれる、順位やポイントに関係ない、タイトル争いとは無関係の特殊なものだった。

ビルヌーブはこのレースでは新型の312T4ではなく、旧型の312T3で参加した。

参加メンバーはマリオ・アンドレッティやニキ・ラウダやネルソン・ピケなどのF1ドライバーに加えて、イギリスのオーロラAFXのドライバーも多数参加した。

もちろんマシンは全部F1マシンだ。

予選ではビルヌーブは3位につけた。

スタートでアンドレッティがミスったため、これをかわしてラウダとビルヌーブがトップ争いを始めることになった。

ラウダよりもビルヌーブのほうが遥かにアグレッシブかつ元気一杯で、ほどなくビルヌーブはトップを奪う。

そのうちにアンドレッティもビルヌーブへと追い上げてきて一時はアンドレッティに抜かれもしたが、アンドレッティはマシントラブルのためジリジリと後退。

難なくビルヌーブはかわして再度トップに立ち、そのままゴールイン。

まさかのハットトリックである。

ノンタイトルGPのため獲得ポイントこそ無いものの、ビルヌーブは絶好調で波に乗っていた。

この知らせを受けた、今回のレースには参加しなかったチームメイトのシェクターは、複雑な気持ちだった。

ビルヌーブがハットトリックを決め絶好調なのに対し、自分は納得のいく結果をまだ残せていないからだ。

それにマスコミいわく、「本来は、フェラーリのナンバー1ドライバーの称号はシェクターではなく、ビルヌーブに与えられるべきではないのか? 戦歴を見ても明らかだろう」というコメントまでするほどで、これがシェクターの焦りをさらに募らせた。

しかし当のビルヌーブ本人は、「僕はあくまでもナンバー2ドライバーだよ。ただ1レース1レースを頑張って楽しんで走るだけさ」という、まるで冷めた言葉を発した。

これは謙遜や思い上がりなどではなく、彼の本心だったのだ。

ビルヌーブはレースをすること・レースでトップを走ることだけを目指しているのであって、どっちがナンバー1ドライバーかなどということには全く無頓着だったのだ。

ビルヌーブの頭の中には、仰々しい肩書きや名声やマスコミの評判などはどうでもよく、「レースでトップを走りたい。できれば優勝したい」という、レースそのものに対する純粋な闘争心しかなかったのである。彼が真の「レーサー」と呼ばれている理由はここにもあるのだ。

命をかけたタイムアタック(1979 スペインGP)

先に触れたとおり、シェクターはビルヌーブの活躍に対して激しいジレンマを感じていた。

ビルヌーブ本人は無頓着だったのだが、シェクターのほうが「自分はナンバー1ドライバーなのに」という、ある種のコンプレックスを抱えてしまっていたのだ。

フェラーリのお家芸のようなもので、ある記者会見で発表があった。

それは「どちらか速い・成績を残したほうのドライバーを事実上のナンバー1ドライバーにする」という発表で、これが実にタイムリーに発表されたのは、マスコミの「ビルヌーブとシェクターのどちらがナンバー1か?」という噂に反応するためだった。

つまり、今後のレースの成績によっては、シーズン途中でありながらもビルヌーブがナンバー1ドライバーにのし上がる可能性も充分にある、という意味も込められていた。

この発表がされたからには、シェクターはナンバー1ドライバーの意地から、そしてビルヌーブは「純粋に誰よりも速く走りたい・もちろんシェクターよりも速く走りたい」という闘争本能から、二人の間の緊張感は高まった。

もちろん良きチームメイトとして仲良くやってはいくが、レースではチームオーダーとは関係無しに火花を散らすということになる。

そんな緊張感の中、スペインGPは始まった。

予選では二台の312T4はまるでレースのトップ争いをしているかのように、お互いに激しいタイムアタックを続け、これはこれで観客を熱狂させた。

なにしろこざかしいチームオーダー無しに、同じマシンでどちらが速いタイムを出すか、観客はそれのみに集中できるからだ。

この予選でシェクターはプレッシャーのあまり自らミスをした。

激しいスピンをして、シャシーやサスペンションまで痛めてしまう始末だっだ。

シェクターはマシンにダメージを与えてしまった焦りが怒りに変わって、予選が終わってからはあちこちの物や人間に八つ当たりしてしまう。

この時点で当然ビルヌーブのほうが上のグリッドを獲得し、誰もが「ビルヌーブのほうが速いからナンバー1ドライバーだ」と思った。

しかし、決勝レースの前半ではその評価が一時的に、あくまでも一時的にではあるが崩れてしまうのだ。

決勝レースでビルヌーブは例のごとく「誰よりも前を走りたい」という衝動から前を行くロイテマンを無理にかわそうとし、コーナーでこれまたかなり無理なブレーキング勝負に出たのだが、やはりビルヌーブはマシンの挙動を崩してスピンしてしまう。

クラッシュ騒ぎにこそならなかったものの、かなりの数の後続車に抜かれてしまい、だいぶ順位が落ちてしまった。

このために更に焦ってしまったビルヌーブは、スピン中に追い越されたネルソン・ピケを強引に抜こうとして、やはりスピンしてコースアウトまでしてしまう。

前回のレースまではハットトリックを決めていたビルヌーブも、冷静さを欠いて二度も連続でスピンをしてしまっては、もはや勝ち目は無い。

それでもコースに復帰する時に派手なスピンターンを決めて・・

見方によっては怒りのスピンターンに見えたかもしれないが・・

13位にまで後退してしまったにも関らず、少しでも速いラップタイムを出すことに専念することにした。

この二度のスピンでビルヌーブはある程度開き直ったせいもあって、「どうせ今回は優勝なんてできないんだから、レースの順位がどうなろうとも、たとえクラッシュしようとも、マシンが壊れるまで限界まで飛ばしてやろう」と心に決めたのだった。

ビルヌーブは後にピットインをしてニュータイヤに履き替えて気を取り直して、今度はファーステスト・ラップをたたき出すことに集中した。

ただでさえ速いビルヌーブがレース順位を捨ててまで、完全に開き直ってファーステスト・ラップをたたき出すためだけに爆走する様は、それはそれは恐ろしいものだった。

毎周毎周、完全に予選での限界ギリギリのタイムアタックをしているに等しかったからだ。

予選での本気のタイムアタックの状態がレースを終えるまでずっと続いていたのだ。

こういう、毎周毎周のタイムアタック的な走り方は現在こそ主流になってきているが、当時のF1のマシンの安全性とエンジンやタイヤの耐久性では考えられないほど、あまりにも危険すぎる試みだったのだ。

一つ間違えば即エンジンブロー。

あるいは大クラッシュで最悪の事態。

要するに事故死も充分にあり得たのだ。

だがビルヌーブは全く恐れることなく、毎周毎周ギリギリのタイムアタックを続けた。

一旦ビルヌーブのことを「二度もスピンしやがって、こりゃダメだ」と思った観客の誰もが、今度はそのあまりにもスリリングすぎるタイムアタックにゾッとするような緊張感、いや、殺気ともいうべきものをビルヌーブの走りから感じ取っていた。

いつかは派手にエンジンブローを起こすか、あるいは大クラッシュをするかという殺気を観客は感じ取っていたのだ。

それまでビルヌーブのスピンを見てせせら笑いしていた観客は、ビルヌーブの殺気立った走りを見て恐れをなし、「うわ…うわぁ…」という唸りしか上げられず、もう誰も微笑することすらできなかった。

自然に観客も、純粋にビルヌーブのラップタイムが短縮される光景を追っていた。

そういう意味では、ビルヌーブと観客の意識は一つになっていたのだ。

観客にとっては今レースで誰がトップを走っているかなどということは、どうでもよかったのだろう。

完全に観客の注目の的はビルヌーブのスリリングな走りだったのだ。

しかし、案の定というか、あまりにも飛ばしすぎたために、ビルヌーブの312T4はだんだんとギアボックスが不調になっていった。

ついには2速ギアに入らなくなり、ビルヌーブは残りのギアのみで走らざるをえなかった。

そのため最後のほうではラップタイムが落ちてしまい、最終的な順位は7位に留まってしまったものの、なんとか完走することができた。

しかし、そんな結果などよりもギアボックストラブル前までのスリリングなタイムアタックは、観客にとっての最高のパフォーマンスとなり、レース順位とは関係なく、観客からビルヌーブに惜しみない沢山の拍手が送られた。

このレースで、ビルヌーブのスリリングな走りに感情移入する観客が増え、いきおいファンも急速に増えていった。

なにしろ、レース後半のビルヌーブの走りは、本当の意味で「命をかけたタイムアタック」と言っても過言ではなかったからだ。

レース前半ではビルヌーブはスピンによる笑いの的、反してレース後半ではタイムアタックによる感情移入の的、こういうレース展開もビルヌーブには珍しいことだった。

しかしレース後半の「命をかけたタイムアタック」が観客やジャーナリストやマスコミには充分すぎるほど印象に残り、「純粋に、最も速く走れるドライバー」として、世間から極めて高い評価を得た。

当然、今回のレース順位などというものは評価の対象外となり、「シェクターよりもビルヌーブのほうが遥かに速い」という評価が、今まで以上に強く世間に植え付けられた。

こうして、レース中のスピンで一時的に評価が落ちたものの、レースが終わってみれば「やはりナンバー1ドライバーはビルヌーブだ」ということになり、レース前からのビルヌーブへの評価が即刻復活したのは言うまでも無い。

つづく・・
2009年07月27日 イイね!

③Joseph Gilles Henri Villeneuve 公道の天才・母国で優勝

③Joseph Gilles Henri Villeneuve 公道の天才・母国で優勝公道サーキットでの天才ぶり(1978 モナコGP)

ビルヌーブが公道サーキットで天才的な走りを見せるのは、モナコの公道サーキットでも同じだった。

モナコの公道を封鎖して作られたこのコースが世界一難しいサーキットと呼ばれているのは有名だ。

全てのコーナーの性質が異なり、それでいて勾配がキツく、コース幅も極端に狭い。エスケープゾーンなど全くなく、ほんのわずかでも操作を間違えれば即クラッシュ。

僅かなミスも許されないという、ベテランドライバーでさえも敬遠するような難しいサーキットだ。

このモナコGPの予選走行でビルヌーブは、観客やコースマーシャルを震え上がらせる走りをこれでもかというくらいに見せ付けた。

勾配のキツいコーナーに突っ込んだ時、フルスロットルのフルカウンターステアリングでドリフトしながら、312T-3のリヤタイアがガードレール数センチのところまで接近!
 その状態からマシンを立て直して次のコーナーに向かってまた真横になってドリフト体制で入っていく。このガードレール数センチにまで312T-3のタイヤが迫ってきた時には、激走するF1マシンを至近距離で見ることにかなり慣れているカメラマンやコースマーシャルでさえ恐れをなして逃げ出すほどだった。

それほどまでにビルヌーブのドリフトコーナリングはクレイジーで過激だった。

こんなワザは誰にも真似はできない。

この狭いモナコのコース全てをドリフトしながら、コーナー出口ではガードレール数センチのところでコントロールをする並外れたテクニック、限界ギリギリのゾッとする走りに観客は感動をおぼえた。

観客はこの時点ではまだ知らなかった。

こんなとんでもなくアグレッシブな走りをする彼がマシンを降りたら、とても口数が少なく恥ずかしがりやで体もかなり小柄で細身で目立たないということに。

走り終えてマシンを降りた彼を間近で見た観客は驚きながらも、彼にサインを求めた。

他のドライバーの中にはサインを拒否するような近寄りがたい雰囲気があったが、ビルヌーブはそんなお高くとまっている雰囲気などカケラもなく、気軽にサインをして回った。

モナコでの予選結果は8位だった。

F1参戦1年目で初めて走ったモナコのコースとしては悪くはない。

しかし決勝前の決勝レース用にセッティングしてガソリンを満タンに積んだウォームアップ走行では、ビルヌーブのタイムが最速だったのである。

決勝では、ビルヌーブは5位にまで順位を上げていた。

しかし終盤近くに予想していなかった出来事が起きた。

逆バンクになっているトンネルコーナーの中で、時速300kmくらい出ている状態で、彼の312T-3のサスペンションが突然壊れたのだ。

トンネル内でコントロールを失った312T-3は左右のガードレールに何度も激しくぶつかりながら滑っていき、トンネルを抜け出た辺りでやっと止まった。

312T-3は原形をとどめないほど破損していたが、ビルヌーブは無傷だった。

メカニカルトラブルとはいえこれだけの大事故を起こしたビルヌーブに、浅はかなドライバーだとマスコミは非難した。

そしてエンツオ・フェラーリが今度こそビルヌーブを解雇するのではないかという噂まで飛び交った。

しかしエンツオ・フェラーリは言った。

「諸君はずいぶん無責任で勝手な輩だな。少しでもビルヌーブが何かを起こすとすぐに浅はかだと非難する。特に今回はメカニカルトラブル故の事故だろう。ビルヌーブではなく、そんなことで非難をする諸君のほうが浅はかなのだよ。解雇など、とんでもない話だ。ビルヌーブには今後もずっとウチのチームで活躍してもらう」。

無責任なマスコミが居る一方、他のドライバー達はビルヌーブのことを受け入れてきているようだった。

彼が本当に速いドライバーだということ、そして裏表の無い人間であること、レースのかけひきがどこまでも純粋でフェアだからというものだった。

激しいトップ争いを展開(1978 ベルギーGP)

ベルギーGPはゾルダーサーキットで行われた。

モナコのコートダジュールのような華やかさはなく、工業地帯の一角に作られた、やや無機質な印象のサーキットだ。ビルヌーブは予選でニキ・ラウダに次ぐ4位のグリッドを得た。

決勝のスタートでは、2位からスタートしたチームメイトのロイテマンがシフトミス。

これにより後続車が混乱しクラッシュも起きた。

ビルヌーブは冷静にかわし瞬時に順位を上げ、そのままの勢いでトップのマリオ・アンドレッティを猛追した。

ビルヌーブとアンドレッティは激しいトップ争いを演じた。

アンドレッティのマシンはロータス79という、ダウンフォースをかせぐために開発された最新鋭のウイングカーだった。

1978年であるがロータスのマシンは79というネーミングだった。

そのロータス79のアンドレッティにビルヌーブは過激な走りで襲い掛かっていった。

激しいトップ争いはしばらく続いた。

観客は極度に緊張して息を呑んだ。

ビルヌーブがトップ争いをしていると、そのバトルは必ず他の誰よりもスリリングなものになる。

それほどまでにビルヌーブは限界ギリギリの走りをするからだ。

観客の視線はアンドレッティではなく、ビルヌーブがどういうスリリングな走り方でトップを奪い取るかに注目していた。

しかし、ビルヌーブにトップの座はこなかった。

コーナーで彼の312T-3のタイヤが突然バーストしたのだ。

前回は突然のサスペンショントラブルだったが今度はタイヤだった。

彼はスピンしたマシンを何とか立て直してピットへ向かった。

順位がかなり落ちてしまったが、その後の追い上げで4位でチェッカーフラッグを受け、チャンピォンシップポイントも4ポイントを獲得することができた。

初めてのポイント獲得である。

タイヤのバーストがなければ表彰台にラクに登っていただろう。

それどころか初優勝さえしていたかもしれないレースだった。

このベルギーGPでのアンドレッティとの激しいトップ争いは、純粋なドッグファイトとして語り種になっていった。

チームメイトの大事故(1978 スペインGP)

スペインGPでは、ビルヌーブは予選から決勝までマシントラブルに悩まされた。

サスペンション・タイヤ・駆動系・エキゾーストマニホールドなど様々なトラブルが起きて、予選結果も決勝レース結果も満足のいくものは出せなかった。

ビルヌーブよりも更にマシントラブルの影響を受けたのは、チームメイトのカルロス・ロイテマンだった。

決勝レースでロイテマンは走行中にドライブシャフトが外れてそれが引き金になり、コースアウトしてキャッチフェンスに突っ込みながら宙を舞い、地面に叩き付けられて止まった。

大事故だったが、ロイテマンは軽い打撲で済んだのが救いだった。


ブラバムの「ファン・カー」登場(1978 スウェーデンGP)

スウェーデンでもフェラーリの2台は不調が続いていたが、ここで話題を集めた出来事があった。

ブラバムから「ファン・カー」なるマシンが登場したのだ。

これはマシンの最後部に巨大なファンを取り付けて回転させ、その状態で走ることにより、シャシー底面の空気を強制的に後ろへと吸い出し、結果的にダウンフォースを強くするという奇想天外な発想のマシンだった。

このマシンに乗ったニキ・ラウダがここスウェーデンで優勝した。

フェラーリの2台は全くサエなかった。

ブラバムのファン・カーは後続車にゴミや砂を撒き散らす厄介物で、設計的にも不当なものとして、その後禁止される運命となったマシンだったが、ウイングカー時代の本格的な幕開けを象徴するような出来事だった。

タイヤに振り回されるフェラーリ(1978 フランスGP)

フランスでもフェラーリの不調は治らず、タイヤに大きな問題を抱えていた。

当時のフェラーリのタイヤはミシュランだったのだが、このミシュランのコンパウンドが曲者で、耐久性に欠けていた。

性能の劣るタイヤのためにロイテマンとビルヌーブは苦戦し、決勝レースでもタイヤ交換のための無駄なピットインを何回も余儀なくされ、決勝レース順位は散々だった。

ミシュランの課題は、当時のライバルだったグッドイヤー勢にどうやって打ち勝つかだった。

フェラーリはチームとしてなす術がなく、ただ今後のミシュランタイヤの性能アップに期待するしかなかった。

ミシュランのニュータイヤ(1978 イギリスGP)

今まで問題を抱えていたミシュランタイヤが新しいコンパウンドを開発し、イギリスGPに間に合わせた。

これでフェラーリチームは一安心といったところだった。

サーキットはブランズハッチというサーキット。

F1のみならず他のカテゴリーのレースも盛んに行われているサーキットだ。

ここでロイテマンはニュータイヤを履いて優勝。

ミシュラン勢の復活を見事に果たした。

一方ビルヌーブは、まだ新しいコンパウンドで不安ということもありニュータイヤを選ばず今までのコンパウンドのタイヤを選んだのだが、これがモロに裏目に出た。

ビルヌーブが思ったよりもはるかにミシュランのニュータイヤの性能はアップしていたのだ。

ビルヌーブにとっては、新しいことはどんどん試してみることも重要なのだと勉強になった一件だった。


来シーズンへの不安(1978 ドイツGP)

ドイツGPの成績は、ミシュランタイヤがまた調子を崩し、予選・決勝ともに平凡な結果に終わった。

ビルヌーブのみが完走し、ロイテマンはリタイア。

タイヤ不調だけでなく、2台とも燃料のベーパーロック(燃料がエンジンの高熱のために蒸発し、エンジンパワーが出なくなること)に苦しんだ決勝レースだった。

このドイツGPで、ビルヌーブにとって不安材料となる記者会見があった。

それは、ウルフチームに在籍していたジョディ・シェクターが1979年シーズンにフェラーリに移籍する、というものだ。

シェクターの移籍については正式に発表されたのだが、ロイテマンとビルヌーブのどちらがフェラーリチームを抜けるのかについては発表されていなかった。

ロイテマンはある程度の結果を残しているし、ビルヌーブは結果は残していないがロングビーチやベルギーで大活躍をして天才的な速さを見せている。

あとはエンツオ・フェラーリの判断一つで、それがビルヌーブには不安だった。

初めての表彰台(1978 オーストリアGP)

オーストリアGPの決勝は雨だった。

雨のF1走行は別に珍しくもなんともないが、ここでビルヌーブには自分の速さをアピールするための条件が揃っていた。

雨の走行というのはドライバーのウデがそのまま出ると言っても過言ではなく、雨のレースで速いドライバーは本物だという定説があった。
(その定説は現在のF1界でも続いている)

決勝はスタートしてから間もなく突然のどしゃ降りになり、数台のマシンが急変したコンディションに対応できずコースアウトやクラッシュをした。

そのためにレッド・フラッグが振られ、決勝は再スタートとなった。

再スタート後、ロイテマンは一度コースアウトしてエンジンストールさせてしまったのだが、コースマーシャルに押し掛けをさせたことがペナルティとなり、失格となってしまった。

予選でかなり後方のグリッドしか確保できなかったビルヌーブは、雨の中をトップに向かって猛追した。

時折不安定な挙動も見せたが、レース終盤には、なんとトップグループにまで追い上げていた。

雨の中を激走してどんどん追い抜いていき、最終的にトップグループにまで追いつき、チェッカーを受けた時は3位だった。

初めての表彰台である。

雨のレースでもビルヌーブは速いことを証明したレースだった。

同時に、彼への評価が更に向上したのだった。


フェラーリチーム全員の意見の一致(1978 オランダGP)

オランダGPでもビルヌーブは不安定なミシュランタイヤにもめげずに走り、6位入賞。

ポイントを獲得した。ロイテマンは惜しくもポイントを取れなかった。

ビルヌーブはどんなにマシンが不利な状況でも絶対に諦めない人間だった。

オランダGPは、ビルヌーブが抱えていた「来シーズンはフェラーリチームに残れるのだろうか?」という不安を一掃してくれるGPとなった。

ジョディ・シェクターが来シーズンにフェラーリに来ることが決まり、そのためにはロイテマンかビルヌーブのどちらかがチームを出て行き、どちらか一人だけがチームに残ることになる。

それについてエンツオ・フェラーリは、「ロイテマンかビルヌーブのどちらに残ってほしいか?」という質問をチームの全員にしてみた。

そうしたら驚いたことに、チームスタッフの全員が「ぜひビルヌーブに残ってほしい」という意見だった。

この全員の意見の一致にはビルヌーブ本人も驚いたらしい。

これでビルヌーブがフェラーリチームに残ることが決定し、契約も1980年まで更新。記者会見でも正式に発表された。

ロニー・ピーターソンの悲劇(1978 イタリアGP)

熱狂的なフェラーリのファンが溢れるイタリアGPは、一種独特の雰囲気だ。

これほどF1というモータースポーツに熱狂している国は珍しいだろう。だがその熱狂ぶりは、1978年に限っては、悲しい叫びにしか聞こえないレースだった。

予選でビルヌーブはマリオ・アンドレッティに次ぐ2位のグリッドを得た。

チームメイトのロイテマンはトップ10にも入れなかった。

フェラーリチームを抜けることが決まってから間も無かったので、意気消沈していたのかもしれない。

決勝のスタートでビルヌーブは見事なスタートを決めて、第1コーナーでトップに躍り出て、観客は大歓声を上げた。

しかしその直後、中段グループで多重クラッシュが起きて、ロニー・ピーターソンのロータス78(このレースではピーターソンは79ではなく78に乗っていた)が炎上した。

そのために即座にレッド・フラッグが出てレースは中断された。

ピーターソンは炎上したロータス78の中に取り残されていた。

ジェイムス・ハントを始めとするクラッシュしたドライバー達が慌ててピーターソンの救出作業にあたり、無事にピーターソンはマシンから救出された。

ピーターソンは両足を骨折して痛みに顔をゆがめていたが、意識はしっかりしていたので、他のドライバー達は「とりあえずよかった。命に別状は無いようだから」と、ひとまず安心したようだった。

ピーターソンのことがとりあえず大丈夫だと解ったら、今度は、飛んできたタイヤが頭に当たって意識不明になっているビットリオ・ブランビラのことを心配する人間も多かった。

なんとか意識が戻ってほしいと誰もが願っていた。

再スタートではビルヌーブとアンドレッティは勢いがよすぎて、2人ともフライングスタートをしてしまっていた。

競技委員から2人にそれぞれ60秒加算のペナルティが出された。

それでもビルヌーブとアンドレッティはできる限りの走りをして激しいドッグファイトを展開、観客を興奮させた。

60秒加算のために正式な結果は2人とも下がってしまったが、激しい2人の戦いに観客は惜しみない拍手を送った。

毎年恒例の熱狂的なイタリアGPの雰囲気だった。

しかし、その熱狂は翌日のニュースで一瞬にして悲しみの沈黙に変わってしまった。

ロニー・ピーターソンが死亡したというショッキングなニュースが報道されたからだ。

ドライバーや報道陣の誰もが信じられなかった。

「最初のスタート時のクラッシュでは両足を骨折したものの、意識はしっかりあった。それなのに、なぜ!?」という声が各所から出た。

医者のミスだったのだ。

絶対にあってはならないことが起きてしまったのだ。

医者が正しい治療をしていればピーターソンは確実に回復するはずだった。

それを知らされた人々は、やりきれない気持ちで悲しみにくれた。

もちろん、ミスをした医者はそれ相応の処罰を受けたことは言うまでもない。

一方、意識不明だったブランビラはその後意識が戻った。
(やがてブランビラは完治した)

ピーターソンの葬儀にはものすごい数の人々が訪れ、この天才ドライバーの死を悔やんだ。

ピーターソンの走りは人気があり、天才的なひらめきを感じさせるものだった。

ビルヌーブもピーターソンを見て憧れて育った人間だった。

こうして、1978年のイタリアGPは悲しみの中で幕を閉じたのだった。


つかの間の1-2ランデブー(1978 東アメリカGP)

東アメリカGPは、ワトキンズグレンサーキットで行われた。

予選ではロイテマンもビルヌーブも上位につけ、決勝ではロイテマンがトップを独走。

それにビルヌーブが続くという、フェラーリの1-2体制で走行していた。

実に理想的な体制だった。

しかし、ビルヌーブの312T-3のエンジンが突然ブロウアップしてビルヌーブはリタイア。

フェラーリの1-2ランデブーはつかの間のものに終わった。

ビルヌーブは「仕方が無いよ、これがレースだから」と語ったが、フェラーリのエンジンは信頼性に問題が残っていた。


壊れないでくれと祈りながら走る(1978 カナダGP)

1978年シーズンの最終戦は、カナダGPだ。ノートルダムサーキットという、自然の豊かなサーキット。

ここはビルヌーブの母国で、観客は既にビルヌーブの今までの活躍を知っているため、ことさらに応援に熱心だった。

予選でビルヌーブはまたもやクレイジーなドリフト走行を披露した。

これは地元ファンへのサービスなどではなく、彼特有の走り方なのだ。

そのドリフト走行は今までよりも過激さが更に増していた。

コーナーのかなり手前からマシンを真横に向け(ラリーでいうところの直ドリ)その勢いでコーナーに進入し、クリッピング・ポイントからアウト側の縁石ギリギリまで、時には縁石の外側の芝生地帯に至るまでリアのタイヤを振り、コースの幅以上に大胆なラインを描くドリフト走行だ。

コーナーのはるか手前から出口までマシンを流しっぱなしだ。

ポールポジションは、ロニー・ピーターソンの代役としてロータスにスポット加入したジャン・ピエール・ジャリエが取った。

ジャリエはマシンのシートサイズが合わずに走行して背中を痛めてしまい、痛み止めの注射を背中にしていた。

2位はジョディ・シェクター、そして3位をビルヌーブが取った。

決勝では、ジャリエは無難なスタートを決めてトップを保ったのだが、2位のシェクターがスタートでミスってマシンをスライドさせてしまい、直後のビルヌーブはこれをかわそうとして若干のタイムロスをしてしまった。

このため、ジャリエはしばらくの間トップを余裕で走ることができた。

トップを独走するジャン・ピエール・ジャリエ。その後ろにはアラン・ジョーンズ、ジョディ・シェクター、そしてビルヌーブが居た。

周回を重ねていく内に、ジョーンズのマシンはタイヤのエア漏れが出始め、グリップを失ってジリジリと後退していった。

また、シェクターは燃料のベーパーロックでエンジンのパワーが出ない状態になっていった。

そんな中、ビルヌーブのマシンは何事も起きず、ジョーンズやシェクターを抜いて2位に上がることができた。

それでもトップのジャリエには相当差を付けられている。

ここからビルヌーブの猛烈な追撃が始まった。

ロータス79は、速い。ビルヌーブのテクニックと312T-3をもってしても、ジャリエのロータス79に追いつくことは至難の技だった。

それでも決して諦めずにビルヌーブは懸命に飛ばした。

やがてジャリエのロータス79に異変が出始めた。オイルプレッシャーが落ちてきていたのだ。

エンジンから伸びているオイルのデバイスから少しずつオイルが漏れていて、更にそのオイルがブレーキディスクにまで付着してブレーキの状態までもがどんどん悪化していった。

「極めて危険」と判断したジャリエはピットに向かい、そのままリタイアとなった。

その時点でビルヌーブがトップになり、観客は熱狂的になった。

しかしビルヌーブのマシンも完璧な状態ではなかったのだ。

マシンのありとあらゆる部分から怪しげな音が出ていて、いつどこが壊れてもおかしくない状態だったのだ。

ビルヌーブは全神経を注いでマシンをいたわって走った。

「頼むから壊れないでくれ! ゴールまで何とかもってくれ!」と祈りながら、アクセルワーク、ブレーキング、シフトチェンジ、クラッチミート、ステアリングの切り込み、どれも慎重に丁寧に操作していた。

ビルヌーブが祈りながら慎重にマシンをいたわって走ったのが幸いしたのか、ゴールラインまで彼の312T-3は壊れなかった。

ゴールする時、彼は両手を高々と上げて「バンザイ!」のポーズをしてチェッカーを受けた。

待ち望んでいたF1での初優勝! 

しかも母国での優勝である! 

ウイニングランをするビルヌーブに観客は大声援を送った。

パドックに戻ってきた312T-3をたくさんの報道陣が囲んだ。

あの偉大なF1ドライバーであるジャッキー・スチュワートが彼にヒーローインタビューをした。

ビルヌーブの友人はしきりに「信じられない! 凄い!」という言葉を連発していた。

たくさんの賞賛の言葉を受けて、ビルヌーブは完全にトップドライバーの仲間入りを果たしたことに感動したのだった。

その顔は感激の涙で濡れていた。

表彰台の真ん中に立ったビルヌーブ。その左右にはジョディ・シェクター、カルロス・ロイテマンが居た。

フェラーリチームを去るロイテマンは、「ビルヌーブは今後チャンピォンになれるグレイトなドライバーだ」と賞賛の言葉を与えた。

この優勝を知ったエンツオ・フェラーリは、ビルヌーブを採用したことを心底よかったと思い、これからも更にビルヌーブが成長することを確信した。

「昨年彼に初めて会った時の直感は正しかったのだ」とエンツオ・フェラーリは思った。

シーズン最終戦をこの上ない結果で終えることができたビルヌーブは、もう既に来シーズンのことを考えていた。

新しいチームメイトとなるジョディ・シェクターとの相性はどうか、新しいマシンはシーズン初頭に間に合うのだろうか、その他いろいろなことを考えて、1979年シーズンに向けて万全の体制を整えるべく準備をしていたのだった。


つづく・・
2009年07月27日 イイね!

②Joseph Gilles Henri Villeneuve F1デビュー・悪夢の日本グランプリ

②Joseph Gilles Henri Villeneuve F1デビュー・悪夢の日本グランプリ母国でのF1初レース(1977 カナダGP)

ビルヌーブがフェラーリで初めて走ったF1GPは、1977年のカナダ、彼の母国だ!!

このレースでは、ニキ・ラウダ、カルロス・ロイテマン、そしてジル・ビルヌーブの3人で出走するということが決まっていた。

しかし、ニキ・ラウダはビルヌーブがナンバー3ドライバーで走る・・・

つまりフェラーリが3台走ることについて不満を持っていた。

ラウダは既に来シーズンにブラバムチームに入ることが正式に発表されていたのだが、そのラウダの穴埋めとしてビルヌーブが入ること自体はラウダは文句を言わなかったのだが・・

ナンバー3ドライバーの管理までピットクルーがまかなえるはずがないとつまり自分のマシーンは手を抜かれるとラウダは思ったらしい。

それに対してフェラーリチームは、「ラウダは既に今年のチャンピォンが決定しているから、目的がなくてただイラついているんだろう」というような返事をしたのだが・・

この返事がラウダを激怒させた。

その返事の直後、ラウダはチームに何も言わずに自宅に帰ってしまって、その瞬間、フェラーリチームと決別・フェラーリチームを離脱してしまったのだ。

このように、レース前にいろいろとゴタゴタがあって、結局カナダGPを走るのはカルロス・ロイテマンとジル・ビルヌーブの2人だけとなった。

予選では、ロイテマンはコースのグリップの低さのために順位を上げられず、またビルヌーブは、彼の312T-2が今まで乗っていたラウダ用にアンダーステア気味にセッティングされていた為、彼本来の走り(オーバーステアにセッティングしてテールを大きく振ってフルカウンターステアリングを使ったドリフト走行)ができず、やはり順位を上げられなかった。

それにビルヌーブは無理にそのアンダーステアなセッティングのマシンで自分の走りをしようとしてコースアウトし、マシンをぶつけて壊してしまう。

決勝までにメカニック達は必死でビルヌーブの壊れたマシンを修理しなければならなかった。

しかしフェラーリの2台は、予選結果は全くサエなかった。

決勝では、かなりの混戦でいろんなマシンが接触・コースアウト・スピンなどをしながらコースを荒らしていたが、ビルヌーブはそれに巻き込まれることはなく、冷静にかわしながら走っていた。

順位こそサエなかったが、なんとか走行を続けていた。

その内にチームメイトのロイテマンのマシンは不調が出始めジリジリと後退していった。

やがてビルヌーブにも不運が訪れた。

マリオ・アンドレッティのロータス78(1977年のロータスのマシンは78という名前が付けられていた)のエンジンが火を噴いてオイルをコース上に撒き散らし、そのオイルに乗ってスピンするマシンが続出し、中にはコースアウトしてクラッシュするマシンもあった。

ビルヌーブもアンドレッティのオイルを踏んでスピンした一人だったが、コースアウトはせずに、彼の得意なスピン中のヒール・アンド・トゥで勢いよく全開走行を再開しようと思ったその瞬間、彼の312T-2のドライブシャフトが折れてしまった為に、彼の母国でのGPはリタイアとなった。

ビルヌーブはその時のことを「オイルフラッグに気づくのが遅れてオイルに乗ってスピンした。スピンした後についクラッチを急激に繋いでしまったためにドライブシャフトに過大な負荷がかかって折れたんだ。だからリタイアしたのは僕のミスだ」と語った。

この態度に報道陣の誰もが驚いた。

当時のF1ドライバーたちの多くは、他人が原因(今回はアンドレッティ)でリタイアした場合にはひたすら他人のせいにして自分のミスを一切認めないドライバーが大半だったからで、そういうドライバーたちに報道陣は嫌気が差していたからだ。

だからビルヌーブの素直さに驚いたのだった。

しかしビルヌーブは、次に行われるレースで、取り返しのつかないとんでもない失敗をして、世界中の新聞のトップ記事にされるほど、悪名を売ってしまうのであった・・・

それは今でも語り種となっている、1977年の「魔の日本GP」・・

第1コーナーでの大惨事(1977 日本GP)

F1日本GPは、富士サーキット(富士インターナショナル・スピードウェイ)で開催。

日本からはコジマ009と言うマシーンで日本人ドライバーが走ったF1ですよね。

既にニキ・ラウダはフェラーリから抜けてしまったのは先にも書いたとおりだが、そのラウダの乗っていたカーナンバー11のマシンにビルヌーブは乗っていた。

日本でもこのニキ・ラウダが来ないF1に残念の声が上がった。

それも聞いた事も無い新人だからなおさら・・

チャンピオンのラウダのマシン、そのマシンは皮肉にもビルヌーブにとってはこの上なく扱いにくいシロモノだった。

ビルヌーブ

「312T-2は僕にはとてつもなく扱いづらいマシンだ。同じマシンでカルロス(ロイテマン)が速く走るのが信じられない。一体この312T-2で、僕の走り方で、どうやったら速く走れるんだろう…。悩んでしまうよ」

そんな不安を抱えたまま、日本GPの予選は始まった。

富士サーキットの危険性についてカルロス・ロイテマンは語ったことがある。

第1コーナーや最終コーナー(まだシケインが設けられていなかった頃である)の危険性は見逃せないし、気が抜けないとのことだった。

フェラーリの2台はここでもいいところがなく、不安定な挙動のマシンに悩まされ、ロイテマンは辛うじて予選結果はトップ10以内、ビルヌーブはもっと後ろのグリッドしか確保できなかった。

決勝レースでは、スタート後間もなくマリオ・アンドレッティがクラッシュした。

その時のロータスのタイヤがコースに残されてしまい、これをかわそうとしたハンス・ビンダーが高原敬武のコジマ009と衝突してクラッシュ。

ビンダーも高原もリタイアとなった。

しかしこのクラッシュは、この数周後に起こる大惨事の、序曲にしか過ぎなかった。

ビルヌーブは予選でかなり後ろのグリッドしか確保できなかった為、必死に追い上げようとしていた。

コーナーに進入するたびにタイヤからブレーキング・ロックによる白煙が上がった。

アンダーステアが激しい312T-2をドリフト走行で無理矢理ねじ伏せるようにして真横になってコーナーを抜けていた。

それでも上位には追いつけない。

不安定な312T-2では、これが限界ギリギリのドライビングだった。

そして6周目、大惨事は起こった。

ピット前のストレートを、ロニー・ピーターソンのティレルの真後ろにピッタリとはり付いて走っていたビルヌーブは、第1コーナーのブレーキングでピーターソンをインから抜きにかかった。

ビルヌーブは富士サーキットの第1コーナーの危険な路面状態を忘れていたのだろうか?

コントロール可能と考えたのだろうか?

当時の富士サーキットの第1コーナーはとても路面が荒れていて、ブレーキング勝負に出るには極めて危険なコーナーだったのだ。

そしてその直後、不安定なブレーキング状態のため、ビルヌーブのフェラーリの左前輪とピーターソンのティレルの右後輪が接触、ティレルはフェラーリに乗り上げられたためリアウイングがもげてスピンしたのみに収まったが、ビルヌーブのフェラーリは時速250km以上の速度で空に舞い上がった。

そしてノーズから地面に叩き付けられたフェラーリ312T-2は狂ったようにトンボ返りをうちながら、激しく横転を続けた。

コース外のダートに飛び出してもフェラーリはその横転をやめず、ダートの向こう側にあったキャッチフェンスに飛び込んでもまだ横転を続けた。

そして、そのキャッチフェンスの向こうは立ち入り禁止区間だったにも関わらず、かなりの観客が居た。

その観客が居る場所に横転を続けるフェラーリ312T-2が突っ込んだ!

この事故で、立ち入り禁止区間に入っていたカメラマンが即死。

そして、この事故が起こる少し前から「ここは危険だから立ち去るように」と誘導していたコースマーシャルが即死。

2人の命が奪われた。

他にも多くの人間が、横転するフェラーリ312T-2の下で重傷を負った。

やっと横転をやめて止まった312T-2は、見るも無残な姿になっていた。

タイヤやサスペンションやボディワークなどは全てちぎれ飛んで無くなって、エンジンやミッションまでズタズタに破損していた。

辛うじてマトモに残ったのはアルミがむき出しになったモノコックフレームの一部だけだった。

しかし、マシンに乗っていたビルヌーブは無傷だった。

すぐにビルヌーブはマシンから降りてピットへと歩いた。

この時点では彼は観客が死んだとは知らずに、ただ自分自身に腹を立てていた。

自分のブレーキングミスに腹を立てて、むすっとした表情でピットに帰ってきた。

やってきた報道陣に囲まれても、これだけすさまじい大事故の直後だというのに、ビルヌーブは眉ひとつ動かさず、全く冷静だった。

普通のF1ドライバーならば、大抵はこれだけの事故の直後はひどく興奮して動揺してしまうものだが、ビルヌーブは平然としてピットクルーに伝えた。

「第1コーナーでミスって事故を起こした。僕は見てのとおり無傷さ」

そして彼はぶつけてしまった相手のロニー・ピーターソンのピットへ行き、自分のミスであることを伝え、ピーターソンに謝罪をした。

やがてレース自体は終わったが、もちろんそれだけでは事は収まらなかった。

ビルヌーブのマシンの下で死んだ人や重傷を負った人が居るという事実が・・・

これについて日本の関係者はビルヌーブに激しく質問の嵐を投げかけた。

調査も進んだが、結論は、ビルヌーブもピーターソンも悪質なことはしておらず、F1レーシングの規定に沿って走った結果の偶発的な事故だという結論になり、事故の原因のビルヌーブは書類送検をされただけにとどまった。

ピーターソンにも責任が無いとはいえなかった。

ピーターソンはビルヌーブのラインを塞ぐような形でコーナーに進入していたのだ。

しかしこれは6輪車(当時のティレルは6輪車だった)を操るための独特のテクニックだったために、ピーターソンのことも責めようが無かった。

いずれにしてもF1レーシングでの事故のひとつと捉えられ、結局2人とも責任は問われなかった。

1977年のF1シーズンはこの日本GPで終了したのだが、この日本GPの第1コーナーでのショッキングな事故シーンの写真は、後日、全世界の新聞のトップ記事を飾ってしまったのだった。

世界中からの非難の声

「フェラーリはとんでもない死神を拾った!」

「ビルヌーブは狂っている。F1マシンに乗せるべきじゃない。即刻F1の世界から叩き出せ!」

「エンツオ・フェラーリ、人生最大の過ち。それはビルヌーブを採用したことだ」

「帝王ニキ・ラウダが乗っていた栄光のカーナンバー11の312T-2を、ビルヌーブは殺人凶器に変えてしまった」

「なぜあれだけすさまじい大事故の直後も、あんなに平然としているのか。あいつの神経は普通じゃない」

「あいつは未熟なくせに、あまりにも急ぎすぎていたんだ。その結果があのザマだ」

「あまりにも危険な走り方をする、クレイジーな壊し屋・解体屋」

「偶発的な事故とはいえ、人を2人も殺しておいて平然としているなんて、その神経が疑われる」

「エンツオ・フェラーリが即刻ビルヌーブを解雇するのは確実だ!」

ビルヌーブは世界中のレース関係者たちから非難を浴びた。

確かに彼はまだF1の経験はほとんど無かったし、取り返しのつかない大事故を起こして彼の312T-2の下で2人の観客が死んだのも事実である。

ビルヌーブが死亡事故を起こしたことについて、彼がいかにも無感情で平然としているかのように世界中のマスコミは騒いだが、実はビルヌーブは、自分の感情を表情に出すことが非常に苦手だったのだ。

無感情だと言われるのはその性格のためだったのだ。

もちろん死亡事故については彼自身かなりショックを受けていて、相当精神的に落ち込んでいたようである。

その彼の精神的な落ち込み具合はエンツオ・フェラーリが一番よく知っていたとも言われている。

そして、今回の事故に関しての記者会見によるエンツオ・フェラーリ直々の言葉は、これはこれで世界中を驚かせた。

「ビルヌーブを解雇する気など毛頭無い。彼はまだF1での経験が浅いだけだ。いずれ必ずウチのチームにふさわしいドライバーに成長させる自信が我々にはある。諸君は今回の事故で人が亡くなったことについてかなり感情的に騒ぎ立てているが、過去にもF1でドライバーや観客の死亡事故はたくさんあっただろう。忘れたかね? これがF1レーシングの世界なのだ。諸君は今までのF1レーシングをずっと見てきているのだろう? 違うかね?」

F1界のゴッド・ファーザーによる重く深みのある言葉は、ジャーナリスト達を一括して黙らせた。

そして世界中のレース関係者も、ビルヌーブの才能に疑いを持ちながらではあるが、記者会見でのエンツオ・フェラーリの言葉により、ようやく気持ちを落ち着かせたようだった。

そのエンツオ・フェラーリの気持ちに答えるように、ビルヌーブはシーズンオフの最中、フェラーリのテストコースで他のどのF1ドライバーよりも長い走行距離をテストドライブし続けたのだった。

一日中コクピットに収まり、食事もロクにせず、設備さえあれば深夜でもテストドライブをしそうなほどの勢いだった。

それほど彼は練習に情熱をかけていた。

また、彼のチームメイトであるカルロス・ロイテマンは、例の事故については批判的だったが、ビルヌーブに接する時は意外にも友好的だった。

気難しい性格で有名なロイテマンだが、物事に全力で真剣に取り組むビルヌーブのことを気に入った様子だった。

こうして、だんだんとチームの中でビルヌーブは家族的な雰囲気で溶け込んでいくことになる。

フェラーリでの初の完走(1978 アルゼンチンGP)

1978年になり、ビルヌーブがフェラーリでフルシーズンを走る時がやってきた。

第1戦はブエノスアイレスで開催されたアルゼンチンGP。

ここはビルヌーブのチームメイトであるカルロス・ロイテマンの母国だ。

まだフェラーリの新シーズンのマシンはレースには登場していないので、昨年のマシン(312T-2)で2人はこのGPに挑まなければならなかった。

それでもロイテマンは予選で奮闘し、フロントローにマシンを置くことができた。

一方のビルヌーブは、例によってスピンしまくり、それでマシンとコースの兼ね合いを掴んでいくという荒業をやっていた。

相変わらずの方法だったが、昨年と比べると確実にスピンの回数が減ってきていた。

これはおそらく、シーズンオフにおける相当な量の走り込みにより、彼にF1マシンを操るカンが養われたのだろうと思われる。

それでも彼はオーバースピードでコーナーに進入してはスピンをした。

お得意のスピン最中のヒール・アンド・トゥのリズムも軽快に、タイヤから白煙をあげて立ち直り、何事も無かったかのように全開走行に移る。

そのテクニックに観客は声援を送った。

「いいぞビルヌーブ!」

「いいぞスピン野郎!」

という皮肉を込めた声援だったのが問題なのだが。

予選は結果を出さねば何の意味も無い。

そんなことは百も承知のビルヌーブは自分なりにアタックし、4列目のグリッドを確保した。

決して悪い順位ではない。

走行方法は、もう完全に彼の定番になったフルカウンターとフルスロットルのドリフト走行だった。

彼はこの走り方が自分でも気にいっているらしく、クレイジーな走り方が好きだったと思われる。

決勝レースでは、彼らしい派手なコースアウトもして順位を落としたが、それでも何とかチェッカーフラッグを受けることができた。

順位は平凡なものだったが、フェラーリでの初の完走だった。

レースは走りきらねば結果は出ないことはビルヌーブも頭では解っているのだろうが、どちらかというとレース中のアグレッシブな走り方を観客に見せたかったのかもしれない。

自分の独特な走り方をみんなにアピールした結果の完走なので、ビルヌーブはとても喜んだ。

テール・ツー・ノーズの基準(1978 ブラジルGP)

ブラジルGPの予選では、ビルヌーブはグリッド3列目についた。

決勝ではそこから追い上げをして、地元の英雄エマーソン・フィッティパルディのコパスカーを自力で抜いた。

エマーソン・フィッティパルディといえば、2度もワールドチャンピォンに輝いた男だ。

そのエマーソン・フィッティパルディを自力で抜いたビルヌーブは、明らかに天賦の才を持っていた。

ところが、上位陣に食い込んでいくにつれ、目の前にロニー・ピーターソンのロータスが現れた、この時点で彼らは4位争いをしていたのだが、ビルヌーブはまたしてもピーターソンのテールにぶつからんばかりのぎりぎりの距離まで接近してパスを試みた。

コーナーに入った時は接触して両車スピン。

ビルヌーブは再走行を続けたが、結局その後コースアウトしてクラッシュ。

リタイアしてしまった。

一方、彼のチームメイトのカルロス・ロイテマンは優勝した。

ビルヌーブはテール・ツー・ノーズの基準というものを極端に接近した状態とみていた。

端から見れば完全にぶつかっているのではないかという状態が彼にとってのテール・ツー・ノーズの基準だった。

そのためにピーターソンと接触したものとみられる。

昨年の日本GPの時と同じく、ピーターソンはビルヌーブのテール・ツーノーズの基準を恐れていた。

フェラーリ312T-3登場(1978 南アフリカGP)

南アフリカGPでやっと、1978年モデルであるフェラーリ312T-3がレースに姿を見せた。

今までの312T-2に比べるとシャープなデザインでダウンフォースもだいぶ得られそうな印象で、ビルヌーブの好みにも合ったハンドリングだった。

決勝ではロニー・ピーターソンがトップを走行。

それにマリオ・アンドレッティやパトリック・デパイエやリカルド・パトレーセが続いていた。

リカルド・パトレーセはビルヌーブとほぼ同じ時期にF1デビューした男だったが、このレースではトップ陣営の仲間入りをするほど奮闘していた。

その後ろでビルヌーブは走っていたが、追い上げをしている最中、突然312T-3のエンジンがブローアップしてオイルを派手にコース上に撒き散らしリタイアとなった。

運の悪いことにチームメイトのロイテマンはそのオイルに乗ってスピン・クラッシュしてしまい、その衝撃で燃料に引火し312T-3から炎が舞い上がった。

すぐにマシンを降りたロイテマンは無事だったが、312T-3のデビューレースは散々な結果に終わった。

初めてトップを走る(1978 ロングビーチGP)

アメリカの西にあるロングビーチでのレース。

これは正式には「西アメリカGP」というようだが、「ロングビーチGP」という愛称で親しまれていた。

ロングビーチの公道を閉鎖して作られたコースで幅は狭いし滑りやすいし、ほとんどのドライバーにとっては走りにくいサーキットだ。

しかしビルヌーブは公の場で「公道サーキットは大好きだ」と明言して、実際に彼は公道サーキットでのドライビングがとても得意だった。

予選でなんと彼はロイテマンに次ぐ2位。

ビルヌーブが公道サーキットを得意とすることを証明する出来事が、決勝レースで、これでもかというほど見受けられた。

スタート直後トップ陣営は激しく接近し合ったのだが、チームメイトのロイテマン、ロータスのマリオ・アンドレッティ、ブラバムのジョン・ワトソンとニキ・ラウダ、これらのドライバー達が第1コーナーに向かってブレーキング競争をしていたその時、第1コーナーのイン側のコンクリート壁ギリギリに、本当に壁にこすれそうなくらいギリギリの位置にビルヌーブはマシンを飛び込ませた。

これは感覚が飛びぬけて研ぎ澄まされているビルヌーブにしかできない四台ごぼう抜きだった。

これには観客や報道陣の誰もが驚いた。


「信じられないことだ! 新人のビルヌーブがトップ! ビルヌーブがトップを走っている!」

と興奮していたようだった。

トップに躍り出た彼を追いかけるのは、カルロス・ロイテマン、ニキ・ラウダ、ジョン・ワトソン、マリオ・アンドレッティ、アラン・ジョーンズ。

しかしこれらのドライバーの追従を許さず、ビルヌーブは周回を重ねるごとにどんどん差を広げていき、なんとトップ独走体制に入っていた。

ビルヌーブが公道サーキットを得意と言っていたことに誰もが納得した。

並み居る強豪たちをもってしてもビルヌーブの走りには追いつけないからだ。

公道サーキットでのビルヌーブの走りは、どんなベテランドライバーよりも優れていた。

当時「公道サーキットで速いドライバーは本物」という基準もあったからだ。

レースの実に約半分をトップで独走していたビルヌーブに、やがて周回遅れをパスする時がやってきた。

シャドウのマシンに乗るクレイ・レガゾーニが最後尾を走っていた。

そのレガゾーニを周回遅れにしようとして、ビルヌーブはシケインの入り口でレガゾーニのイン側に並びかけた。

その時、ビルヌーブの右リアがレガゾーニの左リアに接触、皮肉なことにビルヌーブのマシンだけが弾かれて宙を舞い、レガゾーニの頭上を飛び、シケイン脇のタイヤバリアーにクラッシュした。

この瞬間ビルヌーブのロングビーチGPは終わってしまったのだが、クラッシュの直後彼はすぐにマシンから降りて、何事も無かったかのようにピットへと歩いた。

1977年の日本GPでの大事故の時も同じだったが、F1数戦目にして初めて走ったトップの座を不本意な接触で失っても、彼は全く冷静だった。

レガゾーニに腹を立てたりもしなかった。

レガゾーニいわく「あそこで抜くのはムチャというものだろう。彼は強引すぎるよ」だったが、周回遅れにされそうな時は常にラインを意識して譲らなければならないのが規則だ。

他のドライバーやマスコミからも

「ビルヌーブはもっと自分自身の焦りを抑えるべきだ」

「速さは認める。確かに天才的な速さだが、抜き方が強引すぎる」

「クレイジーな追い越し野郎だ」

などの批判が出ていたが、その反面、新人がレースの約半分もの周回をトップで独走したことについて、ビルヌーブのF1界での評価は大幅に向上したのだった。

つづく・・
2009年07月27日 イイね!

①Joseph Gilles Henri Villeneuve ドリフトキング「優勝への執念とクレイジーな走り」

①Joseph Gilles Henri Villeneuve ドリフトキング「優勝への執念とクレイジーな走り」ジル・ビルヌーブ

最高のF1レーサーで、最も速いレーサーと言われたジル・ビルヌーブ

1982年のベルギーGPで亡くなっていますからね・・もう二十五年以上になるんですよね・・

僕の一番好きなレーサーなんですが意外と説明が難しいんですよね・・

ジル・ビルヌーブ列伝と言う本を参考にこんな人だったという人物像を書いてみたいと思います。

ジョゼフ・ジル・アンリ・ヴィルヌーヴ
(Joseph Gilles Henri Villeneuve, 1950年1月18日 - 1982年5月8日)は、カナダ人のカーレーサー。

1950年1月18日、カナダのケベック州モントリオールに程近いリシュリューで生まれ、近郊のベルティエヴィルで育つ。
フランス系カナダ人であり、フランス語を母国語とした。

青年時代まではスノーモービル競技の選手で、チャンピオンを獲得。

1973年(23歳)から自動車レースを始め、フォーミュラ・フォード、フォーミュラ・アトランティックのチャンピオンを獲得。

1976年(26歳)トロワ・リビエールと言うレースで彼は運命を変えることになる。

トロワ・リビエール

トロワ・リビエールとはカナダの公道を閉鎖して作られたサーキットで行われました。

このレースには、F1のドライバーも数名招かれていました。

アラン・ジョーンズ、ビットリオ・ブランビラ、パトリック・デバイエ、ジェイムス・ハント等

予選で、これら現役のF1ドライバーを相手に、全く無名のビルヌーブは彼らを上回るタイムを叩き出しました。

それも・・ドリフトで!!!!!!

マシンを真横にして走らせるドリフト走行で、時には後ろ向きになりそうなほど(!)マシンを滑らせて、ビルヌーブはトロワ・リビエールの狭い公道サーキットを激しく攻め立てポールポジョンを獲得。

決勝レースでもビルヌーブは、現役のF1ドライバー達を押さえて、2位に10秒の差を付けてブッ契りの優勝!!

正に圧勝でした。

何が凄いのかというと・・トロワ・リビエールでのレースは、「フォーミュラ・アトランティック」という、カナダ国内のシリーズレースのことで、このレースに使われるマシンは、当然のことながらF1マシンの性能とはほど遠いものだった・・しかしこのレースでビルヌーブは彼らと全く同じ「フォーミュラ・アトランティック」のマシンに乗っていた・・つまり完全なイコールコンディションなのだ。

ドライバーのウデのみにかかっているレースだったのだ。

このレースで、まだ全くの無名だったビルヌーブはF1ドライバー達に圧勝した。

これがどんなに凄いことかは誰でも解る。

ヨーロッパ全土のモータースポーツ雑誌もこのことを大きく取り上げ、この無名の青年がなぜ簡単にF1ドライバー達を完全に打ち負かすことができたのか?!

ジャーナリスト達はどうしても理解できない様子だったようである。

ドリフトが速い訳が無いという観念があった時代であるから同然と言えば当然なのだが・・誰も何故と言う部分に関しては答えれる者が無かった。

実際その通り全員が同じマシンで走った事とレース結果を見れば一目瞭然である。

この無名の新人が現役F1レーサーをブッちぎる事件はビルヌーブがF1でも充分に通用するドライバーだということを世に示した事件として、F1の世界にデビューするきっかけを掴んだのである。

完敗のジェイムス・ハントは自分自身のためにビルヌーブのことを誉めちぎったとも言われている。
ハント曰く、

「いいかい? よく聞けよ。F1ワールドチャンピォン最有力候補のこの俺が完全に負けたんだぞ。信じられないよ。あのビルヌーブというカナダ人ドライバーはとんでもない才能を持っているに違いない」

ハントがビルヌーブを誉めちぎる発言の理由は、ハントが自分の名声とプライドを保とうとしていたことも理由のひとつだと思われる。

翌1977年F1シーズンは、いくつかのF1チームがビルヌーブを採用するかもしれないという噂が飛び交っていた。

ビルヌーブは1977年シーズンをマクラーレンのF1マシンで「オプション契約で参戦」という形で走ることが決定。

オプション契約の内容は、1977年シーズンの後半辺りにおいて、任意的に選ばれた5つのレースに、ジェイムス・ハントとヨッヘン・マスに次ぐナンバー3ドライバーとして走るというものだった。

ビルヌーブが1977年シーズン初頭からすぐにマクラーレンのF1マシンで走れるという好条件は、なかった。

1977年の後半になるまで、ビルヌーブはF1ドライバーとしての称号は与えられなかったのである。

ビルヌーブは、1977年の前半は今まで通りカナダ国内で参加してきたフォーミュラ・アトランティックのシリーズに参戦することを決めた。

フォーミュラ・アトランティック

F1で走るのを待ちきれないためか、もどかしい気持ちを紛らわせるために間を持たせるとでもいうのだろうか、おそらくそんな気持ちがビルヌーブにはあったのだと思われる。

モスポートで行われたフォーミュラ・アトランティックレースで、ビルヌーブは彼のマシンであるマーチ77Bの到着が遅れてしまったことに不安を抱いた。
ろくに調整もしていない未完成なマシンで予選走行に挑まなければならなかったのだ。

それでもビルヌーブは予選で果敢にアタックし、未完成なマシンのテスト走行を兼ねるという荒業をやり遂げた。
予選終了間際、ケケ・ロズベルグ(1982年のF1ワールドチャンピオン)のタイムを何とか上回るタイムを叩き出し、ビルヌーブはポールポジションを得た。

決勝のスタートではビルヌーブはロズベルグに追い越されたが、ビルヌーブはすぐに真後ろに食らいつき、時折ロズベルグのマシンに並びかけ、挑戦的な突っ込みでホイールをぶつけ、その度に火花が飛んだ。

それがずっと続き、何周か回った後、ビルヌーブはロズベルグと一緒に勾配のあるコーナーへ突っ込んだ。

イン側がロズベルグ、アウト側がビルヌーブ。

両車は接触して放り出された。

ロズベルグはコントロールを取り戻して走行を続け、ビルヌーブはロズベルグにはじかれた結果コースアウト。

砂ボコリを撒き散らしながらコースに復帰した時には数台に抜かれていて、かなり順位を落としていた。

そこからビルヌーブはトップのロズベルグを猛追した。

やがて、ロズベルグのマシンは不運にも故障で止まってリタイアとなってしまったが、ビルヌーブはコースアウトした時の順位の遅れを取り戻そうと死にもの狂いで全開走行を続けた。

その結果、なんとか2位でゴールすることができた。

次に行われたエドモントンのレースでもビルヌーブはポールポジションを獲得し、やはりロズベルグと激しい戦いをした。

ビルヌーブの走りがクレイジーなのは、このレースでも見かけられた。

トップ争いで、ロズベルグのマシンのサイドボディがむしり取られるほど、ビルヌーブはロズベルグのマシンにホイールをぶつけまくったのだ。

その結果ビルヌーブは優勝、ロズベルグは2位だった。

ロズベルグがゴールした時のマシンは、ズタズタだった。

ロズベルグは、ビルヌーブの「優勝への執念とクレイジーな走り」を痛感させられた。

しかしロズベルグはビルヌーブの危険を省みない行動に対しては否定的で「たぶんビルヌーブは恐怖心というものがあまりないのかもしれない。僕はああいう走りはできない。彼の走りはあまりにも危険すぎるよ。僕には相手のマシンのサイドボディをむしり取るようなクレイジーな走りはできない」というようなコメントをしたことがある。

その後も彼らはいろんなレースでやり合うのだが、そうこうしている内に月日は過ぎ、いよいよビルヌーブがマクラーレンのマシンでF1を走る時期がやってきた。1977年後半に差し掛かってきたのだ。

F1デビューレース(1977 イギリスGP)

ビルヌーブがF1にデビューした時のレースは、イギリスGPのシルバーストーンサーキットだった。

そこで彼は予選前の練習走行で、見ている者たちをひやひやさせるような走りを続けた。

それは、ありとあらゆるコーナーでビルヌーブのマシンはタイヤから白煙をあげて派手にスピンをしたのだ。

この練習走行での彼の走りを見ていた報道陣やチームスタッフは、始めのうちは、あまりにも荒っぽく危険でせっかちなドライバーだと批判した。

しかし、それは浅はかな批判だった。

正確に言うとビルヌーブは「マシンをわざとスピンさせた」のであった。

彼はありとあらゆるコーナーにわざとかなりのオーバースピードで突っ込んではスピンをして、その次にそのコーナーを回る時には少しだけスピードを落として進入する。

それでスピンしなくなったら次からはそのスピードで入ればいい・・と、このような方法をとっていたのだ。

かなり危険な荒業だが短時間でF1マシンの限界を知るためには非常に効果的な方法だった。

それに、彼のこの方法をマネできるようなドライバーは一人も居なかった。

彼があらゆるコーナーでスピンしているのはその方法を実行しているからだと報道陣やチームスタッフは知り、それからは特に、彼のスピンから立ち直る時のテクニックに注目した。

そのテクニックは、マシンがタイヤから白煙を上げてグルグルとスピンしている最中に「フォンフォンフォン!」とヒール・アンド・トゥを使ってシフトダウンし、マシンが進行方向に向いた瞬間に、何事もなかったかのようにまた全開走行を再開するというものだった。

このテクニックを見ていた者たちは、信じられないという様子だった。

何せ他のF1ドライバー達は、超高速でスピンしている最中にマシンの向きを見極めながら冷静にヒール・アンド・トゥを使ってシフトダウンしてまた全開走行に移るというワザは誰もできなかったからだ。

それほどまでにビルヌーブは冷静で、感覚が研ぎ澄まされていた。

予選でビルヌーブは更に人々の関心を誘う走りを見せた。

F1マシンを横滑りさせて走らせるのはロニー・ピーターソンが有名だったが、ビルヌーブのそれは更に輪をかけたもので、ドリフト最中も決してアクセルは緩めずに全開で、ほとんど後ろ向きになりそうなほどマシンのテールを振り、カウンターステアリングは常にフルロック状態だった。

他のカテゴリーのレースならともかく、F1でのこんな走行はそれまで誰も見たことがなかった。

そして彼はそのクレイジーなドリフト走行で、初めて乗ったF1マシンで初めて走ったサーキットにも関わらず、予選9位のグリッドを確保した。

決勝レースでは彼のマシンにトラブルが発生し始めた。

レース前半彼のマクラーレンの水温計の針がどんどん上がっていたのだ。

オーバーヒートの危険性があると判断した彼は、即座にピットインした。

しかし皮肉にも、水温計が壊れているだけで、実際の水温は正常だった。

それをピットクルーから知らされた彼は、勢いよくコースに復帰。

トップグループから脱落してレース結果は平凡なものに終わってしまったが、この不必要なピットインでのタイムロスがなければ、彼はデビューレースにして表彰台に登る可能性をも持っていたのだ。

F1という世界がどんなに厳しく過酷なものかは言うまでもない。

この世界で、しかもデビューレースで速い走りを見せ付けたビルヌーブに対して報道陣は、「F1レーシングの新星であり、このレースの主役だった」という賞賛の言葉を記事にして、モータースポーツ雑誌で彼の才能を大きく取り上げた。

イギリスGPでの走りをF1関係者から認められたにも関わらず、ビルヌーブがF1をマクラーレンのマシンで走ったのは実はこれが最初で最後だった。

マクラーレンのボスのテディ・メイヤーは、他の新人ドライバーを1978年シーズンに起用することを決めていたのだ。

ビルヌーブはカナダ人だったが、テディ・メイヤーはどうやらフランス人ドライバーが欲しかったらしいといわれている。(後にテディ・メイヤーは、ビルヌーブを手放したことをひどく後悔することになる)

ビルヌーブはテディ・メイヤーから契約を断られ、とても落ち込んでいた。

1977年シーズンはまだ残っているのに、F1の世界で何もできない、乗るマシンがない、自分のF1人生には未来がない、と嘆いていた。

彼が焦りを感じていたそんな折、1977年後半も残り僅かという時期に、予想もしていなかったとんでもない内容の電話がビルヌーブの自宅にかかってきたのだった、レーシング界の名門と言われてきたF1チームであるフェラーリ、そのフェラーリチームのボス、エンツオ・フェラーリ本人からの直々の電話だったのだ。エンツオ・フェラーリの言葉は、「ウチのマシンでF1を走ってみないかね?」だった。

その時のビルヌーブの気持ちは、F1界のゴッド・ファーザーとも呼ばれていたエンツオ・フェラーリ直々の電話ということもあり、かなり緊張していた。(最初ビルヌーブはあまりの意外さに誰かのイタズラ電話ではないかと疑ったほどだったという) しかしすぐに冷静になり、イタリアに飛んでいき、フェラーリの本部で契約書にサインをしたのだった。

マクラーレンの時のようなスポット契約ではなかった。

フェラーリのマシンで1977年後半そして1978年のレースの全てを走るフルシーズン契約だった。

エンツオ・フェラーリがビルヌーブを採用することに批判をする者もたくさん居た。

まだまだ未熟で荒っぽく、走りがクレイジーで、しかも無名の青年だからという理由が主なものだった。

しかしエンツオ・フェラーリの意見は、ビルヌーブがかつての天才ドライバー「ヌボラーリ」と非常によく似た外見的雰囲気や走り方だから採用した、というものだった。

エンツオ・フェラーリが出した答えは「ニキ・ラウダがウチのチームに来た時は、彼もまた無名のドライバーだった。ウチでラウダをここまでのドライバーに育て上げることができたのだから、我々にはドライバーを育てる自信がある。ビルヌーブはあのヌボラーリとよく似ている部分があるし、ウチで速いドライバーに育て上げられる可能性は充分にある。だからビルヌーブに賭けてみよう。今彼がどういう状態かと言うような問題ではないのだ。これからの可能性の問題だ」というような内容だった。

ニキ・ラウダがどんなに凄いドライバーかについては何も話さなくてもお解りだろう。

彼があれだけの偉大なドライバーにのし上がったのは、無名だったラウダを採用したエンツオ・フェラーリのおかげであると言われている。

彼が初めて乗ったフェラーリのマシンは312T-2だった。

フェラーリのテストコースで勢いよく走り出したビルヌーブは、とたんにコーナーでスピンをした。

例の、わざとオーバースピードでコーナーに入り、わざとマシンをスピンさせ、超高速でタイヤから白煙をあげてスピンしている最中に「フォンフォンフォン!」とヒール・アンド・トゥでシフトダウンし、進行方向に向いた瞬間に全開走行を再開するという走りだ。

エンツオ・フェラーリは彼のこのテクニックを間近で見て、そのあまりにクレイジーで恐れを知らない攻撃的かつ冷静な走りに、感動の笑いを浮かべていたという。

この時のエンツオ・フェラーリの気持ちは、「やはりビルヌーブを採用したのは正しかった。確かに危険でクレイジーだが、彼は今後大きく成長するドライバーだ」というものだったのであろうといわれている。


ビルヌーブはその契約のことを「フェラーリのF1マシンに乗るというのは、特別なことなんだ。フェラーリのドライバーになることは、それだけでとても名誉なことだ。スーパースターの勲章を貰ったような気分だよ。これはF1関係者の誰もが認めることだよね」と語った。F1関係者の言葉もまさしく彼と同じだった。

こうして、以後ビルヌーブは、F1人生をフェラーリという名門チームで過ごすことになる。

つづく・・
2009年07月26日 イイね!

T○○の衝撃

T○○の衝撃彼が××に来たのは彼が十八歳の頃

××に初めてS14やって来て当時の常連のマークⅡに乗る子に「はじめて来たので引っ張ってもらえますか?」と言いベタベタに煽り、駐車場に止まると「もっと本気出してもらって良いですよ」と言い放ち再びベタベタに煽り「まだノーマルなんで今度は足とブレーキ入れてまた来ますから遊んでください」と言って走り去ったと言う・・

バイク上がりの凄いのが来た

結構噂になりました。

一寸した臨戦態勢ですね

当時××B級ライセンス保持者の大輔にもそんな噂が流れようです・・

どんな奴なのか?

そんな平日深夜僕は××に行きました・・なんとなく会えるのかも・・と言う予感はありましたね。

軽く何往復かして空気圧を見ていると赤いS14が駐車場に止まります。

アイツか・・

AE86が駐車場を出ると案の定付いてきます。

この頃の嫁号は戸田レーシングステージⅡエンジンノーマルレブ縛りHKSFコン140馬力仕様、跡付けのトヨタ安全ボディゴア(セイフティー21七点式ロールバー)にレカロA-8、足回りはTRDガスショック五年物にKgmのデュアルレートスプリング、テインのピロテンショロッド、フルTRD強化ブッシュパットはウィンマックス、悪名高きクスコのLSD、タイヤ五分山グランプリM5 185/60/14

外見ノーマル無軽量の嫁さんの通勤快速号。

正直・・走りこんでいた(年数回のサーキットに週三の峠走行)のでショックも抜けていますしブレーキもそんなに効かない

でもどんなにヘロ足でも強化ブッシュの車はコントロールが楽ですね

下り1コーナー三速で侵入

AE86にベタベタに張り付く赤いS14

内心「元気の良いねぇ~前半頑張ると後半踏めまい」

下りの1コーナーは複合で後半の方がきつくなるのだ。

クリップ過ぎからアクセル全開のAE86にジリジリ離されるS14

1コーナーアクセル全開のまま橋でジャンプして空中で向きを変え高速S字全開

一気に引きはなす

相手はターボなのでここでマージンを稼がないとストレートが辛い

下りストレート全開で四速にシフトアップ

S14ストレートで迫る

真ん中の駐車場に入る前の右コーナーでブレーキを踏むS14

ノーブレーキのAE86

続く左コーナーのインをデットに攻め草をミラーで吹き飛ばし四速全開ノーブレーキで入ると軽く慣性ドリフト状態に・・

軽く微笑みながらアクセル全開のままカウンター

そのままギャップでジャンプして着地と同時にブレーキをして三速に落として左コーナー

下りは見えなくなるまでブッチぎり

Uターン場所で待ち今度は上り

スタート直後のインフィールドはついてくる

コークスクリューと殺人コーナーで引きはなす殺人の次で更に引き離し下り逆バンク高速右で一気に五台分引き離す

真ん中の駐車場コーナーからの上りストレートでS14が迫る

上りきっての左コーナー上って下って逆バンクをノーブレーキで侵入して軽くテールが流れるがハンドル修正とブレーキ

橋までの右コーナーでガードレールいっぱいに寄せ四速全開

バックミラーを見るとこの区間で一気に離れる

上りでもブッチぎり

駐車場で話すとバイク上がりはバイク上がりでも暴走族上がり・・そうか赤信号無視のほうか・・

でも子供の頃からカートをしていて親父は僕の二つ上・・魚屋さんらしい

実際、慣れていないだけでかなり運転は上手い・・

親父さんは昔サニーでレースをしていてここに来るようになったのは親父に連れてこられたらしい・・親父はS15・・

親子鷹なのね・・

親子で峠とは・・イニシャルDは豆腐を運ぶ為に速く走るのならこの親子は魚の鮮度の為に速く走るのだろうか?!

どうやら××で速いと言われている180SXとの対戦を求めてここに来たらしい。

ストリートの初負けが僕になる訳ね・・

その終末T○○はまた××に来たらしい。

運悪く前を走っていたのがアレックス

T○○曰く「あんなおっさん車には負けれん」と追いかけたらしい・・

そして殺人コーナーでクラッシュ

しばらく現れませんでしたが再び××に現れました。

そして僕に挑戦状を叩きつけたのですが・・

僕は丁度一枚目の免許が亡くなった直後で・・対戦は無し
↑オービスのお世話になった

これぞ完璧な勝ち逃げ!!笑

今は二枚目の免許で復活していますが86は車検切れになっちゃいましたね・・

懐かしい思い出です。

その後T弟R34にも負けT○○は××では三敗らしい・・

画像はベンツが僕、白14が店長、赤14がT○○、白34がT弟でタカタサーキットに行った時のモノ

この時一番速かったのは店長のS14 タイムは63.110

ラジアルタイヤでブーストアップもしていませんからね

今後が楽しみ

青いツナギで一際デカイのが俺

Posted at 2009/07/26 21:22:31 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

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「二回目のノーマルエキマニクラック。対策品は新品しか無いのかね?ヤフオクの方が安いが入りすぎ(((((((・・;)」
何シテル?   05/02 19:36
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