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2009年11月13日 イイね!

Kと言う男⑫ 世界初の低価格フルカーボンGTウイング

Kと言う男⑫ 世界初の低価格フルカーボンGTウイング僕がKさんと知り合った頃はKさんは工業デザイン会社を経営していました。

でも一般的な工業デザインの会社とは全くかけ離れていて・・

デザインスケッチ⇒デザインモデル⇒マスターモデル⇒反転用雄型⇒量産型⇒量産品の製造

小さな(失礼)規模なのに全てやる感じ・・

後、製作者としての取扱説明書もデザインしてパッケージングや広告紙面のデザインまでやれる・・怪しくないマルチな会社でした。笑

W124メルセデスの内装のカーボン化を昔頼んだ時に綺麗に包装してありましたからね・・笑

Kさんがレーシングマシーンでなく市販車業界に認められた意欲作の一つにフルカーボンGTウイングがあります。

今を遡る事十年位前、何でも出来る工業デザイナーKさんの所に

「世界中のどこにも負けないGTウイングを作りたい」

と某エアロパーツメーカーの社長がやって来ました。

そのエアロパーツメーカーは俗に言う似非カーボン、FRPにカーボンを貼ったようなパーツしか販売していない後発メーカーでした。

そのエアロパーツメーカーの社長曰く

「カーボンの世界を変える!」

「これから、カーボンという素材を一般化し、量産数を飛躍的に多くして、安くして、手に入りやすくして、自動車業界のカーボン生産シェアで日本一、世界一を目指す!」

と熱く語られたそうです。

安くカーボン製品を作る・・

「エポキシ・カーボンやオートクレーブなら、設備投資をする気さえあればいつでもできる。 でもあれは他と同じような値段に勝手になってしまう。 あれではダメだ」

とKさんは考えていました。

Kさんは元々カワサキでレーシングマシーンを作っていた人でオートクレープを使ったエアロパーツ等元々作って言いました。

逆にコレは一般的にならない事も・・よく解っていました。

だからと言ってFRPにカーボンを貼ったようなモノでは強度的にもたない事も・・

Kさんは美しいデザインを考えて終わりと言う人ではありません。

カワサキ時代には「ポジショニングの神様」と言われる位人に優しいコンセプトを元にデザインする人です。

耐久レース用のZXR-7を作った時にも単に燃料タンクを大きくしたりするような耐久レーサーは作りませんでした。

あくまでも運転しやすく使う人の事を考える人なんです。

GTウイングに求められる性能・・

ダウンフォースが最低限どれ位必要なのか?

その時のウイングにかかる力は?

その上での低価格

レースでの使用状況等の耐久性も考え抜く人なんですよね~

構想4ヶ月

PCCにコールド・プレスと言う新技術を考えます。

Kさんも「この方法で完璧に出来上がる」ということを確信無かったようですが一人で黙々と作り始め、フラップ、ネック、ラダー、ベースと、14個も必要な型を作るのに、さらに3ヶ月を要します。

当時のKさんのファクトリーではエアロパーツを作るのに非常にタイトなスケジュールで、社員達も、まだ素人レベルだったので、社長が「なんか、訳の解らん事をずっとやってる」と言う不穏な空気が漂っていたそうです。

社員たちは連日続く過酷な仕事と、Kさんのやってる事が理解できない事でイライラがつのり、会社は最悪の雰囲気に・・

Kさんは「これが出来上がってそれを見れば、皆絶対解ってくれる。でも出来なかったら・・・」と思いながら、いろんな意味で絶対に完成させなければならない責任感に追われながら七ヶ月・・

Kさんの社員達が過密スケジュールで作っていたエアロパーツは、東京オートサロンに間に合わせる為だったのですが、Kさんもそのウイングをサロンに間に合わせようと頑張りました。

その年のクリスマスの日に1本目が完成します

完成したGTウイングⅠ「フルカーボン」を見た社員たちは、思ったとおり一瞬にして元の表情に戻っていました。

実際実物は凄いですからね。

Kさんは間に合ったことよりも、「出来た」だけで感無量でした。

その足で某エアロパーツメーカーまで走り、オートサロンまでにそんなものが出来上がるとは思っていなかった社長に見せに行きます

しばらく無言でじろじろ見た後、「ものすごい責任を感じる。」とだけ言いました。

それから年明けのオートサロンまでの間に合計7本のGTウイングⅠを作り、当日は7本ともいろんな車に付いて全てオートサロンに出品されました。
↑画像はその一台

ちょうどその頃、某エアロパーツメーカーは「出る杭は打たれる」状態で、駆け出しなのにすごい勢いで進出してた事を目障りがられて、あらゆるところで妨害を受けていたそうです。

雑誌の出版社から広告の掲載を突然断られたり、オートサロンのブースを最悪の位置で勝手に決められたり、スーパー耐久の車検で意味も無く落とされたり等など・・・・

しかし、このGTウイングを出してから全てが変わりました。

妨害していた会社(9社)は、実は解っていたのですがその人達も「味方に」変わったそうです。

某エアロパーツメーカーの本当の飛躍は、このウイングから始まったんですよね。

「某、エアロパーツメーカー」のHPでも、オートサロンなどのショーの会場でも、ずいぶん前からこのことを訴え続けてきました。

「ドライカーボン」「ウエットカーボン」などというものは、カーボンの世界に存在しません。

これは日本だけなんですよね。

これはアフターパーツ業界の誰かが勝手に作った「俗語」であり、僕にはどこを基準にこの2つを分けているのかさっぱり意味がわかりません。

カーボンは繊維であり固まるのは樹脂です。

樹脂の固め方でカーボンの成型法をたった2つの種類に分けることなど到底できないくらい、成型法はたくさんあります。

オートクレーブで一本300万くらいするウイングとほぼ同等の強度と軽さで、表面の美しさはこちらの方が数段上で、おまけにダウンフォースもこっちの方が数字が出ているようなウイングを値段は16分の1の18万程度に抑えて販売することまで実現したPCC製法・コールド・プレス製法

これは世界初で世界中の何処にも出来ない技法です。

世界初の市販フルカーボンGTウイングⅠは普通の市販品をレースカーに納品出来るんですよね。

スーパー耐久で見れるウイングも市販品と全く同じ

つまり本物のレーシングパーツを嘘も付かず低価格で売れる初めての作品です。
↑レース用と市販品が違うパターンなんて幾らでもあります。

設計者は風洞実験室何千時間の本物のエアロダイナミストにして新製法を考え出せる天才

この秘密の技法は世界中に衝撃を与えました。

Kさん曰く・・うる覚え

GT-WING

ダウンフォース発生率が非常に高いことが風洞実験にて実証されたウイングです。

中小企業レベルではめったに風洞実験なんてできませんので、このウイングも作った時は「当てずっぽう」でしたが後から測ってちゃんと数字出てくれたので安心しました。

当てずっぽうとは言っても測ってみることができないだけでちゃんと考えて作りましたが。

後から思えば四輪業界に入ってから、このなんもかんもカーボン製のフルカーボンウイングを作った時に初めて認めてもらったような気がします。

ウイングに関しては、いろんな業者さんから「どうやって作っているのか?」と聞かれました。

教えない。笑


このウイングは日産関係者にも目に止まりR34GTRニュルのボンネット等を注文されますが生産体制的に断ったみたいですね・・・

その代わりZ33に変わると日産のセミワークスに近い体制まで某エアロパーツ屋は上り詰めます。

Kさんは何故かニ○モのパーツ(GT300等)を作る事に・・・
2009年11月13日 イイね!

Kと言う男⑪ DR30モビーデック構想が浮かんだ理由

Kと言う男⑪ DR30モビーデック構想が浮かんだ理由僕の愛車はDR30

Kさんは今ひとつ解らなかったようで・・昔メールでこんなやり取りをした事があります。

シュワちゃんよりKさんへ

僕のスカイラインRSターボも見てもらいたくなりましたね。

KさんのデザインしたR34GTRが第二期レーシングスカイライン最後の車なのですが我がRSターボは第二期レーシングスカイラインの最初の車なのです。

軽量コンパクトな4気筒DOHCターボ搭載のスカイラインの歴代モデルの中では異端のスカイラインなのですが僕の様な熱烈なファンが多く今でもオールドスカイラインのFRでは速い車の一つです。

何時の日かKさんにフルエアロを作ってもらいたいですね。

由○卓也さんのデザインしたスカイラインRSのグループBの車が有名ですがKさんならこうするな!!みたいな意見も聞いてみたいですね。

しかし漫画等では悪役として出ている事が多いんですよね。

バリバリ伝説の聖秀吉の死亡事故の相手になったりしている車なのですが・・

当時のキャッチフレーズ史上最強のスカイラインが僕の心を掴んで離さないですね。

史上最強のスカイラインにKさんのデザインした史上最強のGTウイングⅢって最強繋がりで良いと思いません?


Kさんよりシュワちゃんへ

シュワちゃんさんはⅢが良いですか。

あれは、売れることなど全く考えずに作ったものです。

「とにかく、ダウンフォースを大きく発生する形状」だけを目指し、僕の頭にある理論が正しいのかどうかを確かめる為に作りました。

これからいくつかのウイングを作っていくにあたり、最初に理論が正しいか確かめる必要を感じていました。 

「効きすぎ」とか「抵抗になりすぎ」とかで、タイムは逆に遅くなってしまったりしてもよかったんです。

とにかくその時点ではダウンフォースが多く発生している事が確認できさえすれば・・

出来上がって初めて走らせたのはGT300のS14シルビアでした。

車の外周ラインからはみ出ていたのでレギュレーションは通りませんが、とにかく走ったら、ピットから出て行って1周回ってそのままピットインしてきました。

一回もホームストレートを走らず帰ってきたので「何かあったかな?」と思ったら、「もう、測らなくてもわかる。 ちょっと走っただけで、すんごいダウンフォース。ショックのセッティング変えないと。」

「じゃあ効くことはわかった。次は、抵抗(ドラッグ)がどのくらい増えてるかやな。」抵抗が増えているのかどうかも、測る術はありません。

 ストレートでの最高速を比較するしかないので、それまでのウイングととっかえひっかえ、測りました。

数字上、時速1kmの差。 誤差の範囲です。

「けっこう、イケてるのでは?」がその日の結論でした。

その数日後、筑波でタイムアタックがあったんですが、そのウイングを付けて走りたいと、ラーマン●田(当時はまだターザン●田でした)が言い出したんです。

後ばかりに大きなダウンフォースがかかるので、タイムアタックには不向きじゃないかと思っていたので「やめたほうがいい」と言いましたが、ターザンはそんな事は承知の上で言ってると言うので僕は「とりあえず、トランクの強力補強が必要」とだけ言いました。

当日、僕は筑波には行かず会社で仕事してたんですが、突然現地から電話がかかってきて、電話の向こうが大騒ぎになっていてびっくりしました。

「実は車は、なんにもメンテしてなかったんだ。エンジンもタイヤも、1年前のお古のまんま。このタイムはウイングだけの成果だぁぁ! スゴイぞ!!これー!」と言ったきり、タイムを言わずに切ってしまいました。 

「・・・・・・・?」

あとからラーマンに聞いたんですが、コーナーの進入でちょっと工夫しないと、アンダーがキツくて曲がれないくらい後のダウンフォースは効いていたそうです。

「前のアンダーを気にするより、後輪にすごいダウンフォースがかかってることを最大限、有効に使うことを考えて走ったら、勝手にタイムが出た。日本一だぜっ!」(手はVサインで) だそうです。
↑2003年の話

僕にとっては、GTウイングⅢはその時ですでに役割を終えたんです。

はっきり言って「デザイン」はしていません。

頭の中にある理屈を、ただ形にしただけです。

でも僕も実は、そういうのが好きなんです。

自分はデザイナーのくせに、デザインせずに機能だけで作られているものの機能美が一番好きです。

僕が知ってる限り、僕のGTウイングの中で「Ⅲが一番好きだ」と言ったのは、たぶんシュワちゃんさんが初めてです。

シュワちゃんさん、かなりの「ヘンタイ」ですねー。 (僕も同類ですが)

由○卓也さんとは、実は何度も勝負させられたことがあります。

ウチに依頼してくる人が、一方で「ムー○クラフトにも頼んでる。どっちか良いほうを選びたい」と言う人が、過去に沢山いました。
(最近はいませんが)

6回くらい勝負させられましたが、ヘッヘッヘッ。 

一回も負けたことありません。

あちらは有名。

こちらは無名。 

でも、由○さんは空力に関してはすごい人だと思いますが、僕に言わせればデザイナーではない。

レーシングカーを除いてしまうと、ムーン○ラフト・デザインのものでデザインの良いものは見たことがありません。

32GTRが出た時、僕はかなりの衝撃を受けました。 

それまでの鉄仮面とは全然違う雰囲気に見えますが、並べてみるとほとんどの「形の構成」が同じなんですよね。

それとほぼ同じ頃に出たフェアレディZは全く逆で、前のものと並べてみると同じところがどこも無い。なのに、「Zだ。」ってわかるんですよね。

あの頃の日産はすごかった。 

ドイツ車チックでバランスの取れたプリメーラが出たのも、「Be-1」や「エスカルゴ」などの新提案的な車を作ったのも、あの頃でした。

いろんな車が、みんなほど良くコンセプトもデザインもバラけていて、「どれもいっしょ」みたいな状態でもなかったと思います。

DR30は、そういう「調子の良い」日産に向かっている時の車なので、方向がはっきりしていましたね。 

「日産が何を言いたいのかわかる」みたいな。

その頃は僕は川重の社員だったので、「二輪街道まっしぐら」の時期です。 

そんな僕でもわかったんだから、あの頃の日産車は良かったと思います。

バリバリ伝説・・・ 僕も見てましたよ。 

最後の方で世界GPに行ったりし始めたら一気にシラけちゃって見なくなりましたけど。 

最初からちゃんとストーリー立てて書いてない、行き当たりばったりの漫画家はどこかでシラけますね。

おかげでしげの秀一の漫画は全然見なくなり、「頭文字D」はほとんど見たことありません。

「流行ってるみたいだからおもしろいのかな?」と思ってちょっと見てみましたが、まるっきりおもしろく感じませんでした。

う~ん、若者の好きそうなものに興味を感じない昨今、僕のデザイナーとしての寿命が近づいているのかなー?


由○卓也に6戦6勝と聞いたらやはり作ってもらいたいですよね・・新DR30シルエットフォーミュラー!!

シルエットフォーミュラー最速のマシーンがモビーディクだから・・

R30モビーデック仕様計画と言う訳です。

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ポルシェ・935
ポルシェ・935は国際自動車連盟のグループ4の規定に準じて製作されたポルシェ・934と同様、グループ5(シルエットフォーミュラ)規定に合わせポルシェが製作したレーシングカーである。デビューは1976年。

935/78 "モビー・ディック"

1978年さらに別のバージョン935/78が開発された。

これは空気抵抗低減のため、ロングノーズ化・後部の最適化がなされ、その形状から「モビー・ディック」と呼ばれた。

エンジンは3.2Lに拡大、水冷式の4バルブのシリンダヘッドに交換され、出力は950馬力(700kW)まで増加した。
この車はルマンを360 km/h以上で走りストレートでは最も早い車でグループ6のポルシェ・936を簡単に追い抜くほどであった。
また、フロントとリアのダウンフォースの調整により390km/h(240mph)での走行も可能であった。
これはポルシェ・917に匹敵する速度である。


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追記
正確には発注者がネタバラシをしてくれたのが六回と言う事なので何回勝っているか解らないそうです。

最低でも六回は勝っているようですね。笑
2009年11月13日 イイね!

Kと言う男⑩ 悲劇

Kと言う男⑩ 悲劇日本のブリッテンを作る活動の当初

Oさんとブ○ッテンさんとFAXによる文通(?)を始めた頃は、ブリッテンさんはしきりに「ニュージーランドへ来い。日本に居ては絶対出来ない。」と言っていたそうです。

イギリスは、自動車で国が成り立つように出来ています。

「県に一つ」でも「市に一つ」でもなく、「町に一つ」くらいの割合で、「小さなメーカー」が存在し、本当に一人でやってるような半分趣味みたいな人から、大きくて社員が数十人、数百人規模の会社まで、いろんなメーカーがあります。

日本ではそんな規模で作った車を売ろうとすればたちまち「違法行為」ですが、あちらではそれなりの審査はあるとは言え、クリアすれば売ることが出来ます。

昔からずっとそういうお国柄なので、そんな会社が売っている車でも、興味があればお金を出して買う人もいます。

逆にそういう車を求めて探す人もいます。

日本ではそんなメーカーを作ったところで、成り立つことはまずありませんが、イギリスはそれで一生食べていく事ができる。

そんな環境なので挑戦する人も多いし、挑戦する人が多ければ、普通は影に埋もれたまま一生芽を出すことのないはずの才能が花咲くことだってあります。

実際、そういう小さな規模で生まれた発明を大手のメーカーが買い取って大量生産車に取り込んでいる例は沢山ありますからね。

そんな歴史が長いので、個人でもものすごいことをやってのけた「神様」のような人が過去に何人もいる・・そんなお国柄。

ブリッテンさんは、日本の法律も大体知っていました。 

だから、「なぜあんなすごい自動車メーカーが多数ある日本に、個人ですごい人が現れないか」 を知っていました。

でも知るまでは、それが不思議でしょうがなかったようですね

しかし日本の法律を知った時、「人間の安全を第一に考えるなら、日本の法律の方がずっと理に適っている。本来はそうあるべきだ」 とも思ったそうです。 

それと同時に 「なぜ日本の自動車メーカーがあれだけ信頼性の高い車『だけ』を作り続ける事が出来るのか」も解ったとも・・

「人間の安全を第一に考えるなら、日本の法律の方がずっと理に適っている。本来はそうあるべき」

Kさんもブリッテンさんと同じ考えですね。

日本で、それに近いことをやろうとしている人たちは、たいていイギリスで最終組み立てをし、イギリスで認可を通した後、日本に「輸入車」という名目で持ち込みます。

オートバックスのガライアとか・・ルマン仕様のR33GTRLMとか・・

しかし「君らはやはり日本の中でやるべきだ。日本でやってこそ意味がある。」と、話が変わっていきました。

OさんとKさんは翌年、国内レースに新しいカテゴリーとして出来た「NK-4」というクラスを目指します。

ホンダやスズキが水冷マシンである中、ただ一台空冷で決定的に不利なヤマハのXJR400をあえて選び、半年くらい徹夜続きのお祭り騒ぎでマシンとチームを作っていきました。

ライダーはOさんではなく125ccクラスで国内選手権を走るライダーに決定し、Oさんは監督、Kさんは戦略部長?!に・・

この日本のブ○ッテンを作る集まりにはメーカーの垣根を越えた集まりが出来ていきます。

ヤマハワークスでケ○ーロバーツ・ジュニアのマシンのエンジン担当者だった設計者と足回り担当だったメカニック

カワサキワークスチームのチーフメカ

総勢18人ものチームに。

結果は3位

不利なことが明らかなマシンで優勝することしか考えてなかったのでチョ~落胆したそうです。

でもこの日本のブリッテンを目指す活動はメーカーからも評価されていてヤ●ハからは感謝のコメント等を貰ったそうです。

「優勝するだけでもまだつまらん」と、決勝スタート直前にライダーの顔に「ゴルゴ13のマユゲとモミアゲ」を落書きして、「表彰台に乗るまでヘルメット脱ぐな!」って言ってたんですが、これが大ウケ♪

この顔の写真とともにレース結果がニュージーランドの雑誌にも載っていたそうです。

それまでも、Oさんの会社にはブ○ッテンさんからよくFAXが来ていましたが、そのレースの後はもっと頻繁になり、とうとうブリッテンさんが「そっちへみんなに会いに行く!」と言い出しました。

Oさんが「ブ○ッテンさん、絶対に会ったらおもしろい人物がいるから、是非会わせたい」とKさんの事をイギリスで話をしていたらしく(実は以前のコンセプトバイクのデザインを雑誌で見て知っていた)会った事も無いのに「いつか、僕のマシンに最高のカウリングを作ってくれ」という内容のFAXももらったそうです。

ところが・・・

具体的に「6月の半ばくらいに行くから・・」というFAXまで届いていた3月、急にブ○ッテンさんから「急で悪いが、どうやら行けそうもなくなってきた」というFAXが届き、そのままそれが最後のFAXになりました。

病名は忘れましたが、亡くなられたんですよね。

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ジョン・ケントン・ブリッテン (John Kenton Britten, 1950年8月1日 – 1995年9月5日) は、ニュージーランド出身の機械エンジニア、オートバイ設計者である。同世代の設計に先んじた革新的な特徴を持ち世界記録を保持した。


ジョン・ブリッテンは、クライストチャーチにてブルース・ブリッテンとルヴァエ・ブリッテンとの間に双子の長男として誕生した。彼は深夜12時の10分前に、彼の双子の妹マーガレットは12時ちょうどに誕生したため、異なる誕生日を持つ双子として生まれた。生まれた時から、彼の運命は「(普通とは)違う」ように見えた。成長の過程においても、彼は難読症であったため、学校教育の中で彼へ質問を行うにはそれを口述せねばならず、また彼の回答は筆記者が記録しなければならなかったが、それは彼が非凡なエンジニア・設計者となることの障害とはならなかった。

彼の子供時代のヒーローは、著名なニュージーランド人であるリチャード・ピアース (飛行機の発明者)、ビル・ハミルトン (ジェットボートの父)、ブルース・マクラーレン (F1チーム・マクラーレンのチャンピオンドライバーであり、またその設立者)、バート・マンロー (オートバイの速度世界記録保持者で、映画「世界最速のインディアン」の題材) であった。彼の短い生涯において、ブリッテンは彼にとっての全てのヒーロー達と比較しても高く評価されている。

ジョンは、ICIの製図実習生となる前に、鋳型設計、模式図の設計、金属旋盤、様々な機械工学上の設計を含む広範囲の作業経験を与えることになった、夜間学校での4年間の機械技師過程を修了している。

ジョンは、Sir Alexander Gibb & Partnersと4ヶ月の間作業に取り組んだM1-M4での高速道路設計でイギリスを旅した。

ニュージーランドに帰国した彼は、オフロード用機材と大型機械を設計するRowe Engineeringの設計技師となった。1976年には、彼はガラスの窯を造り美術品の設計と手製のガラス照明を製造する事業に乗り出し、後に資産管理事業と建設事業を加えた。

ジョンはオートバイの設計を数年間かけて行い、複合材料と高効率なエンジン設計を革新的な方法を用いて開発した。彼はブリッテン・モーターサイクル・カンパニーを、彼が設計した軽量素材と彼が作り上げたエンジンを使った革新的なマシンを世に送り出すために1992年に立ち上げ、会社は世界的に有名になった。

彼のオートバイは多くのレースに勝ち、国際的なサーキットで多くの速度記録を打ち立て、1991年にはアメリカのデイトナで行われたBattle of the Twinsにて、数あるファクトリーマシンに抗して注目に値する2位、3位となり、オートバイ業界を驚かせた。

彼の先進的なオートバイの一台は、ウェリントンにあるニュージーランドの博物館テ・パパ・トンガレワにて常時展示されている。しかしながら、展示されているオートバイがレースに出場した本物のマシンか、または予備の部品で組み上げられたものであるかは議論が分かれる。

ジョンが、皮膚癌に伴う短い闘病の後に45歳で亡くなった1995年は、ニュージーランドは悲しみに包まれた。
Wikipedia
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その後、なぜかOさんも内臓の病気になり仕事できなくなり日本のブ○ッテンと本家ブ○ッテンは共に活動できなくなります。

なぜ神様はこんな仕打ちをするんでしょうね・・

本当に・・
2009年11月13日 イイね!

Kと言う男⑨ 多分右脳人間・・

Kと言う男⑨ 多分右脳人間・・僕は実はメール魔でもある
↑知っている人は知っている

興味のある事は何でもその筋のプロフェッショナルに聞くようにしている。

僕のメル友(メル友の域は超えていますが・・)の中では12を争う先生でもあるKさんは色々話を聞いていると典型的右脳人間だと思う。

小学校低学年の頃は音楽に興味を持っていて、なんでも鍵盤が三つもあるパイプオルガンが小学生で引けたそうな・・最終的に講師検定まで合格

パイプオルガンに続きギター(独学)も・・

関係ないけど僕の地元には全国のドラム大会で一位になった日本一ドラムの上手い天才高校生(オマケに県下有数の進学校)が居るのだが・・イメージ的にはこんな感じだったんだろうな~と思う。

何度かファクトリーの事務所で押尾 コータローを引くKさんの動画をもらった事があるがやはり上手い

本人は音楽もデザインも同じ・・

「デザインとは究極のごまかし術である」

なんて言いますが・・

Kさんらしい言葉だなぁ~と思ってしまいます。

故・ブ○ッテンさんにもKさんのデザインについて言われた事があるそうなんですが・・

「君のデザインはものすごいレベルでの『バランス』を持っている。それは僕が欲しかったけど得られなかったものだ」


多分このまとめるという部分が「デザインとは究極のごまかし術である」に繋がるのだと思う。

実際このマトメがKさんらしさであるし車のデザインをして一度も由○卓也に負けた事が無い理由であると思う。
↑詳しくは四輪編で・・

まぁ~難しい事は解りませんが単純にカッコよくて理に適っているからなんですけどね。

関係ないけどKさんのアコギにはコブクロの自筆サインがある

なんでもメジャーデビューする前はKさんと同じマンションの住人だったらしい

デビュー前にサインを貰ったとのこと・・

そんな音楽の次がバイク

色々自作パーツを作れる高校生だったらしい。

変わった所ではこんな物も作っている

参考画像(Kさんが作った物ではない)

昔あったツーストロークの軽自動車のエンジンを使ったフォーミュラーのチャンバー。

Kさんの作ったチャンバーは予選で低迷した車をポールトゥーフィニッシュに導き再車検を喰らったらしい。笑

実はバイクのクランクシャフトを自分で加工してストロークを変更したエンジンを作ったり・・

前後ひっくり返して後方排気にしたり・・

ピストンバルブのH2R(カワサキ、マッハ750)のエンジンに、鋳物を葺いてリードバルブケースを作ってピストンリードバルブに変更したり・・

エンジンも弄れる人なんですよね・・

そして絵が上手い
↑当たり前か・・デザイナーなんだから・・

カワサキ最年少役員記録も辞めるというKさんを引き止めたかったカワサキ側から話ですしね。

もしカワサキを辞めなかったらZ1、GPZに続く十年おきの900cc記念モデルを作っていたでしょうね。

二十代前半で主管を勤めたという事も簡単に言えば他のデザイナーをゴボウ抜きしたという事ですからね。
↑詳しくここでは書けないが社内でたった一枚のデッサンで一位になったとだけ・・

そしてオートクレーブ。

何でもその手の施設は川重は遅れていてゼロから勉強する為多くの会社に協力してもらっていた時期だったようですね

そこから後は、全て自分で考えて独学でやってオリジナルの製造方法を考えれる現在に至っているようです。

カワサキ時代はデザインして作って乗れるデザイナーだったんですよね。
絶対この人右脳人間だと僕は思う。
2009年11月12日 イイね!

Kと言う男⑧ ビ○ータ(Bimota S.p.a.)を蹴って

Kと言う男⑧ ビ○ータ(Bimota S.p.a.)を蹴ってKさんはZXRを会社の方針に逆らって作った責任を取り辞表を提出します。

社内ではKさんを辞めさせるな運動まで起きてとりあえず残るのですかが・・

ZXR400Rの主管をしてから辞める話は業界内に広がりました。

日産自動車も含め多くの企業からの引き抜きの話があった中、変わった所ではイタリアのビ○ータからもあったそうです。

カワサキにイタリアから直接TELやFAXが来たそうです。笑
↑イタリア人は熱烈

何でも新しいコンセプトバイクを作るので是非イタリアで仕事をして欲しいと言われたそうです。

もしイタリアに行っていたら ・・

ビ○ータ テージ

テージ(Tesi)とは、英語の「テーマ(Theme)」を意味するイタリア語である。このシリーズは車種名の命名法が特殊で、テージの後にこのシリーズの何代目の車種かを表わす数字とエンジンメーカーを表わすアルファベットが記される。フロントスイングアームとハブセンター・ステアリング機構を公道用量産市販車として初めて採用した。1985年3月に行われた東京モーターサイクルショーに展示された試作車「テージ」はホンダVF400のエンジンを使用しており、他にも数台つくられた試作車ではホンダ製やヤマハ製のエンジンが使われた。しかし最終的に市販車では一貫してドゥカティ製エンジンが採用されている。市販車に限れば、フレームは当初からアルミニウム合金製である。


これを日本人初の主管で作っていたでしょうね。

これを蹴って日本のブ○ッテンを目指します。

続く

追記

このビ○ータ(Bimota S.p.a.)を蹴った話からKさんの夢はビ○ータ(Bimota S.p.a.)を招待できる会社を作りたいという夢を持つようになります。

プロフィール

「二回目のノーマルエキマニクラック。対策品は新品しか無いのかね?ヤフオクの方が安いが入りすぎ(((((((・・;)」
何シテル?   05/02 19:36
速く走る事に繋がらないテクニックは曲芸にしかならないと常々思っている走る事が好きな親父です。 基本は慣性ドリフトゼロカウンター ゼロヨンでも最高速で...
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