8 残ったもの。
12月21日、日曜日。
男は特定講習の現場にいた。
なんだ? この部屋。
申し込んだ教習所が借りた、とある会館の1室である。
講習と言うからにはてっきり教室みたいな所か、会議室みたいな場所かと男は思っていた。
この部屋は入るとすぐ右手にトイレ付のユニットバス。正面には旅館の窓際にありそうな小さなテーブルと椅子二脚。
左手には8畳の和室が二間続いており、昔ながらの小さなテレビと、塗りの4人用座卓がある。
座卓の上にお茶菓子さえあれば完全に宿泊施設である。
というより、ここは本当にどこかの職員の宿泊施設なのだろう。
ここでは応急救護処置教習と、午後からは実車を使った高速講習を行う手はずになっている。
応急救護処置関連のビデオを見た後、10分間の休憩。
煙草を吸って戻ってきた部屋には、ジャージを着た女性の人形が畳に横たわっていた。
びっくりした。
指導員が言う。
「この子、一体60万円するんですよ。大切に扱って下さいね。」
高ぇ。ジュエル並だ。
人工呼吸と胸骨圧迫(心臓マッサージ)の練習が始まった。
最初の若い男の子が人形を負傷者に見立てて肩を叩きながら耳元で問いかける。
「もしもしー。元気ですかー!」
元気なわけ無い。コイツは意識を失っとるのだ。
指導員もすかさずツッコミを入れる。
「いや、猪木やないんやから。『大丈夫ですかー!』です。」
静かなツッコミはそれはそれでこたえる。
真剣に講習を受けた。どうせなら身につけなければ損だ。
午後の高速講習は男にとって造作もない。
朝9時から夕方5時まで、講習はみっちり続き、最後に欲しかった修了証書を受け取った。
これで25日に路上検定に合格さえすれば、年内に免許が手に入る。
やっとここまで来た。男は素直に喜んだ。
12月25日、木曜日。
今日で全てが決まる。チャンスは一度きりだ・・・。
受験者は全部で4人。
男を含む3人がAT、男性一人がMTだった。
今日の試験はATから行われた。
最初の二人がペアで、男は「一人コース」を走ることになっている。
3人だとどうしてもこうなるのだ。
ちなみに路上検定のコースというのは少し変わっていて、最初から最後まで全て道順を決められているわけではない。
指定課題と自由課題の複合ルートなのだ。
例えば一人目はセンターが指定課題開始ポイントとなり、そこから指定課題終了ポイントまで走る。
この間は指定なので道順が決められている。
指定課題終了ポイントまで来ると、そこは同時に自由課題の開始ポイントとなり、受験者が自分で決めた道順で予め定められた自由課題終了ポイントまで走り、そこで2人目に交代となるわけだ。
もちろん採点は指定課題の開始ポイントから自由課題の終了ポイントまですべてで行われる。
しかも指定課題のルートは全く違うA,B,Cの三通りあり、当日の朝にならなければどのコースが採用されるかわからないのだ。
センター周辺の土地勘のない受験者には圧倒的に不利な試験。
行き当たりばったりで自由課題をこなそうとすると、とんでもない難しい道を走らざるをえないかもしれないし、袋小路に迷い込むかもしれない。
だから土地勘のない受験者は、予め下見をして、自分の中で走るべき道順を決めておく方がよい。
もちろん、男は知人に頼んで予めそれぞれの課題のルートを走り、ABCのどれが来ても大丈夫なように自由課題のルートも決めてある。
前の二人の試験が終わり、男は検定車の古いクラウンに乗り込んだ。
一応、乗る前に前後の安全確認もした。車体の下もだ。
男は走り始めた。とにかく制限速度には気を付けておかねばならない。
試験場を出たすぐの道は30キロ。左に曲がってまた30キロ。
右に折れてからしばらくは40キロ、そして法定60キロへと変わる。
時折メーターを見ながら充分に注意を払う。
見通しの良い片側1車線ずつの60キロ道路。左手に一般の自動車学校がある。
そのすぐ前に交差点があり、自分の教え子がここを走るのだろうか、その学校の教官とおぼしき男性が歩道に立っているのが見えた。
男は順調に走る。
右折して町中をそのまま直進。大通りにぶつかったらそこを左折、次の信号をまた左折。
指定課題終点ポイントで一旦クルマを端に寄せ、Pレンジにシフトして止める。
このとき、左のラインと路肩との間が0.75m以下ならば、ラインをまたいで駐車してはいけない。
男はきっちりラインよりも道路寄りにクルマの左側を合わせて止めた。
出発。ここから自由課題ルートだ。
直進するとさっきの片側1車線道路に戻ってきた。そのままそこを左折し、免許センターへ向かう。
遙か前方の交差点に小さく男性が見えた。
さっきの自動車学校の教官だ。まだいたのか。
信号は青。
その瞬間、教官が小走りで道を渡った!
信号無視だ。
おおお。
教官のくせに信号無視するなぁああ。
するんだったら、昨日やれ。
もしくは明日やれ。
オレの前でやるんじゃない。
距離があったため、男は静かにブレーキを踏み、速度を落とした。
男性が渡り終えるのを確認した後で速度を元に戻した。
こんな時は頭で考えられるものではない。体が勝手に反応した。
免許センターに戻った。
場内コースで方向転換のテストを終え、クルマを降りた。
受験者は全てロビーで待つことになっている。
最終受験者まで終わった所で一斉に結果を発表する段取りになっているのだ。
不安がよぎる。
20分ほど待っただろうか。
最後の受験者と共に、試験官がロビーに帰ってきた。
「結果を言います。」
妙な間が空く。
「皆さん、合格です。」
全員に笑顔が溢れた。
「但し、4人のうち余裕で通ったのが一人。あとの3人はギリギリや。これからよう気ぃ付けて走るんやで。」
喜びに沸く女性受験者二人。
ほっとした。
去ってゆく試験官を追いかけて男は声を掛けた。
「すみません。」
この機会だ。自分の運転に悪いところがあれば指摘してもらおうと思った。
「言うたやろ。『ひとりは余裕で通った』って。あれキミのことやで。」
「何か悪い所教えて下さい。自分の運転をチェックしてもらう機会てそうないですから。」
「そうやなぁ。相手がいくら悪うても、あそこは本来きっちり止まるべきやなぁ。」
信号無視で渡った男がいた場面だ。
「充分に歩行者を認識しとるのがわかったから何も言うたりせんかったけど、もし事故でもあったら、いくら相手が悪うてもこっちの過失割合を高う見られてまう。」
「あとはウインカーのタイミングかな。もう少し早めでもええんちゃうか。ま、許容範囲やったけどな。」
そう言ってから、こう付け足した。
「道を怖がってるか、ゆとりを持って走ってるかはすぐわかる。あんたのは慣れた人の運転やった。安全確認もようでけとった。ところでなんで試験受けてんの?」
男は少し恥ずかしそうに答えた。
「更新をずっと忘れてて失効してしもたんです。」
「もったいないなぁ。これから忘れんように気ぃつけなあかんで。無駄なお金も使こたやろ。」
「はい。骨身に染みました・・・。」
そう言ってから、男は少しおどけて笑顔でこう聞いてみた。
「それにしても自分の時は一人やったし、もっと世間話でもしながら走るんかなて思てました。」
「そんなことでけへん。君らより僕らの方がホンマは緊張してんねやで。事故でも起こしたらどうする?
僕らはその責任があるんやで。喋ってる余裕なんかないわ。」
微笑みながらそう言い残して試験官は去っていった。
男はその背中に敬意を込めて深く頭を下げた。
人生に無駄な事は何ひとつないという。
だとすれば、今回のこの騒動は男に一体何を残したのだろう。
あらためて免許の大切さ、クルマに乗れる喜びと責任の重さを知った。
冷徹な断罪マシーンだと思っていた試験官は、とても人間くさく、決して敵なんかではなかった。
そして何より、いつも男を応援し、最後は我が事のように喜んでくれた友がいた。
人もまばらになったロビー。
差し込む西日があたりを黄色く染めている。
長椅子に腰掛けたまま、男は手の中の免許証を見つめていた。
それはとても長い時間に思えた。
・・・・。
手の中の免許証。平成23年まで有効の免許証。
そっと大切に財布に仕舞い、男は静かに立ち上がった。
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最終集計
発覚から 20日後
ここまでの経費
前回まで 33410円
検定車使用料 1050円
免許交付手数料 1200円
安全協会費 1500円
総合計 37160円
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みなさま、こんにちは。こんばんは。お散歩鹿です。
これで「Shikko Man。」はおしまいです。
自分の不注意から免許証を失効するという大失態を演じた男の話を通して、僕らがふだん当たり前のように持っている免許証の重さ、クルマを運転することの楽しさとその責任を今一度振り返ってみるよいきっかけとなればとの思いで書いてみました。
長いお話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
あ、そうそう。
「男」から1枚の写真を預かっています。
最後に載せておきますので見てやって下さい。
それでは皆様、今年も1年間お世話になりました。
どうぞよいお年をお迎え下さい。
ありがとうございました。