
車に乗っていると、否応なしに事故に遭う確率が高くなります。
私は、一週間に1~2回しか車に乗りませんから、毎日乗る人に比べると事故遭遇率は格段に低いものと思われます。しかし、「運不運でしか説明ができない事故」というものは、確率に関係なく起こっているような気がしてなりません。
自分がいくら注意して運転していても、どうしても避けきれない事故というものがそれに当たると思います。
そんな一例として、冬の高速道路を走行中、反対車線から大きな氷塊が飛んできてフロントガラスにぶち当たったことがありました。
私の出発時間の問題、走行速度の問題、氷塊を落とした相手の車の様々な問題等、数えきれない偶然が重ならない限り、高速道路上でピンポイントでこんなことは起こりえない話です。
当たったまでは不幸としか言いようが無いのですが、ルームミラー付近の上の方に当たったのが幸いして、ガラスが割れることもなくスベリ跳ねるように左後方へ飛んで行ってしまい車も私も無傷でした。
このようなことは事故とまでは言わないかもしれませんが、一歩間違えれば重大な結果を招いていたかもしれません。
避けきれない事故は、自分ではどうしようもないことで、不幸を嘆いても仕方がありません。それが己の運命と諦めて、現実を素直に受け入れることにしております。
人と車、車と車の事故は加害者、被害者の人生を狂わす悲惨な結果を招きかねませんので、ふだんは慎重な上にも慎重を重ねて、自分が加害者とならないような運転をする事を心がけております。。。と言っておきましょう(汗)
私は、運がいいとか悪いとか、どこで何が起こるかは、生まれた時からすでに決められていることだろうと思う運命論者です。
そう思うようになったのは、かつて交通事故で「死にかけた経験」があることに関係しております。
半世紀以上も生きていれば、色々な経験をしますけど、これはまぁ、出来ればしたくない経験ですね(汗)
「一度死んだかもしれないのに死ななかった」というのは、この世に生きなければならないと運命づけられていると考えるようになりました。
そういう意味では、私の人生観を変えてしまった事故ということも出来ます。
私の心の中だけにある、半世紀以上前の事故の記憶を検証することは、「自分の人生に及ぼした影響と今後の生き方」を考えるために必要な、心の整理の一環なのですが、現在に至るまで詳細に行ったことはありませんでした。
以下、結構長いですので、適当にお読みいただければ幸いです。
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その事故は、私が4歳の時におこりました。
オニヤンマをとりに兄弟達と出かけた夏の夕方、家に帰るため先に道路を横断した兄を追いかけて道路に飛び出した私は、走って来たオートバイに跳ねられました。
この細い坂を兄を追いかけて走って行き、先の✕印の地点で事故に遭った。
道の手前で親の言いつけ通り、一旦立ち止まりました。
オートバイがこちらに走ってきていることは認識しておりましたが、オートバイが来る前に走って道を渡り切れると、自分の走力を過信して飛び出してしまいました。
駄菓子菓子、思いのほかオートバイは速かった(汗)
はっと、左を向いた時、間近に迫って来るオートバイが見え、運転手の顔がひきつっていたのを鮮明に覚えております。
当時の運転手は、ほとんどヘルメットを被っていませんでしたので、その表情まではっきりと見えました。
「あっ、ヤバイかも」って一瞬思いました。
ぶつかった瞬間から意識はないのですが、オートバイのどこかに引っかかったらしく、20メートルほど引くずられオートバイは右側に転倒、私はオートバイの反対側に投げ出されたということらしいです。
運転していたのは、近所のガソリンスタンドに勤めるあんちゃんで、ちょうど都会で流行っていたらしい「カミナリ族」のように、スピードを出して走る奴だと言われていた人だったようです。
道の向こう側にちょうど父親がいて、要は、父親の目の前で事故に遭ったわけなのですが、父が駆け寄って抱き上げた時、私の頭からは血がだらだらと流れており、呼びかけても揺すっても反応せずグニャリとしていたという事で、てっきり死んでしまったものだと思ったそうです。
即死とは、痛みも苦しみもなく、一瞬で終わってしまう出来事なんだろうなぁと容易に想像できます。
オートバイは手前から奥の方に走っていった。奥の青い看板付近が事故現場で、私は右側から飛び出した。
当時は、舗装されておらず、砂利道だった。(ネット上の写真を拝借しました)
父は私を抱えて、40mほど坂を登っていったところにある自宅に駆け上がりました。下駄履きだったとのことですが、家に着いた時は裸足になっていたらしいです。
騒ぎを聞いて外に出てきた母親に、父は私を差し出して見せて「こんなになってしまった」とひとことだけ言ったそうで、血だらけのボロ雑巾のように変わり果てた我が子の姿を見て、母は腰が抜ける程驚いたそうです。
しかし私の肉体は、生きるのにのに支障がなかったようで、抜けていた魂が戻りました。
その時戻った霊魂は、以前からのこの肉体の持ち主なのか、すきを狙って入り込んだズルイ奴なのか、それはわかりません。( ̄ー ̄)ニヤリ
家に運ばれて数分後、意識が戻って泣き始めたとのことでした。
泣き声を聞いて、はじめて父は、「あぁ、生きている、大丈夫かもしれない」と思ったそうです。
って、死んでないし。。(汗)
事故現場の空撮。私は左上の角の方向から走ってきて、道路の上方向から来たオートバイと✕付近でぶつかり、黒い屋根のある家の付近(当時は空き地)まで引きずられた。右上の荒れ地は、当時国鉄の官舎が立ち並んでいた。
(Google Mapから借用)
田舎では交通事故など珍しく、窓から野次馬が大勢覗きこんでいるのが見え、何だか妙に恥ずかしかったです。
そう、道を歩いている時に、大衆の面前で滑ってコケた時の気恥ずかしさに似ておりました。
要は、道路を横断するのに失敗したドジな野郎と見られてるのではないか?と恥ずかしかったのです。
頭に怪我をしていることは自分で分かりましたが、不思議に痛みは感じませんでした。β-エンドルフィン、ガンガン出ていたのでしょうね。
子供心に、脳みそが出てたら困るなぁなんて思いました(^^ゞ
怪我の程度を知りたくて、「頭、割れてる?」って聞きたかったですけど、泣いている最中ですので、いきなり泣き止んで聞くのも変だと思い、とうとう聞けませんでした。( ̄▽ ̄;)
「ちょと泣いていないと格好がつかない」という気持ちがありましたので、泣き続けました。
子供の頃を思い起こせば、泣いている時に冷静に周りを観察したり、人の反応を窺ったりしていた事があります。(笑)
しかしその後は意識が途絶えては戻り、また途絶えては戻りを繰り返しておりました。
きっと、あの世とこの世を行きつ戻りつしていたのでしょうね。
しかし、お花畑や三途の川、死んだじいちゃんなどは、見た記憶はありません。
それまでの人生が走馬灯のように見えたかというと、まだ4歳ですから走馬灯が回るほど生きておりませんし、そもそも走馬灯などというものの存在を知ったのはだいぶ後のことです。
事故現場を反対側から望む。左に黒い屋根の家が見えます。
周囲はというと、こんなに山深いところです。。(ネットから、写真を借用しました。)
田舎だったため救急車などなく、自宅で応急処置をした後、父の運転するクルマで、となり町の病院に運ばれました。
家を出た時にはまた意識がなくなっており、次の場面はこの車の中のほんの数分間だけです。
誰かが呼んでいる。うるさいし、煙草臭いし。。気がついてみるとクルマの中でした。
私を抱いていたのは、母ではなくガソリンスタンドの社長で、しきりに「ごめんよ、ごめんよ」と言っておりましたが、その時は「なぜこの人に抱かれているのか」の事情が飲み込めず非常に不快で、少し暴れました。(汗)
車の中で意識を取り戻した時、ちょうどこの薬師神社の鳥居の前を走っていました。
薬師様ですから、偶然ではないのかもしれません(^^ゞ
この道は、昔の主要県道なのですが、まるで農道並みの道幅です。
はっきり意識が戻ったのは、病院に着き処置台に乗せられた時でした。
事故後、どれだけ時間が経っていたのかわかりませんが、すでに日が暮れて外は真っ暗になっておりました。
「服を切っていいですか?」と看護婦さんが父に聞いていました。
白のランニングに、水色のオーバーオールの半ズボンをはいていましたが、ジョキジョキと服も下着も切られ、裸にされたのでちょっと恥ずかしかったです。
不安も恐怖も安堵もなく、ただおとなしく、なされるがままにアチラコチラ処置されましたが痛みは感じませんでした。その後、頭の傷を縫合する持針器のカチャいう音が部屋の中に響いている以外ものすごく静かで、無影灯が眩しかったのを覚えております。
病室に移されてしばらくした時に、若い看護婦さんが、「今日、外に落ちていたの、可愛いでしょう」と言ってツバメのヒナを見せに来てくれました。
哀れな4歳児を慰めに来てくれたものと思いますが、事故のショックが強すぎて感情鈍麻となっていたのか、可愛いとも何とも思いませんでした(^^ゞ
頭部挫傷、頭蓋骨は頭頂部左右2箇所で骨折しており、全身に擦過傷多数。
頭部は十数針縫合。出血多量で、輸血されたということは後から聞きました。
一番ひどかった右膝の傷は瘢痕として残っており、頭頂部の骨折部位は今でも触ると陥没があるのがわかります。(;´д`)
その後、何日入院していたのかよくわかりませんが、非常に長く感じました。薬が苦く一回吐いたこと、傷の消毒が痛かった事を覚えております。
CTなど無い時代ですし、頭蓋内がどうなっていたのかわかりませんが、幸い神経障害もなく治りました。
運ばれた病院の跡地。現在は県立病院となり新築移転している。
4歳の時の出来事ですが、今でも事故前後の情景が、あたかも映画を見るが如くに鮮明に思い出されます。
オートバイの前に飛び出した私が悪いのは明らかですが、オートバイの運転手がその後どうなったのか、全く知らされないまま今に至っております。
現在で言うPTSDですが、暫くの間外で遊んでいる時にオートバイの音がすると、血相を変えて家に逃げ帰っていたそうです。その辺の記憶は、、そう言われれば、そうだったかもしれない程度の4歳児の記憶で定かではありません。
その後の少年時代は、右膝の傷跡が恥ずかしくて、半ズボンをはくのが苦痛でした。
こんな傷物になってしまい、何と不幸な事故に遭ったんだろうと、己の運命を呪ったこともあります(笑)
それから、「頭を打ってバカになったのか、頭を打ったのが幸いして少し利口になったのか、果たしてどっちなんだろうか?」と、真剣に悩んだ時もありました(笑)
知能に対する頭を打った影響は、、、多分無いと思います( ̄▽ ̄;)
これ以上強く頭を打ったら、死ぬだろうという限界は見たような気がします(笑)
それ以来、あの事故の時に死ななかったのだから、不慮の事故で死ぬような事があるはずがないという、確信にも似た妙な自信がありました。
科学では説明できない不思議なことは、この世に存在します。
私の守護霊は、かなり強いかも。。。。(^^ゞ
危険な目には何度となく遭遇するので、運は悪いのかもしれませんが、不思議な事に大きな怪我をすることもなく現在に至っております。
この世は修業の場で、修行を終えたものがあの世に呼ばれていくという話をどこかで読んだことがあります。
命あるもの、いつかは死ぬ運命にあり、生物学的には自身のDNAを子孫に残したら、もはや生きている役割を終えた事になります。
鮭ならば、死んで流され、カマキリならばメスに食われている頃でしょう。
それでも私は生きています。
この世には、まだ生きていなければならない「それなりの理由」があるのでしょう。
その役割を終えたなら、定められた運命のままに別れを告げる時が来るものと思っております。
〜縦の糸はあなた、横の糸は私、逢うべき糸に出逢える事を、人は仕合わせと呼びます。
中島みゆきの「糸」は、運命的な出会いを歌った名曲だと思いますが、ここで言う出逢いは、男女の出会いだけではないなぁと私は感じています。
私がみんカラをはじめたのも、たくさんのみん友さんに巡り会えたのも、偶然ではなく必然の事と思いますので、今後とも宜しくお願いいたします。