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2014年03月06日 イイね!

啓蟄

 冬眠を貪っていた虫さんが地上に姿を表し活動し始める日だとか・・・。
とりあえずお仕事はお休みだったので、お出かけしてみた。

 大伴部博麻を知る人は少ないと思うけれど、この人物の顕彰碑を見に行った。

 時代は飛鳥時代、折しも半島では高句麗、百済、新羅、そして倭国の影響下にあった加羅(任那)が勢力争いを繰り返していた。地理的には現在の北朝鮮の領域が高句麗。結構この国は強かった。そして現在の韓国の左半分が百済、右半分が新羅。そして百済と新羅に挟まれた今の釜山辺りに加羅があった。

 当時の大陸は唐の時代。名実ともに巨大な勢力を誇示していた。言わばアメリカみたいな存在ではあった。

 高句麗は南下政策で、しばしば百済や新羅の領域を攻め新羅は新羅で加羅(任那)を攻め立てていた。百済は後ろ盾に倭国を頼み、皇太子を人質として飛鳥に差し出していた。
 倭国は半島の出先だった任那を新羅に侵略され、残る領域は百済に割譲して直接的には半島に対する関与を弱めていた。

 唐水軍は海から、そして新羅は陸路で百済を挟撃し、百済王は捉えられ国は滅んでしまう。
 ただ、百済の領域では鬼室福信がゲリラを組織してまだ戦っていた。そして飛鳥に居る百済王皇太子余豊璋の帰還と倭軍の救援を求めてきた。

 当時は斉明天皇の時代。倭国は鬼室福信の要請を受け入れ百済王皇太子余豊璋を援軍付きで送り返し、百済再興の戦いに積極的に関与し始めた。

 倭の援軍を得た鬼室福信は次々に失地を回復しつつ有ったが、その才能を恐れたのか百済王皇太子余豊璋は鬼室福信を無実の罪で裁き殺害してしまう。

 百済再興ならずと唐は再び海路、援軍を送る。当然倭国も援軍を送る。そしてこれが白村江の戦いにつながり、倭軍は壊滅的な敗北をきすることになる。

 長々と書いてきたけれど、大伴部博麻を語るには彼が過ごした時代を知る必要があるからだ。

 斉明天皇は長子、中大兄皇子とともに九州まで出張り、朝倉宮を行宮として九州中から兵を集め、博麻はその中の一人で現在の八女市上陽町出身、軍事担当氏族大伴氏の部民として徴兵された。

 そして大敗北。博麻は捕虜となり唐の長安に連行された。捕虜とはいえかなり自由に行動は出来たようで、数年後どうやら唐は渡海し倭国侵攻を企てているらしいと言う情報を掴む。

 「なんとしてもこのことを、日本(即位した中大兄皇子、天智天皇は国号を倭から日本に変更した)に知らせなければならない」しかし虜囚の身、帰国費用ががない。

 博麻は、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝の子の四人の俘虜仲間にこう言った。

 「ワシを奴隷に売れ。そのお金で皆、日本に帰るのだ。そして唐による日本襲来計画のことを伝えてくれ」

 博麻は奴隷に売られ、その売却代金をもとに、四人は衣服、食料、旅費を調達して、日本に向かった。

 天智10(671)年、四人はようやく対馬に到着し、報告は直ちに「筑紫國大宰府政庁」に伝えられ、天智天皇に奏上された。

 現代の情報戦では考えられないほどの遅い伝わり方だけれど、当時はこれでも速報の部類で、大宰府に水城を作り、飛鳥から守りの堅い近江に遷都し、対馬の金田城を始めとする進入路には城と狼煙台を築く余裕はあった、また東国から防人も集められた。

 で、ここで博麻は自ら奴隷に売られることを志願したのかと言う疑問がある。と言うのも帰国できた4人、筑紫君薩夜麻。筑紫君と言えば九州では一番位が高い。そして後の三人は全て連(むらじ)姓だ。言わば貴族。一兵士だった博麻が売られたのはむべなるかな・・・・と。

 ところが奇跡か神がかり・・・。博麻は30年経って帰国出来たのだ。

 この、己の身を奴隷に売ってまでして情報を伝えた「大伴部博麻」の国を想う忠誠に、時の女帝・持統天皇が、博麻に贈ったのが、次の勅語と、階位と報償の数々だった。

 朕嘉厥尊朝愛国 売己顕忠

(朕は、朝廷を尊び、国を愛し、己(おのれ)を売ってまで忠を顕したことを感謝する)
 持統天皇は、大伴部博麻に、従七位下の位を与え、絹織物十反、真綿十屯(1.68㎏)、布三十反、稲千束、水田四町の報酬を与え、さらに課税を父族、母族、妻族まで免じている。

 そして今日にいたるまで、天皇が一般個人に与えた「勅語」というのは、これが最初で最後なのだ。

 でこの顕彰碑、制作されたのは江戸末期。いかに尊皇攘夷の気風に満ちあふれていたとはいえ、中央からみれば僻地に近い山村に日本書紀に書かれた記事を読み解く知力と顕彰碑を作り上げられる資金力を持った人々が居たという事実がこの国の地力なのだろう。

 右の柱「尊朝愛国(そんちょうあいこく)」
 左の柱「売身輪忠(ばいしんゆちゅう)」


Posted at 2014/03/07 17:40:34 | コメント(1) | トラックバック(0) | 古代史 | 旅行/地域
2013年07月07日 イイね!

古代史をお勉強する上で重要な書物がある・・。

 日本書紀、古事記などは我が国の正史として編纂された最古の資料では有るけれど記述に矛盾も多くあり、記載された事柄が100%正しいとは言い切れない。

 そこで同時代の資料を見てみると、時代を更に遡って隣の大陸の王朝史が存在する。
中国4千年の歴史と俗には言われているけれど、中国と言う国家は一度も存在した事はない。ただ地域名称としては有ることになっている。英語名のChina、日本語読みで支那は始皇帝の起こした秦の呼び名である。兵馬俑で有名な秦の始皇帝、初めての皇帝と言う普通名詞で固有名詞ではない。恐らく現在の中国人でも始皇帝の本名を知っている人たちは少ないのでは無いかと思えるほど始皇帝の名が独り歩きしている。本名は嬴政(えいせい)。
 従って明確にあの地域を初めて統治したと称する始皇帝が現れてまだ2200年程度の歴史ではある。その間でも北方系異民族の統治支配が1600年間ほどあり、純粋の漢民族などは現存しないようだ。

 それはともかくとして、漢字を使用して記録を残していたのは、この地域、所謂中国だけだったので、書きたい放題、好き放題に記録を書き残している。ただ、面白いのは王朝の交代が激しいものだから、正史として後世に残す資料は前王朝が滅んでから次の王朝が編纂する仕組みになっている。従って現在の中華人民共和国の前の王朝である中華民国、その前の清王朝の正史はまだ編纂されては居ない。

 日本のように政権が変わっても国が変わる事が無い国から見れば、彼の国は政権が変わる事は国が変わってしまう事なので、その様な配慮が必要なのだろう。

 そんな彼の国の歴史書には周辺諸国についても記録している。我が国で特に有名なのは魏志倭人伝なのだけれど、正確には『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の事である。いわゆる邪馬台国の記述があり古代史のロマンを掻き立てられるので人気のある記事だ。

 そして時代が下り『隋書』倭国伝にも相当詳しい記事があり、こちらは使者の見聞録まで記載されているのだけれど、我が国ではあまり一般的には解説されていない。

 その記載された事柄があまりにも我が国正史である、古事記や日本書紀の記述とはかけ離れているせいでも有るのだけれど・・。

 随の時代は我が国では聖徳太子の時代で、小野妹子が遣隋使として派遣されている。あの「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)の国書を持参したことで有名である。

 古事記や日本書紀では推古天皇の時代で女帝であり飛鳥の都で聖徳太子が摂政として政務を司っていた事になっているけれど、隋書の記載ではアマタラシヒコが大王で都は九州島内を指し示す記述になっている。

 ただ、客観的資料の方が当事者資料よりも正確だとする見方もあるので、この隋書の研究も深める必要が有ると思われる。

 その隋書にこんな記述もある。
「新羅百済皆倭為大国 多珍物並敬仰之恒通使往来」(新羅・百済は倭国を大国とする。優れた品々が多いからで、倭国を敬仰して常に使いを往来させている)

今日の半島人が語るのとは全く逆の史実だ。それにしても「敬仰」とはすごい表現ではある。

 そんな雨が降り続いてせっかくのお休みが台無しになってしまったお昼ごはんはIKEA
のカレー・

 何時ものパン屋さんで明太フランスパンなどを購入。明日の朝食だ。
Posted at 2013/07/07 01:10:30 | コメント(3) | トラックバック(0) | 古代史 | 趣味
2013年06月04日 イイね!

生活の知恵

 先日行った高瀬裏川の石橋は知恵と工夫で溢れていた。この菊池川流域は古代からかなり開けていた場所で、この地で産出された阿蘇凝灰岩製の棺が奈良大和の古墳から出土したりする。
 古代にこの地から延々と大和まで10tにもなんなんとする巨石の石棺を運ぶ技術たるや相当の物があったと思われる。

 この人工の掘割は江戸期に菊池川の流域から集められた米の集積地であり出荷港だった。

 石橋は大八車の轍に合わせて浅い彫り込みが橋の端に彫り込まれ、脱輪を防ぐ仕組みになっている。

 こちらは、両側がやや高く真ん中に窪みを持た手押し一輪車が通行しやすいように工夫されている。

 コチラの写真は食事をしたお店の庭なのだけれど、かなり手の込んだ竹の装飾で飾られていた。


 玉名周辺は温泉ありグルメ有りミステリースポット有りで、のめり込むと楽しい場所ではある。
Posted at 2013/06/04 17:55:09 | コメント(2) | トラックバック(0) | 古代史 | 旅行/地域
2013年01月21日 イイね!

朝から雨が、この時期としてはややまとまった雨量らしい。

 4休が今日でおしまい。朝からノンストップで中島みゆきが歌っている。ボリュームを絞っているにもかかわらず、解像力は良い。写真で例えれば、粒状性もダイナミックレンジも広がったようだ。

 我が車アクシオには交通安全のシールが目立たない車内に貼り付けてある。京都平野神社のお守りシールだ。

 この神社の祭神も得体のしれない神様ではある。昨日のブログで書いた、風浪宮、高良大社、筥崎宮の三社には共通している事がある。無論祭神が共通しているのだけれど、それだけではない。下の地図を見てほしい。

 本殿の向き、参道の方向が三社一致している。その方向は北西。この参道を北西に延長してみるとそこには・・・・。

 おおよそ朝鮮半島の南部にかつて存在していた倭人の領域、金官伽耶国辺りに行き着く。

 白村江の戦いで、唐新羅連合軍に完膚なきまで破れて、百済が滅びそして半島に倭人居留区が消滅した。斉明朝の時代、中大兄皇子や大海人皇子、額田王の時代だ。

 それに先立つ時代に積極的に半島に関わった神功皇后。神となっても半島に睨みを効かせているのだろう。

 などと、わび飯のあと自家製ホットケーキなどを頂きながら・・・。

Posted at 2013/01/21 16:05:20 | コメント(1) | トラックバック(0) | 古代史 | 趣味
2012年11月04日 イイね!

古事記と日本人についての講義

 世が世ならばこの方も皇位継承権があったはず。
それだけに説得力がある。

 この動画の最後の方に、全国のホテルに著作である古事記を一万冊も寄贈した話がある。確かに何故かホテル各室には聖書は備わっている所が多いけれど、その聖書と並んで古事記が置かれている風景を想像すると日本人であることが誇らしげに思えてくる。

 世界中のホテルに古事記の訳本が置かれる日がくれば、世の中も少しは平和になるのかもしれない。
Posted at 2012/11/04 17:53:45 | コメント(1) | トラックバック(0) | 古代史 | 日記

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