いまから100年と少々昔、明治40年の夏に与謝野鉄幹が大学生だった文学青年4人を引き連れて九州旅行をした時の探訪記が東京二六新聞に掲載された。
この紀行文を読んでいると、当時の天草がどんな所だったのかがよくわかる。
段落を付け、理解しやすいように原文を今風に少しだけ書き換えた。
蛇と蟇 (八月二十日)
富岡より32kmの道を大江に向ふ。難道だと聞いた。天草島の西海岸を北より南へ、外海の波が噛みつくがりがりの石多き径に足を悩ましつつ行くのである。
土痩せたる天草の島は稲を作るのに適せぬ、山の半腹の余裕なき余裕を求めて甘藷(かんしょ)を植えている。島民は三食とも甘藷を食ふ。
或る処は川が路である、点々たる石を伝ふて辛うじて進む。その多くは塁々として砂礫(されき)尽くるなり荒礫左に聳(そばだ)つ嶮山(けんざん)の裾(すそ)を伝ふて行く。
歩くのが早い与謝野鉄幹、木下杢太郎はずんずん先へ行く、目的はパアテルさんを訪問することにある。足の遅い吉井勇、北原白秋、平野万里は休み休みゆっくり後から来る、目的はそうなのだけれど、道中で自然の風景や人々の暮らしぶりなどを見聞するにある。
大岩にひびが入り象形文字の様に見える断崖の下をを廻る処ではぐれてしまった。振り返れば淡く霞んで富岡半島がまだ見えた。16km程は来ているのではないだろうか。
茶屋の婆様に「婆さんの言葉はちっとも分らぬ」と言ふと、「あんたがたの云はっしゃる事も分かりまっせんと言った」。「婆さん子供があるかい」。「ありますとも」。「幾つだい」。「幾つだって大勢居るさあ」。「爺さんは居るのかね」、「爺さん居らつさんば、ちっとん楽しみも無かとで御座いますたい」。と言ったので皆吹出してしまった。この歯抜け婆さんは愛嬌がある。
暫く行くと先に立った北原白秋がぴたりと止まった。1.5m余りの大かがち(蛇)、紅き地に黒き斑(まだら)を物凄く染め出した縞蛇(しまへび)が犬の頭ほどの蟇(がま)を呑みかけている。岸を打つ波の音は白い、山を吹く風は青い、その間を縫う径の中央で蛇が蟇を飲む。
三人は呆れて眼を見張って突立った。人が居ると知るや知らずや、蛇は長き体をうねうねとうねらせて草の中へ引きずり込もうとする、蛙は弱いが重い、前足の一つを噛まれて硬くなって動かない、或は既に死んだのか知れん。
強者弱者を食ふ、比ぶるものなき残忍なる行為だ。自然の一部には眦(まなじり)をさいて呪ふべきものがある。「許せん」と路傍の大石を空高く振り翳(かざ)したる吉井勇は近(ちかづ)いた。「やっ」と言ふと蛇は砕けた、と思ひの外どうも無い、打たれて痛かったのか暫くは動かぬ、今度は赤い舌をぺろぺろ吐いた、吐いた舌を従順なる蟇の背に向け食ひついた、「くわ」っと怒った吉井勇は此(この)時他の石を拾った、今度はと思ったが失策(しくじ)った、中(あた)つたが死なぬ、するすると伸びて叢(くさむら)へ逃げ込んだ、そら来たと言って吉井勇は海の方へ逃げ出した、平野万里もあわてて逃げ出した、北原白秋は後の始末を見届けて、何れも波打際に転がって居る石を渡って行く事にした。
途中に小さい炭鉱があった、古ぼけたボイラーが破れた家根の下で燻(いぶ)って居る。山を腹に穴を明けて石炭をえぐり出す、奥を見ると真暗な穴の入り口に裸の男が暑さうに寝ていた。
暫く行くと道は山へ登る、羊歯(しだ)が青々と一面に繁って暖き南の国の香を送る。脚下の白い波をたどると水平線が大分高まって居る。杉の木立が黒ずんで山麓を飾る、その間から紺碧の海が見え、涼しい風が吹く。汗は背、腹を洗ひ、頭から流れるものは眉を溢れて頬に伝ふ。水あれば水を飲み、茶あれば茶を呼ぶ、今朝から平均一人五升も飲んだか、腹がだぶだぶする、胃はもう沢山だといふ。喉はもっと欲しいと促す、勝は常に喉に帰した。
山の方が道は楽である。峠を越す事二つ三つにして下津深江といふ湯の出る港へ着いた。午後二時。先着の与謝野鉄幹、木下杢太郎が待って居た。農事講習会の災する処となって茶屋も宿屋も断られ、大いに困って此処(ここ)へ頼んだといふ、瀟洒(しょうしゃ)なる物売る家の二階に通る。老主人来る、頗(すこぶ)る慇懃(いんぎん)である。一体この辺の言葉はとんと素人には分らぬ、それかあらぬか、老人は気を利かして一切土語(どご)を語らぬ。「君達は」と口を開いた、これは最上の敬称代名詞の積りと見える。「いづ方へ参られまするか。」又言ふ「道は甚(はなは)だ険道(けんどう)でありまするとは雖(いえど)も。」又言ふ「必ず似て参られまする、は、は。」その代わりよく分った。梅干しも奈良漬も皆甘かった。
一休みして、大江迄もう四里、訳はないと、三時を過ぐる幾分に出かけた。
与謝野鉄幹の詩 島原
今宵の客は唐津から
酒を積み来た船乗衆。
港を埋むたけ高き
無花果(いちじく)、木原色街の
海に臨める欄干(てすり)には、
ふんどし一つ、黒々と
裸のそろひ、さかなには
大皿に盛る瓜、西瓜。
むし暑き夜や、なまぬるき
海の風ふく たはれ女(め)も
胸乳(むなぢ)あらはに衣(きぬ)ぬぎて
紅木綿なるゆもじのみ
わづかに掩ひ、上目して
客衆の膝によりかかり、
はた、肱をつき、腹ばひて
醗子漿(ほほづき)ならすしだらなさ。
ほろ酔(ゑひ)きげん、船乗は
胡坐(あぐら)をゆすり、手をば打ち
さっさ歌へと猥らなる
唄のかずかず。芸妓衆は
汁しづくして三味を弾く。
中に、しら髪(が)の爺(ぢぢ)一人、
しやがれし声に追分の
その一節ぞあわれなる。
下を通るは、かあちかち、
辻占を売る引板(ひだ)の音。
「よき運ひらくか、ひらかぬか、
待人きたるか、きたらぬか。」
奴子すがたに肩ぬぎし
声よき艶女(やしよめ)、ちりめんの
襦袢の袖の緋の色に
島原の夜はなまめきぬ。
九州人は原という字が下に来る地名を凡て「ばる」と云ふ。島原も「シマバル」だ。風俗の淫靡なことは有名なものだ。良家の処女と雖(いえど)も他国から来た旅客が所望すれば欣々として枕席(ちんせき)に待する、両親が進んで之を奨励する。他国人と一度関係を結ばぬ女は縁附が遅いと云ふ程だ。
恐らくこの半島や島では狭い地域での近親婚を避けるために、外者歓待の思想いわゆる沖縄など黒潮文化圏のまれびと信仰の名残がまだ残っていたのではないかと思われる。
Posted at 2011/10/14 20:30:37 | |
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