ごきげんようございました。
見る人によっては不快になるブログです。
それでもご覧になりたい方だけどうぞ。
あぁ、
先日のブログの煮え切らない、腑に落ちないモヤモヤした気持ちはこれだったんだよ。
DIYと自己責任っていう言葉に対するモヤモヤ。
以下、あるサイトから抜粋。
あぁ、そりゃあ自分の言葉じゃないけど
自分に足りなかったもんをより雄弁な人の言葉によって補完しているだけッス。
(抜粋ココカラ)
「上から目線」という言葉がある。人を見下したような、自分が相手より上に立っていることを前提にしたような考え方・発言という意味だが、
自己責任論をふりかざす人たちに共通しているのが、その「上から目線」だ。というか、自己責任論は必ず「上から目線」になる。「上から目線」のないところに、自己責任論は生じない。
なぜなら、自己責任論とは、そもそも仕事がうまくいかなかったり、生活が立ちゆかなくなったりした人たちに対して、
うまくいっている人たちが投げつけるものだから。
自分で「がんばろう」と思う気持ち、それは大切なものだし、自分がそれだけの“溜め”をもっていることの証(あかし)でもある。
しかし自己責任論は、“溜め”がなく、がんばれなくなってしまった人たちを、さらに痛めつけるために使われる。「努力しないのが悪いんじゃないの?」、「甘やかすのは、本人のためにならないんじゃないの?」、「死ぬ気になればなんでもできるんじゃないの?」--すべて、弱ってしまった人たちに向けられている。
努力したかどうか知らないが、とりあえず現状でうまくいっている人、甘やかされなかったかどうか知らないが、さしあたり生活に問題がない人、死ぬ気になっているかどうか知らないが、とにかくできている人たちに対しては、そもそもそんな問いは投げかけられない。うまくいかなくなったとたんに、「努力してるのか?」、「甘えてないか?」、「死ぬ気になってるか?」と問われはじめる。
もうひとつの共通点は、
これらの自己責任論的問いにはいずれも答えようがない、ということだ。努力が足りないんじゃないかと言われれば、そうかもしれないとしか答えようがない。甘えてるんじゃないかと言われたときも、死ぬ気になってないだろうと言われたときも、同じ。それらはいずれも底なしでキリがなく、「自分が足りないのだろうか?」と思いはじめたら、どこまでいっても問題を自分に投げ返しつづける。
自己責任論は、そうやって問いが社会に投げかけられるのを防ぐ。出てこないように蓋(ふた)をする。
そして本人の中に「なにかおかしいんじゃないか? 自分が不当な扱いを受けているんじゃないか?」という問いを閉じ込める。自分で自分を痛めつけるように、その疑問が外に、社会に出てこないように封じこめる。結局は「文句言うな。黙れ」と言っているのと変わらない。
自己責任論の一番の目的、最大の効果は、相手を黙らせることだ。
弱っている相手を黙らせること。これは弱い者イジメだ。
(抜粋ココマデ)
まぁ「自己責任」という言葉の持つ一面だと思います。
(これが全てとは言いません。謙虚な忠告として使われている方もいらっしゃいます)
先日のブログで言いたかったのが、
「自分でできる人の上から目線」が鼻につくなぁってことでした。
※言っておきますが、僕はこれによってDIYを否定している訳でもないし、
弱者の理論を振りかざしてダメ人間のダメさに免罪符を与えてる訳でも
ありません。
人より能力に秀でているからといってそれを鼻にかけて、
自分より能力の劣る者を無能者呼ばわりし、
その発言を蔑視する人間に砂のひと握りでも投げつけてやりたいだけです。
Posted at 2012/05/10 22:55:21 | |
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