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Z34-MIKOTOのブログ一覧

2016年02月28日 イイね!

2年振りのガラスコーティング

撥水し続けているのですっかり忘れてましたが前回施工は2013年の11月11日
2年以上経過してました・・・

やるなら新しいポリッシャーも買おうかな〜って事で
少し前からポリッシャーや新しいコンパウンドを買ってみたり、置いといたハズのコーティング薬液が無くなってるのに気付いて新しいの取り寄せたりw



これ、店頭だと新商品と入れ替えられてて置いてないんで
通販で取り寄せました



先ず洗車で汚れを落として磨き



磨き終わったらまた洗車でコンパウンドを洗い流して脱脂

脱脂重要ですよ〜




ガラスコーティングの作業はここまでがメッチャ大変
コーティング自体は拍子抜けするほど簡単ですが、この下地作りがあるから毎回やる前にかなり悩みますw

そしていよいよお出まし



施工に必要な物はビニール手袋に至るまで全て入っています
そして付属の説明書は昆虫でも分かるくらい簡単です
つまり誰にでも出来ます

基本、パネルごとに薄く塗り伸ばす
そして10〜15分ほど乾燥させて拭き取る
の繰り返しなんで本当に簡単で楽

すぐ終わります



仕上がって完全硬化まで約1週間くらいかな?
説明書にはそう書いてあるけど、経験上翌日には艶々で3日くらい経てば洗車もOK



来週もう一度重ね塗りして完了です




Posted at 2016/02/28 22:03:35 | コメント(0) | トラックバック(0)
2016年02月19日 イイね!

世界が称賛したこんなに勇敢で誇り高い日本人が居たという事実をもっと学んで欲しい。マルタ島の英霊たち。





我らの先人たちが眠るマルタ島。
なぜここに?

地中海にあるマルタ島。
そのカルカーラの丘の英海軍墓地の一隅に、「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」が建っています。

なぜこんな遠くの地に、しかも墓碑までもが建てられたのでしょうか。

3人の共産主義者のセルビア青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺したサラエボ事件に端を発した第一次欧州戦争。オーストリアの同盟国はドイツなど。 

これに対しセルビア側にはロシア、フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、日本などの連合国が対峙しました。

この第一次欧州戦争でドイツはヨーロッパ戦線が膠着していたため、ドイツは地中海で潜水艦Uボートによる無差別攻撃を決行しました。そのため兵員などを輸送する連合国の船舶被害は激増しました。

これに音をあげたイギリスは同盟国でもある日本に派遣を要請します。

我が国には大戦当初、支那の青島やマリアナ諸島方面に展開するドイツ海軍に対する作戦もあり、艦艇を地中海に派遣する余裕はありませんでしたが、連合国の輸送船を護衛するために、巡洋艦「明石」と駆逐艦8隻からなる第二特務艦隊を地中海に派遣することにしました。

日本の艦隊が現地到着した頃には連合国の艦船被害は甚大であったため、我が帝国海軍は長期行動であるにもかかわらず休養もないまま直ちに護衛任務を要請されました。
船舶の護衛とともに被害を受けた艦船の救助活動も重要な任務でした。

戦闘中の救助作業は自らを危険にさらすことでもあり容易なことではありませんでした。

また救助活動で多数の救助者が艦内に収容され食料や水はたちまち底をついたにもかかわらず、日本兵たちは自分たちの食糧はおろか、衣類や寝場所まで彼らに与え、自分たちは空腹と不眠のまま任務を遂行しました。

大正6年5月、我が帝国海軍の「榊」、「松」の駆逐艦2隻は、魚雷攻撃を受け沈没していく兵員輸送船「トランシルバニア号」の救援に駆けつけて、敵の潜水艦の目前で、しかも敵と戦闘しながら、なんと乗員約1,800名を救助しました。

これは奇跡ともいわれるくらい常識破りの行為であり、帰港したイタリア・サボナでは帝国海軍の日本兵たちを英雄として大歓迎しました。

また、大正7年、駆逐艦「桃」「樫」は、魚雷を受け自力で航行出来なくなった英船「パングラス号」を不眠不休3日3晩、戦闘しながら、しかも潜水艦に襲撃される危険も恐れずに同船を曳航してマルタに無事届けました。

この快挙にマルタの町は感極まって日の丸で迎えてくれたのです。

同じ年、英船「カメロニアン号」にドイツ潜水艦が魚雷を発射します。帝国海軍は発見が一瞬遅れますが、日本の駆逐艦はそこに果敢に全力で突入して、自らが魚雷の犠牲となって輸送船を守ったのです。

これらのことにより帝国海軍は大きな信頼を得て、輸送船の船長の多くは帝国海軍の護衛を望み、日本艦隊の護衛でなければ出発しないという船長が出るほどでした。

この帝国海軍の奮戦振りにイギリスは「地中海の守護神」と称え、世界中からも称賛されました。

これら帝国海軍の活躍に対し、イギリス国王は日本の将兵に勲章を授与し、何と英国議会では議会始まって以来、日本語で「バンザイ三唱」までもが行われました。

これらの任務の中で尊い犠牲もありました。任務中の「榊」が潜水艦Uボートの雷撃を受け大破し、59名が帰らぬ人となりました
他の戦闘と併せて78名が命を落とされました。

しかし、この帝国海軍・第二次特務艦隊の栄誉と勇敢さが称えられ、大正7年にカルカーラの英海軍墓地内に大理石の墓碑が建立されました。
これが「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」です。

その後、第二次大戦で、このマルタ島はドイツ空軍の猛烈な攻撃にさらされ、この時の爆撃でこの墓碑の「大日」の文字が吹き飛ばされ破損してしまいました。

終戦後、マルタ島に訪れる日本人も少なく、この墓碑は30年間壊れたままでしたが、
昭和46年2月、当時の自衛隊・海上幕僚長が訪欧でマルタに立ち寄った時、あまりに破損がひどいので、外務省と協議して再建することにしました。

昭和48年11月18日に復元され、イタリア大使館主催で除幕式が盛大に行われました。

大正10年4月、皇太子であった昭和天皇が欧州ご訪問をなされましたが、まず真っ先に訪れたのがこのマルタの地でした。そしてこの墓碑にご参拝なされ、花輪を供えて英霊を慰められました。
この御心にきっと英霊たちも喜んだことでしょう。

この時、マルタの地では日章旗と皇室の菊の御紋であふれかえったといいます。
その墓碑が再建されたことをお聞きになられた昭和天皇は大変お喜びになられたそうです。 
 
『日本海軍地中海遠征記-若き主計中尉の見た第一次世界大戦-』の解説をしたC・W・ニコルさんはこう書いています。

「80余年の時を経て今、海上自衛隊がインド洋に派遣されているが、派遣の是非を論じる前に世界が称賛したこんなに勇敢で誇り高い日本人が居たという事実をもっと学んで欲しい」

彼はこの本の印税を全額マルタの碑の維持費に寄付しました。

この英国生まれのC・Wニコルさんは平成7年に日本国籍を取得しました。その理由をこう語っています。

「日本が私の家であり、もっとも愛する国だからだ。どの国にもまして私は日本でいちばん多くの時間を過ごしている。家族も友人も世界中にいるけど、私のいちばん親しい人たちはほとんどが日本人だ。
日本は私に衣食住を与え、移動を許し、私を守ってくれる。
こう言うと、よく『日本のどこがそんなにいいんですか』と尋ねられる。
そう聞くのはいつも決まって日本人だ。・・・
私はこれからも誇り高き日本人として、精いっぱい生きていきたい」

と語っています。

マルタの土となった英霊はいまも祖国日本には帰っていません。

英霊たちは、もはや今の日本人は自分たちのことをすっかり忘れ去られているのかもしれないと、そういう思いだろうか・・。

遠い地の英霊たちは遥かなる祖国日本を、今の日本人をどんな気持ちで眺めているのだろう。

引用元
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/30806548.html

俺も偉そうな事を言えるほど立派な人間ではないけど
いや本当、先人達は今の日本を、日本人達をどういう気持ちで見ているだろうか?

有色人種の中でも準白人とされ、何不自由なく、毎日楽しく平和に暮らしているけど、それだけで良いんだろうか?
当時の日本の歴史や日本人を知る海外の人達に、今の日本人は失望感を与えてないだろうか?
と時々、寝る前に考える事もある

まあ具体的にどう在るべきかなんてわからんので、毎日楽しく平和に過ごしている訳ですがねw

あと、最後に紹介する形となりましたが、これは俺が日本の近現代史について興味を持つキッカケとなった話でもあります

学校での近現代史の授業というと、ちょうど三学期辺りで、どうしても駆け足気味になりサーッとやって終わるパターンですよね
年表を語呂合わせで覚えてテストに備える、みたいな

もっと早く知りたかった
その一言に尽きる

Posted at 2016/02/19 19:31:26 | コメント(0) | トラックバック(0)
2016年02月18日 イイね!

それでも日本を愛していますパラオ。『帝国軍人が貴様らごとき"土人"と一緒に戦えるか!』




1885年、パラオはスペインの植民地となり、圧政と虐殺、天然痘などで、6万人いた人口は6000人に激減。実に90%もの人々が亡くなった。
いかにひどい植民地政策だったかが分かる。

1899年にはドイツに売却されたが、同じくドイツも搾取と略奪を続ける。

第一次世界大戦終了後、パリ講和会議で日本の委託統治領と決定。

帝国主義の白い蛮人たちはパラオの人々を人間とは思っていなかった。
教育も与えず、インフラ整備も一切行わない。いかに搾取するかだけを考えた統治だった。

しかし、日本は違った。

学校、病院、電気、道路などのインフラ整備を行い、住民の生活向上に力を入れる。
特に教育に関しては、日本本土とまったく同じ人種差別なき政策を実行。

優秀な子供たちが続出し、「パラオ人も、やればできる」と彼らに大きな自信を与えた。

日本敗戦後、パラオはアメリカ統治となった。

アメリカは俄烈な日本叩き教育を行う。
浸透していた日本文化の徹底的な破壊。
二宮尊徳像をぶち壊し、神社を破壊。

「日本は残虐」「日本は悪魔」「日本はパラオ人を虐殺した」と長期にわたり学校教育を行う。

ところがパラオ人は、誰も信用しなかった。

特に日本統治時代を経験した年長者たちが、
「何を言いやがる。日本は素晴らしい。日本統治時代が一番良かった」と激怒した。

パラオは世界有数の親日国である。



にもかかわらずパラオの歴史を多くの日本人は知らない。
これでいいのだろうか。

反日国を大事にし、親日国を粗末にするのは間違いだと思う。

パラオなどの南洋諸島の国々は大の親日国。日本の統治下に置かれ、激戦地となり、多くの現地住民が犠牲になったにもかかわらず、ほとんどの人は日本が大好きである。

人口の少ない小国家ばかりだが、「国連加盟国」として、いつも日本に味方してくれる。

国連議決などでは常に日本を応援し、「貴重な一票」を投じてくれる。

「チチバンド=ブラジャー」「シコーキ=飛行機」などなど、パラオでは日本語がそのままパラオ語となった単語が600近くもある。
それほど、愛している。

■ペリリユー島

気温は35度近くはあるだろう。
湿気が高く、立っているだけで汗だくになってしまい、Gパン、Tシャツ、カメラマンベストはグッショリ濡れてしまう。

2012年、大型台風がこの島を直撃し、風が吹き荒れ、家屋が倒れ、木々はへし折られてしまった。
役所の屋根は吹き飛び、現在でも荒れた状態で使用している。

以前から「日本人が造った建物は頑丈だから、台風が来たらその中に避難しろ」と教えられていた。
80年ほど前に建てられた日本軍総司令部・発電所・倉庫などだが、最大瞬間風速70メートルでもびくともしなかった。

人口わずか600人の島民の力だけでは補修工事を行うのは難しいかもしれない。
平均月収が300ドル程度の人々が資金をつくるのは大変なのだ。

ペリリユー島と日本との関係は、涙なくしては語ることができないほど深い。
島の人々も、かつての日本軍人を愛していると以前から聞いていた。

兵数、物量とも圧倒的優位なアメリカ軍と死闘を行い、全滅した日本兵。
多くの日本人の命が、この島で散った。「サクラ、サクラ」と打電をして死んでいった。

ペリリユーの人々は「日本兵」の墓、石碑などを大事にしていた。

完壁とは言えぬまでも、しっかりと清掃を行い、守り通してくれていた。

右や左の思想に関係なく、「日本のために死んでいった人々」「日本がお世話になり、日本を大事にしてくれる人々」に対して感謝の念を持つのは当たり前だと思う。
ありがとう!




■それでも日本軍は戦った

こんな美しい島で、これほど小さな島で、日米両軍の死闘が行われたのかと胸が痛む。 「絶対に負ける。必ず命を落とす」
と覚悟を決めた日本兵たちが圧倒的兵力、物量を持つアメリカ軍と戦う。
「一日でも長く、日本に生き延びてほしい。故郷の家族、仲間たちに生きてほしい」との願いで、若者たちが死んでいった。

ペリリユー島での日米両軍の戦いは、ボクシングで例えれば小学生のアマチュアボクサーと世界ヘビー級チャンピオンが戦うぐらいの差があった。それでも戦った。

写真はアメリカ軍に破壊された日本軍の95式戦車。ベラベラの鉄板でできた車体。バズーカ砲で貫通してしまう。
この粗末な戦車が、たった16両。



アメリカ軍は、当時最高峰の性能を誇る分厚い鉄板で装甲されたM4シャーマン戦車が117両。
日本兵の小銃は旧式のおもちゃのような鉄砲。

アメリカ兵は自動小銃や機関銃。
海からは艦砲射撃、空からは徹底した爆撃。
実質的には、まるで勝負にならない戦いだった。

日本軍の状況を的確に把握していたアメリカ軍は、「子供を相手にするような戦闘」だと完全に舐めきっていた。

アメリカ第一海兵師団長のウイリアム・H・リユバータス少将は、こんな小さな島に閉じこもる弱小日本軍との戦いは、2、3日で片づくと見ていた。

アメリカ兵に対して、「諸君に頼みがある。私への土産に日本軍守備隊長のサムライサーベル(日本刀)を持ち帰ってもらいたい」と豪語。

アメリカ兵の中にも、「この戦闘は午前中で終えて、昼からは浜辺でバーベキュー大会をやろうぜ!」と笑顔で話す者もいたほどだった。

ところが日本兵は強かった。

圧倒的な兵士と物量の差をものともせずに戦い抜いた。
「日本を守る。愛する家族を守る」との壮絶な思いで、命を捨てて戦い続け、

アメリカ軍第一海兵師団自体が全滅判定(損失60%超)を受けるほどの損失を与える。

「サムライサーベルをプレゼントしろ」と言っていたリエバ一夕ス師団長は、あまりのぶざまな戦いぶりを糾弾され解任。
そして心労から心臓病を発病するほどだった。

戦争は良くない。当然のことである。
でも圧倒的な戦力を有するアメリカ軍に、当時の日本兵は、どのような思いで戦いを挑んだのであろうか。
なぜ、ここまで命を捨てて戦ったのであろうか。


■「土人」は愛の言葉

 日本兵とペリリユー島の人々は共に語り、唄い、手をつなぐ。固い友情が育まれ、「島民は日本軍人を愛してやまなかった」と言う。

 戦争末期、いよいよアメリカ軍が押し寄せてくる。

実質戦闘員約15倍、兵器物量約600倍の圧倒的にアメリカ軍有利な戦局。日本軍玉砕は確実だった。

 島民は「愛する日本兵と共に戦い、自分たちも死んでいく」と覚悟を決め、中川州男守(くにお)備隊長へ、「自分たちも戦わせてください」と申し入れる。



 日頃、温厚な隊長は、その言葉を聞いた瞬間、激高し、

「帝国軍人が貴様らごとき土人と一緒に戦えるか!」

と大声で怒鳴りつけた。

「土人?」「一緒に肩を組み、歌を唄った日本兵たちの思いは見せかけだったのか?」
「やはり、こいつらは自分たちを見下げていたのだ」と人々は怒りと悲しみで拳を震わせた。

島からの避難船に島民は乗り込む。
日本兵は誰一人として見送る者はいない。

日本人への怒りと憎しみの思いがあふれる。
船が避難先へ向かうため、島を離れた瞬間、日本兵全員が真っ白な砂浜に現れた。



死を覚悟した日本兵たちが笑顔で手を振り、「達者で暮らせよー」と声をかける。
一緒に唄った日本の歌を大声で唄っている。涙で顔を濡らす兵士もいる。
そして、その先頭には「土人」と自分たちを侮辱した中川隊長の姿があった。

ペリリユーの人々は悟った。
「土人」、あの言葉は自分たちを救うため、自分たちを戦闘に巻き込まないためだったと。

島民の目からは、止めどもなく涙があふれた。

■サクラ、サクラ!

圧倒的兵数と数百倍もの兵器、火力を有するアメリカ軍との戦いは、長くても3日だと言われていた。
しかし、守備隊長の中川大佐率いる日本軍は、何と73日間も持ちこたえた。

27隻の戦艦、駆逐艦からの艦砲射撃と高性能焼夷弾でジャングルを焼き払われ、ペリリユー島は丸裸に。
日本軍は通常の戦闘では歯が立たぬと、500有余の洞窟に立てこもり、ゲリラ戦を展開する。

昭和19(1944)年9月15日午前8時、オレンジビーチよりアメリカ軍上陸。
一進一退の日米両軍の肉弾戦が行われるも、圧倒的兵力火力を有するアメリカ軍は徐々に日本軍を追い詰める。

補給を一切断たれた日本兵は、粗末な武器を手にし、水と食料もなくなり、喉の渇きと飢えに苦しみフラフラになりながらも戦い続けた。

11月24日、兵力弾薬は底を突いた。
司令部は玉砕を決定。

中川大佐、村井少将、飯田中佐は自決。
「サクラ、サクラ」の電文と共に玉砕。

11月27日、生き残った兵士55名の万歳攻撃が行われ、日本軍の組織的抵抗は終わった。

 なぜ日本兵は命は惜しまず戦ったか?
 なぜ鬼畜米英と言ったのか?

それは、白人植民地政策を知らずして語ることはできない。

当時は有色人種国家のほとんどは白人の植民地。その政策は残虐そのものに尽きる。

人間を家畜のごとくこき使い、婦女子を犯し、子供であろうとも虐殺する。
そのことを日本兵は知っていた。彼らの残虐さを。

「一日でも長く日本を守りたかった。一日でも長く、愛する故郷、愛する女房子供、お父さん、お母さんを守りたかった」

その思いに尽きると私は思う。

引用元
http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/44186522.html

実はこの話を知ったのはYouTubeの動画w
でも動画ではなく、文章の物が欲しくて辿り着いたのが上記のページ

で、どうもこの書籍がソースになっているような気がする



読書出来るくらい心に余裕が出来たら取り寄せてみるかな^^;

Posted at 2016/02/18 19:11:22 | コメント(1) | トラックバック(0)
2016年02月17日 イイね!

>日本人を救出せよ!トルコ航空機決死のフライト


>エルトゥールル号事件が結んだ架け橋



>昭和60年(1985年)3月17日、イラン・イラク戦争で、イラクのフセイン大統領は48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は無差別に攻撃すると突然通告しました。
>世界中がパニックになり、どの国もイランに取り残された国民の救出に全力を注ぎました。
>日本はこの頃、戦争をうけてテヘランへの直行便はありませんでしたが、日本航空が救援機を飛ばすことになりました。
>ところが、組合がこれに待ったをかけ、飛ばすことができなくなったのです。

>テヘランでソ連のエアロフロート機は自国民を優先し、日本人の搭乗はすべて拒否。オーストリア航空2機とエールフランス機、フルトハンザ機で40余名の日本人が脱出しましたが、なお200人以上日本人が取り残されました。

>伊藤忠商事の森永堯(たかし)氏はトルコのオザル首相と親しく、オザル首相に電話を入れます。

>「トルコ人を優先して救出するのは当然ですが、どうか、日本人をトルコ人と同じように扱ってくださいませんか。今日本が頼れる国はトルコしかありません」

>トルコに援助を求めたのです。しかし、トルコ人も600名も取り残されていたのです。オザル首相からは次のような返事がきました。

>「オーケーだ。すべてアレンジするよ」「われわれは日本人に恩返しをしなければいけないからね」

>オザル首相の指示を受けたトルコ航空は救援のパイロットを募ったところ、なんとその場にいた全員のパイロットが手を挙げました。

>タイム・リミットは19日午後8時20分。トルコ航空の一番機は午後3時にメヘラバードに到着。198名の日本人を乗せて午後5時10分に離陸しました。
>二番機は17名の日本人を乗せ、午後7時30分にメヘラバードを離陸し、イスタンブールに到着したのは午後8時20分でした。ギリギリのところで日本人は救われました。

>残されたトルコ人たちはトルコ大使館が用意した車に分乗し、陸路でイランを脱出し、トルコへ向かいました。このことでトルコ政府に文句を言ったトルコ人は一人もいなかったといいます。

>この頃、なぜトルコが自国民より日本人を優先して救出したのか、日本政府も日本のマスコミもわからなかったといいます。駐日トルコ大使はその理由を短いコメントで表しました。

>「エルトゥールル号の借りを返しただけです」

>明治23年(1890年)9月16日、トルコの軍艦エルトゥールル号が和歌山県大島樫野先付近で台風のため座礁し、機関が爆発して約500名の乗組員が死亡する事件があり、日本は生存者を治療、看護し、イスタンブールまで送り届けたことがありましたが、トルコでは教科書にも載っている話で誰もが知っている歴史的事件だったのです。

>平成11年(1999年)8月17日に発生したトルコ北西部大地震ではテヘランで助けられた商社マンや銀行マンは義援金募集に奔走し、日本政府も迅速に緊急物資や無償援助の提供、レスキューチーム、医療チーム、耐震診断の専門家、ライフラインの専門家が派遣されました。
>横須賀から救援物資の仮設住宅を積んだ海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」では出発前に艦長から次のような訓示がありました。

>「トルコ共和国はイラン・イラク戦争のおり、危険もかえりみずに二機の航空機を派遣し、テヘランに在留していた邦人215名を救出してくれた。日本は、いまこそ、トルコの恩に報いなければならない。トルコのひとびとの友情に応えなければならない。・・・先達が遺してくれた日本とトルコの絆を断ち切るようなことがあってはならない。さあ、すみやかに、トルコへ向けて出発しよう。トルコには日本の支援を待ち焦がれているひとびとがいるのだ」

>日本からの救援物資はトルコへ届けられ、仮設住宅は「日本トルコ村」と呼ばれ、ピーク時には5000人の避難民が身を寄せました。ドアには日の丸が張られ、路地は「東京通り」「神戸通り」などと名付けられました。



>参考文献

 >竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)

 >新人物文庫「海の翼」秋月達郎(著)

 >現代書館「明治の快男児トルコへ跳ぶ」山田邦紀(著)

引用元
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/touch/20120412/1334232564

ここには書かれてないけど日本人を乗せたトルコ航空の旅客機の他、共に飛ぶ飛行機が2機あった

トルコ空軍の戦闘機

このトルコ空軍の戦闘機2機は、イランの領空を侵犯してまで日本人が乗る旅客機の護衛任務を務めたそうだ

最近は超親日国として台湾が取りざたされるが、実は世界で一番の親日国はトルコなんじゃないかと思った
正直、この話を聞いた時は感動しまくった
ええ話やないか(T_T)

去年の年末から公開されてる映画「海難1890」はこの話がテーマになっている
Posted at 2016/02/17 19:25:47 | コメント(1) | トラックバック(0)
2016年02月06日 イイね!

AP1-MIKOTO プラグを交換する

頼んでおいたプラグが到着



ヤフオクは何処ぞの国のコピー品が出回ってるとのことなので今回はamazonで購入

他にもっと良い、知る人ぞ知る高性能プラグはないものかと色々調べてたけど
結局行き着く先はNGK



NGK イリジウムMAX 4本
送料込みで4500円くらい

品番は前に乗ってたDC2 インテグラ タイプRと同じです



初めて知ったけどギャップ調整禁止なんですね



締め付けはトルクレンチにて18Nで
もう先日のような苦労は御免ですw

エンジンオイルのドレンボルト締め付けにしか使ってなかったから役割が増えたな・・・


プラグを交換して空吹かししてみたけど変化は分からずw

応急で付けてた中古のプラグよりはいいかな?
けど中古のプラグは見たところ番手が一番上のイリジウムレーシングプラグ
条件が違うので劣化品と新品の性能比較は出来ないorz

明日、美容院行く時に距離走るから楽しみにしときます

Posted at 2016/02/06 16:32:02 | コメント(0) | トラックバック(0)

プロフィール

「@S4アンクル
お久しぶりです。まあまあ元気ですよw
そちらはお変わりありませんか?
世の中大変な騒ぎになってますが、流される事なく乗り切リましょう(^^)/」
何シテル?   04/23 13:04
S2000を売却後、4型レジアスエース(ハイエース)に乗り換えて別に路線に行こうとしましたが車だけ造って飽きてしまったので僅か1年4ヶ月で売却 またスポーツカー...

ハイタッチ!drive

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