1885年、パラオはスペインの植民地となり、圧政と虐殺、天然痘などで、6万人いた人口は6000人に激減。実に90%もの人々が亡くなった。
いかにひどい植民地政策だったかが分かる。
1899年にはドイツに売却されたが、同じくドイツも搾取と略奪を続ける。
第一次世界大戦終了後、パリ講和会議で日本の委託統治領と決定。
帝国主義の白い蛮人たちはパラオの人々を人間とは思っていなかった。
教育も与えず、インフラ整備も一切行わない。いかに搾取するかだけを考えた統治だった。
しかし、日本は違った。
学校、病院、電気、道路などのインフラ整備を行い、住民の生活向上に力を入れる。
特に教育に関しては、日本本土とまったく同じ人種差別なき政策を実行。
優秀な子供たちが続出し、「パラオ人も、やればできる」と彼らに大きな自信を与えた。
日本敗戦後、パラオはアメリカ統治となった。
アメリカは俄烈な日本叩き教育を行う。
浸透していた日本文化の徹底的な破壊。
二宮尊徳像をぶち壊し、神社を破壊。
「日本は残虐」「日本は悪魔」「日本はパラオ人を虐殺した」と長期にわたり学校教育を行う。
ところがパラオ人は、誰も信用しなかった。
特に日本統治時代を経験した年長者たちが、
「何を言いやがる。日本は素晴らしい。日本統治時代が一番良かった」と激怒した。
パラオは世界有数の親日国である。
にもかかわらずパラオの歴史を多くの日本人は知らない。
これでいいのだろうか。
反日国を大事にし、親日国を粗末にするのは間違いだと思う。
パラオなどの南洋諸島の国々は大の親日国。日本の統治下に置かれ、激戦地となり、多くの現地住民が犠牲になったにもかかわらず、ほとんどの人は日本が大好きである。
人口の少ない小国家ばかりだが、「国連加盟国」として、いつも日本に味方してくれる。
国連議決などでは常に日本を応援し、「貴重な一票」を投じてくれる。
「チチバンド=ブラジャー」「シコーキ=飛行機」などなど、パラオでは日本語がそのままパラオ語となった単語が600近くもある。
それほど、愛している。
■ペリリユー島
気温は35度近くはあるだろう。
湿気が高く、立っているだけで汗だくになってしまい、Gパン、Tシャツ、カメラマンベストはグッショリ濡れてしまう。
2012年、大型台風がこの島を直撃し、風が吹き荒れ、家屋が倒れ、木々はへし折られてしまった。
役所の屋根は吹き飛び、現在でも荒れた状態で使用している。
以前から「日本人が造った建物は頑丈だから、台風が来たらその中に避難しろ」と教えられていた。
80年ほど前に建てられた日本軍総司令部・発電所・倉庫などだが、最大瞬間風速70メートルでもびくともしなかった。
人口わずか600人の島民の力だけでは補修工事を行うのは難しいかもしれない。
平均月収が300ドル程度の人々が資金をつくるのは大変なのだ。
ペリリユー島と日本との関係は、涙なくしては語ることができないほど深い。
島の人々も、かつての日本軍人を愛していると以前から聞いていた。
兵数、物量とも圧倒的優位なアメリカ軍と死闘を行い、全滅した日本兵。
多くの日本人の命が、この島で散った。「サクラ、サクラ」と打電をして死んでいった。
ペリリユーの人々は「日本兵」の墓、石碑などを大事にしていた。
完壁とは言えぬまでも、しっかりと清掃を行い、守り通してくれていた。
右や左の思想に関係なく、「日本のために死んでいった人々」「日本がお世話になり、日本を大事にしてくれる人々」に対して感謝の念を持つのは当たり前だと思う。
ありがとう!
■それでも日本軍は戦った
こんな美しい島で、これほど小さな島で、日米両軍の死闘が行われたのかと胸が痛む。 「絶対に負ける。必ず命を落とす」
と覚悟を決めた日本兵たちが圧倒的兵力、物量を持つアメリカ軍と戦う。
「一日でも長く、日本に生き延びてほしい。故郷の家族、仲間たちに生きてほしい」との願いで、若者たちが死んでいった。
ペリリユー島での日米両軍の戦いは、ボクシングで例えれば小学生のアマチュアボクサーと世界ヘビー級チャンピオンが戦うぐらいの差があった。それでも戦った。
写真はアメリカ軍に破壊された日本軍の95式戦車。ベラベラの鉄板でできた車体。バズーカ砲で貫通してしまう。
この粗末な戦車が、たった16両。
アメリカ軍は、当時最高峰の性能を誇る分厚い鉄板で装甲されたM4シャーマン戦車が117両。
日本兵の小銃は旧式のおもちゃのような鉄砲。
アメリカ兵は自動小銃や機関銃。
海からは艦砲射撃、空からは徹底した爆撃。
実質的には、まるで勝負にならない戦いだった。
日本軍の状況を的確に把握していたアメリカ軍は、「子供を相手にするような戦闘」だと完全に舐めきっていた。
アメリカ第一海兵師団長のウイリアム・H・リユバータス少将は、こんな小さな島に閉じこもる弱小日本軍との戦いは、2、3日で片づくと見ていた。
アメリカ兵に対して、「諸君に頼みがある。私への土産に日本軍守備隊長のサムライサーベル(日本刀)を持ち帰ってもらいたい」と豪語。
アメリカ兵の中にも、「この戦闘は午前中で終えて、昼からは浜辺でバーベキュー大会をやろうぜ!」と笑顔で話す者もいたほどだった。
ところが日本兵は強かった。
圧倒的な兵士と物量の差をものともせずに戦い抜いた。
「日本を守る。愛する家族を守る」との壮絶な思いで、命を捨てて戦い続け、
アメリカ軍第一海兵師団自体が全滅判定(損失60%超)を受けるほどの損失を与える。
「サムライサーベルをプレゼントしろ」と言っていたリエバ一夕ス師団長は、あまりのぶざまな戦いぶりを糾弾され解任。
そして心労から心臓病を発病するほどだった。
戦争は良くない。当然のことである。
でも圧倒的な戦力を有するアメリカ軍に、当時の日本兵は、どのような思いで戦いを挑んだのであろうか。
なぜ、ここまで命を捨てて戦ったのであろうか。
■「土人」は愛の言葉
日本兵とペリリユー島の人々は共に語り、唄い、手をつなぐ。固い友情が育まれ、「島民は日本軍人を愛してやまなかった」と言う。
戦争末期、いよいよアメリカ軍が押し寄せてくる。
実質戦闘員約15倍、兵器物量約600倍の圧倒的にアメリカ軍有利な戦局。日本軍玉砕は確実だった。
島民は「愛する日本兵と共に戦い、自分たちも死んでいく」と覚悟を決め、中川州男守(くにお)備隊長へ、「自分たちも戦わせてください」と申し入れる。
日頃、温厚な隊長は、その言葉を聞いた瞬間、激高し、
「帝国軍人が貴様らごとき土人と一緒に戦えるか!」
と大声で怒鳴りつけた。
「土人?」「一緒に肩を組み、歌を唄った日本兵たちの思いは見せかけだったのか?」
「やはり、こいつらは自分たちを見下げていたのだ」と人々は怒りと悲しみで拳を震わせた。
島からの避難船に島民は乗り込む。
日本兵は誰一人として見送る者はいない。
日本人への怒りと憎しみの思いがあふれる。
船が避難先へ向かうため、島を離れた瞬間、日本兵全員が真っ白な砂浜に現れた。
死を覚悟した日本兵たちが笑顔で手を振り、「達者で暮らせよー」と声をかける。
一緒に唄った日本の歌を大声で唄っている。涙で顔を濡らす兵士もいる。
そして、その先頭には「土人」と自分たちを侮辱した中川隊長の姿があった。
ペリリユーの人々は悟った。
「土人」、あの言葉は自分たちを救うため、自分たちを戦闘に巻き込まないためだったと。
島民の目からは、止めどもなく涙があふれた。
■サクラ、サクラ!
圧倒的兵数と数百倍もの兵器、火力を有するアメリカ軍との戦いは、長くても3日だと言われていた。
しかし、守備隊長の中川大佐率いる日本軍は、何と73日間も持ちこたえた。
27隻の戦艦、駆逐艦からの艦砲射撃と高性能焼夷弾でジャングルを焼き払われ、ペリリユー島は丸裸に。
日本軍は通常の戦闘では歯が立たぬと、500有余の洞窟に立てこもり、ゲリラ戦を展開する。
昭和19(1944)年9月15日午前8時、オレンジビーチよりアメリカ軍上陸。
一進一退の日米両軍の肉弾戦が行われるも、圧倒的兵力火力を有するアメリカ軍は徐々に日本軍を追い詰める。
補給を一切断たれた日本兵は、粗末な武器を手にし、水と食料もなくなり、喉の渇きと飢えに苦しみフラフラになりながらも戦い続けた。
11月24日、兵力弾薬は底を突いた。
司令部は玉砕を決定。
中川大佐、村井少将、飯田中佐は自決。
「サクラ、サクラ」の電文と共に玉砕。
11月27日、生き残った兵士55名の万歳攻撃が行われ、日本軍の組織的抵抗は終わった。
なぜ日本兵は命は惜しまず戦ったか?
なぜ鬼畜米英と言ったのか?
それは、白人植民地政策を知らずして語ることはできない。
当時は有色人種国家のほとんどは白人の植民地。その政策は残虐そのものに尽きる。
人間を家畜のごとくこき使い、婦女子を犯し、子供であろうとも虐殺する。
そのことを日本兵は知っていた。彼らの残虐さを。
「一日でも長く日本を守りたかった。一日でも長く、愛する故郷、愛する女房子供、お父さん、お母さんを守りたかった」
その思いに尽きると私は思う。
引用元
http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/44186522.html
実はこの話を知ったのはYouTubeの動画w
でも動画ではなく、文章の物が欲しくて辿り着いたのが上記のページ
で、どうもこの書籍がソースになっているような気がする
読書出来るくらい心に余裕が出来たら取り寄せてみるかな^^;