2015年07月07日
フン

139年
、ローマの地理学者プトレマイオスはクーノイ族(Χο?νοιまたはΧουνο?)がスニ(Suni)の統治下にあるポントス地方のバスタルン族(英語版)とロクソラン族(英語版)の間に住んでいると述べている。彼は2世紀の初めに列挙したが、これらの民族がフン族か否かは不明である。西ローマ帝国がしばしば「クーノイ」 (Χο?νοι)または「ウーノイ」(Ουννοι)と書いており、東ローマ帝国では名称のはじめにXの喉頭音を一度も用いていないことを考慮すると「クーノイ」 (Χο?νοι) と「ウーノイ」(Ουννοι) の類似は偶然である可能性もある[3]。5世紀のアルメニアの歴史家モヴセス・ホレナツ(英語版)は「アルメニア史」でサルマタイ族の近くに住むフン族について紹介し、194年から214年の間の何れかに起きたフン族によるバルフ攻略について物語り、この街をギリシャ人が「ウーノク」(Hunuk)と呼ぶ理由を説明している。
確実な記録としては、フン族は4世紀に初めてヨーロッパに現れた。彼らは370年頃に黒海北方に到来した。フン族はヴォルガ川を越えてアラン族を攻撃して彼らを服従させた。6世紀の歴史家ヨルダネス(英語版)[4]によるとバランベル(英語版)(ゴート族によって創作された架空の人物ではないかと疑われている[3])に率いられたフン族はグルツンギ(英語版)(東ゴート族)の集落を襲撃した[3]。グルツンギ王エルマナリクは自殺し、甥の息子のヴィティメール(Vithimiris)が後を継いだ。376年にヴィティメールはフン族とアラン族との戦いで戦死した。この結果、東ゴート族の大半がフン族に服従した[3]。ヴィティメールの息子のヴィデリック(Viderichus)はまだ幼なかったため、残った東ゴート族の難民軍の指揮権はアラテウス(英語版)とサフラスク(英語版)に委ねられた。難民はドニエストル川西方のテルヴィンギ(英語版)(西ゴート王国)の領域へ逃げ込み、それからローマ帝国領へ入った。(ゴート族のローマ帝国侵入後については「ゴート戦争 (376年?382年)」も参照)
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フン族の都市包囲戦を騎士道的空想に基づいて描いた14世紀の絵画。注)武器と鎧と都市は時代錯誤である。ハンガリーのピクタム・クロニクル(英語版)。1360年
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フン族による略奪。ジョルジュ・ロシュグロス(英語版)画。1910年
逃げ出した東ゴート族の一部に続いてフン族はアタナリック(英語版)の西ゴート族の領土に入った。アタナリックはドニエストル川を越えて遠征軍を派遣したが、フン族はこの小部隊を避けて直接アタナリックを攻めた。ゴート族はカルパティア山脈へ後退した。ゴート族の難民たちはトラキアへそしてローマ駐留軍のいる安全地帯へ向かった。
395年、フン族は初めて東ローマ帝国へ大規模な攻撃をかけた[3]。フン族はトラキアを攻撃し、アルメニアを蹂躙してカッパドキアを却略した。彼らはシリアの一部に侵入してアンティオキアを脅かし、ユーフラテス属州を通って押し寄せた。皇帝テオドシウス1世は軍隊を西方へ派遣しており、そのためフン族は抵抗を受けることなく暴れ回り、398年に宦官エウトロペ(英語版)がローマ人とゴート人の軍隊をかき集めて撃退して、ようやく平和を回復することに成功した。
一時的に東ローマ帝国から逸れた間、405年のラダガイスス(英語版)率いる蛮族の集団のイタリア侵攻や406年のヴァンダル族、スエビ族そしてアラン族のガリア侵入に証明されるようにフン族ははるか西方に移動したようである[3]。この時のフン族は一人の統治者元の一つの軍隊ではなかった。多数のフン族が東西ローマ、そしてゴート族の傭兵として雇われていた。ウルディン(個人名が知られる初めてのフン族[3])はフン族とアラン族の集団を率いてイタリアを守るためにラダガイススと戦った。ウルディンはドナウ川周辺の東ローマ領で騒乱を起こしていたゴート族を破り、400年から401年頃にゴート族のガイナス(英語版)の首を斬った。ガイナスの首は贈物と引き換えに東ローマへ与えられてコンスタンティノープルで晒された。
408年、東ローマはウルディンのフン族から再び圧力を感じ始めた。ウルディンはドナウ川を越えてモエシア属州の カストラ・マルティス要塞を攻略した。それから、ウルディンはトラキア一帯を略奪した。東ローマはウルディンを買収しようとしたが、彼の要求額が大きすぎ て失敗し、代わりに彼の部下たちを買収した。これによりウルディンの陣営から多数が脱走し、ローマ軍に大敗を喫して撤退を余儀なくされた[5][6]。それから程なく、ウルディンは死去している。
西ゴート王アラリック1世の義弟アタウルフは、409年にジューリア・アルプス山脈南方でフン族の傭兵を雇っていたようである。彼らは皇帝ホノリウスの最高法官オリンピウスに雇われた別のフン族の小集団と対峙した。409年後半に西ローマ帝国は、アラリックを防ぐためにイタリアとダルマチアに数千のフン族を駐留させ、このためアラリックはローマへ進軍する計画を放棄している。
410年頃にフン族は、ドナウ川中流域の平原を制圧した[7]。フン族は東ローマ帝国への侵入と略奪を繰り返し、このため東ローマ皇帝テオドシウス2世は430年頃に、フン族へ毎年金350ポンドの貢納金を支払う条約を結んだ[8]。
一方で、フン族は西ローマ帝国の将軍アエティウス(少年時代にフン族の人質となった経験を持つ)の傭兵となって帝国内の内戦やゲルマン諸族との戦争に参加した。433年、フン族は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の母后ガッラ・プラキディアとの内戦状態にあったアエティウスとの取引により、軍事力提供の見返りにパンノニア(とイリュリクムの一部)の支配を西ローマ帝国に認められた[9]。
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2015/07/07 10:15:25
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