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くろまめたろうのブログ一覧

2015年11月27日 イイね!

俗ラテン語

俗ラテン語俗ラテン語(ぞくラテンご、羅: sermo vulgaris セルモー・ウルガーリス、英: Vulgar Latin)とはロマンス語の祖語である。俗ラテン語はローマ帝国内で話されていた口語ラテン語のことで、ローマ帝国崩壊後、地方ごとに分化し現在のロマンス諸語になった。

古代ローマから現代にかけて使用されてきたラテン語は基本的に文献に残る文語(古典ラテン語)のことであるが、これに対し口語、つまり民衆の話し言葉があったことが文献に残されており、これを俗ラテン語という。ただし、「俗」を意味するvulgarという言葉には「下品な」、「粗野な」、「卑しい」などの意味があるため、「民衆ラテン語」 (Popular Latin) 、「ロマンス祖語」(Proto-Romance)などの用語を主張する学者も多い[1]

なお、 sermo vulgaris とは「日常の言葉」の意味の古典ラテン語であり、下記の音韻の変化に従えば俗ラテン語では sermo volgare (セルモー・ヴォルガレ)となる。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3b/Pompeii-graffiti.jpg]
Posted at 2015/11/27 10:19:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年11月27日 イイね!

放屁師

放屁師屁を用いて様々なリズムや音高を生み出すことのできる古代や中世の放屁師については数多くの文献がある。アウグスティヌスは、彼の著作である『神の国』の中で、「とても上手に腸を操ることができる能力があるので、思いのままに絶え間なく屁をこくことができ、歌を歌っているような音を生み出すことのできる芸人がいる」と述べている。
中世アイルランドで放屁が専門の芸人は「ブライゲトイール」と呼ばれた。放屁専門の芸人は、12世紀にタラの丘での宴会を描いた絵画である「テク ミドチュラウダ」の中で他の芸人や音楽家と共に描かれている。芸人としてはこうした専門放屁師は、詩人や吟遊詩人、ハープ奏者が頂点を占める階層の中で比較的低い位に位置していた[3][4]。
13世紀イギリスの『料金に関する法律書』の中のある項目において、中世終盤のある一人の放屁師について述べられている。その項目は、一人のローランド放屁師を取り上げており、彼はサフォークという地域にヘミングストーン荘園を持っていたため、飛び跳ね、口笛を吹き、屁をこく、という芸を年に一度、毎年クリスマスの日にヘンリー2世の王宮で披露することが義務づけられていた。しかし専門放屁師による芸はもはや上流階級に限って披露されるものではなかったようである。14世紀の長編寓話詩である『農夫ピアズの幻』の中で、ありふれた営みとして、物語を伝える話術、バイオリンやハープの演奏術といった一般的な芸と肩を並べ、放屁も数えられていたようである[5]。この詩は「私には、パーティーでドラムを叩いたり、トランペットを吹いたり、冗談を言ったり、人を楽しませる屁を奏でたり、ハープを演奏することはできないのである」と解釈される。
日本では、放屁師は江戸時代に「放屁男(へっぴりおとこ)」として知られた[1]。
Posted at 2015/11/27 10:16:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2015年11月26日 イイね!

ラーメン

食べたい
Posted at 2015/11/26 18:20:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2015年11月25日 イイね!

アケメネス朝

アケメネス朝紀元前7世紀後半、ペルシア人の長でハカーマニシュの息子テイスペス(チャイシュピ)は、アッシリアに圧倒され衰退しつつあったエラム王国の都市アンシャンを征服した。テイスペスの子孫はアンシャンを支配した一族とペルシアに残った一族の二つの系統に分岐した。アッシリアの衰退と共にメディア王アステュアゲス(アルシュティ・ワイガ?)は、バビロニアを除くアッシリア北部の領土をすべて征服した。この時代のペルシアはメディアに服属していた。

紀元前550年、アステュアゲスの孫(アステュアゲスの娘マンダネ(英語版)の子)で、メディア人(英語版)とペルシア人の混血であるアンシャン王キュロス2世(クル)は反乱を起こし、メディアの将軍ハルパゴスの助けを得てメディアを滅ぼした。イラン高原を掌握したキュロスは、さらに小アジアのリュディア王国、エラム、メソポタミアの新バビロニア王国を滅ぼした。ヘロドトスの『歴史』によれば、キュロスはカスピ海の東側に住むマッサゲタイ族との戦いで戦死したとされる。しかし後年マケドニア王アレクサンドロス3世のペルシア遠征の時、キュロスがパサルガダエに埋葬されているのが確認され、その記録には遺体の外傷について一切触れられていないことから、ヘロドトスの記事は間違いである可能性もある。

紀元前525年にキュロスの息子カンビュセス2世(カンブジャ)はエジプト(エジプト第26王朝)を併合して古代オリエント世界を統一したものの、エチオピアへの侵略には失敗した。カンビュセスは弟のスメルディスを殺した。カンビュセスの死後の2年間はメディア人のマゴス、ガウマータが実権を握ったが、ダレイオスをはじめとするペルシア人貴族たちの謀議によって打倒された。

ヘロドトスの伝えるところによると、ペルシア人の指導者たちは帝国の統治形態について話し合った。寡頭政治は国を分裂させる危険を、民主政は大衆の人気に乗じた僭主の台頭を招きかねないことから、しかるべき手順で選ばれた君主による君主政を選択した。最初に選ばれた君主となった総督ヒュスタスペス(ウィシュタースパ)の息子ダレイオス1世(ダーラヤワウ)は版図を北西インドからマケドニア・トラキアに拡大し、領土を20州に分けて各州にサトラップ(総督、太守)を置いた。なお、このスメルディス(カンビュセスの弟本人ではなく、その偽者ガウマータ)の暗殺に始まる政変はダレイオスによる簒位の後に捏造された偽伝ではないかと疑う説もある[要出典]。

ダレイオス1世とその子クセルクセス1世(クシャヤールシャン)はギリシア征服を計画してペルシア戦争(前492年-前449年)を起こしたが、失敗した。紀元前490年にダレイオスが派遣した軍はマラトンの戦いでアテナイ・プラタイア連合軍に敗れ、紀元前480年のクセルクセス自らが乗り出した遠征はサラミスの海戦、プラタイアの戦いなどでの敗北を受け、失敗した。その後紀元前5世紀中頃までペルシアはギリシア人の反撃に苦しんだが、クセルクセスの次の王アルタクセルクセス1世は紀元前449年のカリアスの和約で講和した。

ギリシア人が羨んだ莫大な富、ダレイオスによる新都ペルセポリスでの大殿造営など、ペルシアは繁栄を謳歌し、ペロポネソス戦争(前431年-前404年)後、ペルシアはその富を用いてギリシア世界に干渉し、ギリシア人同士の戦いを煽ってその共倒れを狙うという対ギリシア政策を取った(前395年から前387年のコリントス戦争がその典型である)。 その一方で、内政面では紀元前4世紀にあい続いた小アジアのサトラップの反乱(英語版)(前372年-前362年)に悩まされていた。

前404年、ダレイオス2世の死後、アルタクセルクセス2世と小キュロスの間で、皇位継承争いが起こった。ペロポネソス戦争の退役ギリシャ軍人を傭兵とした小キュロス軍が敗北して、アルタクセルクセス2世が王位に就いた。クセノポンは、ギリシャ敗残兵一万人の脱出紀行を『アナバシス』に残している。

宦官で大臣のバゴアス(英語版)によりアルタクセルクセス3世とアルセスが相次いで暗殺され、傍系のダレイオス3世が擁立された。ダレイオス3世の代にアレクサンドロス大王とのガウガメラの戦いに破れて紀元前330年に滅んだ。ただし、アレクサンドロスはダレイオス3世の息女(スタテイラ、パリュサティス(英語版))と結婚し、アケメネス朝の統治制度をほぼそのまま継承しようと試みていた。なお、アレクサンドロスもそうだったが、アケメネス朝の君主たちも古代エジプトを征服した後にファラオを任じていた。
[ペルシアの国旗]
Posted at 2015/11/25 10:14:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年11月20日 イイね!

紀貫之

紀貫之紀望行の子。幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという[1]。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。

延喜5年(905年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に編纂し、仮名による序文である仮名序を執筆した。(真名序を執筆したのは紀淑望)「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。

日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。種々の点でその実例が挙げられるが、勅撰歌人としては『古今和歌集』(101首)以下の勅撰和歌集に435首の和歌が入集しているのは[2]他の歌人に比べて最高数であり、三代集時代の絶対的権威者であったといえる。

散文作品としては『土佐日記』がある。日本の日記文学で完本として伝存するものとしては最古のものであり、その後の仮名日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。

貫之の邸宅は、平安京左京一条四坊十二町に相当する。その前庭には多くの桜樹が植されており、「桜町」(さくらまち)と称されたという。その遺址は現在の京都御所富小路広場に当たる。
[Ki no Tsurayuki.jpg]
Posted at 2015/11/20 10:55:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ

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