
ヴァルダマーナは当時の自由思想家の一人としてバラモン教の供犠や祭祀を批判し、あわせてヴェーダの権威を否定して、合理主義的な立場から独自の教理・学説をうち立てた。サンジャヤ・ベーラッティプッタや釈迦と同様、彼は言語による真理表現の可能性を深く模索した。ヴァルダマーナは、真理は多様に言い表せると説き、一方的判断を避けて「相対的に考察」することを教えた。これがジャイナ教の「相対主義」(アネーカーンタ・ヴァーダ、anekaanta-vaada)である。
具体的な表現法としては、「これである」「これではない」という断定的表現をさけ、常に「ある点からすると(スヤート、syaat)」という限定を付すべきだとする、「スヤード・ヴァーダ理論」(syaad-vaada)を説いた。これによりジャイナ教徒を「スヤード・ヴァーディン」(syaad-vaadin)ともいう。ジャイナ教は、相対主義を思想的支柱とし、後世「ヴェーダーンタ学派」の不二一元論や「サーンキヤ学派」の二元論、また「仏教」の無我論などと対抗してインド思想史上重要な位置を占めた。
「三宝」の重視と五誓戒[編集]
ジャイナ教僧侶ハティーシング寺院
ジャイナ教徒の瞑想
ジャイナ教では宗教生活の基本的心得を、「三つの宝」(トリ・ラトナ、tri-ratna)と称して重んじる。(1)正しい信仰、(2)正しい知識、(3)正しい行い、である。モークシャ(解脱)を目的として行われる宗教生活上で重要なのは(3)の正しい行い、つまり戒律に従って正しい実践生活を送ることである。
修行生活に関する規定は多くあるが、基本は出家者のための五つの大誓戒(マハーヴラタ、mahaavrata)、(1)生きものを傷つけないこと(アヒンサー)、(2)虚偽のことばを口にしないこと、(3)他人のものを取らないこと、(4)性的行為をいっさい行わないこと、(5)何ものも所有しないこと(無所有)である。在家者は同項目の五つの小誓戒(アヌヴラタ、aNuvrata)を守る。他宗教と比べて特徴的なのは(5)の無所有(アパリグラハ、aparigraha)であり、とくに裸行派の伝統に強く生きている。
(1)の誓戒、アヒンサーの厳守はもっとも重要である。ジャイナ教はあらゆるものに生命を見いだし、動物・植物はもちろんのこと、地・水・火・風・大気にまで霊魂(ジーヴァ)の存在を認めた。したがって、アヒンサーの誓戒のためにあらゆる機会に細心の注意を払う。宗派によっては空気中の小さな生物も殺さぬように白い小さな布きれで口をおおう(イエズス会の伝道師たちがジャイナ教徒に顕微鏡で普段飲んでいる水をみせたところ、それをみたジャイナ教徒は飲み水に微生物があふれていることを知り、飲むよりは衰弱死を選んだという報告書の存在がトマス・ブルフィンチの著書に記されている)。
また、「出家者は路上の生物を踏まぬようにほうきを手にする」という説明が各所にみられるが、実際には道を掃きながら歩くわけではなく、座る前にその場を払うための道具である。とはいえ、これはアヒンサーの徹底ぶりを象徴している。食生活はジャイナ教の生物の分類学上、できる限り下等なものを摂取すべきであり、球根類は植物の殺生に繋がるため厳格なジャイナ教徒は口にしない。
アヒンサーを守るための最良の方法は「断食」であり、もっとも理想的な死はサッレーカナー(sallekhanaa)、「断食を続行して死にいたる」ことである。マハーヴィーラも断食の末に死んだとされ、古来、段階的な修行を終えたジャイナ出家者・信者のみがこの「断食死」を許された。
だが、ジャイナ教徒にとってのアヒンサー(不害)は、身体的行為のみならず、言語的行為、心理的行為の3つを合わせたものとして理解されなければならない。人を傷つけることばを発することや人には気づかれなくとも心の中で他者を傷つけるようなことを思うことさえもジャイナ教徒は罪と考えるのである。これこそがアヒンサーの厳しさである。
また、例えば動物に襲われたときにも自衛のために動物を傷付けてはいけない。つまり、アヒンサーを忠実に守るためには死をも覚悟しなければならない。これは現世の身体は不浄のものであるから肉体に執着してはならないという考えに裏打ちされている。
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2015/10/30 10:22:40