
ダルマチアはヴェネツィアの支配を受けていたが、ナポレオンが各国を征服するに至る経緯でダルマチア
沿岸は征服され1808年、ドゥブロヴニク共和国も廃止されることとなった。翌年には一帯が「フランス領イリリア諸州」として1813年まで統治されることとなるが[# 8]、この時、フランスによりナポレオン法典が施行され、さらにクロアチア人居住区ではクロアチア語、スロベニア人居住区ではスロベニア語が認められた。そして農奴解放、ギルド廃止、土地開墾、道路建設、公衆衛生の導入が行われ、文化的、経済的に急速に発展することとなったが[49]、イリリア地方はフランス支配下のイタリア王国へ編入された[50]。なお、ナポレオンはある程度の自治を与えることにより、スロベニア人、クロアチア人らがオーストリアの支配を望まないようにしていた[51]。しかし、その後、1815年、フランス帝国の解体に伴いハプスブルク帝国に併合されることとなるがハンガリー化を恐れていた内陸部のクロアチア人らの間では自治権を保持しようとし続けた[52]。そして「クロアチアの貴族にとっては馬の方が農民以上にクロアチア民族である」と言われた大衆と無縁の「民族の栄光」への宿願が[53]、これらのことによりクロアチア人全体に民族意識を抱かせることとなった[52]。
議会が設置され代議員を選出することとなったが、住民数15,672人のイタリア人らが29人の代議員を選出したのに対して40万人を越えるクロアチア人らは12人しか選出できなかった。このため、議会はイタリア系の自治派とクロアチア=スラヴォニア、ダルマチアの統合による「三位一体王国」の再建を唱える民族派に分かれることとなったが、ハプスブルク帝国はこれを認めず、ダルマチアはオーストリアに組み込まれた。1870年代に至ると民族派が力をつけることとなり、1883年、それまでイタリア語が公用語であったが、「クロアチア=セルビア語(セルビア=クロアチア語とも)」へ変更された。そして、クロアチア人らはダルマチア、ボスニア・ヘルツェゴビナのクロアチア統合を唱えていたが、これはセルビア民族党が反対、ダルマチアのセルビア人らは自治派との連携を選び、一方でダルマチアのクロアチア人らはクロアチア権利党と連携していた。しかし、これらの動きはペータル1世が即位した後、南スラブ統一への動きへと変化を見せ、「リエカ決議」、「ザダル決議」が導きだされることとなる[54]。
さらに19世紀前半にドイツ・ロマン主義が発生することにより、クロアチアはフランス統治期間との関係から「イリリア運動」がクロアチア人知識層を中心に展開されることとなった。この目標は中世クロアチア王国がクロアチア人の領土であるというものであったが、このうちダルマチアやスラコニアではすでにセルビア人らが多数居住していたため、この運動の中心となっていた文学者のリュデヴィド・ガイは南スラブ人としての連帯を考慮、クロアチア人とセルビア人との間で共通意識を形成させた。この民族再生運動は1848年の「諸国民の春」が発生したことにより19世紀後半には政治的民族運動と化すが、これは複雑化を伴う事となった[55]。その一方でガイは文芸協会「マティツァ・イリルスカ(後のマティツァ・フルヴァッカ)」を設立、「イリリア語」文学運動を進めていたが[37]、クロアチア人、ゼルビア人らの共通言語、「セルビア・クロアチア語」の形成を進めた。しかし、これは文章の規範が統一されることなく方言的差異を温存する原因となった[56]。ハンガリー南部を形成するクロアチアやセルビアはハンガリーからの独立を望んでいたが、そのハンガリーもハプスブルク帝国からの離脱を望んでいた[55]。ただし、セルビアでは1804年-1813年、1815年-1817年の2次に渡ってセルビア蜂起が発生しており、1830年にはセルビア公国として自治権を獲得、1833年には南方向へ領土を拡大していた[57]。
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イェラチッチとクロアチア議会
1848年3月25日、ガイらはザグレブで民族会議を開催、この会議では「民族の要求」としてクロアチア、ダルマチアの統合、ハンガリーからの独立、クロアチア語の公用化、身分制議会の代議制への移行、などが盛り込まれ、クロアチア人とセルビア人らは単一民族であり、統合すべきという要求も含まれた[50]。そしてクロアチア総督にはイリリア運動の支持者であるヨシップ・イェラチッチ (en) が選ばれた。しかし、この要求を受けたハンガリー自体もオーストリア=ハンガリー帝国からの独立を望んでいたためこれに対応することができず、さらにハンガリーの独立を阻止しようとしていたハプスブルク皇帝はこの状況を利用しようとした。そのため、イェラチッチはクロアチア総督に任命された後にハンガリー革命の鎮圧の尖兵として使用されたが、ハンガリー革命が1848年に鎮圧されたにも関わらず、クロアチア人の要求は無視され[58]、ダルマチアの一部とリエカの併合は認められたのみに留まった[37]。しかし、革命情勢が消滅すると徐々にこの約束は破棄され、結局、ハプスブルク帝国による直接支配が行われるようになる。なお、このイェラチッチの行動に対して、ハンガリー革命を高く評価していたフリードリヒ・エンゲルスは激しく憤り、「南スラブ人全体に対する断固たるテロリズム」を要求すると書き[59]、さらに南スラブ諸民族に「歴史なき民」の烙印を押した[60]。
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ヨシップ・イェラチッチ
しかし、1866年、普墺戦争にオーストリアが敗れると帝国の再編は避けられないものとなり、1867年、ハンガリーは独立するがオーストリアとは同君連合を形成することとなり「オーストリア=ハンガリー帝国」がここに成立した。クロアチアはハンガリー王国に属する事となったが、1868年、クロアチアとハンガリーの間で「協約(ナゴドバ)」が結ばれる事によりハンガリーが任命する総督(バン)を受け入れることにより制限付きながら自治を得る事となった[61][62]。しかし、1871年の選挙では「ナゴドバ」の無効を主張する完全自治派がクロアチア議会で多数を占めるにいたり、南スラブ統一を要求したが[63]、これは1881年に軍政国境地帯が、第一次世界大戦後にダルマチアが返還されるまでその統一要求は続くこととなる。クロアチアは限定的ながらも自治を得た事により政党活動が活発化したが、親ハンガリー派、帝国の範囲内で南スラブの統一を図る民族党、クロアチアの独立を唱える権利党の三派閥へと分かれることとなった[61][62]。また、その一方でクロアチア権利党はクロアチアにハンガリーと同等の地位を与えてオーストリア、ハンガリー、クロアチアの三国で三重帝国を築くという案を考えていた[64]。
クロアチア人らは民族意識を明確にしていく中、この地域に住むセルビア人らの間でもその意識が高まりつつあった。ただし、現在のようにクロアチア人とセルビア人らの対立が深まるのではなく、彼らは南スラヴとしてユーゴスラビア統一主義(ユーゴスロヴェンストヴォ)として統一する動きが出始めていた。1850年には「言語協定(ウィーン合意とも)」が結ばれ、セルビア語、クロアチア語の基礎が築かれ、さらにはセルビア政府とクロアチア政党らでは協力が模索され、クロアチア国民党指導者ヨシプ・シュトロスマイエル (en) とフラショ・ラチュキ (en) らはセルビア公国を基礎として南スラブ統一を訴えるなど行っている。しかし、これは露土戦争後、1878年に結ばれたベルリン条約でセルビア、モンテネグロの独立が承認された上でオスマン領であったボスニア・ヘルツェゴビナがハプスブルク帝国へ移管されたが、そのためにボスニア・ヘルツェゴビナを巡ってクロアチア人とセルビア人らの関係が悪化、さらに状況が悪化した[61][65][# 9]。ただし、クロアチア系、セルビア系の反目を利用してクロアチアのハンガリー化を行っていたクロアチア総督クエン=ヘーデルヴァーリ・カーロイ (en) が1903年にハンガリーに対する民衆運動が拡大する中、ハンガリー首相へ転任したが、後任の総督がスラブ人への無差別な抑圧政策を施行したことにより変化した[66]。このことによりクロアチア政党とセルビア政党の協力関係は進展、特にスラヴォニアやダルマチアの政治家らは強く主張してセルビア人、クロアチア人、スロベニア人らは南スラブという一個の民族であるという政治的流れがその大きな目標とされた[61][65]。
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1900年頃のクロアチア、ヴォロスコ( volosko)
1905年10月、クロアチア政治家がセルビア政治家に協力関係を呼びかけた「リエカ合意」とそれにセルビア政治家が同意した「ザダル決議」により1905年11月、クロアチア議会において「クロアチア・セルビア人連合宣言」が行われクロアチア議会の5つの政党はクロアチア・セルビア連合を結成[# 10]、クロアチア=スラヴォニア、ダルマチアの統合を求めた[# 11]。ただし、1908年ハプスブルク帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを併合した際にはセルビア、クロアチアの間でその色の違いは見られたが、1909年にセルビアとの併合を狙った活動を行ったとして30名以上のクロアチア人、セルビア人らが逮捕、有罪とされた「ザグレブ事件」により、さらにその流れは強まる事となり、1912年のバルカン戦争が始まるとセルビア軍へ多数のクロアチア人が参加する事態にまで至り[68]、第一次世界大戦後、南スラブ統一国家、ユーゴスラビアが形成される元となった[69]。
さらにシュトロスマイエル司教はセルビア公国の内務大臣イリア・ガラシャニンと協定を結び、オスマン帝国とハプスブルク帝国の影響を排除した独立国家の形成を目指した。また、ガラシャニンはギリシャ、ルーマニア、モンテネグロ、ブルガリアと交渉を重ねてバルカン同盟を結びオスマン帝国に対抗すること考えていたが、セルビア公国のミハイロ公 (en) が1868年に暗殺されるとガラシャニンは失脚することとなる[70]。
ボスニア・ヘルツェゴビナではオーストリア=ハンガリー帝国共通蔵相でボスニア・ヘルツェコビア蔵相も兼任していたベンヤミン・カーライ (en) によってクロアチア人、セルビア人、ムスリム人[# 12]らを「ボスニア主義(ボシュニャシュトヴォ)」の元、ボスニア地域への帰属意識を根付かせようとしていたが、すでに宗教的、文化的な側面で組織化されていたクロアチア人、セルビア人、ムスリム人らがそれに従うことはなかった。1903年、イシュトヴァーン・ブリアーン (en) がカーライと交代したが、ブリアーンは自由主義的な政策を行い、さらに1910年には立憲制へ移行、議会制度も導入された。そのため、カトリック教徒を中心にして「クロアチア民族連合」が結成され、ムスリム人らがクロアチア人であるとした上でボスニア・ヘルツェゴビナはクロアチアの領土と主張、さらにオーストリア=ハンガリー帝国内のクロアチア地域の統一をも主張、その中には住民のカトリック化を促進させていたヨゼフ・シュタドレル大司教率いる「クロアチア・カトリック教会」も存在した。ただし、ムスリム人らはこれに対抗しており、シュタドレル大司教の改宗活動に対して政治組織を結成することとり、1906年に「ムスリム民族機構」を設立していたが、これらの混乱が後にサラエボ事件を発生させる温床となる[72]。
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ニコラ・パシッチ
第一次世界大戦中の1914年12月、セルビア政府は「ニシュ宣言」においてクロアチア人、セルビア人、スロベニア人らの解放と統一を戦争目的と規定した。そして1917年7月20日、「コルフ宣言」[# 13]が決議されセルビア亡命政府首相ニコラ・パシッチ (en) とユーゴスラビア委員会(南スラブ委員会とも)代表アンテ・トルムビッチ (en) [# 14]の間でセルビア人、クロアチア人、スロベニア人らで構成された国家創設が合意された。一方で1918年10月6日、スロベニアのアントン・コロシェツ神父 (en) 、ヴォイヴォディナのスヴェトザル・プリビチェヴィッチ (en) らで「スロベニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」がザグレブで結成されハプスブルク帝国内の南スラブ地域の統合が唱えられ[73]、10月28日、スラブ地域での敗北を認めたオーストリア=ハンガリーは権力を委譲、翌日、クロアチア議会は「ダルマチア、クロアチア、スラヴォニア、フィウメはオーストリア=ハンガリーから完全に独立・・・(中略)・・・スロベニア人、クロアチア人、セルビア人らが共通とする民族主権国家への参加」することを宣言[# 15]、31日にはハンガリー首相カーライにより「ドナウ連邦」形成が提案されたが、こちらはオーストリア=ハンガリー帝国が11月3日に敗戦を迎えた事により消滅[76]、「スロベニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」は発言権を持つ事はできなかった[73]。
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2015/12/07 10:18:17