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くろまめたろうのブログ一覧

2016年09月26日 イイね!

満濃池の建設

満濃池の建設満濃池は大宝年間(701年-704年)に讃岐国国司道守朝臣によって建設されたという記録(満濃池後碑文)が残っているが[8]、818年(弘仁9年)に洪水が原因で決壊した。当時の天皇である嵯峨天皇は821年(弘仁12年)路真人浜継(みちのまひとはまつぐ)を築池使に任じて満濃池の修築を命じたが、浜継は修築に失敗した。事態を重くみた嵯峨天皇は信任する空海(弘法大師)を築池別当として再度讃岐へ派遣した。空海は着任後約2-3カ月という短期間で修築を完成させた。この大改修によって再建された満濃池は周囲約8.25キロメートル、湛水面積約81ヘクタールという大規模な人造湖だった。しかし30年後の851年(仁寿元年)再び洪水によって決壊、国司であった弘宗王が853年(仁寿3年)に再建を果たしたものの、1184年(元暦元年)5月1日に三度洪水で決壊した。これ以降満濃池は狭山池とは異なり、鎌倉時代の守護、室町時代の守護大名細川氏、戦国時代に讃岐を支配した三好氏や長宗我部氏の何れも再建を手掛けず放棄した。池の跡地には次第に人が住むようになり、「池内村」という村落が形成された[9][10]

満濃池が再建されるのは実に江戸時代のことである。讃岐は豊臣秀吉の天下統一以降生駒氏が讃岐一国を領有していたが、1631年(寛永8年)に高松藩17万石の第4代藩主である生駒高俊の代に至り満濃池は450年の時を経て再建された。しかし実際の指揮を執ったのは藩主である高俊ではなく、幕府の信任が厚く外祖父として高俊を後見していた伊勢国津藩主・藤堂高虎であった。高虎自身築城の名手として土木技術に精通していたが、彼は1621年(元和7年)家臣である西嶋八兵衛之友を高松へ派遣させた。当時若干26歳という若武者だった八兵衛だが、土木技術に秀でその才能は他藩にも聞こえていた。高松藩客臣として着任した八兵衛は相次ぐ災害で荒廃した領内を視察し、高虎の助言や藩重臣の協力を得て藩内の河川整備を開始する。手掛けた事業は多岐にわたるが特に大規模だったのが香東川の改修と満濃池の再建であり、1628年(寛永5年)に着手した満濃池再建は3年という短期間で完成した。これにより33郡44村の農地が再び水の恩恵を受けることになった。八兵衛は満濃池のほか90か所におよぶため池も改修したが、灌漑だけでなく治水にも役立てる改修を行っており昭和以降の河川事業の基本となる河川総合開発事業の先駆をなすものであった[10][11]。八兵衛は1639年(寛永16年)に役目を果たし帰藩、以後伊賀奉行などの藩要職を歴任したが高松藩生駒氏は藩重臣の内部抗争に端を発する生駒騒動が翌1640年(寛永17年)に勃発し、その責めを負い改易された。讃岐は高松藩・丸亀藩・多度津藩に三分割され、高松藩内にある満濃池は藩の支配から離れて狭山池と同様に天領として幕府の直轄管理下に置かれた[9]

その後も改修が行われるが1854年(安政元年)7月9日に安政の大地震が発生してダム底を通る石造の樋管が破損したことが原因でダムが決壊。時期が幕末の動乱期に当たっており早急に再建できる状況下ではなかった。これを憂慮した榎井村庄屋・長谷川喜平治は私財を費やし再建に奔走したが事ならず無念の死を遂げた。高松藩家老松崎渋右衛門佐敏は榎井村の長谷川佐太郎や金剛寺村の和泉虎太郎と共に喜平治の志を継ぎ満濃池再建を目指したが、尊王攘夷派だった渋右衛門は志半ばで政敵の高松藩佐幕派に暗殺された。中心人物2名が相次いで非業の死を遂げたものの明治維新後に渋右衛門の遺志を受け継いだ倉敷県参事島田泰雄が佐太郎らへの支援を継続、1870年(明治3年)にようやく再建された。満濃池はこの時点で貯水容量が584万6,000立方メートルという日本最大のダムであったが、1906年(明治39年)、1930年(昭和5年)の2度にわたるかさ上げを経て規模を拡張。1941年(昭和16年)には現行規模に拡張する第3次かさ上げに着手、太平洋戦争による中断を挟みながら工事は続けられ1950年(昭和25年)には昭和天皇が工事を視察するなど注目された大事業は1961年(昭和36年)完成した[9][12]。満濃池は日本最大級のため池として慢性的な水不足に悩む讃岐平野を潤して
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/81/Mannouike-3337-r1.jpg/1280px-Mannouike-3337-r1.jpg]
Posted at 2016/09/26 10:31:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年09月26日 イイね!

狭山池の建設

狭山池の建設狭山池は『日本書紀』の中で崇神天皇が詔を発して狭山池を建設した、また『古事記』で垂仁天皇が印色入日子命に命じて狭山池を建設させたという記事があったが[5]、明確な建設時期は長らく不明であった。建設時期についての調査に具体的な進展を見たのは「平成の大改修」と呼ばれる狭山池ダム再開発事業が1980年(昭和55年)から2001年(平成13年)に掛けて施工された時であった。この事業は灌漑専用目的の狭山池をダムかさ上げと貯水池掘削によって貯水容量を増大させ、洪水調節目的を持たせるというものであったがこの事業において発掘された木製の樋管を年輪年代測定法で測定した結果、616年に伐採された木材であったことが判明。『古事記』・『日本書紀』の伝承は否定され少なくとも7世紀前半に建設されたという結論を得た[6]。完成した狭山池は645年の大化の改新により公地公民制を打ち出した大和朝廷によって直轄管理され、いわゆる国直轄ダムの端緒にもなった。732年(天平4年)には狭山下池の改修が行われたが、この時に改修の総指揮を執ったのが後に東大寺大仏の建立にも関わり、聖武天皇の信頼を得て大僧正にまで上り詰めた行基である[5][7]。しかし762年(天平宝字6年)に狭山池の堰堤が決壊、延べ8万3,000人を動員して修復が行われた[5]。その後狭山池は幾つかの記録に残され、清少納言は『枕草子』の「池は」の段で「狭山の池」に言及している[5]。
鎌倉時代に入ると狭山池は1202年(建仁2年)に大改修が実施されるが、この総指揮を執ったのは平重衡による焼き打ちに遭った東大寺の再建に尽力した重源である[5][7]。以後安土桃山時代まで狭山池に関する記録はなくなるが、江戸時代に入り再び大改修(慶長の大改修)が行われた。関ヶ原の戦いで天下人の後継者から摂津国・河内国・和泉国68万石の大名に転落した豊臣秀頼の家老・片桐且元が奉行となって堰堤基礎の補強や樋管の交換がなされている[5][7]。豊臣氏が大坂夏の陣で滅亡した後狭山池は河内狭山藩主となった後北条氏が一旦支配するが、1699年(元禄12年)から1721年(享保6年)、および1749年(寛延2年)に江戸幕府の天領となり再び国直轄ダムとなった。明治以降は1904年(明治37年)、1926年(大正15年/昭和元年)にそれぞれ改修され、2001年平成の大改修を経て現在に至る[5]。狭山池は完成から1,400年近く経過しているが現役で運用されている日本最古のダムである。
Posted at 2016/09/26 10:28:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年09月20日 イイね!

石のスープ

石のスープ飢えた旅人(修道士とも)が集落にたどり着き、民家に食事を求めて立ち寄ったが、食べさせるものはないと断られてしまった。一計を案じた旅人は、路傍の石を拾うともう一度民家にかけ合った。「煮るとスープができる不思議な石を持っているのです。鍋と水だけでも貸してください」

興味を持った家人は旅人を招き入れた。旅人は石を煮始めると「この石はもう古くなっているので濃いスープになりません。塩を加えるとよりおいしくなるのですが」と説明した。家人は塩を持ってくる。

旅人は同じようにして、小麦と野菜と肉を持ってこさせた。できあがったスープは見事な味に仕上がっていて、何も知らない家人は感激してしまった。旅人はスープのできる石を家人に預けると、また旅立っていった。

ヒュー・ロフティング作『ガブガブの本』(『ドリトル先生』シリーズのスピンオフ作品)では、ナポレオンが1812年に行ったロシア侵攻に際してフランス軍の兵士が農家の婦人を騙した逸話として紹介されている。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/08/Sopa_de_pedra.jpg/1280px-Sopa_de_pedra.jpg]
Posted at 2016/09/20 10:33:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年09月20日 イイね!

アクアコッタ

アクアコッタアクアコッタ(伊: acquacotta)はイタリア、トスカーナ地方の郷土料理で、主に野菜を使った温かいスープである。元々は古くから食されてきた庶民の食べ物で、トスカーナ州南部とラツィオ州北部にまたがるマレンマ地方(英語版)発祥の料理である。acquacotta はイタリア語で「水で煮る」を意味し、伝統的なレシピではスープストックを使わず水で調理する。アクアコッタはかたくなったパンを食べられるようにするための料理法でもある。タマネギ、セロリ、トマト、パン、卵などが基本となる食材であるが、これ以外にもキノコや季節の野菜などが使われることもあり、材料は非常に多岐にわたる。また水ではなくスープストックで調理することもある
Posted at 2016/09/20 10:32:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年09月15日 イイね!

アジアから帰還した旅行者の報告

アジアから帰還した旅行者の報告1237年にルーシに侵入したバトゥの率いるモンゴル軍はヨーロッパに強い衝撃を与え、現実離れしたプレスター・ジョンへの期待は薄れていった[32]。しかし、モンゴル帝国の襲来後もプレスター・ジョンの国を探し当てる試みはなおも続けられ[6]、13世紀のヨーロッパでは、プレスター・ジョンの国をモンゴルの支配下に入ったキリスト教徒の国とする傾向が主流になる[21]

1248年12月[33]、キプロス島で第7回十字軍の準備を進めるフランス王ルイ9世の元にモンゴルの西アジア方面の司令官イルヂギデイ(エリジデイ)から派遣された使者を自称する、ダヴィデとマルコと名乗る2人組が現れる[34]。彼らはエルサレムの奪取を図るイルヂギデイがフランスと同盟してイスラーム勢力を攻撃することを望んでいること[35]、モンゴルの皇帝グユクとイルヂギデイがキリスト教に改宗し、さらにグユクの母はプレスター・ジョンの娘であると述べ立てた[33]。使者の言伝に強い興味を持ったルイ9世は、ロンジュモーのアンドルーら3人のドミニコ会の修道士をモンゴルの宮廷に派遣した[36]。しかし、アンドルーがモンゴルに到着したときにグユクは没しており、グユクの皇后オグルガイミシュが摂政として政務を執っていた。1251年にオグルガイミシュからの返書がルイ9世の元に届けられたが、返書はフランス国王自らのモンゴルの宮廷への貢納を要求するもので、キリスト教への改宗、同盟の締結について触れられていなかった[37][38]

1245年から1247年にかけてモンゴル帝国の宮廷を訪れたプラノ・カルピニはプレスター・ジョンと呼ばれる大インドの王がタルタル人の軍隊を破った報告を記したが、プラノ・カルピニの記したプレスター・ジョンはモンゴルに抵抗したホラズム・シャー朝の君主ジャラールッディーン・メングベルディーだと考えられている[39]。1253年にモンゴル帝国の宮廷に派遣されたフランシスコ会修道士ウィリアム・ルブルックは、カラ・キタイの王位を簒奪したナイマン部族の指導者がジョン王と称せられていたことを報告した[40]。ルブルックのいうジョンは西遼(カラ・キタイ)の帝位を簒奪したナイマンの王子クチュルクがモデルになっていると考えられているが[4][40]、クチュルクは西遼の帝位に就いた当時はネストリウス派から仏教に改宗していた[41]。また、ルブルックはジョン王には「ウンク」という名前の非キリスト教徒の兄弟がいたことを記しているが[42]、「ウンク」はケレイトの指導者オン・カンを混同したものだと考えられている[4][43]。シリア正教会の大主教バール・ヘブラエウスはルブルックの記録に現れるウンクをプレスター・ジョンと同一視し、配下であるチンギス・カンの殺害を企てたが逆襲を受けて戦死したと『シリア年代記』に記した[44]。ヘブラエウスは『シリア年代記』でウンクがキリスト教から異教に改宗し、ユダヤ教国からクァラカタという妃を迎えたことも伝えている[44]

を訪れたイタリアの旅行家マルコ・ポーロは『東方見聞録』において、ユヌ・カンと呼ばれる遊牧民の指導者がプレスター・ジョンで、チンギス・カンとの戦闘で落命したことを記した[45]。マルコ・ポーロの伝えたプレスター・ジョン像は過去に伝えられた大国の君主ではなく、チンギス・カンとの戦闘で不名誉な戦死を遂げた一指導者として書かれており[46]、『東方見聞録』で述べられているプレスター・ジョンはケレイトのオン・カンに比定されている[4][47]

やがて、カトリックの宣教師たちはプレスター・ジョン、彼の王国の実在性を疑問視するようになる[4]。14世紀初頭に中国を訪れたポルデノーネのオドリコはキタイ(中国)から西に50日進んだ場所にあるプレスター・ジョンの国の情報を書き残し、これがアジアにおけるプレスター・ジョンの国についての最後の報告となった[48]。プレスター・ジョンの国に着いたオドリコは住民からの情報を集め、ジョンにまつわる噂は真実ではないと断定した[49]。14世紀後半に元が衰退し、ティムール朝という中央・西アジアにまたがるイスラーム教国が現れると、アジアに存在するといわれるプレスター・ジョンの国を探す試みはされなくなる[4]。それでもなお、ジョン、ダヴィデなどの東方のキリスト教徒の王の伝説は大航海時代の後までヨーロッパの人々に幻想的な憧れを抱かせ
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3e/WangKhan.JPG]
Posted at 2016/09/15 10:19:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ

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