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くろまめたろうのブログ一覧

2016年06月20日 イイね!

真鍋庭園

真鍋庭園帯広市の南側、札内川と国道236号線に挟まれた市街地に位置する。敷地の南側が一般公開されている庭園で1800-2000種類の樹木が植えられている[3]。北側が苗木生産農場となっている。「真鍋庭園苗畑」が運営する[4]。緑化事業にも取り組んでいる[5]。2003年には年間3万人が庭園を訪れた[6]。北海道ガーデン街道協議会によって十勝と上川管内を結ぶ「北海道ガーデン街道」沿いの8庭園の一つとしても挙げられている[1]。エゾリスやモモンガも訪れる[7]。

Posted at 2016/06/20 10:17:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年06月16日 イイね!

パナマ運河

パナマ運河パナマ運河の通路は以下のようになっており、上り下りにそれぞれ3段階、待ち時間を含め約24時間をかけて通過させる。
カリブ海 ⇔ ガトゥン閘門 ⇔ ガトゥン湖 ⇔ ゲイラード・カット ⇔ ペデロ・ミゲル閘門 ⇔ ミラ・フローレス湖 ⇔ ミラ・フローレス閘門 ⇔ 太平洋

カリブ海からやってきた船は、コロンでパナマ運河へと進入する。コロンはカリブ海有数の港であり、コロン自由貿易地域やラテンアメリカ最大のコンテナ港であるマンサニージョ港などが存在し、パナマ地峡鉄道の起点・コロン駅も存在する。コロンを過ぎると、すぐにガトゥン閘門にぶつかる。ここには閘室が3つあり、ここで船は海面の0mから一気に26mにまで上昇する。ガトゥン閘門の最後の閘室を抜けると、パナマ運河の最高地点である海抜26mのガトゥン湖に到達する。ガトゥン湖はカリブ海側に流れるチャグレス川をせき止めてできた人造湖で、かつての山頂や尾根が半島や島として点在している。ガトゥン湖最大の島であるバロコロラド島を過ぎ、ガトゥン湖を抜けてしばらく行ったところにガンボアの街がある。ガンボアは北東から流れてくるチャグレス川が運河へと流れ込む地点であり、チャグレス川の上流にあるマッデンダムとアラフエラ湖(旧名マッデン湖)は、ガトゥン湖とパナマ運河への水の供給と推量安定機能を担っている。ガンボアを過ぎると、船はクレブラ・カット(ゲイラード・カット)と呼ばれる切り通しへと入る。ここは両洋の分水嶺にあたり、また地質がもろいために崖崩れが起きやすく、運河建設時は最も難工事となった区間である。現在では度重なる崖崩れに対処するために側面がコンクリートで固められ、また幅も大幅に拡張されてパナマックス船ですらすれ違いが可能となっている[1]。クレブラ・カットの終端部付近には、パンアメリカン・ハイウェイの通るセンテニアル橋が架かっている。クレブラ・カットを過ぎると、1閘室のみのペドロ・ミゲル閘門 があり、ここでやや高度を下げてミラフローレス湖へと入る。ミラフローレス湖の先には2閘室あるミラフローレス閘門が存在し、ここで船は完全に海面へと高度を下げる。ミラフローレス閘門を過ぎてすぐのところにバルボア市があるが、ここはパナマ運河の太平洋入口であり、パナマ地峡鉄道の終着駅やバルボア港がある。バルボアはパナマ市と隣接しており、ほぼパナマ市の経済圏に組み込まれている。パナマ運河出口付近には、初の運河横断橋であるアメリカ橋が架かっている。

海抜26メートルのガトゥン湖(運河の最高点)が存在するなど運河中央部の海抜が高いため、閘門(こうもん)を採用して船の水位を上下させて通過させている(“水の階段”と呼ばれる)。人造湖であるガトゥン湖と、ガトゥン閘門(3閘室)、ペデロ・ミゲル閘門(1閘室)、ミラフローレス閘門(2閘室)の3か所の2レーンの水門が存在する。最高地点の海抜が高く、多くの閘門を利用して徐々に上がっていくため、パナマ運河は「船が山を越える」と評されることもある[2]

パナマ運河を通過できる船の最大のサイズはパナマックスサイズと呼ばれている。閘門のサイズにより、現在、通過する船舶のサイズは、全長:294メートル、全幅:32.3メートル、喫水:12メートル以下に制限されているが、拡張工事完成後は、それぞれ最大366メートル、49メートル[3][4]、15メートルまでの航行が可能となり、通過可能船舶の範囲が大幅に拡大する。ただし、載貨時の吃水が元々大きいタンカーや鉱石運搬船は対象外で、コンテナ船の内、最も大型の一部もこの新閘門には対応はできないものがある。旅客船については、現在までに計画具体化あるいは建造中のものを含めて全て通航可能で、クルーズ船の運用に大きな変化を及ぼすものと考えられている(パナマ運河自体が一つの観光資源である)。この新水路は昇降に用いた湖水を再利用できる設計となっている。



[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7c/Panama.A2003087.1850.250m.jpg]
Posted at 2016/06/16 10:25:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年06月16日 イイね!

スエズ運河

スエズ運河1869年11月開通。本運河のためにアフリカ大陸を回りこまずにヨーロッパとアジアを海運で連結することができる。運河は北端のポートサイドと南端のスエズ市タウフィーク港を結び、中間点より北に3キロ・メートルの運河西岸にはイスマイリアがある[1]。
建設当初のスエズ運河は全長164キロ・メートル(102マイル)、深さ8メートル(26フィート)だったが、その後何度かの拡張工事を受け、2010年段階では全長193.30キロ・メートル(120.11マイル)、深さ24メートル(79フィート)、幅205メートル(673フィート)となった[2]。
スエズ運河は南北どちらかの一方通行で運営され、船のすれ違いはバッラ・バイパス (Ballah By-Pass) やグレートビター湖など4ヶ所で可能である[3]。運河には閘門が無いため海水は自由に流れ、主に夏にはグレートビター湖から北へ、冬は南へ水流が生じる。潮目の変化は湖の南で起こる[4]。
運河はエジプト政府が直轄するスエズ運河庁(英語版)(SCA)が所有運営している[5]。しかし、国際協定における規定も存在し、1888年のコンスタンチノープル協定では紛争時を除き航行の自由が保障された[6]が、「有事の際も平時同様、軍事目的の船舶であっても、所属国の如何を問わず」航行が認められるという解釈もなされている[7]。
Posted at 2016/06/16 10:22:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年06月14日 イイね!

神宮寺

神宮寺日本に仏教が伝来した飛鳥時代には、神道と仏教は未統合であったが、平安時代になり、仏教が一般にも浸透し始めると、日本古来の宗教である神道との軋轢が生じ、そこから日本の神々を護法善神とする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏(本地)の仮の姿である神(権現あるいは垂迹)を祀る神社が営まれるようになった。

鎌倉時代、室町時代、江戸時代では、武家の守護神である八幡神自体が「八幡大菩薩」と称されるように神仏習合によるものであったため、幕府や地方領主に保護され、祈祷寺として栄えた。

しかし、そのために檀家を持たなかったため、明治時代の廃仏毀釈でほとんどの寺院が神社に転向、あるいは消滅するなどし、急速に数を減らした。また、福岡県の梅岳寺のように、領主によって明治以前に改名された寺院もある。

現在は、残存した寺院の住職の努力で再興されている。

神宮寺とその神社の関係は様々で、どちらが主体だったかなど一概には言えない。上賀茂神社のように、神社の従属下に小規模な仏堂がわずかにあり、神宮寺と称した場合もあれば、日光東照宮のように、大社だが、寺院・僧侶(輪王寺)がその運営を完全に掌握した場合もある。根来寺のように起源は神宮寺として創建されたものの、神宮寺としての役割はほとんど消滅したと考えられる事例もある。清荒神、門戸厄神や高尾山薬王院のように、かつては寺院・僧侶がその運営を完全に掌握したが、明治期の神仏分離を経た現在も荒神や飯縄権現といった神祇を祀る神社が中心である場合もある。

神社と神宮寺のどちらが主体かは断言できないが、神祇のための寺院という神宮寺本来の役割を考えれば、神社なしの神宮寺はありえないため、宗教施設としては神社が中心といえる(神社がなければ神宮寺と称する必要がない。)。逆に寺院のための神社の場合は、鎮守社という(この場合、寺院あっての神社であり、寺院なしの鎮守社はありえない)。
[Kamo-wakeikazuchi-jinja18n4272.jpg]
Posted at 2016/06/14 10:19:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年06月14日 イイね!

玉置神社

玉置神社社伝の『玉置山縁起』では崇神天皇によって崇神天皇61年(紀元前37年)に、熊野本宮(和歌山県田辺市本宮町)とともに創建されたと伝えられ[9]、古来より十津川郷の鎮守であった[10]。しかし、『旧事紀』には崇神天皇61年の記事はなく、玉置神社のことも伝えられていない一方で、『水鏡』伝の新宮創祀と同年であることから作為と考えられ、創建年代は不詳である[11]。『玉置山縁起』をはじめとする社伝は、玉置山山頂近くに露頭する玉石を神体とする末社玉石社を玉置の称の由来とし、地主神または奥の院と位置づけており、山容を神奈備として崇拝することが起源であったと考えられている[9]。
玉置山を熊野三山の奥の院と称するのは江戸時代中期頃に初見され、寛政年間の玉置山別当高牟婁院宛沙汰書は「玉置山之儀熊野三山奥院格別の由緒ニ付」と記し、『紀伊続風土記』は熊野本宮に玉置神社の遥拝所があったと伝える[12]。神仏習合の後には、不動堂や大日堂を中心とする修験霊場となり、多数の塔頭・社坊が営まれた[13]。社殿や祭神には時期により異同があり、今日にない社殿や、今日と社殿を異にする祭神も見られる[14]。
鎌倉時代の寺社縁起『諸山縁起』に「玉木宿」とあるほか、『金峯山本縁起』に挙げられる百二十宿の中に「玉水宿」の名で記され[6]、室町時代には入峯の宿となった[13]。大峯・金峯・熊野を結節する要地として順峯・逆峯のいずれの大峯奥駈行においても重視され、その過程において社寺としてのかたちを得たと考えられる[15]。江戸時代の聖護院門跡の大峯奥駈行においては峯中結願所として終点になっていた[16]。
慶長年間の頃、社坊の一つ笹坊が、戦乱に乗じて十津川郷で恣意的な徴税を行ったところ、十津川の住人の訴えにより江戸幕府の聞き及ぶところとなり、笹坊とその共謀者は追放され、笹坊の所領は幕府に差し押さえられた。その後、元禄年間に至って社堂造営のため笹坊の旧所領の山林を伐材して財源とすることを試みたが、口添えする本寺がないため幕府に許されず、元禄4年(1691年)、安井門跡を本寺として頼み込んで造営を成し遂げた[17]。以来、安井門跡の支配下に入ったが、別当が神領の立木を乱伐する旨が聖護院の関心をひき、門跡入峯の際の要衝を保護するため、享保12年(1727年)からは聖護院門跡が玉置山を支配下におさめた[18]。社家・神職と社僧の間には長きに渡って確執があったが、このように相次いで有力な門跡の支配下に入ったことにより、社僧が優位に立った[18][19]。聖護院門跡の下では、別当寺院の高牟婁院が建立され[20][21]、7坊15か寺を従えて繁栄をみたものの、門跡の威光を借りた社僧が玉置山神領の山林だけでなく、近隣諸村の山林をも横領して聖護院領としたため、十津川郷との関係は疎遠なものとなった[20][22]。一山の収入も高牟婁院に差し押さえられ、社家には割り当てられなかった[23]ため、社坊は衰退して数を減らした[24]。
明治の神仏分離に際しては、十津川村内の他の寺院の例に漏れず、玉置山の仏教諸堂は破壊され、仏像なども破棄された[25]。玉置山参道入口のある大峯奥駈道の本宮辻の近くには、「十津川五十余ヶ寺供養塔」なる文字の記された卒塔婆が今日に残っている[20]。
Posted at 2016/06/14 10:17:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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