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くろまめたろうのブログ一覧

2016年06月02日 イイね!

モヘンジョダロ

モヘンジョダロモヘンジョ=ダロは現地の言葉で「死の丘」を意味し、歴史学者が足を踏み入れるまでは、非常に古い時代の死者が眠る墳丘として、地元民は恐れて近よらない禁忌の領域であった。この都市の本来の呼び名、すなわち往時の名称については、インダス文字が解読されていないため、ヒントすら得られていない。

[“大浴場”こと沐浴施設。後方にクシャーナ朝時代の仏塔を望む。]
Posted at 2016/06/02 10:15:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年06月02日 イイね!

バーレーンの真珠採取業

バーレーンの真珠採取業石油発見以前のペルシア湾岸では数千年にわたって天然真珠の採取が行われてきたが、その中でもバーレーン近海には好漁場が多く、質の高いことでも古来知られていた。その真珠採取の方法は少なくとも1000年以上の間、ほとんど変化をしなかった伝統的なものであり、多くの潜水夫たちが過酷な採取業に従事していた。バーレーンは周辺諸地域の真珠をボンベイに出荷する際の集積地の役割も果たしており、真珠商人たちも多く集まった。
その全盛期は19世紀後半から20世紀初頭のことだったが、1930年代以降、養殖真珠の台頭や世界恐慌の影響などでペルシア湾での天然真珠の採取業は急速に衰退し、バーレーンも大きな打撃を受けた。それと入れ替わるように、バーレーンでは1932年にペルシア湾岸のアラビア半島側で初めて油田が発見されたため、バーレーンは真珠の国から石油の国へと変貌し、真珠採取業に従事する者はほとんどいなくなった。
かつての繁栄を偲ばせるムハッラク島の建造物群や周辺の漁場は、2012年に「真珠採り、島の経済を物語るもの」の名前で世界遺産リストに加えられた。
Posted at 2016/06/02 10:14:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年05月31日 イイね!

マウリヤ朝

マウリヤ朝いわゆる十六大国の中でも最も有力であったマガダ国ではナンダ朝が支配を確立していた。しかしナンダ朝はシュードラ(カーストの中で最下位)出身であったことからバラモン教の知識人たちによって忌避されていた。こうした状況下にあって、マガダ国出身の青年チャンドラグプタがナンダ朝に反旗を翻して挙兵した。これに対しナンダ朝は将軍バッサダーラ(Bhadrasala)を鎮圧に当たらせたが、チャンドラグプタはこれに完勝し、紀元前317年頃に首都パータリプトラを占領してナンダ朝の王ダナナンダ(英語版)を殺し(ナンダ朝の滅亡(英語版))、新王朝を成立させた。これがマウリヤ朝である。

こうしてガンジス川流域の支配を確立したチャンドラグプタはインダス川方面の制圧に乗り出した。インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前にマケドニアのアレクサンドロス大王によって制圧されていたが、アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると彼の任命した総督(サトラップ)達の支配するところとなっていた。

ディアドコイ戦争中の紀元前305年、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世がインダス川流域にまで勢力を伸ばした。チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し(セレウコス・マウリヤ戦争(英語版))、セレウコス朝に4州の支配権を認めさせてインダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。これが直接的な戦闘の結果であるのかセレウコス1世が戦わずしてマウリヤ朝の領域を認めたのかについては諸説あり判然としない。

紀元前293年頃チャンドラグプタが死ぬと、彼の息子ビンドゥサーラが王となり更なる拡大を志向した。ビンドゥサーラの治世は記録が乏しい。彼はデカン高原方面へ勢力を拡大したとする記録があるが、実際には既に制圧済みだった領内各地で発生した反乱を鎮圧する一環だったとする説もある。ビンドゥサーラの息子に史上名高いアショーカがいた。ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、タクシラーで発生した反乱に際してアショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせたが、アショーカは現地の人心掌握に成功して反乱を収めたという伝説がある。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/4/43/Maurya_MAP.png]
Posted at 2016/05/31 10:29:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年05月31日 イイね!

マリ帝国

マリ帝国王国の創始者で、伝説的英雄スンジャータ・ケイタ (Sundiata Keita) は、マディンゴ族系のマリンケ族を統一し、1235年にはスースー族(英語版)のスースー王国(英語版)との戦いに勝利した(en:Battle of Kirina)。
その後、サハラ砂漠を越えて北アフリカと岩塩・布地・奴隷、そして金の交易を行い、14世紀には西は大西洋岸まで、東はトンブクトゥ・ガオまで、南はブレ・バンブクにある金鉱に達し最大の繁栄を極めた。14世紀には王のマンサ・ムーサ(マンサは「王の中の王」の意、在位:1312年 - 1337年)と、マンサ・スレイマン(英語版)(在位:1341年 - 1360年)のもとで帝国は最盛期を迎えた。当時マリを訪れたアラビア人の旅行家イブン・バットゥータは、「彼らの国はまったく安全である」ことに驚き、住民たちはもてなしが良く、正義感が強いことを称賛している。 なお、マンサ・ムーサは、1324年にムスリム(イスラム教徒)として数千人もの従者を引き連れてメッカへ巡礼し(皇帝マンサ・ムーサのメッカ巡礼)、その道中のあちこちで大量の金の贈り物をしたために、カイロの金の相場が下落したという逸話がある。王はマリに戻ると、イスラム教とイスラム文化を進んで住民に広めている。
しかし、14世紀の後半からは聡明でない王が続き、そのため従属していた国々が相次いで離反した。また同じ頃、南方のモシ族・北方のトゥアレグ族が攻めてきたために大損害を受け、帝国は衰退していった。その後もソンガイ帝国庇護のもと地方小国家として続いていたが、1645年に滅亡した。
Posted at 2016/05/31 10:26:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年05月26日 イイね!

aaaaaaaaaaa

Posted at 2016/05/26 17:21:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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