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くろまめたろうのブログ一覧

2016年05月18日 イイね!

アンティオキア公国

アンティオキア公国第1回十字軍以前は、アンティオキアはセルジューク朝の総督ヤギ・シヤーンが治める難攻不落の城塞都市だったが、セルジューク朝征服以前からのギリシア人住民も多く、東ローマ帝国はここを帝国固有の領土と考え[1]、セルジューク朝から回復しようと考えていた。第1回十字軍遠征の際、アンティオキア攻囲戦において活躍した南イタリアのノルマン人封建君主であるターラント公ボエモンは攻略中からこの都市の領有の希望を公言するようになり、1098年、半年に渡る包囲の末にアンティオキアが陥落し市民の虐殺と略奪が終わると、この地の君主(公)に就任し、アンティキアを首都とするアンティオキア公国が建設された。ボエモンは十字軍の本来の目的であったエルサレム攻略への参加を止め、アンティオキア公国の確立に専念することになる。
ボエモンは1100年に小アジア内陸のセルジューク朝系ムスリム政権ダニシュメンド朝の王ダニシュメンド・ガーズィーを討とうとして、逆にダニシュメンドの捕虜となってしまうと、甥のタンクレードが摂政に就任した。ボエモンは身代金を払い解放されると、同じ十字軍国家のエデッサ伯国と協力しシリア北部のハッラーンを制圧し、セルジューク朝の分裂に乗じモースルやバグダードをうかがう勢いだったが、モースルのムスリム軍に完敗し退却を余儀なくされた(ハッラーンの戦い)。さらにアンティオキアのあり方をめぐってアンティオキアの宗主権を主張する東ローマ帝国の圧迫を受けたため、援軍を求めてイタリアに帰国してしまい、再びタンクレードが摂政となった。
1108年にはボエモン1世がマケドニアで東ローマ皇帝アレクシオス1世とデヴォル条約を結びアンティオキア公国を東ローマ帝国の臣下とすることを約束したが、タンクレードはこれを拒み独立国としてあり続けることを選んだ。1111年ボエモンがイタリアで死ぬと、タンクレードはボエモンの遺児(ボエモン2世)を立てて摂政を続けた。タンクレードはエデッサ伯国と協力して東ローマ帝国からラタキアを奪い、バニヤースの南をトリポリ伯国との境界とした。北シリアの主要都市で内陸に隣接するアレッポにはシリア・セルジューク朝のリドワーン王が陣取っていたが、これと戦って破り、オロンテス川の中流域とアレッポを取り巻く周囲に至るまでの内陸側をすべて征服し、シリアの強国として君臨するアンティオキア公国の事実上の建国者として活躍した。
Posted at 2016/05/18 10:14:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年05月16日 イイね!

御目見

御目見御目見(おめみえ)とは、江戸時代に大名や旗本が将軍に直接拝謁すること。また、その資格。「上聴」とも呼ばれる。

江戸時代の武士には、どの藩でも藩主にお目通りする資格がある「上士」と、それがない「下士」の区別があった。一般に「侍」(さむらい)と呼ばれたのは前者の方で、後者はかつて戦場でも騎乗の資格がなかったことから「徒歩」(かち)と呼ばれた。

幕府内では、石高一万石未満の徳川家家臣で、総登城や年賀節句など将軍が出御する儀式に参列することが許されている者を「旗本」、そうでない者を「御家人」と呼んだ。また旗本は、規模は小さいながらも実際に知行地をもつ一領主であったことから、庶民からは俗に「殿様」(とのさま)と呼ばれた。一方の御家人は、切米で俸給されたので「旦那様」(だんなさま)と呼ばれた。

江戸城内における年中儀礼の式次第や諸大名の格式をはじめ、故事、旧例、有職、法規などを網羅した注釈書『柳営秘鑑』には、以下の記述がある。
一、那須七家、大關、大田原、蘆野、千本
  福原、伊王野、岡本、但太田原、大關ハ萬石以上、殊ニ大田原ハ城主
  其外、蘆野、福原等?暮參上、三月中頃
  御暇被下、月次(月例)之御禮、御白書院、御勝手ニ
  能有、御目見仕、伊王野、岡本ハ斷?

近世武家社会において御目見は家督の相続に際して嫡子として認められる所作のひとつとなっており、成人の嫡子が存在しても御目見を済まさない場合は家督相続者として認められなかった。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b0/KokyoTowerM1108.jpg/1024px-KokyoTowerM1108.jpg]
Posted at 2016/05/16 10:35:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年05月16日 イイね!

騎士

騎士フン族、アヴァール人、マジャル人といった遊牧騎馬民族は、古代末期よりたびたびヨーロッパに侵攻して乗馬技術や騎馬戦法をもたらした(騎馬戦法は古代スキタイに発し、3世紀頃のパルティアで完成したと言われている)[2]。ゲルマン諸部族の戦士はもともと歩兵が多かったが、騎兵もフン族やサルマタイ人の影響を受けて次第に増加していった[3]。中世初期のメロヴィング朝でも軍の主力は歩兵であったが、カロリング朝初期の800年前後には少数精鋭の重装騎兵が軍の中心に据えられた。ただし、かれらは馬から降りて戦うことが多かった[4]。騎乗して戦う騎兵が活躍するようになった背景には、鐙(あぶみ)をはじめとする馬具の改良があった[5]。8世紀初頭にフランク族に伝わった鐙は、騎乗したたま身体をしっかり支えて武器を振るうことを可能にした[6]。9-10世紀には蹄鉄と拍車が普及した[7]。こうして重装騎兵は11世紀後半頃までに有力な戦力として戦闘の主役となるに至った[8]。西方ラテン世界の公式言語での騎士の呼称「ミーレス」(羅: miles)は本来たんなる戦士という意味であった。カロリング朝の公権力崩壊にともなう封建制の成立期には、領主と主従関係を結び、主君のために軍役などの奉仕を行う人々が出現した。大貴族に従属する家臣にして支配階級の下部に位置するかれらもまたミーレスと呼ばれた。こうして騎士は(たんなる騎馬戦士を指す場合もあったが)有力者に軍事奉仕をする見返りに授与される特別な身分を意味するようになった[9]。さらに、尚武の風潮の高まりとともに12世紀には高位の貴族や王までも騎士を自称するようになった[10]。騎士になるにはまず、7歳頃から小姓(ペイジ)となり、主君の下に仕え、使い走りなどの仕事をする一方で、騎士として必要な初歩的技術を学んだ。14歳頃で従騎士(エスクワイア)となると、主人である先輩騎士について、身の回りの世話をはじめ、甲冑や武器の持ち運びや修理も担当し、実際の戦闘にも参加するようになった。20歳前後で一人前の騎士と認められると、主君から叙任を受け、金もしくは金メッキの拍車をつけるようになった。
叙任の儀式は基本的には、主君の前に跪いて頭を垂れる騎士の肩を、主君が長剣の平で叩くというものである。騎士の戦士としての重要性が薄れると、かえって叙任の儀式は複雑化して、宗教色や騎士道精神といったものが強調されるようになり、聖職者が式に絡むことも多くなった。
こうした中世騎士の制度は封建制度の中核を成し、また「ベテラン兵の指導を受けて技術を学ぶ」という点は封建制自体と同じくゲルマン系文化の従士制度から影響を受けている。ただし、儀礼的な部分に限って言えばむしろローマ(ラテン)的であり、またケルト的であった[11]。肩を剣で叩くという儀式は古代ローマの貴族階級で行われた儀式に起源を持ち、その際に両膝をついて跪くことで忠誠を示す様はケルト系の諸民族で見られた習慣であった。儀礼が異文化から取り入れられた経緯は詳しくは分かっていない。
Posted at 2016/05/16 10:31:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年05月12日 イイね!

ペスト

ペスト472年以降、西ヨーロッパから姿を消していたが、14世紀には全世界にわたるペストの大流行が発生した。この流行はアジアからシルクロードを経由して欧州に伝播し、人口の約3割を死亡させた。全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2に当たる、約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。

14世紀の大流行は中国大陸で発生し、中国の人口を半分に減少させる猛威を振るったのち、1347年10月(1346年とも)、中央アジアからイタリアのシチリア島のメッシーナに上陸した。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされる。流行の中心地だったイタリア北部では住民がほとんど全滅した[2]。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。

1377年にヴェネツィアで海上検疫が始まった。当初30日間だったが、後に40日に変更された。イタリア語の40を表す単語からquarantine(検疫)という言葉ができた。

イギリスでは労働者の不足に対処するため、エドワード3世がペスト流行以前の賃金を固定することなどを勅令で定めた(1349年)ほか、リチャード2世の頃までに、労働集約的な穀物の栽培から人手の要らないヒツジの放牧への転換が促進した。イングランドの総人口四百万人の3分の1が死んだと言われ、当時通用していたフランス語や聖職者が使用していたラテン語の話者人口が減り英語が生き延びた。

また、ユダヤ教徒の犠牲者が少なかったとされ、彼らが井戸へ毒を投げ込んだ等のデマが広まり、迫害や虐殺が行われた。ユダヤ教徒に被害が少なかったのはミツワーに則った生活のためにキリスト教徒より衛生的であったという考えがある一方、実際にはキリスト教徒と隔離されたゲットーでの生活もそれほど衛生的ではなかったなどの見解もある。

ポーランドではペストの発生が抑えられていた。アルコール(蒸留酒)で食器や家具を消毒したり腋や足などを消臭する習慣が国民に広く定着していたほか、原生林が残り、ネズミを食べるオオカミや猛禽類などが多くいたポーランドではペスト被害が発生していなかった。

地中海の商業網に沿って、ペストはヨーロッパへ上陸する前後にイスラーム世界にも広がった。当時のエジプトを支配し、紅海と地中海を結ぶ交易をおさえて繁栄していたマムルーク朝では、このペストの大流行が衰退へと向かう一因となった。

[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/f/f5/Pestilence_spreading_Japane.png/800px-Pestilence_spreading_Japane.png]

Posted at 2016/05/12 10:26:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年05月12日 イイね!

グルジア王国

グルジア王国グルジア王国(グルジア語: საქართველოს სამეფო サカルトヴェロス・サメポ)は、1008年ごろに成立した中世の王国。グルジア連合王国[1]、またはグルジア帝国とも呼ばれる[2][3][4][5]。11世紀から13世紀にかけて、ダヴィド4世とタマル女王の治世の下、黄金時代を現出した。その最盛期には今日のウクライナ南部とイラン北部までを版図に収め、アトス山とエルサレムに修道院を保持した。住民の多くはグルジア語を話す正教徒であり、現代のグルジアの前身となった。
13世紀、王国はモンゴルの侵攻(英語版)に晒されたが、1340年代に再独立した。しかし、その後も遊牧民がもたらした黒死病とティムールの数回にわたる侵攻に悩まされ、王国の人口は減少、経済は大打撃を受けた。さらに1453年、コンスタンティノープルの陥落により王国の古くからの同盟国である東ローマ帝国が滅亡した。15世紀末までに王国はテュルク系民族とイラン系民族の国に囲まれ、キリスト教のグルジア王国は孤立した。1386年にティムールの侵攻がはじまり、最終的に1466年の王国崩壊をもたらした。無政府状態はその後、1490年にイメレティ王国(英語版)、カヘティ王国(英語版)、カルトリ王国(英語版)が独立を相互承認するまで続いた。グルジアの再統一は1762年にカルトリ王国とカヘティ王国が統合され、カルトリ・カヘティ王国(英語版)が成立するまで待たなければならない。カルトリ・カヘティ王国はさらに18世紀、ロシア帝国に併合された。
Posted at 2016/05/12 10:22:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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