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くろまめたろうのブログ一覧

2016年04月21日 イイね!

大日本帝国

大日本帝国万延元年遣米使節の正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順は1860年、日米修好通商条約を批准した安政五年条約批准条約交換証書[1]上で、日本側を「大日本帝国 大君の全権」と記した。
明治天皇は1868年1月3日(慶応3年12月9日)、王政復古を宣言。1871年(明治4年)に鋳造された国璽には「大日本國璽」と刻まれ、1874年(明治7年)の改鋳に際しても印文は変更されず、今日に至るまで使用されている。1873年(明治6年)6月30日に在日本オランダ公使からの来翰文邦訳ですでに「大日本帝国天皇陛下ニ祝辞ヲ陳述ス」と記述され[2]、1889年(明治22年)2月11日には大日本帝国憲法(帝国憲法)が発布され、1890年(明治23年)11月29日、この憲法が施行されるにあたり大日本帝國という国名を称した。初め伊藤博文が明治天皇に提出した憲法案では日本帝國であったが、憲法案を審議する枢密院会議の席上、寺島宗則副議長が、皇室典範案に大日本とあるので文体を統一するために憲法も大日本に改めることを提案。これに対して憲法起草者の井上毅書記官長は、国名に大の字を冠するのは自ら尊大にするきらいがあり、内外に発表する憲法に大の字を書くべきでないとして反対した。結局、枢密院議長であった伊藤博文の裁定により大日本帝國に決められた[3]。 大日本という表記は「オオヤマト」としては古来用いられており、明治時代に国名として初めて使用されたという訳ではない。 帝國も訓読され「スメラミクニ」(皇御国)として古来日本の通称として用いられてきたものであり、古代に始まる天皇国家たる事実に基づくもので、政治や思想、主義、規模等に基づく「Empire」(帝国)とは一線を画している。
帝国憲法の半公式の英訳(伊東巳代治訳)では「Empire of Japan」と訳され、「大」の意味合いはなかった。当時は国名へのこだわりがなく、帝国憲法と同時に制定された皇室典範では日本帝國、大日本國と表記し、外交文書では日本、日本國とも称したし、国内向けの公文書でも同様であった。その後、世界情勢の悪化などにより国名への面子に対する拘りが表面化した1935年(昭和10年)7月、外務省は外交文書上「大日本帝國」に表記を統一することを決定した[4]。国号を参照。
第二次世界大戦後、日本政府が1946年2月8日に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱では、国名を「大日本帝國」のままにしていたが、2月13日、GHQ/SCAPのホイットニーにより、憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳からは国名が日本國となり、国号に関して1946年7月23日時点における内閣総理大臣の公式見解としては「従来現行憲法(当時は大日本帝国憲法下)においても特に我が国の国号を一定する意味で「大日本帝国」といふ名称が用ゐられたものとは考えていない」ものとされた[5]。
その後1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法により日本は憲法上日本國の名称を用いることとなり、日本国憲法下の日本では主権在民に変更されつつ象徴天皇制として皇室は維持された。
Posted at 2016/04/21 10:21:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年04月18日 イイね!

清教徒革命

清教徒革命ステュアート朝期イングランドは国教会による王の絶対主義によって維持されていたが、富をえて上昇する者と没落する者が錯綜し、社会のしくみが絶対主義の確立されたテューダー朝期とは大きく異なってきていた(ただし、ステュアート朝期における王室と議会の対立の源となった社会矛盾の多くはテューダー朝期に由来している)。三十年戦争では、1624年にフランスの呼びかけに応じてデンマーク=ノルウェーを対ハプスブルク同盟へ引き込む為に資金を提供した結果、王室は財政難に苦しむことになった。

しかし、1625年に王位を継承したチャールズ1世は、変化に対応する能力に欠けており、王権神授説にもとづき議会と対立し、大陸の戦火がイギリスにも及ぶことに成った。イングランド内戦は、1641年のアイルランドのカトリックが蜂起してアイルランド・カトリック同盟政権を樹立したアイルランド革命(英語版)(アイルランド同盟戦争(英語版)の発端)から始まった。翌1642年にイングランドでも王と議会の対立から第一次イングランド内戦(英語版)(1642年 - 1646年)が始まった。スコットランドでも二次にわたる主教戦争を経て1644年、盟約派と国王派の間でスコットランド内戦(英語版)が始まっている。特にイングランドではピューリタニズムの影響を受けて民衆運動となり、次第に過激化・大規模化していった。国王派(騎士党)と議会派(円頂党)の内戦は議会派が勝利して終わった。議会派内でも内部対立がおこって第二次イングランド内戦(英語版)(1648年 - 1649年)が起こり、国王チャールズ1世の処刑が行われた。

共和政のイングランド共和国(1649年 - 1660年)が樹立された。第三次イングランド内戦(英語版)(1649年 - 1651年)はそれぞれの勝利した陣営によって三つ巴の戦争に発展し(三王国戦争、英語: Wars of the Three Kingdoms)、特にアイルランドでは現在も続くアイルランド問題の発端となったクロムウェルのアイルランド侵略(1649年 - 1653年)が行なわれた。1652年には第一次英蘭戦争(英語版)が始まり、イングランド内戦を制した後もイングランド共和国は安定せず、1653年には大きな軍事的功績をおさめたオリバー・クロムウェルが担ぎ上げられる形で護国卿となった。1654年に英西戦争(英語版)が始まってダンケルクを占領したものの、護国卿政は5年で破綻した。

1660年の王政復古(王政復古)によって清教徒革命は失敗に終わり、かくしてイングランド・スコットランド・アイルランドは王政に復した。しかし、星室庁や独自の財源を失ったステュアート朝の王権弱体化は明らかであった。実権を掌握しつつあったイングランド議会は王権神授説や絶対王政を志向する王との溝を深めてゆき、それはやがて名誉革命を招いて、王を中心とする絶対君主制から議会を中心とする立憲君主制へと移行することになった。清教徒革命はステュアート朝の王たちが目指していた絶対主義から脱却するという点から市民革命のひとつとして分類される。現在では名誉革命と併せてイギリス革命として議論されることが多い。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/After_the_Battle_of_Naseby_in_1645.jpg]
Posted at 2016/04/18 10:18:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年04月18日 イイね!

絶対王政

絶対王政一般的に「絶対王政期」「絶対王政の時代」とは、西ヨーロッパにおける市民革命以前の時代を指す。おおよそ16世紀から17世紀にかけて到来し、イングランドのテューダー朝、フランスのブルボン朝、スウェーデンのヴァーサ王朝・プファルツ王朝などが挙げられる。とりわけ、ブルボン朝がその典型例とされ、1615年から1789年まで、身分制議会である三部会が召集されなかった。これは諸侯の権力の低下と、国王の権力があらゆる権力に優先したことを示している。フランス王ルイ14世が諌言する家臣に言った「朕は国家なり(L'État, c'est moi)」という言葉(「そんなことをなさっては国家と民のためになりません」に対して「民だけでいい」に続いて言ったとされる)は、この状況を端的に表現しているとされた。[誰によって?]
ただし、実際には王権が絶対であったわけではない。王権の絶対性は、貴族・ギルドなど特権を有する諸団体(社団)が統治に協力することで成立していたが、彼らは常に従順な協力者ではなかった。例えば、イングランドではマグナ・カルタに基づく議会の課税承認権を盾として財政的な制約に悩まされ続け(ただし、議会側の抵抗も当初は保守的な封建主義的な見地からのものが主であった)、またフランスで免税特権の剥奪をルイ16世が図った際には、彼らは再び身分制議会である三部会を開催し、自らの特権擁護のために王に反発している。このことが、社団の解体をもたらすフランス革命へとつながったのは皮肉であった。
当初、この「絶対王政」を正当化するような、明文化された法があったわけではない。しかし、後に王権神授説や自然法思想に基づく社会契約論などが示され、絶対王政を肯定化する試みがなされた。とはいえ、自然法思想に基づく社会契約論からは、王権の絶対性に異を唱えるジョン・ロックといった思想家も現れ、市民革命を擁護する論理的基盤が作られることにもなる。
また、17世紀から18世紀にかけてエルベ川以東でも、絶対主義国家を樹立した西欧への対抗上から「絶対王政の時代」が始まり、当時西欧で流行していた啓蒙主義思想と結びついて、啓蒙専制君主が出現した。プロイセン国王フリードリヒ2世が言ったとされる「国王は国家第一の下僕」という言葉は、人権思想や市民権思想が発達した啓蒙主義と結びついた啓蒙専制君主像を端的に示している。
「絶対王政」の時代において、国王は当時の身分制社会の枠組みに縛られながらも、諸侯の第一人者という立場から脱却して、各特権団体を従わせることに成功した。また、絶対王政を通じた中央集権国家の形成は、後に続く国民国家の形成に大きく寄与した。
Posted at 2016/04/18 10:16:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年04月14日 イイね!

青ヶ島

青ヶ島東京の南358キロメートル、八丈島の南方65キロメートルにある周囲約9キロメートルの火山島。

青ヶ島は典型的な二重式カルデラ火山[4]で、島の南部に直径1.5キロメートルのカルデラ(池之沢火口)があり、その中に「丸山(別名オフジサマ)」という中央火口丘があるが、島自体はより大きな海中カルデラ全体の高まりのひとつにすぎず、第1東青ヶ島海丘・第2東青ヶ島海丘・第3東青ヶ島海丘などとともに島の北東にある海中カルデラの外輪山となっている[4]。なお、第2青ケ島海丘と第3青ケ島海丘の間にも、更にカルデラがあると考えられている(つまり、青ヶ島と周辺海域には火口・カルデラ地形が幾つも重なっている)。島の最高点はこの丸山を取り囲んでいる外輪山の北西部分に当たる「大凸部(おおとんぶ)」にある。外輪山の外側斜面は急な崖となって海岸線に続く。このため、海沿いには殆ど平坦地が無く、高さ50-200メートルほどの直立する海食崖になっており、砂浜は無い。

島の北端やカルデラ内の数か所では噴気孔があり、黒崎海岸には海中温泉も在る[4]

集落はカルデラの外・島の北部にあり、村役場を中心に「休戸郷(やすんどごう)」と「西郷(にしごう)」の2つが存在する。ただし、集落名に関係なく公的な住所は島内全て「青ヶ島村無番地」である。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d4/Aogasima_maruyama.jpg]
Posted at 2016/04/14 10:20:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年04月14日 イイね!

青ヶ島

青ヶ島青ヶ島にいつ頃から人が住み始めたのか現在のところはっきりしていない。これは他の伊豆諸島の島々で発見されている縄文時代や弥生時代の遺跡が全く発見されておらず、また中世の遺跡も見つかっていない上に文献資料も乏しいためである。15世紀になってようやく青ヶ島に人が居住しているとの記録が現れる[1]。
青ヶ島は絶海の孤島で周囲を黒潮が流れ、波が荒いことが多く青ヶ島への船の航行は困難を極めた。また島の周囲は約50-250メートルの海食崖が発達しており船の接岸も困難であった。15世紀の青ヶ島についての記録の多くは船の遭難に関することであり、この船の往来の困難さは現在に至るまで青ヶ島に住む人々を悩ませ続けている[2]。
往来は困難を極めたが、青ヶ島での生活には利点もあった。これは八丈島、八丈小島と比べて食糧事情が良かったことである。八丈島や八丈小島は19世紀のサツマイモの本格的な普及まで慢性的な食糧危機に見舞われていた。これは主に台風の襲来による風害によるものであり、ひとたび強い台風が八丈島や八丈小島を襲うと多くの作物に甚大な被害がもたらされ、餓死者が出ることも稀ではなかった[3]。
一方青ヶ島は大きな成層火山の山頂部が海面上に出ている地形をしており、島の南部には直径1.5-1.7キロメートルという成層火山の大きな火口にあたる池之沢がある[† 2]。池之沢にはかつて大池、小池という真水の池があり、土地も肥沃であった。何よりも大きな火口の内側となる池之沢は周囲の山によって強風が遮られるため作物の被害が少なかった。このような土地であるため、元禄13年(1700年) 11月には激しい飢饉に襲われ青ヶ島へ出発した八丈小島の住民24名全員が行方不明になるという事件も発生した[4]。
しかし池之沢は成層火山の大きな火口内であり、承応元年(1652年)に池之沢内で噴煙が上がり、寛文10年(1670年)から約10年間、池の沢にあった池から細かい砂が約10年間に渡って噴出したとの記録が残されている。いずれの事件も小規模な異変であったと考えられ、青ヶ島の島民に大きな影響を与えることはなかった。 安永3年(1774年)の記録によると青ヶ島には流人1名を加えて328名の島民が、農業やカツオ漁などの漁業、そして年貢としての生糸を生産するための養蚕を営みながら生活していた。島内で農業や養蚕の最大の拠点は、土地が肥え真水の池があって風害から守られている池之沢であった[5]。
Posted at 2016/04/14 10:18:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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