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くろまめたろうのブログ一覧

2016年03月10日 イイね!

淡路ビーフ

淡路ビーフ但馬牛は、元来は兵庫県の但馬地方を原産とする黒毛和種であるが、出荷数は現在、但馬地方よりも淡路島のほうが多い。但馬牛の子牛は他の銘柄牛の素畜でもあることから、淡路島でも最高品質の和牛を誕生させようと、1986年に肥育農家や精肉業者、畜産団体が一体となって淡路ビーフブランド化推進協議会が結成され、独自開発された専用配合飼料を使用するなど努力を重ねて、淡路ビーフが開発された。その後、価格が手頃な高級品質の和牛肉として特産品化され、淡路島の観光振興に寄与している。
Posted at 2016/03/10 10:17:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年03月08日 イイね!

施福寺

施福寺古くは槇尾山寺と呼ばれた山岳寺院で、葛城修験系の寺院として創建されたものとみられる。南北朝時代成立の寺史である『槇尾山大縁起』(正平15年・1360年書写)によると、施福寺は欽明天皇の時代、播磨国加古郡の行満上人が創建したものであるという。

札所本尊の千手観音像については、次のような説話が伝承されている。宝亀2年(771年)のこと、当時槇尾山寺に住していた摂津国の僧・法海のもとに、一人のみすぼらしい格好をした修行僧があらわれ、夏安居(げあんご)の期間をこの寺で過ごさせてくれと頼んだ。この修行僧は客僧として槇尾山寺に置いてもらえることとなり、夏安居の期間、熱心に修行に励んだ。予定の期間が終わって寺を辞去しようとする際、客僧は帰りの旅費を乞うたが、寺僧たちはそれを拒んだ。すると、客僧は怒り出し、「何ということだ。この寺は、見かけは立派だが、真の出家者などはいないではないか。このような寺はいずれ滅び去り、悪鬼の棲家となるであろう」と叫んで、出て行ってしまった。驚いた法海が後を追うと、修行僧ははるかかなたの海上を、沈みもせずに歩いている。これを見た法海は、あの修行僧は自分らを戒めるために現れた観音の化身であったと悟り、千手観音の像を刻んで祀ったという。

縁起には役小角(役行者)、行基、空海(弘法大師)などに関わる伝承もある。役小角については、彼が自ら書写した法華経の巻々を葛城山の各所の秘密の場所に埋納し、最後に埋めたのがこの山であったことから巻尾山(槇尾山)の名が付いたとする、地名起源伝承がある。また、空海は延暦12年(793年)、20歳の時、槇尾山寺において勤操を導師として出家剃髪し、沙弥戒を受けたとする伝えがある。空海の当地における出家剃髪は史実とは認めがたいが[1]、空海が唐からの帰国後、都に戻る直前の大同4年(809年)頃、当寺に滞在した可能性は別の史料から指摘されている[2]。縁起には、延喜16年(916年)、定額寺に定められるとするが、施福寺は度重なる火災で古記録が失われており、これも史実か否か不明である。

以上のように、施福寺の初期の歴史は伝説色が濃く、判然としないが、『日本霊異記』に言及されている「和泉国泉郡の血渟(ちぬ)の山寺」は当寺のこととされ、同書の成立した9世紀前半には著名な寺院であったことが伺われる。

中世以降[編集]

正嘉年間(1257 - 1259年)、後白河上皇所縁の法華経と仏像が奉納されたことが縁起に見え、寺が所蔵する「法華経妙音菩薩品」(平安時代の装飾経)がそれにあたると推定されている[3]。仁治年間(1240年 - 1243年)には、仁和寺菩提院の僧・行遍によって灌頂堂(密教の師資相承の儀式を行う堂)が建立されており、中世には当寺は仁和寺の支配下にあった。

南北朝時代には南朝方の拠点の一つとなり、寺の衆徒も南朝方に与した。そのため戦火に巻き込まれることが多く、寺は衰亡した。天正9年(1581年)には織田信長と対立したことが原因で一山焼き払われるが、豊臣秀頼の援助により、慶長8年(1603年)に伽藍が復興された。

近世には徳川家の援助で栄え、その関係で寛永年間頃に真言宗から天台宗に改宗、江戸の寛永寺の末寺となった。江戸時代末期の弘化2年(1845年)の山火事で仁王門を除く伽藍を焼失。現在の本堂等はその後に再建されたものである。
[Sefukuji hondo.jpg]
Posted at 2016/03/08 10:16:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年03月08日 イイね!

空海

空海高野山の人々や真言宗の僧侶の多くは、空海が死んだと言うことは半ばタブーとなっており、高野山奥の院の霊廟において現在も空海が禅定を続けていると信じている。奥の院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた者も他言しないため一般には不明のままである。
現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。『今昔物語』には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。また、入定したあとも諸国を行脚している説もあり、その証拠として、毎年3月21日に空海の衣裳を改める儀式の際、衣裳に土がついていることをあげている[14]。
このように一般には空海は肉身を留めて入定していると信じられているが、『続日本後紀』に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、いくつかの根拠を示して火葬されたとする説もある。桓武天皇の孫、高岳親王は、十大弟子のひとりとして、遺骸の埋葬に立ち会ったとされる。
このように空海に関しては、史実よりも伝承のほうが多い。
弟子[編集]
Posted at 2016/03/08 10:14:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年03月07日 イイね!

abc

Posted at 2016/03/07 11:24:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年03月04日 イイね!

黄河

黄河上流
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4f/Yellow_river_-_A._Holdrinet.jpg/250px-Yellow_river_-_A._Holdrinet.jpg]

黄河流域は地理的にはいくつかに大きく区分できる。チベット高原、黄土高原、オルドス・ループ、華北平原である。黄河は玉樹チベット族自治州の東端に近い青海省バヤンカラ山脈に源流があり、7つの省と2つの自治区を縫って流れる。バヤンカラ山脈に端を発した黄河は、チベット高原の中を大きく蛇行しながら北へと流れ、青海省の西部で黄土高原の中に入る。甘粛省に入ると甘粛三峡と呼ばれる劉家峡・塩鍋峡・八盤峡を流れる。劉家峡から八盤峡までは70㎞ほどしかないが、この3つの峡谷にはそれぞれ劉家峡水力発電所(1969年完成)・塩鍋峡水力発電所(1962年完成)・八盤峡水力発電所(1980年完成)があり、発電および周辺地域の灌漑に利用されている[1]

この地域までは黄河は基本的に深い谷をなしながら流れ、灌漑などに水を利用することも中華人民共和国成立まではほぼ行われてこなかったが、この3つの峡谷を抜けたところで黄河は初めて開けた土地へと流れ込む。蘭州盆地である。蘭州盆地の中心都市である蘭州市は黄河で最も上流に位置する大都市であり、黄河の渡河地点から発達した都市で、人口は300万人以上に上り、中国北西部の中心都市である。蘭州から北へと向きを変えた黄河が市を抜けてしばらくするとふたたび切り立った崖に周囲を囲まれ、寧夏に入ると青銅峡と呼ばれる渓谷へと流れ込む。この渓谷にもダムが建設され、寧夏の豊かな農業生産を支えている。

青銅峡を抜けると、黄河は寧夏の広大な盆地へと流れこむ。銀川平原(寧夏平原ともいう)は黄河のほとりに広がる広いオアシスであり、「天下黄河富寧夏」(天下の黄河が寧夏を富ます)という言葉通り古くからその肥沃さと水の豊富さで知られ、「塞上の江南」とも呼ばれる。西夏王朝もこの銀川市に本拠地を置いた。この地域は回族が比較的多く、寧夏回族自治区を形成している。銀川平原は農業生産力が高いため、近年では人口圧の高まっている寧夏南部の黄土高原地帯から銀川平原への生態移民が行われている[2]。この高い農業生産力を支えているのは豊富な黄河の水である。この地域は黄河からの直接の引水が可能であり、青銅峡灌区と呼ばれる一大灌漑地域となっている。この地域での灌漑用水は、使用後再び黄河へと戻される。

銀川平原を抜けると、黄河はオルドス高原の中をなおも北上したのち、内モンゴル自治区のバヤンノール市で東へと向きを変え、包頭市の先で今度は南へと向きを変える。この地域は河套と呼ばれ、屈曲部北端の平原は河套平原と呼ばれている。この河套平原も黄河からの直接引水が可能であり、バヤンノール市に築かれた三盛公ダムから灌漑用水が供給され、河套灌区と呼ばれる一大灌漑地域となっている。この地域ではコムギやトウモロコシが主に栽培される。河套灌区での灌漑用水は黄河へと戻されず、烏梁素海という湖へと流される。呼和浩特市の先、頭道拐で黄河は流路を南へと転ずるが、この頭道拐までが黄河の上流部とされる[3]

中流

蘭州から渭水との合流地点までは、黄河は漢字の「几」の字のような形で大きく屈曲する。この部分はオルドス・ループ (Ordos Loop)とも黄河屈曲部とも呼ばれる。この屈曲部の北東端までが上流で、それより南が中流ということになる。頭道拐からは黄河はほぼ真南に向かい、黄土高原のただなかを流れるが、黄河の土砂の供給のかなりの部分はここからもたらされる。黄河そのものの浸食のほか、黄土高原各地を流れる支流や、関中盆地から流入する渭水も流域の黄土を大量に含んでいるためである。この地域では黄河は険しい黄土高原を切り裂いた深い谷の底を流れるため、黄河の水はほぼ使用不可能である。頭道拐のすぐ南には1999年に万家寨ダムが建設され、灌漑や土砂調節などに大きな役割を果たしている。この地域では黄河は西の陝西省と東の山西省との省境をなし、西からは無定河や延河、東からは汾河などが流れこむ。

陝西省の潼関で西から流れてきた渭水と合流してほぼ直角に流路が折れ、今度はまっすぐ東へと向かう。東へと向かった黄河は、三門峡ダム、小浪底ダムといったダムを抜け、洛陽市の北方で山岳地帯を抜けて、広大な華北平原へと流れ込む。ここからはじまる黄河の下流域は中原と呼ばれる。この地は黄河文明発祥の地であり、中国文明の中核地域として過去に歴代王朝の都が置かれた。鄭州市の北に位置する花園口までが黄河の中流域に属し、ここからは下流とされる[4]。鄭州市は一部黄河に沿って東西に走る幹線である隴海線と、黄河を越えて南北に走る幹線である京広線の結節点であり、交通の要所として栄えてきた。また、鄭州市に属する鞏義市で、南から流れてきた洛河を合わせる。

下流

黄河は鄭州市を抜け、北宋の都であった開封市付近で東から北東へと向きを変え、あとは河口までほぼ北東に流れる。この部分の黄河は、上流の黄土高原で流れ込んできた大量の黄土が含まれている。黄河が流送する土砂は年間16億tと言われ、この土砂の堆積によって、下流部は天井川となる。このため、華北平原には黄河にそそぎ込む支流はなく、本流を除いては華北平原は黄河流域とは厳密には言えない。華北平原の河川は、黄河以北は海河、黄河以南は淮河の流域に属する。しかし一方で、海河・淮河ともに黄河の河道変遷(後述)によって黄河本流となったことがあり、また黄河によって運ばれてきた黄土が華北平原そのものを形成し、平原全域を覆っていることから考えても、華北平原全域が黄河の影響下にある地域であるといえる。また、山東省の黄河以北は位山灌区と呼ばれ、天井川となっている黄河から灌漑用水を引水して農業が営まれている。この位山灌区は面積的には青銅峡・河套両灌区とほぼ同じ面積であるが、気候的に冬小麦と裏作の二毛作が可能であり、黄河の水供給が逼迫する中でもその特性から灌漑区域が拡大している。黄河は山東省西部において大運河と接続するが、この付近にある東平湖はかつて黄河下流では非常に珍しい、黄河に流れ込む水系をなしていた。しかし第二次世界大戦後の河道安定に伴い黄河の河道に土砂が堆積したことで高低差がなくなり、現在では黄河氾濫時の遊水池としての役割を果たすのみとなっている。大運河自体は黄河よりも低く、大運河に沿って走る南水北調の東線も黄河河道をトンネルでくぐって北へと向かう。

大運河に接続したのち、黄河は山東省の省都済南市の北側を通り、渤海湾に注ぐ。上流から流れてくる膨大な量の土砂の堆積により、山東省の河口付近には広大なデルタ地帯を形成している。黄河から海へ流入する土砂の量は、年に16億トン[5]から17億トン以上にものぼる[6]。渤海は黄海に属するが、黄海の名は黄河から流れ込む黄土などによって海面が黄色く濁って見えることからつけられた名である。

Posted at 2016/03/04 10:27:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ

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