2016年02月05日

医療人類学
者のアーサー・クラインマンは、医療は様々なセクターで行われている、として、公的機関などに認定された通常医療(制度医療)や伝統医などによる専門職セクターだけでなく、宗教や伝統などに基づいた民俗セクター、家庭内などの民間セクターでも様々な医療が行われているとしている[3]。
上記の医療現場による分類だけでなく、一方で病因論や身体論の体系に分類の根拠を求める場合がある。
近代医療は、強く制度化されていることもあり、あたかも一枚岩の単一な医療であるという認識が持たれることもあるが、多様な理論の複合体であり、個々の医療従事者による実践も多様性に富んでいる[2]。
近年、通常医療の代わりの医療という意味で「代替医療」、一方で通常医療を補完する医療という意味で「補完医療」という言葉が使われるようになっており[4]、これらは『補完・代替医療』と呼ばれることも多い。そこには伝統医学から民間療法、宗教的実践まで様々な療法が含まれている。補完・代替医療は生命の自然治癒力を活性化させることを目的とし、得意としている、とアンドルー・ワイルは説明している[5]。 なお「代替医療」という呼称については、「日本では東洋医学が主流医学であるので、この欧米式の表現は日本の状況には馴染まない[6]」と指摘する人もいる。東アジア諸国では伝統中国医学(東洋医学)を源流と持つ漢方医学や、韓医などの医師が公的に認知された専門職セクターとして受容されており、西洋医療と比較的良好な関係を持っている[7]。また、欧米においても(後述するように)利用頻度が逆転した状況が続いており、「[要出典]将来的には、西洋医学に ”通常医療”という表現を当てることが、状況にそぐわないものと見なされる可能性がある」と言われることがある。 、
医療のセクター区分・分類と、それぞれの場において行われる医療行為が、実際に治療効果があるかどうかは別の問題である。通常医療でさえ根拠に基づく医療(EBM)は半分以下しか行われておらず[8]、(特に日本などでは、EBMに必要な大規模調査がそもそもあまり実施されておらず[9])、実は医局や病院の慣習などといった怪しげなものに支えられており、ある分野の治療法群に対してようやくEBMの調査が行われると、多くの場合、長年医師らによって良いと信じられて用いられてきた”治療方法”(=医師が治療だと信じたがっていた何らかの行為)が、統計的に見れば害する割合のほうが大きいとか、そこまでひどくなくても、実はプラシーボ効果以上の効果は無かった、などと判明することがしばしばである。
通常医療(西洋医学)は、自然治癒力を活性化させることを最も苦手としている[5]とアンドルー・ワイルは指摘した。 通常医療において使われている概念はせいぜい「免疫」や「恒常性」であり、ふつう医学事典に「自然治癒力」という項目は存在しない[10]といったことは定方昭夫の文献でも指摘されている。 さらに言えば『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』の記事でフランツ・インゲルフィンガーが「医師がかかわった病気のうち85%は、”自己完結的”(実は医師が関わらなくても、自然に治癒してしまうもの)である」と記しているように[11]、(西洋医学では言語化自体ができないでいるが)実際には人体には明らかに「治癒系」と呼べるものが存在している、と指摘されている[11]。結局、西洋医学は「循環系」や「消化系」や「神経系」などの系については理解してそれを言語化できているにもかかわらず[11]、その同じ西洋医学が、治癒系については全然理解しておらず[11]、概念化・言語化すらできていない、ということなのである[11]。例えば医学事典でも「治癒系」という項目すら立てておらず[11]、西洋医学では医学校(医学部)の履修内容でも「解剖学」「内分泌学」「物理学」「化学」などの科目は存在するのに[11]、現に明らかに生体に備わり存在している、病気からの回復を実現しているしくみ(系・システム)について教える科目が最近までただのひとつも存在していなかった[11]と指摘されている。西洋医学の教育体系では、治癒系がひとつの統合されたシステムとして教えられていない[11]。治癒系のごく一部の機能が(例えば免疫などが)、バラバラの科目の中でバラバラに教えられているにすぎない、というおかしな教育体系になっている[11]と指摘されているのである。
なお民間セクターや家庭内の医療の場合は、そもそも網羅的統計資料に乏しくその治療実態はあまり明らかになっていない。あくまで網羅的ではなくて、そのごく一部だけを恣意的にピックアップし調べた研究にすぎず代替医療を網羅していない[12]が、著者が恣意的に選び調べた治療についてはほとんど効果が無いとの結論を得て[12]、それを一般化までして「代替医療には一部に効果が期待できるものもあるが、大半はプラシーボ効果以上の効果が期待できない[12]」とまで主張する本が出版され、それをきっかけにして代替医療のみならず医療全般に関する議論を呼んだ。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Jericho_Health_Centre_20050326.jpg]

Posted at 2016/02/05 10:23:08 | |
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2016年02月04日
ブランデンブルク!
Posted at 2016/02/04 18:22:17 | |
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2016年02月03日
俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。このうち隷属の度合いが低いものを夷俘(いふ)という。日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種の起源がある。
また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。
移配された俘囚は、7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争で、大和へ帰服した蝦夷男女が集団で強制移住させられたものである。移住先は九州までの全国におよぶ。朝廷は国司に「俘囚専当」を兼任させ、俘囚の監督と教化・保護養育に当たらせた。俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除された。しかし実際に移配俘囚が定住先で自活することはなく、俘囚料の給付を受け続けた。
俘囚は、一般の公民百姓らとは大きく異なる生活様式を有しており、狩猟および武芸訓練が俘囚生活の特徴であった。俘囚と公民百姓の差異に対応するため、812年(弘仁3)、朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令を発出している。9世紀、移配俘囚は国内の治安維持のための主要な軍事力として位置づけられていた(→国衙軍制)。俘囚が有していた狩猟技術・武芸技術は、乗馬と騎射を中心とするものであり、俘囚の戦闘技術は当時登場しつつあった武士たちへ大きな影響を与えた。例えば俘囚が使用していた蕨手刀は、武士が使用することとなる毛抜形太刀へと発展している。このように、俘囚の戦闘技術は揺籃期の武士へと継承されていったのである。
しかし、813年頃の出雲国「荒橿の乱」、875年の「下総俘囚の乱」、883年の「上総俘囚の乱」などのように、俘囚による騒乱が次第に発生するようになった。これらの原因は、俘囚らによる処遇改善要求であったと考えられているが、こうした事態に頭を悩ませた朝廷は、897年(寛平9)、移配俘囚を奥羽へ送還する政策を打ち出した。これにより全国へ移配されていた俘囚は奥羽へ還住することとなった。

Posted at 2016/02/03 10:24:41 | |
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2016年02月01日

1957年に設立されたヴェストファーレン室内劇団のために、10年にわたる、議論、計画、建設を経て、市の中心部にあたるノイエン・プラッツ 6番地に2400万ユーロを費やして劇場の新しい建物が建設され、2011年9月9日に「ハイルブロンのケートヒェン」の初演でオープンした。この劇場はそれ以後「テアター・パーダボルン ? ヴェストファーレン室内劇団」と呼ばれている。これは、400席の「グローセ・ハウス」、「スタジオ=ビューネ」(実験劇場)、「テアタートレフ・ミット・ユーゲントテアター」(直訳すると「青年演劇との遭遇劇場」)が1つの建物内に入っている。専属のアンサンブルは10人の固定メンバーからなっており、様々な人数のゲスト俳優でこれを補っている。アンサンブルはすでに何度も重要なノルトライン=ヴェストファーレン州演劇会議に招聘されている。室内劇団は古典劇から実験的近代作品まで幅広いレパートリーで地域を超えて広く知られており、若者から老人まで広がる人気を享受している。新劇場はヴェストファーレンの文化環境で大きな役割を担っている[37]
。
パーダーボルン大学は自前の劇場(実験劇場)を有している。ここでは演劇学研究者の指導の下、学生たちが芝居を行っている。この実験劇場の俳優は、毎年旧ダルハイム修道院で開催される文化の祭典「ダルハイムの夏」の演劇作品に頻繁に出演している。ユーエン広場沿いのアマルテア劇場は数多くの演劇作品が上演される芸術小劇場であり、ヴェストファーレンで最も小さな劇場である[38]。ノイハウス城館公園の野外劇場も特筆に値する。ここでは毎年子供劇やアーベントシュテュック(夕方に上演される芝居)が上演され、毎年何千人もの観客を感動させている[39]。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8b/Paderborn_Paderhalle.jpg/220px-Paderborn_Paderhalle.jpg]
パーダーハレ
パーダーハレでは、1年を通して、オペラ、ミュージカル、コンサート、キャバレー、芝居、寄席、舞踏パーティなどのイベントが開催されている[40]。
クルトゥールヴェルクシュタット(直訳すると「文化工房」)は、中規模および小規模なイベント用の練習スペースやコンサートホールがあり、パンクやロックのコンサートに用いられている。

Posted at 2016/02/01 10:22:12 | |
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2016年01月28日

江戸時代
までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀などの身分的特権を持っていた。こうした旧来の封建制的な社会制度は、明治政府が行う四民平等や徴兵制などの近代化政策を行うにあたり障害となった。1869年(明治2年)の版籍奉還で、武士身分の大半が士族として政府に属することになるが、士族への秩禄支給は政府の財政を圧迫し、国民軍の創設においても士族に残る特権意識が支障となるため、士族身分の解体は政治課題となった。
士族の特権は段階的に剥奪され、1873年(明治6年)には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年(明治9年)には廃刀令が実施された。秩禄制度は1872年に給付対象者を絞る族籍整理が行われ、1873年には秩禄の返上と引き換えに資金の提供を可能とする秩禄公債の発行が行われた。そして、1876年に金禄公債を発行し、兌換を全ての受給者に強制する秩禄処分が行われ制度は終了した。また、苗字の名乗りは1870年に平民にも許可され、1875年には義務化された(国民皆姓)。この他、1871年には異なる身分・職業間の結婚も認められるようになった。一時、士族に華族と別立ての爵位を授与しようという議論が岩倉具視らにより模索されていたが、明治新政府の元勲であった伊藤博文が維新に功労があった武士を勲功華族とする案が提唱され、これが採択されることにより、士族に対する恩典は名字帯刀や秩禄はおろか、名分上の栄誉さえも許されず、単に戸籍における族称のみが士族に許されただけであった[11]。
四民平等へと移行される過程で、士族身分は解体され、特権を失った士族が慣れない商売に手を出して失敗する例も多く、「 士族の商法」と揶揄され、政急に不慣れな商売などを始めて失敗することのたとえともなった。こうした状況に対し政府による救済措置として、困窮した士族を救済する士族授産などが行われたが、やはり失敗する例が多かった。西郷隆盛が唱えた征韓論にも士族の救済という側面があったが、西郷が政争に敗れ実現しなかった。特権を奪われた士族の一部は新政府の政策に不平を唱えて(不平士族)各地で反乱(士族反乱)を起こした。しかし、不平士族の反乱はすぐに鎮圧され、多くは没落して故郷へ帰るなどした。これも風刺の対象となり士族の商法とかけて「有平糖」(不平党)、「お芋の頑固り不平おこし」(薩摩士族)などと皮肉られた[12]。また、不平士族には政治運動「士族民権」を展開するものもあり、後に有力農民と結び付き自由民権運動へと移行した。
ただし、士族の中にも商売で成功した例もあり、士族が商売をはじめたことに由来する商店街は日本各地に存在する。士族の中でも知識や既得権益を生かして実業家に転向する者は多く見られ、起業家としても重要な役割を担っていることが伺える[13]。例として、日産コンツェルンの創始者鮎川義介、日本初の百貨店(三越百貨店)創立者日比翁助などが挙げられる。また、士族の資産を活かし多くの株式会社が作られ、日本の殖産興業政策を活性化させた。また武芸や学問に通じていた事から、軍人、警察官、教師など官吏に転向する例もあった。かつての藩主と藩士の縁故関係から、県・郡役所に採用された例も多い。酪農のように、元来の農民がこれを忌避したがために、士族がこれを手がけて成功した例もある。
[Seinansenso snou.jpg]

Posted at 2016/01/28 10:12:05 | |
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