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2015年03月11日 イイね!

大阪市立博物館

大阪市立博物館(おおさかしりつはくぶつかん)は、大阪府大阪市の大阪城公園内にあった博物館。旧陸軍第四師団司令部庁舎を利用して1960年に開館し、2001年に閉館した。

本項では旧陸軍第四師団司令部庁舎の歴史についても解説する。

目次

* 1 概要・歴史
* 1.1 大阪市立博物館
* 2 ギャラリー
* 3 交通アクセス
* 4 出典
* 5 外部リンク

概要・歴史

1929年2月に昭和天皇即位の記念事業(昭和御大典記念事業)として、大阪城公園の整備および大阪城天守閣の復興とともに、城内の各所に分散していた陸軍第四師団の司令部機能を集約するために、大阪市が事業主体となって司令部庁舎を新築することとなった。設計は第4師団経理部、施工は清水組があたり、1929年4月に着工・1931年3月に竣工し、国へ寄贈された。

この記念事業の財源は大阪市民からの寄付150万円によって賄われたが、そのうち第4師団司令部庁舎建設費用は80万円だった。外観は左右対称のロマネスク様式で、正面両側のタレット(隅小塔)や壁上端のギザイギザなど[1]ノルマン地方の古城の意匠をもとに褐色色斑スクラッチタイルで仕上られた。

1940年に中部軍司令部が本庁舎に入り、第4師団司令部は大坂城二の丸に移転した。1945年2月になると中部軍は第15方面軍の編成により廃止され、改めて第15方面軍司令部と中部軍管区司令部が本庁舎に入った。

太平洋戦争末期の大阪大空襲による被害を免れ、戦後はGHQにより接収され、1948年に接収解除された。 接収解除後は、大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として利用される。大阪府警が現在地の大手前に移転した1958年に大阪市の管理下に置かれた。

大阪市立博物館

大阪府警撤退後の利用方法として大阪市は郷土博物館・歴史博物館とすることに決め、1960年5 月1日に教育委員会に博物館創設事務室を設置した。この時、開館日を12月1日と決定し、博物館への転用のための改装工事が行われたが、軍事施設として頑 丈に作られていたため、改装に時間がかかることから、1階と地階部分を第1期改修とし、2階から3階部分を未改修のまま、1階部分のみを開館することと なった。また、もともと所蔵品が無く、資料の蒐集と調査の準備期間が短かったため、当初は他館やコレクターの所蔵品による企画展示に頼っていた。

1962年に 一旦休館した上で、2階から3階の改修工事を行い、11月1日に全面開館。大阪の歴史に関する史料・資料を最終的には7万点も揃えるようになり、1963 年に人文系博物館資料の分類表をはじめて発表するなど、研究活動も盛んになり、地域の歴史を扱う博物館の先駆的存在だった。

1982年に「大阪市立博物館パルの会」という友の会が発足したが、他の博物館友の会とは違って運営は会員が自主的に行い、歴史見学会などを開催していた。

2001年3月31日、大阪歴史博物館が開館することにともない閉館した。以後未使用の状態となっており、今後の利用は未定となっている。

Posted at 2015/03/11 10:26:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年03月11日 イイね!

帝冠様式

帝冠様式1919年に帝国議会(現・国会議事堂)のデザインを決める競技設計が行われ、入選案はすべてルネッサンスの様式だった[11]。これに反対した下田菊太郎は、意匠変更を訴える嘆願書を2度に渡って議会に提出した。下田はクラシックの壁体に和風屋根をかけた「帝冠併合式」と称する案を提出し、各方面にパンフレットを配るなど活発な活動を行ったが、当時の建築界には受け付けられず黙殺された[11]。

1926年に神奈川県庁舎、1930年に名古屋市庁舎の競技設計が行われ、和風屋根をかけた案が入選した。どちらも募集規定に日本趣味は含まれていなかったが、神奈川県庁舎は横浜という立地から外国人を意識して[10]、名古屋市庁舎は名古屋城の近くであることから[9]、和風屋根がかけられた。続く日本生命館・大礼記念京都美術館・軍人会館の競技設計では募集規定に日本趣味が盛り込まれた[12]。入選案における和風屋根の割合も増えていき、名古屋市庁舎では8案中3案だったものが軍人会館では入選10案全部となっている[12]。

1930年から1931年にかけて東京帝室博物館も日本趣味の規定で競技設計が行われたが、モダニズム建築をめざす若手建築家たちはこれに反発した。日本インターナショナル建築会は応募拒否を声明し、他の建築家たちにも応募しないよう呼びかけた[13]。一方、前川國男と蔵田周忠は、落選を承知でモダニズムの図案で競技設計に参加した[1]。これは規定を無視したわけではなく、日本建築には木材にふさわしい造形が伝統としてあるように、鉄筋コンクリートにふさわしい造形を選ぶことが日本的なデザインになると考えていたためで、鉄筋コンクリートによる木造まがいに対する批判であった[1]。前川國男の案は審査員の中で一番若い岸田日出刀に支持されたが、伊東忠太に一蹴され入選しなかった[1]。しかし、競技設計をプロテストとする姿勢がモダニズムをめざす若手建築家の共感を呼び、前川國男は彼らのヒーローというべき存在となった[1]。

これらの和風屋根をかけた日本趣味建築は、1930年代の建築家たちの目には帝冠併合式のリバイバルとして映り「帝冠式」と呼ばれた[11]。クラシックを変形した上で和風屋根をかける必要があると考えていた伊東忠太が、正当なクラシックの上に和風屋根をかけている帝冠併合式を「国辱」であると非難しているように、両者は全く別の様式である[11]。しかし帝冠併合式は既に忘れ去られており、和風屋根をかけるというアイデアのみが僅かに思い出される状況では混同されるのも無理からぬところであった[11]。

1937年に日中戦争が始まると共に「鉄鋼工作物建造許可規制」が公布され、50トン以上の鉄材を使う建築は軍需関係以外制限された[14]。もはや装飾を伴う様式建築を建てられる状況ではなくなり、衰退期にあった旧様式は死滅し日本趣味建築も停止に追い込まれた[15]。一方で勃興しつつあるモダニズム建築は、機能本位の建築であることから統制下にも通ずるところがあり、戦後に勢いを盛り返した[15]。

第二次世界大戦後、戦後民主主義の到来とともに戦前の日本ファシズムを否定しなければならない時代となる[16]。戦後の建築界を制圧したモダニズム建築家たちも同様で、自らをファシズムの敵として呈示する[16]。日本のモダニズムがファシズムと戦ったことなど一度も無く、今まで対立関係にあり日本回帰を連想しやすい日本趣味建築を日本ファシズムに荷担したものだとして非難した[16]。一方、日本趣味を推進した建築家たちは完全に力を失っており、こうしたレッテル貼りに反論をすることが出来なかった[16]。
Posted at 2015/03/11 10:24:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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