
1919年に帝国議会(現・国会議事堂)のデザインを決める競技設計が行われ、入選案はすべてルネッサンスの様式だった[11]。これに反対した下田菊太郎は、意匠変更を訴える嘆願書を2度に渡って議会に提出した。下田はクラシックの壁体に和風屋根をかけた「帝冠併合式」と称する案を提出し、各方面にパンフレットを配るなど活発な活動を行ったが、当時の建築界には受け付けられず黙殺された[11]。
1926年に神奈川県庁舎、1930年に名古屋市庁舎の競技設計が行われ、和風屋根をかけた案が入選した。どちらも募集規定に日本趣味は含まれていなかったが、神奈川県庁舎は横浜という立地から外国人を意識して[10]、名古屋市庁舎は名古屋城の近くであることから[9]、和風屋根がかけられた。続く日本生命館・大礼記念京都美術館・軍人会館の競技設計では募集規定に日本趣味が盛り込まれた[12]。入選案における和風屋根の割合も増えていき、名古屋市庁舎では8案中3案だったものが軍人会館では入選10案全部となっている[12]。
1930年から1931年にかけて東京帝室博物館も日本趣味の規定で競技設計が行われたが、モダニズム建築をめざす若手建築家たちはこれに反発した。日本インターナショナル建築会は応募拒否を声明し、他の建築家たちにも応募しないよう呼びかけた[13]。一方、前川國男と蔵田周忠は、落選を承知でモダニズムの図案で競技設計に参加した[1]。これは規定を無視したわけではなく、日本建築には木材にふさわしい造形が伝統としてあるように、鉄筋コンクリートにふさわしい造形を選ぶことが日本的なデザインになると考えていたためで、鉄筋コンクリートによる木造まがいに対する批判であった[1]。前川國男の案は審査員の中で一番若い岸田日出刀に支持されたが、伊東忠太に一蹴され入選しなかった[1]。しかし、競技設計をプロテストとする姿勢がモダニズムをめざす若手建築家の共感を呼び、前川國男は彼らのヒーローというべき存在となった[1]。
これらの和風屋根をかけた日本趣味建築は、1930年代の建築家たちの目には帝冠併合式のリバイバルとして映り「帝冠式」と呼ばれた[11]。クラシックを変形した上で和風屋根をかける必要があると考えていた伊東忠太が、正当なクラシックの上に和風屋根をかけている帝冠併合式を「国辱」であると非難しているように、両者は全く別の様式である[11]。しかし帝冠併合式は既に忘れ去られており、和風屋根をかけるというアイデアのみが僅かに思い出される状況では混同されるのも無理からぬところであった[11]。
1937年に日中戦争が始まると共に「鉄鋼工作物建造許可規制」が公布され、50トン以上の鉄材を使う建築は軍需関係以外制限された[14]。もはや装飾を伴う様式建築を建てられる状況ではなくなり、衰退期にあった旧様式は死滅し日本趣味建築も停止に追い込まれた[15]。一方で勃興しつつあるモダニズム建築は、機能本位の建築であることから統制下にも通ずるところがあり、戦後に勢いを盛り返した[15]。
第二次世界大戦後、戦後民主主義の到来とともに戦前の日本ファシズムを否定しなければならない時代となる[16]。戦後の建築界を制圧したモダニズム建築家たちも同様で、自らをファシズムの敵として呈示する[16]。日本のモダニズムがファシズムと戦ったことなど一度も無く、今まで対立関係にあり日本回帰を連想しやすい日本趣味建築を日本ファシズムに荷担したものだとして非難した[16]。一方、日本趣味を推進した建築家たちは完全に力を失っており、こうしたレッテル貼りに反論をすることが出来なかった[16]。
Posted at 2015/03/11 10:24:24 | |
トラックバック(0) | 日記