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2015年08月12日 イイね!

教皇

教皇[ファイル:Pope Francis South Korea 2014.png]教皇は、カトリック教会の長(聖座)として宗教上の権威と、バチカン市国の国家元首として国際法上の権威の両方を保持している。数百年の長きにわたり、教皇庁(ローマの聖座)はカトリック教会の枢要機関として機能してきた。

「聖座」(Sancta Sedes) あるいは「使徒座」という言い方は、教会用語でローマ教皇(と教皇庁全体)の特別な権威を示すものである。歴史上、ローマ教皇座以外では例外的にマインツ大司教座についても「聖座」の称号が用いられたが、1802年に大司教の位を廃されて以降のマインツ司教は特別な権威を失い、現在ではこのような呼び方は一般的ではない。

国際社会とカトリック教会の中で認められてきた教皇の特別な権威・栄誉・特権は、すべて使徒の頭ペトロの権威から引き継がれたものとみなされてきた。ペトロの権威によってローマはカトリック教会の中で中心的な位置を占めることになった。

ローマ教皇はあくまでローマ司教としてその権威を行使するが、ローマに住むことが必須というわけではない。ラテン語の定式「Ubi Papa, ibi Curia」(教皇が住むところは、どこでも教会の中央政府である)という言い方は、教皇がカトリック教会の中心都市に住む限りローマ司教であり続けるこ とができることを示している。たとえば1309年から1378年にかけて教皇座はアヴィニョンにおかれていたが、これは古代イスラエルの故事になぞらえて「教会のバビロン捕囚」あるいは「アヴィニョン捕囚」とよばれた。

現在の教皇の司教座聖堂はサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂であり、公邸はバチカン宮殿である。また避暑用の別荘として(古代の都市アルバ・ロンガの近く)カステル・ガンドルフォに別荘を持っている。歴史上では、教皇は長きにわたってラテラン宮殿を在所としており、避暑用の施設はクイリナーレ宮殿であった。クイリナーレ宮殿はその後、イタリア王の宮殿を経て、大統領公邸になっている。

現在の教皇の地位を規定しているのは第1バチカン公会議(1870年) で採択された教義憲章「キリストの教会」である。同憲章の第一章は「ペトロに由来する使徒的首位性」というタイトルで、「福音書からも、主キリストが使徒 ペトロに他の人々に優越する権威を与えたことは明らかである」(第1節)と述べ、さらに「もしペトロがキリストによって使徒のかしらとされ、教会の目にみ えるしるしとして立てられたということを認めず、そのイエスからの直接の権威が単に名誉的なものだけで実質的な意味を持たないというものは教会から排斥さ れる。」としている。(「~は教会から排斥される」という表現はアナテマと呼ばれるもので古代以来、第1バチカン公会議にいたるまで用いられ、カトリック教会が教義について述べた文章に必ず添えられる定型文であった。)

第二章「聖座におけるペトロの権威の存続について」では、「主キリストがペトロに与えた権威は永続的なもので、『岩の上にたてられた』教会として存 続し、『おわりの時』まで続くものである」と述べ、「ペトロの座を引き継いだものは誰でもキリストに由来する権威を保持し、全教会に対する首位性を有す る」とする。よって「この権威がキリストの意図によるものでなく、ペトロの権威は永遠のものであることを認めないもの、ローマの聖座がペトロの権威を継承 していないというものは教会から排斥される」という。

第三章「ローマの聖座の有する首位権の力と性質」では、「フィレンツェ公会議に おいてローマの聖座、使徒座は世界の教会におよぶ首位性を持ち、ローマの聖座が使徒の長、キリストの代理であるペトロの権威を引き継ぎ、全教会の父・教師 たる地位を持つ旨が宣言されている」とし、「この聖座の布告にもとづいて、ローマ教会は他の教会に対しても卓越した地位を保持する」としている。

教皇の力は同憲章の3章などに定められている。それは「信仰の最高の判定者であり、信仰の問題についての決定権を持つ。すなわち聖座としての決定的 な布告は、誰も覆すことができない」というものである。これは同じ公会議で布告された教皇不可謬性の問題と密接な関連を持っている。

第2バチカン公会議以前のカトリック教会では「救いのためにはローマの聖座とのかかわりが必要である(教皇ボニファティウス8世の 言葉)」と伝統的に教えており、この考え方はよく「extra Ecclesiam the popeus salus」(教会の外に救いなし)という言葉で表されてきた。パウロ6世も「教会の外にいるものは聖霊の恵みを受けられない。カトリック教会は現代に生 きるキリストの体である。だからこそ、もしそこから離れてしまえば聖霊の恵みを得ることができないのである。」といっている。

しかし、この考え方はカトリック教会以外の人だけでなく、肝心のカトリック教会の中でも誤解されてきた。歴代の教皇たちは「カトリック教会の中にい る人々は救いにつながっている」といっている一方で「カトリック教会と縁のない人々が救われないというわけではない」ということをしばしば強調している。 ピウス9世は回勅『クアント・コンフィカムル・モエロール』(1868年)でこう述べた、「わたしたちは、われわれの聖なる宗教とかかわりのない人であっても、神によって全ての人の心に書き込まれた自然法に従い、徳に満ちた人生を送るなら、神の力と照らしによって永遠の命に入ることができるということを知っている。」

ヨハネ・パウロ2世は『レデンプトーリス・ミッシオ』の中で「現代のみならず、過去においても、福音や教会について知る機会がなかった多くの人々が いて、たとえ彼らがまったくキリスト教と関わることがなくても、神秘的な絆によって、キリストの救いを受けてきたことは明らかです。」といっている。

教皇のものとされ、実際に行使されてきた権能は以下のとおりである。司教の任命、教区の設立と廃止、教皇庁の職員の任命、教皇庁文書の認可、典礼祭儀の変更、教会法の改定、列福と列聖、教会裁判の最高決定権、回勅の公布、(信仰と道徳に関する事柄についての)不可謬な宣言、修道会の承認と禁止。ただ、これらの権能を実際に行うのは教皇庁のメンバーたちであり、実質的に教皇が行うのは最終的な承認を与えることだけである。

Posted at 2015/08/12 10:24:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年08月12日 イイね!

コンクラーヴェ

コンクラーヴェ歴代の教皇たちは、選挙の方法を変更することや望むなら枢機卿団を総入れ替えすることも認められていたが、後継者を指名することだけは許されなかった。

初代教会の司教たちは、その共同体の創始者によって指名されていたと考えられている。やがて、ローマやそのほかの地域で、司祭と信徒、近隣教区の司教たちが集まって司教を決定する方法がとられるようになった。教皇に選ばれる権利のあるのは聖職者のみであったが、彼らには投票権は与えられなかった。その代わりに彼らには教皇を決定し承認する権利が与えられていた。司教はそのプロセスの監視の任を負っていた。教皇候補者が決定すると信徒の同意が求められ、同意を受けて新教皇が決定した。民衆が大声で同意(あるいは不同意)を示すのは古代以来のローマの習慣であった。選出の過程で不透明な部分があると候補者認可が紛糾し、対立教皇が立つというのも古代ではよくあることであった。

769年におこなわれたラテラン教会会議で正式にローマの信徒による承認が廃止されたが、862年のローマ司教会議では貴族に限ってその権利を復活させた。1059年、ニコラウス2世は教令を発し、枢機卿就任のためにローマの聖職者と信徒の同意を必要とした上で、教皇は枢機卿団から選ばれることと初めて決定した。当時は司教枢機卿たちが最初に集まって誰が次の教皇にふさわしいか討議し、話がまとまったところで司祭枢機卿・助祭枢機卿が呼ばれて投票をおこなうという形がとられていた。1139年、ラテラン教会会議で教皇や枢機卿の選出における信徒と下級聖職者の同意が完全に廃止された。

1059年以来、枢機卿団が教皇選出の任務を担っているが、1268年クレメンス4世死去後の教皇選挙が紛糾して3年近く空位が続いたことに怒った民衆が選挙者たちを会場から出られないように閉じ込めた、という故事があり、これがコンクラーヴェの起源といわれる。現在のコンクラーヴェの原型は1274年の第2リヨン公会議での議決に基づいている。

枢機卿団だけが教皇選出権を持つという規定は、1378年以降の教会大分裂の時代において激しい論議の的となった。フランス出身の教皇グレゴリウス11世の死後、ローマ市民はイタリア出身の教皇を要求して暴動を起こし、枢機卿団は圧迫に耐えかねてイタリア出身のウルバヌス6世を選出した。選挙に不当な圧力がかかったと感じた枢機卿団は同年、ローマを離れてフォンディへ移動し、ふたたび選挙をおこなって対立教皇を選出した。1409年のピサ教会会議はこの混乱を収拾すべく開かれたが、結局3人目の教皇を選出して事態の泥沼化を招いた。結局1411年から1418年にかけて開かれたコンスタンツ公会議で、2人を廃位し1人を退位させることで混乱を収拾することに成功した。これ以降、枢機卿団のみが教皇選挙権を持つことが再確認され、公会議は教皇の権威を超えるものではないことが確認された。

枢機卿団は13世紀にはわずか7人だったこともあるが、16世紀に入って急激に拡大し、1578年まで人数は増加の一途をたどった。これを憂慮した教皇シクストゥス5世は枢機卿団の人数の上限を70名とした。20世紀までこの慣例は守られていたが、教皇ヨハネ23世がはじめてこの制限を取り払った。次の教皇パウロ6世も教皇選挙制度の改革に取り組み、80歳以上の枢機卿の教皇選挙への参加を制限、投票権を持つ枢機卿団の人数の上限を120人とした。これは必然的に80歳未満の枢機卿の人数の上限でもある。以後、有権枢機卿の任命は、この上限から相当数の乖離が生じ、その補充を目的として、数年に一度行われている(この規定を逆手に取って80歳以上の聖職者で、教会への顕著な貢献のあるものへの名誉的な枢機卿任命も行われるようになった)。ただし、枢機卿団の年齢構成を考慮して、この上限を上回ることも何度か発生している。

教皇選挙に関する最新の規定は、1996年のヨハネ・パウロ2世使徒憲章『ウニベルシ・ドミニ・グレギス (Universi Dominici Gregis)』(『教皇選挙と使徒座空位について』)である。この規定は新しく作られたものではなく、これまでの慣習をまとめ、時代にそぐわない部分を修正したものである。
Posted at 2015/08/12 10:20:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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