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くろまめたろうのブログ一覧

2015年12月11日 イイね!

日立製作所の誕生

日立製作所の誕生日立製作所を創設した小平浪平は、小坂時代から久原房之助の事業を助けていた。小平は1906年(明治39年)、日立鉱山で必要な電力確保のために計画した発電所建設を指揮する人物として久原から要請を受け、日立鉱山に赴任した。小平は鉱山の電力問題の解決のために石岡第一発電所などの建設を行い、また電気鉄道の建設に携わるなど、日立鉱山初期の設備の近代化に大きく貢献した[58]

小平は日立鉱山に赴任する直前に、知人に鉱山で電気機械の修理でノウハウを積み、やがては機械を自作する希望を語っていたといい、当初から独自の事業を展開する強い意欲を持っていた。そして小平は日立鉱山に勤務しながらも、鉱業以外の事業への拡大について強い関心を持っていた。これは鉱業のみでは事業の将来性に不安があると考えていて、事業の多角化を行って安定した経営を目指すのとが必要と判断したためである。建設当時日本有数の規模であった石岡第一発電所は、当初日立鉱山で用いる電力以上の発電能力を持っていた。これは小平が余剰電力で化学工業を起こそうと考えたためで、実際事業化を目指したが、日立鉱山の拡張規模が小平の想定を遥かに上回り、石岡第一発電所の能力では日立鉱山の電力を賄い切れなくなって計画は頓挫した[59]

小平は日立鉱山で工作課長という役職に就いていた。これは鉱山で用いる土木、電気、機械の修理等を一切引き受ける部署であった。鉱山創業以来、当時としては最新の機械の導入を進めていた日立鉱山では、多くの機械類は電化されていた。そのため多くの電動機や変圧器などが使用されていたが、鉱山での機械使用はかなり乱暴なことが多く、アメリカ製の電動機はしばしば故障を繰り返した。ひどい故障がある場合も少なくなく、そうするともはや修理ではなく、ほぼ新造するのと同じことになってしまった。そのような状況の中で小平たちは電気機械製造についてのノウハウを身に付けていった[60]

鉱山機械の修理工場は、当初日立鉱山の本山付近にあったが、大雄院の精錬所が開設された1908年(明治41年)には精錬所構内に移転した。しかしわずか4ヶ月で移転させられ、更に翌1909年(明治42年)には電気鉄道の大雄院停留所隣への移転を命じられた。短期間での度重なる修理工場の移転は、当時、日立鉱山内で小平たちの機械修理部門が必ずしも重く見られていなかったことを示している[61]

しかし電気機械の修理の豊富な経験は、確実に小平たちの能力を高めていた。鋳物と絶縁の技術さえあれば電気機械製造が可能と判断した小平は、1910年(明治43年)にはイギリスから鉄板を加工する機械を購入し、独自の設計で5馬力の電動機3台を製作し、続いて200馬力の電動機を作成した。小平は本格的に電気機械製造に乗り出す決意を固め、久原に許可を求めた。久原は機械製造に関してはもともと関心が薄く、また当時の技術水準から見て欧米製に遥かに劣っていた電気機械の製造を行う必要性を認めていなかったため、当初、小平の計画を認めようとはしなかった。しかし日立鉱山の所長を務めていた久原の右腕である竹内維彦が小平の計画を支持したこともあって最終的に計画は承認され、日立鉱山の鉱毒のために荒れ果てていた日立村宮田字芝内に、当初芝内製作所と呼ばれた工場が建設された[62]

1911年(明治44年)からは変圧器、電動機、発電機、電気機関車といった電気機器の製造を本格的に開始した。当初、需要は日立鉱山内に限られていたが、早くも同年4月には茨城電気会社に変圧器を販売し、日立鉱山外に顧客を得るようになった。しかし同年11月に製作した日立鉱山での電解精錬で用いられる発電機は故障が頻発し、鉱山内から電気機械製作事業を放棄すべきとの声も挙がった[63]

1912年(明治45年)1月1日、日立鉱山では職制の変更が行われ、その中で日立製作所は日立鉱山工作課から独立し、久原鉱業所日立製作所となった。こうしてまだ久原鉱業所に所属していたが、鉱山業と並ぶ独自の事業として電気機械等の製作販売を行う日立製作所が設立された[64]
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/c/cd/Hitachikouzan-old4.jpg/300px-Hitachikouzan-old4.jpg]
Posted at 2015/12/11 10:19:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年12月09日 イイね!

キーウェスト

キーウェストキーウェスト (Key West) は、アメリカ合衆国フロリダ州モンロー郡に位置する都市である。フロリダ半島から南西に伸びるフロリダ・キーズ諸島の西端のキーウェスト島(英語版)に位置する。同市はハワイ州とアラスカ州を除くアメリカ合衆国本土48州で最南端の都市である。マイアミの南西208㎞、キューバ・ハバナの北171㎞に位置する。マイアミからは車で260㎞の道のりになる。

キーウェストという地名は、人骨がこの島で発見されたことから、スペイン語の「カヨ・ウェソ(Cayo Hueso;人骨の島)」が由来となっている。これが英語化の過程で「カヨ (Cayo)」が「キー (Key)」に、「ウェソ (Hueso)」が「ウェスト (West)」に変化したと考えられている。

キーウェストにはフロリダ半島から続く国道US-1号線が通っている。島から島へと延々とさんご礁の海の上にかかる32の橋を渡っていくこの道路はオーバーシーズ・ハイウェイ(英語版)と呼ばれ、アメリカ合衆国で最も美しいハイウェイであるといわれている。途中、有名なセブンマイル・ブリッジを渡る。 同市は漁港、海軍基地(キーウェスト海軍航空基地(英語版))、船舶の救助基地としてつとに有名である。また、1年を通して気候が温暖で、ビーチを有し、観光・保養都市としても人気が高い。アーネスト・ヘミングウェイはこの地をこよなく愛した。

Posted at 2015/12/09 10:22:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年12月07日 イイね!

民族意識の芽生え

民族意識の芽生えダルマチアはヴェネツィアの支配を受けていたが、ナポレオンが各国を征服するに至る経緯でダルマチア沿岸は征服され1808年、ドゥブロヴニク共和国も廃止されることとなった。翌年には一帯が「フランス領イリリア諸州」として1813年まで統治されることとなるが[# 8]、この時、フランスによりナポレオン法典が施行され、さらにクロアチア人居住区ではクロアチア語、スロベニア人居住区ではスロベニア語が認められた。そして農奴解放、ギルド廃止、土地開墾、道路建設、公衆衛生の導入が行われ、文化的、経済的に急速に発展することとなったが[49]、イリリア地方はフランス支配下のイタリア王国へ編入された[50]。なお、ナポレオンはある程度の自治を与えることにより、スロベニア人、クロアチア人らがオーストリアの支配を望まないようにしていた[51]。しかし、その後、1815年、フランス帝国の解体に伴いハプスブルク帝国に併合されることとなるがハンガリー化を恐れていた内陸部のクロアチア人らの間では自治権を保持しようとし続けた[52]。そして「クロアチアの貴族にとっては馬の方が農民以上にクロアチア民族である」と言われた大衆と無縁の「民族の栄光」への宿願が[53]、これらのことによりクロアチア人全体に民族意識を抱かせることとなった[52]

議会が設置され代議員を選出することとなったが、住民数15,672人のイタリア人らが29人の代議員を選出したのに対して40万人を越えるクロアチア人らは12人しか選出できなかった。このため、議会はイタリア系の自治派とクロアチア=スラヴォニア、ダルマチアの統合による「三位一体王国」の再建を唱える民族派に分かれることとなったが、ハプスブルク帝国はこれを認めず、ダルマチアはオーストリアに組み込まれた。1870年代に至ると民族派が力をつけることとなり、1883年、それまでイタリア語が公用語であったが、「クロアチア=セルビア語(セルビア=クロアチア語とも)」へ変更された。そして、クロアチア人らはダルマチア、ボスニア・ヘルツェゴビナのクロアチア統合を唱えていたが、これはセルビア民族党が反対、ダルマチアのセルビア人らは自治派との連携を選び、一方でダルマチアのクロアチア人らはクロアチア権利党と連携していた。しかし、これらの動きはペータル1世が即位した後、南スラブ統一への動きへと変化を見せ、「リエカ決議」、「ザダル決議」が導きだされることとなる[54]

さらに19世紀前半にドイツ・ロマン主義が発生することにより、クロアチアはフランス統治期間との関係から「イリリア運動」がクロアチア人知識層を中心に展開されることとなった。この目標は中世クロアチア王国がクロアチア人の領土であるというものであったが、このうちダルマチアやスラコニアではすでにセルビア人らが多数居住していたため、この運動の中心となっていた文学者のリュデヴィド・ガイは南スラブ人としての連帯を考慮、クロアチア人とセルビア人との間で共通意識を形成させた。この民族再生運動は1848年の「諸国民の春」が発生したことにより19世紀後半には政治的民族運動と化すが、これは複雑化を伴う事となった[55]。その一方でガイは文芸協会「マティツァ・イリルスカ(後のマティツァ・フルヴァッカ)」を設立、「イリリア語」文学運動を進めていたが[37]、クロアチア人、ゼルビア人らの共通言語、「セルビア・クロアチア語」の形成を進めた。しかし、これは文章の規範が統一されることなく方言的差異を温存する原因となった[56]。ハンガリー南部を形成するクロアチアやセルビアはハンガリーからの独立を望んでいたが、そのハンガリーもハプスブルク帝国からの離脱を望んでいた[55]。ただし、セルビアでは1804年-1813年、1815年-1817年の2次に渡ってセルビア蜂起が発生しており、1830年にはセルビア公国として自治権を獲得、1833年には南方向へ領土を拡大していた[57]
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Dragutin_Weing%C3%A4rtner%2C_Hrvatski_sabor_1848._god.jpg/250px-Dragutin_Weing%C3%A4rtner%2C_Hrvatski_sabor_1848._god.jpg]
イェラチッチとクロアチア議会

1848年3月25日、ガイらはザグレブで民族会議を開催、この会議では「民族の要求」としてクロアチア、ダルマチアの統合、ハンガリーからの独立、クロアチア語の公用化、身分制議会の代議制への移行、などが盛り込まれ、クロアチア人とセルビア人らは単一民族であり、統合すべきという要求も含まれた[50]。そしてクロアチア総督にはイリリア運動の支持者であるヨシップ・イェラチッチ (en) が選ばれた。しかし、この要求を受けたハンガリー自体もオーストリア=ハンガリー帝国からの独立を望んでいたためこれに対応することができず、さらにハンガリーの独立を阻止しようとしていたハプスブルク皇帝はこの状況を利用しようとした。そのため、イェラチッチはクロアチア総督に任命された後にハンガリー革命の鎮圧の尖兵として使用されたが、ハンガリー革命が1848年に鎮圧されたにも関わらず、クロアチア人の要求は無視され[58]、ダルマチアの一部とリエカの併合は認められたのみに留まった[37]。しかし、革命情勢が消滅すると徐々にこの約束は破棄され、結局、ハプスブルク帝国による直接支配が行われるようになる。なお、このイェラチッチの行動に対して、ハンガリー革命を高く評価していたフリードリヒ・エンゲルスは激しく憤り、「南スラブ人全体に対する断固たるテロリズム」を要求すると書き[59]、さらに南スラブ諸民族に「歴史なき民」の烙印を押した[60]
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f5/Ivan_Zasche%2C_Portret_bana_Josipa_Jelacica.jpg/175px-Ivan_Zasche%2C_Portret_bana_Josipa_Jelacica.jpg]
ヨシップ・イェラチッチ

しかし、1866年、普墺戦争にオーストリアが敗れると帝国の再編は避けられないものとなり、1867年、ハンガリーは独立するがオーストリアとは同君連合を形成することとなり「オーストリア=ハンガリー帝国」がここに成立した。クロアチアはハンガリー王国に属する事となったが、1868年、クロアチアとハンガリーの間で「協約(ナゴドバ)」が結ばれる事によりハンガリーが任命する総督(バン)を受け入れることにより制限付きながら自治を得る事となった[61][62]。しかし、1871年の選挙では「ナゴドバ」の無効を主張する完全自治派がクロアチア議会で多数を占めるにいたり、南スラブ統一を要求したが[63]、これは1881年に軍政国境地帯が、第一次世界大戦後にダルマチアが返還されるまでその統一要求は続くこととなる。クロアチアは限定的ながらも自治を得た事により政党活動が活発化したが、親ハンガリー派、帝国の範囲内で南スラブの統一を図る民族党、クロアチアの独立を唱える権利党の三派閥へと分かれることとなった[61][62]。また、その一方でクロアチア権利党はクロアチアにハンガリーと同等の地位を与えてオーストリア、ハンガリー、クロアチアの三国で三重帝国を築くという案を考えていた[64]

クロアチア人らは民族意識を明確にしていく中、この地域に住むセルビア人らの間でもその意識が高まりつつあった。ただし、現在のようにクロアチア人とセルビア人らの対立が深まるのではなく、彼らは南スラヴとしてユーゴスラビア統一主義(ユーゴスロヴェンストヴォ)として統一する動きが出始めていた。1850年には「言語協定(ウィーン合意とも)」が結ばれ、セルビア語、クロアチア語の基礎が築かれ、さらにはセルビア政府とクロアチア政党らでは協力が模索され、クロアチア国民党指導者ヨシプ・シュトロスマイエル (en) とフラショ・ラチュキ (en) らはセルビア公国を基礎として南スラブ統一を訴えるなど行っている。しかし、これは露土戦争後、1878年に結ばれたベルリン条約でセルビア、モンテネグロの独立が承認された上でオスマン領であったボスニア・ヘルツェゴビナがハプスブルク帝国へ移管されたが、そのためにボスニア・ヘルツェゴビナを巡ってクロアチア人とセルビア人らの関係が悪化、さらに状況が悪化した[61][65][# 9]。ただし、クロアチア系、セルビア系の反目を利用してクロアチアのハンガリー化を行っていたクロアチア総督クエン=ヘーデルヴァーリ・カーロイ (en) が1903年にハンガリーに対する民衆運動が拡大する中、ハンガリー首相へ転任したが、後任の総督がスラブ人への無差別な抑圧政策を施行したことにより変化した[66]。このことによりクロアチア政党とセルビア政党の協力関係は進展、特にスラヴォニアやダルマチアの政治家らは強く主張してセルビア人、クロアチア人、スロベニア人らは南スラブという一個の民族であるという政治的流れがその大きな目標とされた[61][65]
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/41/Volosca_2_1900.jpg/250px-Volosca_2_1900.jpg]
1900年頃のクロアチア、ヴォロスコ( volosko)

1905年10月、クロアチア政治家がセルビア政治家に協力関係を呼びかけた「リエカ合意」とそれにセルビア政治家が同意した「ザダル決議」により1905年11月、クロアチア議会において「クロアチア・セルビア人連合宣言」が行われクロアチア議会の5つの政党はクロアチア・セルビア連合を結成[# 10]、クロアチア=スラヴォニア、ダルマチアの統合を求めた[# 11]。ただし、1908年ハプスブルク帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを併合した際にはセルビア、クロアチアの間でその色の違いは見られたが、1909年にセルビアとの併合を狙った活動を行ったとして30名以上のクロアチア人、セルビア人らが逮捕、有罪とされた「ザグレブ事件」により、さらにその流れは強まる事となり、1912年のバルカン戦争が始まるとセルビア軍へ多数のクロアチア人が参加する事態にまで至り[68]、第一次世界大戦後、南スラブ統一国家、ユーゴスラビアが形成される元となった[69]

さらにシュトロスマイエル司教はセルビア公国の内務大臣イリア・ガラシャニンと協定を結び、オスマン帝国とハプスブルク帝国の影響を排除した独立国家の形成を目指した。また、ガラシャニンはギリシャ、ルーマニア、モンテネグロ、ブルガリアと交渉を重ねてバルカン同盟を結びオスマン帝国に対抗すること考えていたが、セルビア公国のミハイロ公 (en) が1868年に暗殺されるとガラシャニンは失脚することとなる[70]

ボスニア・ヘルツェゴビナではオーストリア=ハンガリー帝国共通蔵相でボスニア・ヘルツェコビア蔵相も兼任していたベンヤミン・カーライ (en) によってクロアチア人、セルビア人、ムスリム人[# 12]らを「ボスニア主義(ボシュニャシュトヴォ)」の元、ボスニア地域への帰属意識を根付かせようとしていたが、すでに宗教的、文化的な側面で組織化されていたクロアチア人、セルビア人、ムスリム人らがそれに従うことはなかった。1903年、イシュトヴァーン・ブリアーン (en) がカーライと交代したが、ブリアーンは自由主義的な政策を行い、さらに1910年には立憲制へ移行、議会制度も導入された。そのため、カトリック教徒を中心にして「クロアチア民族連合」が結成され、ムスリム人らがクロアチア人であるとした上でボスニア・ヘルツェゴビナはクロアチアの領土と主張、さらにオーストリア=ハンガリー帝国内のクロアチア地域の統一をも主張、その中には住民のカトリック化を促進させていたヨゼフ・シュタドレル大司教率いる「クロアチア・カトリック教会」も存在した。ただし、ムスリム人らはこれに対抗しており、シュタドレル大司教の改宗活動に対して政治組織を結成することとり、1906年に「ムスリム民族機構」を設立していたが、これらの混乱が後にサラエボ事件を発生させる温床となる[72]
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8d/Nikola_Pasic.jpg]
ニコラ・パシッチ

第一次世界大戦中の1914年12月、セルビア政府は「ニシュ宣言」においてクロアチア人、セルビア人、スロベニア人らの解放と統一を戦争目的と規定した。そして1917年7月20日、「コルフ宣言」[# 13]が決議されセルビア亡命政府首相ニコラ・パシッチ (en) とユーゴスラビア委員会(南スラブ委員会とも)代表アンテ・トルムビッチ (en) [# 14]の間でセルビア人、クロアチア人、スロベニア人らで構成された国家創設が合意された。一方で1918年10月6日、スロベニアのアントン・コロシェツ神父 (en) 、ヴォイヴォディナのスヴェトザル・プリビチェヴィッチ (en) らで「スロベニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」がザグレブで結成されハプスブルク帝国内の南スラブ地域の統合が唱えられ[73]、10月28日、スラブ地域での敗北を認めたオーストリア=ハンガリーは権力を委譲、翌日、クロアチア議会は「ダルマチア、クロアチア、スラヴォニア、フィウメはオーストリア=ハンガリーから完全に独立・・・(中略)・・・スロベニア人、クロアチア人、セルビア人らが共通とする民族主権国家への参加」することを宣言[# 15]、31日にはハンガリー首相カーライにより「ドナウ連邦」形成が提案されたが、こちらはオーストリア=ハンガリー帝国が11月3日に敗戦を迎えた事により消滅[76]、「スロベニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」は発言権を持つ事はできなかった[73]

Posted at 2015/12/07 10:18:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | モブログ
2015年12月03日 イイね!

ピレウス

ピレウス紀元前493年、アテネの政治家テミストクレスがファレロン港にかわる海軍基地として建設した。 ペリクレスの時代には、ミレトスの都市計画家ヒッポダモスによって市街が碁盤の目状に整備された。また、ピレウス港を拠点とする海上貿易を生命線とするポリスであるアテネを防衛する軍事戦略として、都市アテネと、都市ピレウスの間の街道が両都市を囲む城壁から延長された2枚の城壁が築かれ、一種の双子都市として防御されていた。

しかし、紀元前86年にローマの攻撃をうけてほぼ壊滅。その後はローマ帝国に支配された。

1040年には、東ローマ帝国ブルガリア (テマ制)(英語版)で起こったen:Peter Delyanの反乱に呼応し、反乱を起こしている。

第4回十字軍によって東ローマ帝国が崩壊し、1205年にピレウスは十字軍国家の一つであるアテネ公国の領土となった。

ギリシャ独立戦争後、1834年にアテネがギリシャの首都にさだめられて以後、新たに港湾都市として復興した。

クリミア戦争時には英仏連合軍によって占領された。
[ピレウス港および市街]
Posted at 2015/12/03 10:34:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年12月01日 イイね!

タシュケント

タシュケントタシュケントはソグド語での古名をチャーチュ (c'c : ???)、またはチャーチュカンドともいい、ペルシア語でもチャーチュ( ??? Ch?ch)と称し、アラビア語ではシャーシュ( ??? Sh?sh)と呼ばれた。『シャー・ナーメ』でもそのように記されている。チルチク川の形作るタシュケント・オアシスの主邑として、またカザフ草原・天山山脈北麓の遊牧地帯とマー・ワラー・アンナフルのオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄した。 康居の中心地であったと推定される。

国際交易では中国にまで名を知られ、『後漢書』以来石国と呼ばれた。また「チャーチュ」の音写として「者舌」(『魏書』)や隋時代の「柘支」、玄奘三蔵の『大唐西域記』では「赭時」と書かれた。ソグド人が中国地域で用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を名乗った。750年には唐の将軍高仙芝が石国に侵攻したためにシャーシュ(チャーチュ)はイスラム帝国に支援を求め、タラス河畔の戦いのきっかけをつくった。その後、さまざまなイスラム王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民のイスラム化・テュルク化が進展した。サーマーン朝時代にはBinkathとも呼ばれた。

カラハン朝の10世紀末頃から「タシュケント」の名も現れる。1214年にはホラズム・シャー朝に、1219年にはチンギス・カンに、それぞれ破壊される。しかし、ティムール朝そしてシャイバーニー朝によって町は再建される。『西域番国志』によると、15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「達失干」と記録されている)を訪れている。

モンゴル帝国時代にはペルシア語の「チャーチュ」やアラビア語の「シャーシュ」で呼ばれるのが一般的であったようだが、ムガル朝の始祖バーブルは自伝である『バーブル・ナーマ』において「タシュケンドは書物には“シャーシュ”または“チャーチュ”と書かれて」いると述べており、彼が中央アジアで活躍した16世紀頃には既に「タシュケント」の方がティムール朝の王族たちなどではより一般化していたらしいことが伺える。都市の名前が「チャーチュ(シャーシュ)」から「タシュケント」へ変化した原因は、恐らく「チャーチュ」の音写に由来する「石国」をウイグル地方などのテュルク語で直訳した形だと思われるが、これが現地でも使われるようになったのはウイグル地方とマー・ワラー・アンナフル双方を領有していたチャガタイ・ウルスの影響が考えられる。

タシュケントは、1809年にはコーカンド・ハン国の支配下に入った。当時、人口は10万人を越えてロシアとの交易で栄える経済都市となった。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/Plan_of_Tashkent_1865.JPG/220px-Plan_of_Tashkent_1865.JPG]
1865年当時の街の区画

1865年、帝政ロシア軍が夜間攻撃で侵攻、防御が堅固で激しい戦闘となったが制圧に成功、ロシアはタシュケントを直轄領に組み入れ、1867年にトルキスタン総督府が設置され、ロシアの中央アジア支配の拠点となった。旧市街の外側にロシア人の住む新市街ができ、ロシア人商人などが続々と移住してきた。また、中央アジアをめぐるロシアと英国の衝突で、スパイの暗躍する町となった。1874年のトルキスタン軍管区設置や1889年のカスピ海横断鉄道延伸などの新事業に従事する労働者階級のロシア人は、やがてロシア革命の中央アジアでの担い手となっていった。
1917年当時の街の様子を描いた絵

ロシア革命が起こると、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の首都となり、再び中央アジアをめぐるロシアと英国が衝突し、英国のフレデリック・ベイリー(英語版)らスパイの暗躍する町となった。1924年にはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、1930年、サマルカンドに代わって首都となった。

第二次世界大戦が起こると、ナチス・ドイツの侵攻を受けたヨーロッパ・ロシアから工場が疎開され、市の工業化が進み、ロシア人の割合も急増していった。戦後シベリア抑留を受けた日本人捕虜はここタシュケントにも回され、中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場たるナヴォイ劇場の工事などに従事した。過酷な強制労働にも関わらず、後述の地震にも全くの無傷という見事な仕事がなされており、他にも道路・工場といった多くのインフラが今でも現役で機能していることとあわせ、現在ウズベキスタンで親日感情が高いことの一因となっている。

1966年4月26日、大地震に見舞われ、78000棟の家屋が倒壊した。地震後、計画的な都市作りが行われた。そのため非常にソ連的な町並みとなり、最盛期にはソ連で4番目の人口を誇る大都市に成長した。ウズベキスタン独立後の今日でも大きなロシア人社会を抱えているが、町並みからロシア色は消えつつあり、イスラム原理主義の動きも出ている。

Posted at 2015/12/01 10:17:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ

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