
日立製作所を創設した小平浪平は、小坂時代から久原房之助の事業を助けていた。小平は1906年(明治39年)、日立鉱山で必要な電力確保のために計画した発電所建設を指揮する人物として久原から要請を受け、日立鉱山に赴任した。小平は鉱山の電力問題の解決のために石岡第一発電所などの建設を行い、また電気鉄道の建設に携わるなど、日立鉱山初期の設備の近代化に大きく貢献した[58]
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小平は日立鉱山に赴任する直前に、知人に鉱山で電気機械の修理でノウハウを積み、やがては機械を自作する希望を語っていたといい、当初から独自の事業を展開する強い意欲を持っていた。そして小平は日立鉱山に勤務しながらも、鉱業以外の事業への拡大について強い関心を持っていた。これは鉱業のみでは事業の将来性に不安があると考えていて、事業の多角化を行って安定した経営を目指すのとが必要と判断したためである。建設当時日本有数の規模であった石岡第一発電所は、当初日立鉱山で用いる電力以上の発電能力を持っていた。これは小平が余剰電力で化学工業を起こそうと考えたためで、実際事業化を目指したが、日立鉱山の拡張規模が小平の想定を遥かに上回り、石岡第一発電所の能力では日立鉱山の電力を賄い切れなくなって計画は頓挫した[59]。
小平は日立鉱山で工作課長という役職に就いていた。これは鉱山で用いる土木、電気、機械の修理等を一切引き受ける部署であった。鉱山創業以来、当時としては最新の機械の導入を進めていた日立鉱山では、多くの機械類は電化されていた。そのため多くの電動機や変圧器などが使用されていたが、鉱山での機械使用はかなり乱暴なことが多く、アメリカ製の電動機はしばしば故障を繰り返した。ひどい故障がある場合も少なくなく、そうするともはや修理ではなく、ほぼ新造するのと同じことになってしまった。そのような状況の中で小平たちは電気機械製造についてのノウハウを身に付けていった[60]。
鉱山機械の修理工場は、当初日立鉱山の本山付近にあったが、大雄院の精錬所が開設された1908年(明治41年)には精錬所構内に移転した。しかしわずか4ヶ月で移転させられ、更に翌1909年(明治42年)には電気鉄道の大雄院停留所隣への移転を命じられた。短期間での度重なる修理工場の移転は、当時、日立鉱山内で小平たちの機械修理部門が必ずしも重く見られていなかったことを示している[61]。
しかし電気機械の修理の豊富な経験は、確実に小平たちの能力を高めていた。鋳物と絶縁の技術さえあれば電気機械製造が可能と判断した小平は、1910年(明治43年)にはイギリスから鉄板を加工する機械を購入し、独自の設計で5馬力の電動機3台を製作し、続いて200馬力の電動機を作成した。小平は本格的に電気機械製造に乗り出す決意を固め、久原に許可を求めた。久原は機械製造に関してはもともと関心が薄く、また当時の技術水準から見て欧米製に遥かに劣っていた電気機械の製造を行う必要性を認めていなかったため、当初、小平の計画を認めようとはしなかった。しかし日立鉱山の所長を務めていた久原の右腕である竹内維彦が小平の計画を支持したこともあって最終的に計画は承認され、日立鉱山の鉱毒のために荒れ果てていた日立村宮田字芝内に、当初芝内製作所と呼ばれた工場が建設された[62]。
1911年(明治44年)からは変圧器、電動機、発電機、電気機関車といった電気機器の製造を本格的に開始した。当初、需要は日立鉱山内に限られていたが、早くも同年4月には茨城電気会社に変圧器を販売し、日立鉱山外に顧客を得るようになった。しかし同年11月に製作した日立鉱山での電解精錬で用いられる発電機は故障が頻発し、鉱山内から電気機械製作事業を放棄すべきとの声も挙がった[63]。
1912年(明治45年)1月1日、日立鉱山では職制の変更が行われ、その中で日立製作所は日立鉱山工作課から独立し、久原鉱業所日立製作所となった。こうしてまだ久原鉱業所に所属していたが、鉱山業と並ぶ独自の事業として電気機械等の製作販売を行う日立製作所が設立された[64]。
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Posted at 2015/12/11 10:19:28 | |
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