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くろまめたろうのブログ一覧

2016年09月20日 イイね!

アクアコッタ

アクアコッタアクアコッタ(伊: acquacotta)はイタリア、トスカーナ地方の郷土料理で、主に野菜を使った温かいスープである。元々は古くから食されてきた庶民の食べ物で、トスカーナ州南部とラツィオ州北部にまたがるマレンマ地方(英語版)発祥の料理である。acquacotta はイタリア語で「水で煮る」を意味し、伝統的なレシピではスープストックを使わず水で調理する。アクアコッタはかたくなったパンを食べられるようにするための料理法でもある。タマネギ、セロリ、トマト、パン、卵などが基本となる食材であるが、これ以外にもキノコや季節の野菜などが使われることもあり、材料は非常に多岐にわたる。また水ではなくスープストックで調理することもある
Posted at 2016/09/20 10:32:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年09月15日 イイね!

アジアから帰還した旅行者の報告

アジアから帰還した旅行者の報告1237年にルーシに侵入したバトゥの率いるモンゴル軍はヨーロッパに強い衝撃を与え、現実離れしたプレスター・ジョンへの期待は薄れていった[32]。しかし、モンゴル帝国の襲来後もプレスター・ジョンの国を探し当てる試みはなおも続けられ[6]、13世紀のヨーロッパでは、プレスター・ジョンの国をモンゴルの支配下に入ったキリスト教徒の国とする傾向が主流になる[21]

1248年12月[33]、キプロス島で第7回十字軍の準備を進めるフランス王ルイ9世の元にモンゴルの西アジア方面の司令官イルヂギデイ(エリジデイ)から派遣された使者を自称する、ダヴィデとマルコと名乗る2人組が現れる[34]。彼らはエルサレムの奪取を図るイルヂギデイがフランスと同盟してイスラーム勢力を攻撃することを望んでいること[35]、モンゴルの皇帝グユクとイルヂギデイがキリスト教に改宗し、さらにグユクの母はプレスター・ジョンの娘であると述べ立てた[33]。使者の言伝に強い興味を持ったルイ9世は、ロンジュモーのアンドルーら3人のドミニコ会の修道士をモンゴルの宮廷に派遣した[36]。しかし、アンドルーがモンゴルに到着したときにグユクは没しており、グユクの皇后オグルガイミシュが摂政として政務を執っていた。1251年にオグルガイミシュからの返書がルイ9世の元に届けられたが、返書はフランス国王自らのモンゴルの宮廷への貢納を要求するもので、キリスト教への改宗、同盟の締結について触れられていなかった[37][38]

1245年から1247年にかけてモンゴル帝国の宮廷を訪れたプラノ・カルピニはプレスター・ジョンと呼ばれる大インドの王がタルタル人の軍隊を破った報告を記したが、プラノ・カルピニの記したプレスター・ジョンはモンゴルに抵抗したホラズム・シャー朝の君主ジャラールッディーン・メングベルディーだと考えられている[39]。1253年にモンゴル帝国の宮廷に派遣されたフランシスコ会修道士ウィリアム・ルブルックは、カラ・キタイの王位を簒奪したナイマン部族の指導者がジョン王と称せられていたことを報告した[40]。ルブルックのいうジョンは西遼(カラ・キタイ)の帝位を簒奪したナイマンの王子クチュルクがモデルになっていると考えられているが[4][40]、クチュルクは西遼の帝位に就いた当時はネストリウス派から仏教に改宗していた[41]。また、ルブルックはジョン王には「ウンク」という名前の非キリスト教徒の兄弟がいたことを記しているが[42]、「ウンク」はケレイトの指導者オン・カンを混同したものだと考えられている[4][43]。シリア正教会の大主教バール・ヘブラエウスはルブルックの記録に現れるウンクをプレスター・ジョンと同一視し、配下であるチンギス・カンの殺害を企てたが逆襲を受けて戦死したと『シリア年代記』に記した[44]。ヘブラエウスは『シリア年代記』でウンクがキリスト教から異教に改宗し、ユダヤ教国からクァラカタという妃を迎えたことも伝えている[44]

を訪れたイタリアの旅行家マルコ・ポーロは『東方見聞録』において、ユヌ・カンと呼ばれる遊牧民の指導者がプレスター・ジョンで、チンギス・カンとの戦闘で落命したことを記した[45]。マルコ・ポーロの伝えたプレスター・ジョン像は過去に伝えられた大国の君主ではなく、チンギス・カンとの戦闘で不名誉な戦死を遂げた一指導者として書かれており[46]、『東方見聞録』で述べられているプレスター・ジョンはケレイトのオン・カンに比定されている[4][47]

やがて、カトリックの宣教師たちはプレスター・ジョン、彼の王国の実在性を疑問視するようになる[4]。14世紀初頭に中国を訪れたポルデノーネのオドリコはキタイ(中国)から西に50日進んだ場所にあるプレスター・ジョンの国の情報を書き残し、これがアジアにおけるプレスター・ジョンの国についての最後の報告となった[48]。プレスター・ジョンの国に着いたオドリコは住民からの情報を集め、ジョンにまつわる噂は真実ではないと断定した[49]。14世紀後半に元が衰退し、ティムール朝という中央・西アジアにまたがるイスラーム教国が現れると、アジアに存在するといわれるプレスター・ジョンの国を探す試みはされなくなる[4]。それでもなお、ジョン、ダヴィデなどの東方のキリスト教徒の王の伝説は大航海時代の後までヨーロッパの人々に幻想的な憧れを抱かせ
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3e/WangKhan.JPG]
Posted at 2016/09/15 10:19:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年09月15日 イイね!

プレスター・ジョン

プレスター・ジョン1122年にインド大司教ヨハネと称する人物がローマを訪れ、教皇カリストゥス2世に対して自分の職権の承認を求めた[2]。ヨハネは教皇に対してピション川の側に立つフルナという大都市のキリスト教徒、郊外の修道院と聖トマスの名前を冠する大教会について語ったことがランス僧院長のオドらによって記録されているが、このインド大司教を称する人物は教皇の権威を利用しようとした詐欺師の類だと考えられている[3]。このインド大司教ヨハネのローマ訪問の記録は、しばしば後世に成立するプレスター・ジョンの伝説と混同して語られる[1]。
12世紀のドイツで記された、オットー・フォン・フライズィングの年代記内の1145年の条が、プレスター・ジョンに関する最古の記録と考えられている[4][5][6][7]。1145年にシリアのガバラ司教ユーグは教皇エウゲニウス3世に謁見し、中東のキリスト教勢力がイスラーム勢力との戦闘で苦境に陥っている戦況と共に東方に現れたプレスター・ジョンの情報を伝え、謁見の場に居合わせたオットーはユーグの言葉を書き残した[8]。ペルシア、アルメニアの東方に存在する広大な国の王プレスター・ジョンがメディア、ペルシアを支配するサミアルドスを破り、メディアの首都エクバタナを占領したことが、オットーによって記している[1][8]。エルサレムに向かったプレスター・ジョンは道中でチグリス川に行く手を阻まれ、チグリス川の北では水が凍結すると聞いたプレスター・ジョンは北進するが川は凍結せず、やむなく帰国したと伝えられている[8][9]。オットーは戦況の報告に続けて、プレスター・ジョンが新約聖書に登場する東方三博士の子孫であり、エメラルド製の笏を用いているという伝聞を付記している[10]。
オットーが記録した報告は、東方に伝わっていたネストリウス派がウイグルの一部で信仰されていた点[6]、西遼(カラ・キタイ)の皇帝・耶律大石がイスラム教国に勝利を収めたこと[6][10][11][12]などに起因すると考えられている。オットーの年代記に現れるペルシアの王サミアルドスは、1141年のカトワーンの戦いで耶律大石に敗れたセルジューク朝の王アフマド・サンジャルに比定される[13]。西遼の支配層である契丹人は遼の時代に仏教徒に改宗しており、12世紀初頭に耶律大石に率いられて中央アジアに移住した一団も仏教信仰を保持していたが、ヨーロッパに誤ってキリスト教徒と伝えられたと考えられている[13]。しかし、耶律大石自身は仏教を信仰していたが、彼の軍内にはネストリウス派の信者が含まれていた可能性も指摘されている[14]。
プレスター・ジョンの戦果の報告の後に書かれたオットーの情報には、聖トマスのインドでの布教を述べた『聖トマス行伝』に現れるインド王グンダファル(Gundaphara)からの影響が指摘されている[15]。ほか、当時の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がオットーの記述のモデルとなった人物の一人に挙げられている。
Posted at 2016/09/15 10:17:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年09月13日 イイね!

シルクロード

シルクロード中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至る、最も古いとみなされている交易路。この地に住むスキタイや匈奴、突厥といった多くの遊牧民(騎馬民族)が、東西の文化交流の役割をも担った。

現在の中国国鉄集二線は、部分的にほぼこの道に沿っている。

モンゴルのツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領が同名の中露蒙経済回廊を主張していることでも有名である[1][2]
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/79/Eurasian_steppe_belt.jpg/1024px-Eurasian_steppe_belt.jpg]
Posted at 2016/09/13 10:49:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年09月13日 イイね!

シルクロード

シルクロード「シルクロード」という名称は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China(支那)』(1巻、1877年)においてザイデンシュトラーセン(ドイツ語:Seidenstraßen;「絹の道」の複数形)として使用したのが最初であるが、リヒトホーフェンは古来中国で「西域」と呼ばれていた東トルキスタン(現在の中国新疆ウイグル自治区)を東西に横断する交易路、いわゆる「オアシスの道(オアシスロード)」を経由するルートを指してシルクロードと呼んだのである。リヒトホーフェンの弟子で、1900年に楼蘭の遺跡を発見したスウェーデンの地理学者ヘディンが、自らの中央アジア旅行記の書名の一つとして用い、これが1938年に『The Silk Road』の題名で英訳されて広く知られるようになった。
シルクロードの中国側起点は長安(陝西省西安市)、欧州側起点はシリアのアンティオキアとする説があるが、中国側は洛陽、欧州側はローマと見る説などもある。日本がシルクロードの東端だったとするような考え方もあり、特定の国家や組織が経営していたわけではないのであるから、そもそもどこが起点などと明確に定められる性質のものではない。
現在の日本でこの言葉が使われるときは、特にローマ帝国と秦・漢帝国、あるいは大唐帝国の時代の東西交易が念頭に置かれることが多いが、広くは近代(大航海時代)以前のユーラシア世界の全域にわたって行われた国際交易を指し、南北の交易路や海上の交易路をも含める。つまり、北方の「草原の道(ステップロード)」から南方の「海の道(シーロード)」までを含めて「シルクロード」と呼ばれるようになっているわけである。
Posted at 2016/09/13 10:47:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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