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くろまめたろうのブログ一覧

2016年11月07日 イイね!

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Posted at 2016/11/07 14:30:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年11月04日 イイね!

東海道本線

東海道本線東海道本線は、東京から横浜・静岡・浜松・名古屋・大阪などの、太平洋ベルトといわれる本州の太平洋側の各都市を経て神戸までを結ぶ全長589.5 km(支線を除く)の路線である。

当路線のうち新橋駅(後の汐留貨物駅、現存せず) - 横浜駅(現在の桜木町駅)間は日本最初の鉄道として1872年(明治5年)に開業した。その後関西で大阪駅 - 神戸駅間が開業し、数回にわたる路線延伸を経て1889年(明治22年)に新橋駅 - 神戸駅間の全線が開業して首都圏と京阪神とが鉄道で結ばれた。その後、東京駅の開業や山間部でのルート変更などを経て、現在の東海道本線が出来上がっている。長らく日本国有鉄道(国鉄)が運営する一本の路線であったが、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化によってJR東日本・JR東海・JR西日本の3社に管轄が分かれ、この旅客3社が第一種鉄道事業者として線路の保有と旅客列車の運行を行い、JR貨物が第二種鉄道事業者として旅客3社の線路を使用して貨物列車を運行するという体制となった。

全線開業以降は日本を代表する動脈となり、東京と京阪神などを結ぶ優等列車が多数運行されていたが、1964年(昭和39年)に輸送力増強を目的とした東海道新幹線が開通すると、遠距離の旅客輸送は同新幹線に譲り、並行する東海道本線の旅客輸送は地域輸送中心の体制に移行した。一方で、貨物輸送に関しては現在まで大動脈としての位置づけを保っており、多数の貨物列車がJR貨物によって運行されている[1]。気候は関ヶ原付近をのぞくと通年温暖で、改良により勾配も抑えられている。

路線の名称は、かつて江戸と京都を結んでいた東海道に沿う経路で建設されたことに因んでいる。ただし、熱田駅 - 草津駅間は、当初中山道経由で路線が計画された経緯から、中山道および美濃路に沿っている。これは中世の東海道の経路である[2]。現代では東海道本線と並行する主要道路として、東名・新東名・名神・新名神などの高速道路および国道1号がいずれも東京圏・名古屋圏・大阪圏の三大都市圏を結んでいるものの、一部区間では経路が大幅に異なる。

国鉄時代の『日本国有鉄道線路名称』では、本路線を指す名称として「東海道本線」が使われており、「東海道線」の名称は東海道本線およびその支線だけでなく、山手線・横須賀線・御殿場線・身延線・飯田線・武豊線・福知山線などを支線として含む総称として使われていた。しかし、国鉄が分割民営化された際に策定された「日本国有鉄道の事業等の引継ぎ並びに権利及び義務の承継等に関する基本計画」[3] においては、本路線の(御殿場線などを含まない)名称が「東海道線」と定められている。以降、両方の名称が並立して使用されている。例えば国土交通省発行の文書や、同省監修『鉄道要覧』では「東海道線」の名称が使われ、JRの線路名称公告では「東海道本線」の名称が使われている。ただし、国土交通省やJR各社のウェブサイトにおいても両方の名称が混用されている。

東京近郊では、旅客案内上の「東海道線」は小田原・熱海方面への中距離電車や特急列車を指し、東京駅 - 大船駅間で並行して走る近距離電車(かつての国電)に対しては山手線・京浜東北線・横須賀線などといった系統名称を使用することで区別している[脚注 4]。また、JR西日本は民営化後、自社の管轄区間に「琵琶湖線」「JR京都線」「JR神戸線」の路線愛称を設定した[脚注 5]。終点である神戸駅からはほとんどの列車が山陽本線と直通運転していることから「東海道・山陽本線」とまとめて呼ばれることがある。

2015年の上野東京ライン開業で起点の東京駅から宇都宮線・高崎線・常磐線と直通運転を開始したため、東海道本線はこれまで電車線のみが繋がっていた東北本線とも本格的に繋がった。結果として起点・終点で本州の大動脈の東北本線、山陽本線と直通運転が行われるようになった。

なお、東海道新幹線(管轄はJR東海)は東海道本線の線増として建設されたため、その観点で同新幹線および山陽新幹線新大阪駅 - 新神戸駅間(JR西日本)を東海道本線に含めた場合、東海道本線は支線をのぞいて全区間複々線の路線となる。1982年の東北新幹線開業以前は、新幹線は完全な線増扱いであったが、JR線路名称公告では東海道新幹線および山陽新幹線新大阪駅 - 新神戸駅間を東海道本線の名無しの支線として扱っている。一方、基本事業計画や『鉄道要覧』では別の路線として扱われている。
[路線図]
Posted at 2016/11/04 10:21:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年11月04日 イイね!

上淀川橋梁

上淀川橋梁日本政府は、日本で最初の蒸気機関車による鉄道として新橋-横浜間の鉄道に着手したのに続き、すぐに神戸-京都間にも鉄道を敷設するように事業を進めていた[9]。このうち京都-大阪間については、大阪から吹田までまっすぐ直行する案と、大阪-神戸間の線路を戻って神崎(尼崎)から淀川北岸を通って京都に向かう案があり、前者は後者より費用は高いと見積もられたがその差は小さく、前者の方が距離が短くなることから、前者の案が採用された[10]。
明治初頭の時点で、淀川の河口付近は、神崎川、中津川(十三川)、大川(旧淀川)の三川に分かれており、川幅が狭く流路も曲がりくねっていた[11][12]。大阪から吹田へ直行する案が採用されたことで、神戸-大阪間の鉄道で渡った神崎川と中津川を、上流側で再度渡ることになった[12]。東海道本線がこれらの川を2回渡ることから、それぞれ「上」「下」を冠した橋梁名が付けられることになり[13]、上十三川橋梁が架設されることになった。
神戸-大阪間を建設した際には、まだ一部の橋梁のトラス桁を錬鉄で製作したのみで、他には木製の桁を架設していた[14]。しかし大阪-京都間では、短い溝に架かる橋以外はすべて鉄製となった[14]。上十三川橋梁は、下十三川橋梁と同じく錬鉄製のトラス橋とされ、同じくお雇い外国人のイギリス人であるジョン・イングランド(英語版)が設計して[15]、イギリスの会社で製作された[16]。トラスの支間は、下十三川の時に70フィート(約21.3メートル)であったのが、上十三川橋梁では100フィート(約30.3メートル)となった[15]。これを5連連ねて[15]全長500フィート(約152メートル)とした[7]。総工費は109,187円であった[7]。
1876年(明治9年)7月28日に大阪 - 向日町間が開通して供用開始した[8]。この区間は1899年(明治32年)2月3日に複線化されたが[17]、複線化に際して上十三川橋梁がどのように改築されたかははっきりしない。1885年(明治18年)に起きた淀川の大洪水をきっかけに、淀川下流部に放水路を建設することになり、これに伴って中津川(十三川)は廃河川となり、上十三川橋梁も撤去された[18]。撤去は1901年(明治34年)頃である[15]。上十三川橋梁でも使われていたイギリス製100フィートトラスは、大きさが手ごろで撤去された時期が地方私鉄の発展していく時期に当たったことなどから、各地で転用されていった[19]。しかし、上十三川橋梁のトラス桁が転用された先は明らかではない。
Posted at 2016/11/04 10:16:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年11月01日 イイね!

イングランド国教会

イングランド国教会エドワード6世の死後、キャサリンの娘メアリー1世が王位に就いた。メアリーは熱心なカトリック教徒であった。彼女はヘンリー8世とエドワード6世の時代に行われた典礼の改革をすべて廃し、再びイングランドをカトリックに戻そうとした。しかし反感を買い、メアリー1世の死後、カトリックへの復帰運動は消えた。

真の意味でのイングランド国教会のスタートは、1558年に王位に就いたエリザベス1世の下で切られることになる。エリザベスは教皇の影響力がイングランドに及ぶことを阻止しようとしていたが、ローマからの完全な分離までは望んでいなかった。神聖ローマ皇帝カール5世が彼女をかばったこともあって、エリザベス1世は1570年、ピウス5世の時代まで破門されることはなかった。

イングランド国教会が正式にローマから分かれることになるのは1559年である。議会はエリザベス女王を「信仰の擁護者」(首長)として認識し、首長令を採択して反プロテスタント的法を廃止した。さらに女王は1563年の聖職者会議で「イングランド国教会の39箇条」を制定し、イングランド国内の国教会を強化した。

このころから、イングランドにおける清教徒(ピューリタン)と国教会派の対立が深刻化した。1603年に即位したジェームズ1世は強く国教会派を支持、また王権神授説を称えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で欽定訳聖書の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。チャールズ1世の治世では国教会派がスコットランドにも教化しようとしたために、反発した人々の手によって清教徒革命が勃発し、敗れたチャールズ1世は1649年に処刑された。しかしその後、王政復古や名誉革命を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。

イングランド国教会主流派と対立した人々の中には、国教会内部で改革を行おうとする非分離派もいたが、国教会から出て別の教会を立てる者も多かった。後者を分離派と呼ぶ。このような国教会から出たプロテスタント会派にバプティスト・メソジストなどがある。

現代のイングランド国教会は、世界の聖公会において主導的役割を果たすと共に、ローマ・カトリックなどとの対話に積極的にのりだし、エキュメニカル運動にも積極的な役割を果たしている。ただしローマ・カトリック側は、1896年教皇レオ13世の大勅書(Apostolicae Curae et Caritatis)で聖職者の叙任が無効と宣言しており、東方教会とは若干差別がある。

近年では1994年3月12日にイングランド国教会で最初の女性司祭が叙任され、話題となった。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/07/Dioceses_of_Church_of_England.svg/650px-Dioceses_of_Church_of_England.svg.png]
Posted at 2016/11/01 10:19:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年11月01日 イイね!

アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史

アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史メリカ合衆国の奴隷制度の歴史(アメリカがっしゅうこくのどれいせいどのれきし、英:The history of slavery in the United States)は、イギリスがバージニア植民地に初めて入植したすぐ後に始まり、1865年のアメリカ合衆国憲法修正第13条の成立で終わったことになっている。動産としての奴隷制が拡がる前に、白人と黒人などの間に典型的なものでは4年から7年の間で続く「年季奉公」と呼ばれる労働契約の仕組みがあった。1662年までに、アメリカにおける奴隷制は法令の整備によって制度化され、主にアフリカ人とその子孫(アフリカ系アメリカ人)、および偶にアメリカ州の先住民族にも適用された。17世紀の終わりまでには、アメリカ植民地の南部において奴隷制が一般化されたが、北部との程度差があった。
1640年代から1865年まで、現在のアメリカ合衆国領域内ではアフリカ人とその子孫が合法的に奴隷化されていたが、その所有者は圧倒的に白人であり、ごく少数が先住民や自由黒人であった。この奴隷所有者の大多数は南部にいた。南北戦争の前の時点で南部の4家族に1軒が奴隷を所有していた[1]。黒人の95%は南部に住んでおり、南部の人口に対しては3分の1に達していた。これに対して北部における黒人の人口比率は1%に過ぎなかった[2]。
19世紀前半のアメリカ合衆国の富は黒人奴隷の労働の搾取に負うところが大きかった[3][4]。しかし、南北戦争における北軍の勝利により、南部の奴隷労働制は廃止され、南部の大規模綿花プランテーションはあまり利益を生まないものになった。北部の工業は南北戦争の前も戦争中も急速に成長を遂げ、南部の農業経済の落ち込みを補って余りあるものであった。アメリカ北東部の工業資本家が社会的および政治的事項を含め、国民生活の多くの面を支配するようになった。南部の農園主による貴族政治は影を潜め、南北戦争の後の急速な経済成長が近代におけるアメリカ合衆国産業経済の基盤となった。
17世紀から19世紀にかけて、およそ1,200万人のアフリカ黒人がアメリカ大陸に渡った[5][6]。このうち、5.4%(645,000人)が現在のアメリカ合衆国に連れて行かれた[7]。1860年のアメリカ合衆国の国勢調査では、奴隷人口は400万人に達していた。
Posted at 2016/11/01 10:14:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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