• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

くろまめたろうのブログ一覧

2016年12月16日 イイね!

余部鉄橋列車転落事故

余部鉄橋列車転落事故1986年(昭和61年)12月28日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中の客車列車(DD51形1187号機[100]とお座敷列車「みやび」7両の計8両編成)が日本海からの最大風速約 33 m/s の突風[注釈 6]にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、橋梁中央部付近より転落した。転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場が全壊、民家が半壊した。回送列車であったため乗客はいなかったが、工場の従業員だった主婦5名と列車に乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った[102][103]。なお、重量のある機関車が転落を免れたことと、民家の住民が留守だったことで、機関士と民家の住民は無事だった。しかし事故後、機関士の上司は責任を感じて自殺した。
この橋梁からの列車の転落は、橋の完成以来初めての惨事だった。国鉄の記録では、事故の時点で風による脱線は全国で16件あり、そのうち鉄橋からの転落は3件あったが、鉄橋からの転落で死傷者が発生したのは、1899年(明治32年)10月7日に日本鉄道(現在の東北本線)矢板駅 - 野崎駅間箒川橋梁からの客車の転落で20人が死亡45人が負傷した箒川鉄橋列車転落事故以来87年ぶりのことであった[104]。
風速 25 m/s 以上を示す警報装置が事前に2回作動していたが、1回目の警報では指令室が香住駅に問い合わせたところ、風速 20 m/s 前後で異常なしと報告を受けたため、その時間帯に列車がなかったこともあり様子を見ることにした。2回目の警報が作動した際には、列車に停止を指示する特殊信号機を作動させてももう列車を止めるためには間に合わないという理由で、列車を停止させなかった。こうした理由により、突風の吹く鉄橋に列車が進入する結果となった[102]。
事故後、のべ344人の作業員を投入して枕木220本とレール 175 m の取り替えを行い、事故の遺族からの運転再開容認を31日10時30分に取り付けて、15時9分に事故後の最初の列車が鉄橋を通過した[105][106]。
1987年(昭和62年)2月9日に松本嘉司東京大学教授を委員長として「余部事故技術調査委員会」が発足し、国鉄分割民営化後の1988年(昭和63年)2月5日に調査報告書がまとめられた。調査では、橋に取り付けられていた2台の風速計のうち1台が故障しており、もう1台も精度が落ちていたことが判明した。また風速計による警報が出た後に、指令員の判断を介して列車に停止の指示をする仕組みであったことも問題視され、自動的に停止の指示を出せる仕組みにするべきであるとした[105][107]。報告書では当時の最大瞬間風速を 35 - 45 m/s と推定し、車両の転覆限界風速は約 32 m/s であったと推定している[101]。これらにより、車両転覆の直接の原因は転覆限界風速を超える横風によるものと結論づけられた[101]。
一方、当時吹いていた風速 33 m/s では計算上客車が転覆することはなく、また橋の上のレールが風の向きとは逆に海側に曲がっていたことを指摘して、事故の本当の原因は客車に対する直接の風圧ではないとの主張もある。それによれば、昭和40年代の補強工事で縦横の剛性比の考慮を欠いたまま水平方向の部材のみを強化してバランスを崩し、また橋脚の基礎をコンクリートで巻き立てたために主塔の撓み量が減少して、風によるフラッター現象を起こしやすくなっていたとする。そして、当時の強風によりフラッター現象を起こしていた橋に列車が進入した結果、機関車が蛇行動を起こしてレールの歪みを生じ、両端の客車に比べて軽かった中央付近の客車が脱線して、両端の客車を引きずるように転落に至ったのが本当の事故原因であるとしている[108]。この主張は他の書籍などでも紹介されることがある[109]が、指令員の責任を追及した刑事裁判でも、事故の調査報告書でも一切触れられていない[110]。
1988年(昭和63年)5月から運行基準が見直され、風速 20 m/s 以上で香住駅 - 浜坂駅間の列車運行を停止し、バス代行とするよう規制を強化することになった[111]。列車を停止させなかった責任を問われた福知山指令室の指令長および指令員計3名に対しては、1993年(平成5年)、禁固2年から2年6か月の執行猶予付き有罪判決が出され、確定した[112]。
1988年(昭和63年)10月23日に事故現場に慰霊碑が建立された[113]。また事故後毎年12月28日には法要が営まれてきたが、2010年(平成22年)が25回忌の節目となったことと、新橋への切り替えが行われたことから、同年12月28日に遺族会により行われた合同法要が最後となった[114]。
Posted at 2016/12/16 10:26:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年12月14日 イイね!

オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)

オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(ロシア語: Ольга Николаевна Романова、英語: Olga Nikolaevna Romanova, Grand Duchess Of Russia, 1895年11月15日 - 1918年7月17日)は、ロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第1子で、第一皇女。ロシア大公女。1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族と共に監禁された。十月革命で権力を掌握したウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキの命を受けたチェーカー(秘密警察)によって翌1918年7月17日に超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、エカテリンブルクのイパチェフ館において家族・従者と共に銃殺された。正教会で聖人(新致命者)。

[Olgachair.jpg]
Posted at 2016/12/14 10:32:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年12月14日 イイね!

ニコライ2世

ニコライ2世ニコライ2世(ロシア語: Николай II, ラテン文字転写: Nikolai II、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、ロシア語: Николай Александрович Романов, ラテン文字転写: Nikolai Aleksandrovich Romanov、1868年5月18日(ユリウス暦5月6日) - 1918年7月17日(ユリウス暦7月4日))は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 - 1917年3月15日)。
皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)。皇子女としてオリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女、アレクセイ皇太子がいる。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世やイギリス国王ジョージ5世は従兄にあたる。
日露戦争・第一次世界大戦において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧したためロシア革命を招き、1918年7月17日未明にエカテリンブルクのイパチェフ館において一家ともども虐殺された。東ローマ帝国の皇帝教皇主義の影響を受けたロシアにおいて、皇帝は宗教的な指導者としての性格も強いため、正教会の聖人(新致命者)に列せられている。
Posted at 2016/12/14 10:29:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年12月12日 イイね!

ヴィクトリア朝

ヴィクトリア朝ヴィクトリア女王の治世1837年から1901年は英国の黄金期であるばかりでなく、英国の美術にとっても黄金期、爛熟期であった。公私とも円満だった女王とアルバート公夫妻に象徴されるように、この時代には家庭の平和と、いや増す繁栄があり、それらが絵画が花開く条件につながっていた。

この時代はコンスタブル、ターナー、ランドシーア、ロセッティ、ミレー、バーン=ジョーンズ、レイトン、ワッツ及びホイッスラーらを生んだ。彼らはヴィクトリア女王の治世の間、生存していた(コンスタブルは例外で、ヴィクトリア女王の即位の年に死亡した)。およそ11,000名の一般に認められた画家が誕生した。凡庸な者も多かったが、高い才能と美術的な完成度を持つものも数多かった。

この時代は膨大な数の美術品を生み出し、一般大衆が展覧会に殺到した。その中には絵画の立派なコレクションを持つ富裕層もいた。ヴィクトリア女王は英国の芸術家を後援した。数多くの芸術家が貴族と同等の人間関係をもって上流社会と交わるという名誉ある地位を占めた。その結果、ヴィクトリア朝の英国は、これに先立ついかなる偉大な芸術時代とも比肩する創造性の開花を見ることとなった。

ヴィクトリア朝は多くの人に、感傷、過度の上品さ、装飾過剰を連想させる。しかし、ヴィクトリア朝の画家はいまだかつてない産業革命の成果と、全面的な社会や道徳観の変化をうまく描き出した。ディケンズやジョージ・エリオットの小説、オスカー・ワイルドの演劇、及びテニスンやブラウニングの詩は、ヴィクトリア朝の画家に相手役を持っていた。この時期はエスタブリッシュメントと進歩主義的趣味の分離が始った。進歩主義はアバンギャルドの近代的な思想を生み出す。芸術家のグループが拡大し、ラファエル前派、Clique、セントジョーンズウッド派、クランブルックコロニー、ニューリン学派として知られる集団が生まれた。ラファエル前派は、詳細と真実は、人生と芸術の両方において重要だと信じた。絵画において人と物は理想化されてはならない、いぼやしみの全てに至るまで実物のリアリティーを反映していなければならない、と考えた。一部の画家は単に独立を好み、コロニーや団体に所属するのを避けた。英国の芸術においては、多様性と個人主義こそが魅力を生むのである。

ヴィクトリア朝の画家たちは、さまざまな社会的・教育的背景を持つ幅広い層にも理解できるように作品を作ることを選んだ。これにより、娯楽と共に文化的向上を提供したのである。ヴィクトリア朝の芸術は大衆的芸術だった。絵画は、テクノロジーが絵画に競合するアトラクションを提供する今日そうである以上に、社会でより幅広く議論されていたのだった。ヴィクトリア朝芸術の並外れた豊かさ、多様性、複雑さは、裕福で複雑な社会を反映していた。絵画は、後にヴィクトリア時代として知られることになる英国の富と力の絶頂期の理想、社会構造、上昇志向を背景としていなければならなかった。産業革命も芸術に強い衝撃を与えた。ロマン主義とリアリズムはどちらも、この時代の力強い変化への反応と考えられている。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ea/Bristol_csb_from_bw_evening.jpg]
Posted at 2016/12/12 10:20:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年12月12日 イイね!

忠臣蔵

忠臣蔵江戸時代中期の元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城殿中松之大廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩(内匠頭)が高家肝煎・吉良義央(上野介)に刃傷に及んだことに端を発する。この一件で加害者とされた浅野は即日切腹となり、被害者とされた吉良はお咎めなしとなった。その結果を不服とする赤穂藩国家老・大石良雄(内蔵助)をはじめとする赤穂浪士(赤穂藩の旧藩士)47名、いわゆる「赤穂四十七士」(あこうしじゅうしちし)は、紆余曲折のすえ元禄15年12月14日(1703年1月30日)未明に本所・吉良邸への討ち入りに及び、見事その首級をあげる。そしてその後の浪士たちの切腹までの一連の事件を総称して、今日の史家は「赤穂事件」と呼んでいる。
詳細は「赤穂事件」を参照

「忠臣蔵十一段目夜討之図」 歌川国芳画。
この赤穂事件がはじめて舞台に取り上げられたのは、討ち入り決行の翌年である元禄16年の正月、江戸山村座の『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)の五番目(大詰)である。曾我兄弟の仇討ちという建前で赤穂浪士の討入りの趣向を見せた。以降、浄瑠璃・歌舞伎の人気題材となり、討入りから4年後の宝永3年(1706年)には、この事件に題材をとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座で上演されている。そしてその集大成が寛延元年(1748年)8月に上演された二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』である。初演のときには「古今の大入り」、すなわち類を見ないといわれるほどの大入りとなり、同じ年に歌舞伎の演目としても取り入れられている。
『仮名手本忠臣蔵』はのちに独参湯(薬の名前)とも呼ばれ、客が不入りの時でもこれを出せば当たるといわれるほどであった。さらに歌舞伎、浄瑠璃、講談で数多くの作品がつくられ、「忠臣蔵物」と呼ばれるジャンルを形成する。そのような作品のひとつに『仮名手本忠臣蔵』と怪談を組み合わせた鶴屋南北作『東海道四谷怪談』がある。
江戸時代、江戸幕府から同時代に起こった武家社会の事件を文芸や戯曲で取り上げることは禁じられていたので、赤穂事件についても幕府を憚って舞台を別時代とし、登場人物を他の歴史上の人物に仮託していた。近松の作品では『太平記』の時代を舞台とし、登場人物の名として浅野内匠頭を塩冶判官(塩冶高貞)、吉良上野介を高師直に擬し、高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕したことを発端としており、『仮名手本忠臣蔵』でもこれに倣っている。しかし事件を表現していることがわかるように、塩冶の「塩」は赤穂の特産品である「赤穂塩」、高師直の「高」は吉良上野介の役職「高家」とかけられている。太平記に登場しない人物の名も変えられた(大石内蔵助→大星由良助など)。
「忠臣蔵」という題名の由来は、蔵一杯の忠臣という意味や、大石内蔵助の「蔵」にかけているなどとされるが、定かではない。「仮名手本」についても、以下のように色々な説明がなされている。
仮名47文字すなわち四十七士を指す(実際、四十七士の各々の装束に、いろは仮名を一文字ずつ書いた浮世絵も多い)。
いろは歌を七文字毎に区切り一番下の文字を順に読むと「とかなくてしす」、すなわち「咎(とが)無くて死す」であることによる。
幕府の禁止令により登場人物が実名ではなく「仮名」で呼ばれていることから。
明治以降、江戸幕府が滅亡しその憚りがなくなったので、登場人物の名を実名で上演することができるようになった。明治41年から福本日南が忠臣蔵の真相と銘打って、義士録をもとに浪士側に立った『元禄快挙録』を新聞連載して話題となり、近代日本の忠臣蔵観を主導した[1][2]。「忠臣蔵」は人気が高く、昭和9年(1934年)には資料調査をした新歌舞伎『元禄忠臣蔵』(真山青果作)が上演されている。講談、浪曲でも忠臣蔵は人気があり、「赤穂義士伝」と呼ばれ、事件の史実を扱った「本伝」、個々の赤穂四十七士を描いた「義士銘々伝」、周辺のエピソードを扱った「外伝」からなる。
第二次世界大戦後の連合国占領下では、厳しい言論・思想統制が行われた。連合国軍最高司令官総司令部は日本国内での報復運動の高まりを恐れ、「忠臣蔵」を題材とした作品は封建制の道徳観が民主化の妨げになるとし(仇討ちという復讐の物語なので)、当事件を題材とした作品の公演、出版等を一時期禁止したが、昭和22年(1947年)にはその禁も解かれ、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が東京劇場で上演されている。

赤穂義士祭の義士行列
本所の吉良邸襲撃の日は旧暦12月14日(正確には翌日未明)であったが、現在に至るも新暦12月14日が近づくと忠臣蔵のテレビドラマや映画が放映されるなど、その人気は衰えを見せない。多くの映画製作、テレビドラマ化、舞台上演がほぼ毎年行われている。現在では、多くの資料研究の進展を反映させた書籍の出版や実名での作品化がなされるようになり、価値観の多様化と研究考証から、討ち入りに参加しなかった、出来なかった赤穂藩士、討ち入り後に残された義士の遺族や子孫、適役とされる吉良側、当時の江戸幕府の事情など、様々な視点に立って作品化がなされている。
Posted at 2016/12/12 10:16:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「@ねことビールとかっぱえびせん! 酒場」
何シテル?   05/25 16:44
くろまめたろうです。よろしくお願いします。よろしくお願いします

ハイタッチ!drive

みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2016/12 >>

     123
4 56 78910
11 1213 1415 1617
181920 21222324
252627 28293031

ブログカテゴリー

リンク・クリップ

ACE エアロセット/フルエアロ 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2023/09/13 13:53:39
fcl. 【fcl.】 35W HIDキット H4 Hi/Lo 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2019/09/20 16:00:31
D.A.D / GARSON ダストボックスタイプモノグラム エナメルブラック/シルバー 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2019/07/25 10:07:29

過去のブログ

2024年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2019年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2018年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2017年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2016年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2014年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2013年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2006年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation