
この記事は「洲埼灯台」の記録保存用記事です。
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東京湾に臨む洲埼灯台東京湾の歴史
房総半島の先端である洲崎と、三浦半島の奴崎とを結んだ線の北側の海域を広義の東京湾といい、半島に挟まれた海峡は浦賀水道と呼ばれています。東京湾は古代から交通路として、人や物や文化などの交流において重要な役割を担っていました。
『古事記』の日本武尊東征の話に、東京湾を舞台にした神話があります。ヤマトタケルノミコトが相模から上総に渡る際に、「走水の海神」により賞を起こされたので、后のオトタチバナヒメが自らの命に替わって入水すると嵐がおさまったというのです。(1180(治承4)年に、源頼朝が伊豆での挙兵に失敗して安房へ逃れてきたとき、洲崎神社に参拝し、武士の結集を祈願したことは有名な話です。洲崎神社はこの頃、航海の神・祈願成就の神として知られていて、頼朝は厚く信仰しました。鎌倉・室町期を通して、鎌倉と安房は、強いつながりを持つようになり、浦賀水道は鎌倉街道の交通路としても利用され、鎌倉の寺社や北条氏・足利氏などが房総に進出してきました。また戦国期には、後北条氏や里見氏の水軍が東京湾の制海権をめぐって争いました。
江戸期には、東京湾を管轄する浦賀奉行所が置かれ、出没する異国船対策に御台場が建設されました。黒船の来航などを契機に重要な航路には灯台が設置されることになり、日本初の洋式灯台として、三浦半島には観音埼灯台、続いて房総半島の白浜には野島埼灯台が設置されました。
「鏡ヶ浦」と呼ばれている館山湾
北の大房岬と南の洲崎の岬を結んだ内側が館山湾であり、通称「鏡ヶ浦」と呼ばれています。まるい形をしたこの湾が、対岸の富士山を映し出すほど平らに波静かなことから、まるで鏡のようだと名付けられた美称です。

マーガレット岬 岬周辺の自然と環境
太平洋を北上してくる暖流(黒潮)の影響により、この地は温暖な気候です。夜の冷え込みは少なく、強い海風が霜を飛ばすので、露地花栽培には最適な環境です。明治期にヨーロッパから入ったマーガレットは、大正期になって露地栽培に成功し特産品とり、この地一帯は「マーガレット岬」と愛称されたいいます。
マーガレットは「好き」「嫌い」と唱えながら1枚ずつ花びらをちぎり、最後の1枚で恋の行方を占う恋占いの花。花言葉は、「真実の愛」「誠実」「恋占い」など。大切な人と一緒に、真実の愛を願ってみては。
岬の地形と洲埼灯台
房総半島では、巨大地震により海底が隆起して海岸段丘がつくられ、4段の階段状の地形がみられます。元禄16(1703)年の元禄大地震では、半島南端が一気に5~6m隆起したといわれ、眼下に見られる岬の先端部にある海岸段丘は、大正12(1923)年の関東大地震で隆起したもので「大正ベンチ」と呼ばれています。
大正8(1919)年12月に庚申山のうえに設置された洲埼灯台は、東京湾口部にある房総半島のなかで最も西側にある灯台です。灯台の高さは14.8m、海面から灯火まで45.1mで、対岸の三浦半島にある奴埼灯台とともに、東京湾へ出入りする船舶の目印として重要な役割を果たしています。夜にはライトアップされた灯台が輝きます。

歷史散策
『南総里見八犬伝』の舞台であった養老寺
真言宗の寺院で、安房国札観音巡礼の三十番札所です。妖術で人を惑わすとして伊豆大島に流罪になったという修験道の開祖役行者(えんのぎょうじゃ)が、奈良時代の養老元(717)年に創建したと伝えられています。境内の岩肌に掘られた岩窟には役行者の石像が祀られ、海上歩行や空中歩行の神通力があるとされ、足の守護神として岩窟前には履物が奉納されています。
この寺院は曲亭馬琴の長編小説『南総里見八犬伝』の舞台として知られ、小説では伏姫に「仁義礼智忠信孝悌」の八字が浮かぶ数珠を授けた役行者の化身が登場します。
漁業と航海の神を祀る洲崎神社
洲崎の沖合は太平洋と東京湾との分岐点にあたる場所で、昔から海上交通上の難所でした。
洲崎神社は古代安房の開拓伝承をもつ忌部(いんべ)氏の祖神・天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后神を祭神にし、漁業と航海の神として祀っています。御神体は祭神の遺髪で、船の守護神として安全を祈り女性の髪を船に祀る船霊様の風習と共通しています。
また、神社から浜に出たところにある黒っぽい石は、竜宮から洲崎神社に奉納された二つの石のひとつとされ、もうひとつは、三浦半島浦賀の安房口神社に飛んでいったという伝承があります。洲崎神社の石が東京湾を挟んで対になっているという不思議な話です。

洲埼灯台は房総半島南西端に位置し、三浦半島端の知埼灯台と対で東京湾入口をなす要地に建ち、首都圏への安全航行を支えています。高さ約15mの円形平面の形式で、初期の鉄筋コンクリート造灯台として価値が高く、灯塔上端に歯飾り状の装飾を施し付属舎を備えています。内部には、初点灯日が記された銘版や当初の鋳鉄製階段を残しています。
起工は大正8(1919)年5月23日、竣工は同年12月30日で、建築設計並びに現場監督を航路標識管理所技手・斎藤新治郎が務め、総工費3万6,034円57銭を要しました。初点灯日は大正8(1919)年12月15日で、当時の等級及び灯価は第4等閃光紅白交閃、明弧は北8度より西北東南を経て南77度西でした。
洲埼灯台の東に広がる平砂浦海岸は鬼が浦とも称され、東京湾に向かって航行する船舶にとって注意を要する難所でした。洲埼灯台が建てられる前には、野島埼灯台を目標に航行した船が平砂浦海岸の東にある布良崎を洲崎と誤認し、平砂浦海岸を東京湾と間違えて進入して座礁する事故があったといいます。洲埼灯台が建設された後は、このような事故はなくなりました。洲埼灯台は今も東京湾に出入りする船舶の目印として重要な役割を果たしています。
※内部の一般公開はしていませんので、御了承ください。
初点灯日を記した銘版「大正八年十二月十五日」
平成28年3月館山市教育委員会
この記事は以上です。
Posted at 2021/08/21 08:12:42 | |
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