
この記事は「野付半島ネイチャーセンター」の記録保存用記事です。
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野付の先人~加賀伝蔵~
加賀伝蔵は、文化元年(1804)羽後八森村(秋田県八峰町)で生まれ、父徳兵衛・兄鉄蔵にならい、文政元年(1818)に蝦夷地(北海道)へ渡りました。釧路場所で飯炊き・帳場手伝い、仙鳳趾(釧路町)で番屋守、尺別(釧路市音別町)で止宿守などをしました。その間、メンカクシ・ムンケケらのアイヌと親しくなり、アイヌ語を習得しました。天保年間(1830~1840)に根室場所に移り、野付に住み通辞役(アイヌ語通訳)を長年勤めました。その後、万延元年(1860)に標津場所大通辞、文久2年(1862)に支配人として明治の初めまで勤め、明治7年(1874)郷里八森で死去しています。
一生の大半を蝦夷地で過ごし、数多くの古文書を残しています。継立御用文書・申渡書の写、アイヌ語和訳・和文アイヌ語訳・地図、写本など多種多様で、これらは「加賀家文書」と呼ばれています。
この「加賀家文書」からは、別海町や広く根室管内の江戸時代の様子が伺えます。伝蔵の野付半島での様子や、特に、代表的な業績の一つ、野付半島での農耕の試みは、別海町で初めて農耕を行った人物として知られています。
平成10年(1998)に加賀家7代目加賀實留男氏より「加賀家文書」が別海町に寄託され、史料の保存と教育的活用をはかるため、平成12年(2000)7月に加賀家文書館が開館しました。野付通行屋跡遺跡発掘調査資料やマンモスゾウ臼歯化石についても展示公開しておりますので、ぜひ、ご来館下さい。

野付半島の歴史と史跡
日本最大の砂嘴「野付半島」、トドワラ・ナラワラの特異な景観や水と緑と野生鳥獣に象徴される風景は多くの観光客を魅了しています。
しかし、この砂嘴上で古くから人々の生活の営みがあったことはあまり知られていません。」
寛政11年(1799)には、幕府により国後島へ渡る為の要所として、野付崎に通行屋が設けられました。天保年間(1830~1843)頃から、この通行屋で支配人やアイヌ語通辞(通訳)をしていた加賀伝蔵は、当時の様子を古文書史料(「加賀家文書」)として数多く残し、アイヌの人々と協力して農耕も試みていたようです。
19世紀の初め頃は、有数の鯨漁場で春になると根室場所の各番屋から出稼ぎに来る人々で賑わい、漁番屋や蔵などが多数建てられたようです。
この地方に「幻の町キラク」という言い伝えがあります。「野付崎にキラクという歓楽街があり、遊女もいた、鍛冶屋もあった。」など、昔、鯨漁で多くの人々が集まり、漁番屋も多く、野付から国後島に行き来する人々も多く、こうしたことが「幻の町キラク」の伝説を作りあげたように思われます。

1.野付半島沖マンモスゾウ臼歯化石
第四紀更新世(160~1万年前-氷河時代)の日本列島は、しばしば陸続きになり、南や北のルートを通って動物達が大陸から移動してきました。北のルートを通ってきた動物にマンモスゾウがあげられ、気候が寒冷な北緯50度以北のシベリア、アラスカで約7~1万年前まで生息していました。日本では、北海道の夕張市、えりも町、由仁町、根室海峡海底下などで12個の臼歯化石が発見されています。年代測定によると北海道に生息していたのは、約6~4万年前頃で、いずれもウニ、ホタテ漁の際に見つかったものです。別海町郷土資料館所蔵
2.タブ山チャシ跡
野付半島に入る分岐点の南側にある標高20mほどの台地上に、チャシ跡はあります。チャシ跡は、砦・柵囲いを指す16~18世紀頃のアイヌ文化の遺跡です。
タブ山チャシ跡では5基のチャシ跡があり二重に囲まれるもの、堀が連結するものなどがあるのが特徴的です。チャシ跡からは知床半島から野付半島、国後島を一望でき、台地の下には茶志骨川、旧称「チプルー」(舟の道)が流れ、この地域の交通を掌握するような場所にあります。
3.会津藩士の墓(標津町指定文化財)「会津藩は、安政6年(1859)に、ニシベツ(本別海)から紋別まで領地を与えられ、慶応4年(1868)まで開拓と北方警備にあたりました。
この墓は蝦夷地詰を命じられ標津に赴任し、文久年間に命を失った藩士と家族のものです。標津町教育委員会(写真提供)
4.エキタラウス遺跡
北海道大学探検部が調査した昭和38年(1963)には、幅2m、深さ50cm程度の濠が26m×24mの範囲に巡らしてあり、会津藩の陣屋跡と言われています。現在は濠の跡は、残っていません。
5.イドチ岬遺跡(イドチ岬チャシ跡)
内径17mの円形チャシ跡と方形、楕円形の竪穴住居跡7個が確認されています。
イドチ岬遺跡(イドチ岬チャシ跡)実測図(根室自然保護教育研究会)
6.オンニクル遺跡(野付1.2遺跡)
方形、長方形、円形の竪穴住居跡108個が確認されています。
オンニクル遺跡(野付1.2遺跡)実測図(根室自然保護教育研究会)
7.ポンニクル遺跡
先端部の段丘上の草原に、幅1.5m、深さ50cmの溝が不定形に4本あり、木立の中に円形の竪穴2個が確認されています。
先端部より東方へ150m進むと樹林帯が口字形に80m×30mの草原となっていて、円形の竪穴1個確認されています。
さらに、100m東方に同じような広さの草原があり、これらは加賀伝蔵が開いた畑跡と思われますが、確証はありません。
ポンニクル遺跡実測図(根室自然保護教育研究会)
8.ナカシベツ遺跡'標高2mの段丘上と段丘下に小竪穴、カマド状の盛り土、畑の畝跡があります。
大正時代まで使われていた番屋があったといわれており、獲類の破片や茶碗や皿と思われる陶磁器の小破片が採集されています。
ナカシベツ遺跡実測図(標津町教育委員会)

9.通行屋遺跡(野付通行屋跡遺跡)
寛政11年(1799)に幕府により設けられた通行屋跡です。この遺跡は、近年の水位の上昇あるいは地盤沈下によって遺跡が浸食を受け始め、自然崩壊の恐れがあるため遺跡の一部(段丘下)を、別海町教育委員会が平成15~17年度に発掘調査を行っています。
測量調査では、土塁、土坑、溝、道跡、畑跡、貝塚、盛土などが確認され、発掘調査では、建物跡が2棟、柵、塀跡、貝塚などを検出し、陶磁器、金属製品、木製品など約1万4千点の遺物が出土しています。発掘調査を行っていない段丘上には、土坑、溝、道跡、畑跡、盛土、墓石などが残り、墓石群は、西側に3基あり墓碑銘ははっきりと読みとれませんが、会津藩・仙台藩・秋月藩の文字の入ったものもあったようです。東側の墓石は、「嘉永二四年五月廿八日箱館芝田秀三郎墓」とはっきりと読みとれます。この墓石は択捉へ持っていくはずでしたが、船が難破して、ここへ葬られたとの言い伝えがあります。
野付通行屋跡遺跡(1999年10月撮影)
10.荒浜岬遺跡(野付番屋跡遺跡)
江戸時代末期は、岬の先端がノテット島まで続いていて、そこには、漁番屋・蔵などが60軒ほど建ち並んでいました。遺溝は土塁や溝など、建物跡や漁場施設の形態を示すものが確認でき、漁番屋の跡と思われる根杭や掘立杭が残るほか、敷石、かまどの跡、貝塚なども残されています。
採集された遺物は、陶磁器・金属・ガラスなどがあり、江戸時代から大正時代の
荒浜岬遺跡(野付番屋跡遺跡)の範囲と当時の地形
描かれた江戸時代の野付
江戸時代の野付半島を描いたものです。野付通行屋やニシン漁のための番屋が建ち並んでいて、賑わいを感じさせます。

【ラムサール条約とは】正式名称:特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」
ラムサール条約は湿地とそこに生育する動植物(特に水鳥)の保全と継続的な湿地の利用を目的とした条約です。国内登録第1号は釧路湿原(1980年)、野付半島・野付湾は2005年に登録されました。
水辺の鳥は越冬や繁殖など目的に合わせ、世界の湿地を飛び回ります。鳥が集まる湿地にはエサになる水辺の植物や貝類が十分いる、環境の豊かさが大切です。多くの鳥を養える海産資源が豊富な湿地は、人にも利用価値があります。継続して湿地の資源を利用するには、人が自然をどのように利用するかが重要です。獲りすぎれば湿地の恵みは減ってしまう、そうならないように工夫して利用することを「ワイズユース(賢明な利用)」といいます。
【世界と日本の基準】世界の基準は・地域を代表する湿地や希少な湿地・絶滅のおそれのある種に利用されている湿地・地域の生物多様性に重要な動植物を支えている湿地・動植物の生活に重要な湿地。または避難場所となる湿地・定期的に2万羽以上の水鳥が来る湿地・水鳥の1種または1亜種のうち1%以上がくる湿地・湿地を代表する魚が住み、生物多様性に貢献する湿地
日本での基準は「国際基準を1つクリアしている」、「法律で守られている」、「地元が登録に賛成している」の3つです。

【野付半島・野付湾がラムサール条約登録湿地である理由】
1.多様な水生生物が生息エビのように湾曲した内湾には複雑な干潟が形成します。陸と海の境は塩湿地で甲殻類、貝類、魚類、ゴカイ類などの生息地です。
2.広大なアマモ場「野付湾の水深はほとんどの場所で1m未満、最大4mと浅く、アマモという海草(海藻とは別の種類)が生える日本有数の場所です。アマモ場は魚貝類にとって産卵の場、隠れ家となり、水産資源の宝庫です。
3.渡り鳥の飛来春と秋には2万羽以上の渡り鳥が訪れます。キアシシギ・オオハクチョウ・ヒドリガモ・スズガモ・ホオジロガモ・コクガンは個体数の1%がやって来ます。また日本で最初に確認されたアカアシシギの繁殖地でもあります。
複雑な干潟には多種多様な水生生物が生息し、広大なアマモ場は魚介類の隠れ家となります。それにより水辺の生き物を食べる鳥の種類・数が増え、豊かな生態系を作り出しています。たくさんの水辺の小さな生き物と水鳥、それを支える環境(藻場、塩性湿地)があることが、野付半島・野付湾をラムサール条約湿地に登録された理由です。

【野付湾のアマモ~その役割~】
☆アマモとは野付湾には広大なアマモ場があります。アマモとは昆布など(海藻)とは違い、種子で増える海草(種子植物)です。野付湾の約70%(35平方キロメートル)を覆っていると言われるアマモは以下のような重要な役割を持っています。
☆アマモ場のはたらき・一次生産者としての役割(酸素をたくさん生産)・環境に対する大きな作用(富栄養化を防ぐ、水の流れを緩和する、海底を安定させる)・有用魚介類に必要な生息場所(摂餌場所、産卵場所、隠れ場所)
野付半島にある森林から供給される栄養塩類がアマモを育て、そのアマモをオオハクチョウやコクガンなどがエサとして、またホッカイシマエビが住処として利用しています。アマモは枯れると波打ち際に茶色い細長いテープのような状態になって打ち寄せられます。枯れたアマモをめくってみると、ぴょんぴょん飛び跳ねる小さい生きものがいます。これはヒメハマトビムシという甲殻類の一種でこれらがアマモを食べ分解しています。このように、森林、海、植物、生物はひとつのつながりとなって自然は保たれているのです。

【野付湾の漁業】☆ホッカイシマエビ漁初夏(6月~7月)と秋(10月)の野付湾に白い三角帆の舟が浮かびます。これは打瀬舟(うたせぶね)といい、ホッカイシマエビを獲るための舟です。動力を使わず、三角帆に受ける風の力だけで網を引く昔ながらの漁法です。
なぜ動力を使わないのでしょうか?それはこの野付湾が浅く、またアマモという海草がたくさんあるためです。アマモは水鳥たちのエサになっているほか、ホッカイシマエビの住処になっています。もし動力(スクリュー)を使って網を引いてしまうと、アマモを傷つけてしまう恐れがあります。アマモを傷つけることはホッカイシマエビの住処を壊してしまうことになるのです。そのため、野付湾では風の力を利用してゆっくり網を引く漁法を用いているのです。これは「ワイズユース」(賢明な利用)といい、人々がいつまでも自然の恩恵を受けられるよう自然に配慮した利用方法なのです。
☆氷下待ち網漁野付湾が結氷する1月、2月には、結氷した氷に穴を開け、そこに網を通して氷下魚(コマイ)やチカを獲る「氷下待ち網漁」(こおりしたまちあみりょう)が行われます。漁期にはたくさんのオオワシやオジロワシが集まり、漁師さんが捨てる雑魚をお目当てに、氷の上にじっとたたずむワシたちを見ることができます。

野付半島(のつけはんとう)エビが背を丸めたような形とも形容される野付半島は、根室海峡に付き出た全長約26kmの日本最大規模を誇る鉤状の砂嘴です。野付半島は「北海の天の橋立」とも呼ばれ、半島以北の河川から流出した砂礫が海流によって少しずつ堆積し、約3000年前にできたと言われています。
浜にある平たくて丸い石は火山の石が川を流れ溜まったもので、これらは半島以北の地質成分と一致しています。現在でも、半島は砂の堆積や波の浸食により形が変化しています。
砂礫の堆積によって湾内が複雑な地形となり広い干潟や、森林、海岸草原、塩性湿地など、狭い半島の中に様々な環境が作られました。環境に合わせて様々な植物や鳥・虫が野付半島内で生を営んでいます。
植物は300種以上が確認されており、春にはクロユリなどの高山植物を見ることができます。7月から8月にかけてはエゾカンゾウやノハナショウブの群生が見事です。
鳥類は現在まで235種が確認されており、特別天然記念物のタンチョウや天然記念物のコクガン、オジロワシなど、また広大な干潟にシギ・チドリの渡りを見ることができます。
野付半島の「野付」はアイヌ語の「ノッケウ(あご)」からきています。「大きな鯨が流れつき、その下顎が野付半島になった」という伝説がありますが、実際はその形状からついた名前のようです。
トドワラ・ナラワラ
トドワラはトドマツの原っぱという意味で、アイヌ語では「キナチャウス(葦があるところ)」と呼ばれます。100年ほど前はこのあたりはトドマツの森が広がっていました。しかし、地盤沈下による海水の浸食により少しずつトドマツが立ち枯れていき、現在の荒涼としたトドワラができました。海水の浸食で塩性の湿地となったトドワラにはトドマツはもう生育できませんが、代わりに塩性植物(アッケシソウやウミミドリなど)が生育しています。
一方のナラワラはミズナラの原っぱが由来です。ミズナラをはじめとする、広葉樹が優占する森です。トドワラと同様、海水の浸食により、一部に立ち枯れが始まっていますが、まだまだ大きな森が残っています。その森は「オンニクル」「ポンニクル」とアイヌ語の名称で呼ばれており、擦文時代の竪穴住居跡やアイヌ民族のチャシ跡が残っています。※アイヌ語で、オンニクルは「年老いた林・大きな林」、ポンニクルは「若い林・小さな林」という意味です。
地盤沈下と立ち枯れ
野付半島周辺は太平洋プレートがオホーツクプレートの下にもぐりこんでいるため、地面が沈んでいます。沈下の速さは1年間で約1.5cmです(2004年国土地理院調べ)。このままの速さで沈むと120年後には半島が海の下になってしまうかもしれません。
地盤の沈下により、原生林に海水が侵入し、その影響でトドワラ・ナラワラの木々が立ち枯れています。風雨にさらされた木々は風化し、少しずつ波にさらわれ、また少しずつ土に還って、年々その姿を消しつつあります。

野付半島と打瀬舟
北海道遺産 HokkaidoHeritage
解説:
全長26キロメートルの日本最大の砂嘴(さし)。古くから人々の生活も営まれ、擦文時代の竪穴式住居跡も多く見られます。江戸時代には国後へ渡る要所として通行屋が設けられ、北方警備のため武士も駐在しました。トドワラ、ナラワラの特異な景観や、春と秋に野付湾に浮かぶ打瀬舟の風景が多くの人々をひきつけています。
北海シマエビ漁に用いられる打瀬舟は野付湾の風物詩として知られ、霧にかすむ海原にゆらめく舟影は幻想的です。シマエビの住処であり、餌となるアマモを傷つけないために三角帆で風を受ける漁法は明治時代からあったといわれます。
平成14年(2002)に完成したネイチャーセンターを拠点に様々な自然環境の保全と利用に関する活動が行われています。

※自動文字起こしがうまく機能しないので、正式文書は画像を参照下さい。
野付半島は、元禄年間に開設された、キイタップ(霧多布)場所に含まれ、松前藩政下の天明年間には、子モ口(根室)場所のニシン漁場の一つとして開けた。寛政十一年(一七九九年)に駅家が置かれ、国後島への渡海の拠点となる。-松浦武四郎の「知床日誌」によれば、
政五年(一八五八年)には、すでにこの賀屋伝蔵が安半島のヲンネニクル(現オンニクリ)に雑穀、野菜類二十七品を植種、本町「農業発祥の地」でもある。
大正十年九月十八日に、野付半島を訪ずれた文豪大町桂月は「北海道に遊びてここに至らば道の山水の堂に上りたりというべ昭和三十七年十二月に一付風蓮道立自然公園」に指定され、その雄大な自然豊富な植物、他に類のない鳥類の飛来は、人々の感と絶賛。
脚光をあびらの中に残されこう永月の突光十五らのクく二中端を々島のり八残のび感物半一語土に部あのめを名伝日さ近※中残え箱れ、じりら館ず固っ六はこ来尾も今あかまげ六にとぶ野はるら日で十漁
の半異わのな十に本藤沼付い。本に六年動するところとなり、全国にることとなった。近くには、幕末の墓石が草むされ、その一基は「嘉永二館芝田秀三郎墓」と読めれている、幻の集落「りをとどめる。
心としたサケ漁などの沿岸漁業は、めざましい発展をとげ、昭和年には、一万六、七二三トンを水揚六億六、ニ三七万円を取り扱うった。
有の領土たる国後島は、ここか十六キロメートルの位置に異郷の島が指呼の対岸に望めるの島ならではのこと。
開基百年に当り、野付半島の由と歴史の一端を後生に伝えるため、ここに本碑を建立する。昭和六十一年十一月三日「野付半島」の碑、建立期成会
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