FUJI SPEEDWAY

富士スピードウェイ
所在地
日本 静岡県 駿東郡 小山町
運営会社
富士スピードウェイ株式会社
富士スピードウェイ(ふじスピードウェイ、Fuji International Speedway 、)は、静岡県駿東郡小山町にあるサーキットである。略称は「FSW」。かつては運営会社の「富士スピードウェイ株式会社」の英文社名“Fuji International Speedway Co.,Ltd”にちなみ FISCO と表記されていたこともある。2000年よりトヨタ自動車の傘下に入る。
歴史
オープンまでのいきさつ
富士スピードウェイ建設は、丸紅副社長森長英から河野一郎(建設大臣)に話があった。その頃河野は名神高速道路の建設を担っており、長時間高速走行可能な国産車を開発する必要があり、また自動車の輸入自由化のこともあり、外車の性能と比較しても遜色ない国産車を開発するには、サーキットの存在は大きな意味があった[1]。鈴鹿サーキットはホンダのサーキットであるし、また、当時は二輪レース用のサーキットと思われており、四輪レースにも十分な幅員を持つサーキットが望まれていた。
富士スピードウェイの建設用地は99年間の借地権によるものである。建設費用は借入金によるところが大きいが、河野が逝去したため、日本ナスカー(株)副社長河野洋平は建設資金集めのために銀行や企業回りをし、非常に苦労する。
富士スピードウェイ株式会社の前身「日本ナスカー株式会社」は1963年(昭和38年)に設立。その名の通り日本国内におけるNASCAR形式のレース開催を目的として設立され、翌1964年(昭和39年)1月にはNASCARとの間で日本及び極東地域におけるNASCAR形式レースの独占開催権に関する契約を締結。同年6月にはサーキット候補地として静岡県駿東郡小山町大御神の150万坪の土地を選定し地権者らとの契約にこぎつける。当初はヨーロッパ式のロードコースでは無く、アメリカ式のオーバルコースを予定していた。
しかし、その後本格的にサーキットの設計が始まると、日本ナスカー株式会社の招聘によって現地視察に来訪したスターリング・モスが「こんな地形でオーバルコースを作るとはナンセンスも甚だしい」と指摘した通り、山麓の傾斜地である地形の関係からNASCARレースの開催に必要なオーバルコースの建設が困難なことが判明したため、翌1965年(昭和40年)にはNASCARとの間の開催権契約を白紙還元することで合意。改めてロードコースとしてサーキットを建設することとなり、社名を現在の「富士スピードウェイ株式会社」に改める。その後同年10月には三菱地所が同社に出資、実質的な経営権を握ることになる。
河野洋平によると、コース設計には様々な案があり、結局日本のレースにも適した現在のコースに決まり、建設を開始したという。河野洋平のアメリカ視察は建設開始後であった。また、NASCARの契約料は高額で、河野たちは不満を持っていたし、NASCARの経営方式が日本で通用するとも思っていなかったので、NASCARとの契約をやめることにしたという。そして会社名も富士スピードウェイ(株)と変わる。それからサーキットの愛称について河野らは考えたが、呼びやすい愛称ということで、正式社名にはない「インターナショナル」を入れて「フジ・インターナショナル・スピードウェイ・カンパニー(Fuji International Speedway COmpany)」とする。当初、富士スピードウェイの経営には三菱地所は関わっておらず、丸紅、毎日新聞社、富士急行が関わっていた。三菱地所が行動を起こすのは河野一郎の逝去後である。三菱地所は富士スピードウェイに隣接する土地を所有しており、そこで霊園経営を行っていた。三菱地所社長渡辺武治郎は特に富士スピードウェイの借地内にあるゴルフ場に関心を持っていた。富士スピードウェイ社長鈴木九平と渡辺との間で交渉がまとまり、また河野洋平も亡き父・河野一郎の後を継いで政界に入って富士スピードウェイを退職し、以後は三菱地所に経営を託すことになる。
オープン
高度成長期真っ只中の1966年(昭和41年)1月3日にオープン。最初のレースイベントは3月12日に開催された、アマチュアライダーによる2輪レースである第7回全日本モーターサイクルクラブマンレースだった。この時、まだ一部の観客席が建設中であったにもかかわらず、1万人の観客を集めた。
1960年代には当時スポーツカーで争われた日本グランプリが開催されるなど、船橋サーキット・筑波サーキットと並んで首都圏周辺におけるモータースポーツの中心的な場所となる。
30度バンク
富士スピードウェイの大きな特徴として、30度のカントがついたバンクコーナーがあった。これは前述の通り、元々同サーキットがオーバルコースとして計画されたことの名残と言われている。オーバルコースではコーナーでの減速を極力減らすため、コーナーにバンクを付けるのが普通である。
当時、国内でこのような急角度の路面舗装を経験した業者はひとつもなく、依頼された日本鋪道(現・NIPPO)は、ロードローラーをバンクの上からワイヤーで引っ張るという方法できり抜けた。
しかし、もともと経験不足を起因とする勾配の設計が良くない上に、後に「馬の背」と呼ばれることになるこぶ状のうねりもあった。カントのついたオーバルコースで争われるオートレースの世界から転進した田中健二郎曰く、「完成当初にコース管理者に『基礎に杭を打ち込んだか?』と尋ねたら、『打ち込んでない』と言われ『こりゃ駄目だ』と思った」そうである。そのため、オープン当初から重大事故が多発し、1974年(昭和49年)の富士グランチャンピオンレース(富士GC)第2戦中に起きた風戸裕・鈴木誠一両選手が死亡する大事故を契機に使用が中止された。
バンクが起因となった死亡事故には、開業年に発生した永井賢一死亡事故や、1973年(昭和48年)の富士GC最終戦の中野雅晴死亡事故がある。この死亡事故は、二重に設置される筈のガードレールが一枚しかなかった設置ミスと、ステアリングミスが重なったものだった。
なお、バンクが使われていた当時、1966年(昭和41年)の日本インディ200マイル、1972年(昭和47年)と1973年(昭和48年)の日本グランプリなど、バンクを通らないショートコースレイアウトを使用する際に、左回りでレースが行われる場合があった。しかしバンクの使用中止に伴い、以後のレースは全て右回りで行われる形に改められている。ただし、ファン感謝デーや全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)、自転車のロードレースなど、自動車レース以外のイベントで本コースが使われる場合には、現在でも左回りで周回することがある。なお「グランツーリスモ4」ではコースの一部が省略されている。
旧コース時代の末期にイベントの一環として、体験走行会が何度か行われている。現在は一部の路面がモニュメントとして遺されたメモリアルパークとなっている。
F1開催と中断
1976年(昭和51年)にはF1日本初開催となるF1世界選手権イン・ジャパン、1977年(昭和52年)には正式に日本グランプリの名を冠して第2回大会を開催した。
1977年(昭和52年)はロニー・ピーターソン(ティレル)とジル・ヴィルヌーヴ(フェラーリ)が第1コーナーでクラッシュ。このクラッシュでヴィルヌーヴのマシンが宙を舞い、立ち入り禁止区域にいたカメラマンとそれを排除しようとしていた警備員に激突、あわせて2名が死亡する事故が起きた。この事故の衝撃や、当時暴走族の傍若無人なふるまいが大きな話題となっていたことなどがあり、「モータースポーツは危険」という認識が広がってしまった。以来富士でのF1は開催されなくなり、1987年(昭和62年)に鈴鹿サーキットで開催されるようになるまで、F1の日本開催は中断することとなった。
廃止の危機
1979年(昭和54年)7月、社団法人御殿場市青年会議所(御殿場JC)が富士スピードウェイの廃止を県に陳情したことがきっかけとなり、経営権を持ち大半の土地を所有する三菱地所によって、1980年代前半にサーキットの廃止とゴルフ場などを中心にしたレジャーランドへの転用が検討された。
この陳情の背景には、当時の富士スピードウェイの屋台骨を支えていた富士グランチャンピオンレース(富士GC)の観戦を目的とした暴走族が、サーキット周辺で集会や暴走行為などを繰り返すことにより周辺環境が悪化するという問題や、1983年(昭和58年)に再び富士GCで起きた高橋徹の死亡事故があった。また、当時の世間におけるモータースポーツの認知度の低さから、「モータースポーツ自体暴走行為を助長するものであり、好ましいものではない」との意見も一部には見られた。しかしながら、一方で当時建設業に携わっていた者が陳情の中心にあったという説もあり、争議の後半においては陳情側がトーンダウンした状況が見られた。
これに対し1980年(昭和55年)には、モータースポーツ界を代表する形で「日本モータースポーツ振興会」が設立され廃止反対運動を開始。1985年(昭和60年)には「FISCO廃止問題連絡協議会」と改名し、サーキット廃止に反対する地権者達で構成される「富士スピードウェイ協力会」とタッグを組む形で反対運動を展開した。反対運動の中、高橋国光他レーシングドライバーやジャーナリスト、サーキット地権者等が都内でFISCO廃止反対を訴えるデモ行進を行い、その後公開シンポジウムを開いたこともある。漫画家のしげの秀一は『バリバリ伝説』(『週刊少年マガジン』)のタイトル頁で、主人公巨摩郡が「FISCOなくなったら困るぜ!みんなで反対しよう!」と呼びかける形で反対運動に賛同した。また1983年(昭和58年)11月には最終コーナー前にシケイン(通称「Bコーナー」)が設けられるなど、速度抑制・安全性向上のためのコース改修も並行して行われ、存続決定後の1987年(昭和62年)8月にも第1コーナー立ち上がり後の左カーブが鋭角化されている(通称「Aコーナー」)。
1986年(昭和61年)には三菱地所がスピードウェイのある小山町長に対し調停を申し立てたが、同年7月30日「この件は白紙に戻す」という町長裁定が下り、正式にサーキットの存続が決定した。
バブル景気到来
その後日本経済はバブル景気に突入、同時に中嶋悟のF1フル参戦とホンダのF1での活躍による未曾有のモータースポーツブームが訪れた。富士スピードウェイも1989年(平成元年)一杯で富士GCが廃止されたものの、世界耐久選手権(WEC)日本ラウンド(WEC-JAPAN)の開催や全日本F3000選手権、インターTEC等の開催で再び賑わいを見せることになる。その後1990年代中盤にはピット・パドックエリアが改修され近代的な設備が整った。
リニューアル・オープン
メインスタンド
1990年代にピット棟やコントロールタワーなどが改修されたとはいえ、施設の全体的な老朽化は否めず、1997年(平成9年)の横山崇と光貞秀俊、1998年(平成10年)の太田哲也、2002年(平成14年)の道上龍の大事故にも繋がるソフト、ハード両面の旧態化が進行し、FIAの基準を満たしていない施設が幾つも存在していたなど安全性の面でも懸念が高まっていた。そこで2000年(平成12年)、トヨタ自動車が三菱地所から同社株式を買収して正式に傘下に収め、2003年(平成15年)9月から営業を停止して改修工事を開始、2005年(平成17年)4月10日にリニューアルオープンした。新コースはセパンサーキット(マレーシア)や上海インターナショナルサーキット(中華人民共和国)など、1990年代後半から2000年代にかけて新規にF1を開催しているサーキットのほとんどでそのデザインを担当しているヘルマン・ティルケの手によるものである。この改修工事の際、従来使用していたコントロールタワー以外の殆どの施設が解体撤去されている。コントロールタワーはその後改修して継続使用している。
旧コースの特徴の一つだった約1.5kmの直線は残されつつ、コースが現代的に改良された。大きな変更点としては、旧コースでは最終コーナーから直線にスムーズにつながっていた部分が、新コースでは急勾配のつづら折れとなって入り組んだ複合コーナーの連続に直されており、難易度が増している。ドライバー側はコーナーのイン側が見通しが悪い事が指摘されており、スピンしたマシンに後続車が接触する事故も見られる。この他、ピットロード出口が以前と比べ1コーナー寄りに改められ、ピットアウト時のスピードを下げる工夫がなされている。
また、ランオフエリアはほとんどが舗装され、安全性が向上した上、コース脇には緊急車両用の通路が設けられた。これらの改修により同サーキットはF1開催に必要な資格のグレード1を取得した。しかしその一方で、安全対策を強化した結果、コースサイドから走行するマシンが見づらくなった事を指摘する声も観客の中から挙がっている。
メインスタンド、レストラン、駐車場、トイレなど観客が利用する施設の質的向上も旧来に比べ著しい。グランドスタンドの座席は一席ずつ区切られ、ドリンクホルダーが設けられるなど、観客が快適にレースを楽しめるような工夫が凝らされている。パドックとグランドスタンドを結ぶ通路も新たに広く、開放的な通路が設けられ、上り専用のエスカレーターも設置された。 しかし、時間走行権や占有使用料などをはじめとする料金の設定が、(設備の質を鑑みても)割高だという声も多い。また改修後に安全対策を強化し、フェンスとランオフエリアを拡大したため、コースサイドからマシンを見づらくなったという声も、来場者や取材関係者の中から上がっている。
敷地内にトヨタの交通安全センター「モビリタ」も設立。本コースの他にドリフトコース、ジムカーナコース、ショートサーキット、カートコースを建設。レクサス販売のための研修施設であるレクサスカレッジを設立。モビリタを含む各エリアは、レース他自動車イベント以外に様々なイベントの会場としても供用される。またレース他イベントが開催されない際には、駐車場をトヨタ自動車のモータープールとしても使用していることがある。
リニューアル後、F1開催決定に先立ち、ピット棟の裏にホスピタリティ棟が設置された他、当初は屋根が無かったピット棟屋上のバルコニーにも屋根が設置される追加工事が実施されている。
F1グランプリの復活
1987年(昭和62年)から鈴鹿サーキットで行われていたF1日本グランプリの契約が2006年(平成18年)シーズンで終了だったことから、富士スピードウェイはそれ以降の日本グランプリの誘致を決定し、FOA(フォーミュラ・ワン・アドミニストレーション)との交渉の末、2007年の開催を決定した。トヨタ自動車の岡本副社長は2006年10月、国際自動車連盟(FIA)との契約期間が5年間であると述べたが[7]、富士スピードウェイ社長・加藤裕明は2007年9月、「岡本副社長が勘違いしていた。契約の年限は決まっていない」と、契約期限が設けられていないことを明かした。
ここで鈴鹿サーキットも2008年以降の開催を希望したことから、FIAは2007年9月、2008年は富士での開催とし、以降は鈴鹿と富士が隔年で交互に開催することを発表するに至った。ホンダは2008年12月、F1からの撤退を発表したが、2009年のF1グランプリに関しては予定通り鈴鹿で開催するとした。
2007年 日本グランプリ
2007年(平成19年)9月28日から30日まで開催された。30年振りのF1グランプリ開催に期待が大きかったものの、運営体制の不備が露呈する結果となった。海外メディアには「観客にとって史上最悪のF1グランプリ」と称されている(国内メディアでは報道されていない)。
観客送迎
2007/9/29の東バス乗り場
自家用車等での来場は禁止され、会場へのアクセスはシャトルバスに限定、観戦チケットとバスの乗車券がセットで販売された(チケット&ライド方式)。しかし、観客の足をシャトルバスに限定したにもかかわらず、バスそのものの渋滞や、舗装の陥没、誘導する人員の絶対数不足などにより、慢性的なバスの不着や遅延が発生した。特に帰路では、雨の中を長時間、バス乗り場で足止めさせられた観客が数万人にも及んだことから(公式発表では2万人だが、計測方法は不明)、大きな問題となった。 F1開催に向け、バスを通すために設備されたはずの道は一車線分の幅しかなく、道路の両脇には高い縁石が設置されており、エスケープゾーンも設置されていなかったため、片方のバスが通るためにはもう片方のバスの通行を待たなければならないなど、非常に問題のある設備であった。
設備
バリアフリー化などが図られた一方、トイレや救護施設等の不足や不備が指摘された。特にトイレの不足は深刻で、トイレに入るまで数時間を要するような状況が続いたため、止む無く衆目監視の中、野外で排泄をする者が大勢現れるという事態となり(これによって精神的な苦痛を与えられたという声も多く寄せられている)、雨という天候もあって歩行者の足元に汚物が流れ出すなど、周辺は極めて不衛生な状態となった。 更に救護施設等は、たくさんの人間が外に溢れていたにもかかわらず、定時で閉め切られた。
また、一部のスタンド席では傾斜の不足から、期待された観戦が出来ないという設計上の問題が発覚、指定席料金の一部払い戻しが行われた。払い戻し額は1枚あたり5万円、総額は3億5000万円ともいわれる。
しかし、誰が、いつ、どのように返金をされたのかについては、一切不明である。
開催セレモニー
河村隆一による国歌斉唱中、トヨタチームが車両のエンジンを二台とも始動させ、爆音を響かせて国歌斉唱の邪魔をした。
ドライバーやチームの応援フラッグや横断幕の掲示が禁止されたが、その告知は徹底されていなかった。これに対しては、評論家等からも批判が出た。 熱心なファン達の持ち込んだフラッグなどは、その場で没収される事態となった。にもかかわらず、トヨタのものだけは堂々と掲げられていた。これは、富士スピードウェイの経営母体がトヨタ自動車であることと無関係ではないだろう。
訴訟
これら諸問題については、「被害者の会」が設立されたほか、翌2008年5月には一部の観客が富士スピードウェイを提訴することを決定、翌6月にはうち109人が、チケット代全額や慰謝料など総額約3200万円の損害賠償を求める共同訴訟を東京地方裁判所に申し立てた。これに対して富士スピードウェイは、「想定を超える悪天候に見舞われた特殊事情である」として、請求の棄却を求めた。だが、「百年に一度の大雨」というのならともかく、現実にはこの時期の富士スピードウェイで通常見られる程度の雨量でしかない。
なお、2010年11月23日現在、被告側の主張により、裁判は進展していない。
2008年 日本グランプリ
2008年(平成20年)10月10日から12日まで開催された。施設は第1コーナー仮設スタンドが改修され、コースの視界が確保された。また、シャトルバスの運行は、会場内や周辺にバスを待機させる「留め置き方式」が採用されたことから、前年ほどの混乱はみられなかった。前年度の開催に懲りて観客が減ったことも逆に幸いした。
再度の撤退
2009年(平成21年)7月、「トヨタは2010年以降の富士スピードウェイでのF1日本GPの開催を行わない」との方針が報じられ、同月7日に正式発表された。トヨタ自動車はその理由として、不況等に伴う経営環境の悪化をあげたほか、記者会見では他に「SUPER GTやフォーミュラ・ニッポンも含め、国内のレース観戦客数が激減している」「看板スポンサーも減少している」ことを理由に挙げた。
この発表により、一時2010年以降のF1日本GPの開催継続が危ぶまれたが、2009年8月に鈴鹿サーキットを運営するモビリティランドとFOAの間で2010年の日本GPを鈴鹿で開催する契約が結ばれ、結局日本GPは2009年以降鈴鹿で継続開催されている。
コースレイアウト
鈴鹿サーキット同様、長い歴史の中で幾度とコースレイアウト変更が行われている。
30度バンク時代
ホームストレートは現在よりも長く、1700m近くあった。ストレートから全開のまま、30度バンクに突入。ぐるりと半円を描き、バンクを通過すると右、左と大きく旋回するS字コーナーを抜けて、現在の2コーナー出口に位置していた合流地点へ。左の超高速コーナー、250Rを通過して右の100Rへ。フルブレーキでヘアピンを抜け、300Rから最終コーナーまでの長い全開区間からホームストレートへ戻り1周となる。1周は6kmであり、当時の鈴鹿サーキット(6.004km)とほぼ同距離。フルブレーキポイントはヘアピンのみという超高速サーキットであった。
現在の1コーナー部分からのショートカットコースも存在し、主に逆回りとして利用されていた事もある。
30度バンク廃止後
1974年に30度バンクが廃止され、前述のショートカットコースをメインとしたレイアウトとなる。ホームストレートは約1500mに短縮され、1コーナーは鋭角なヘアピンとなる。それ以外は前述と同じレイアウトである。バンクは無くなったとはいえ、超高速コースである事には変わりない。1周は4.359km。1976年と1977年のF1もこのコースが使われた。
ダンロップシケイン設置
1983年に高橋徹が最終コーナーでクラッシュする死亡事故が発生。観客にも死者が出てしまった事もあり、翌1984年に300Rから最終コーナーの超高速区間の速度抑制、最終コーナー進入速度の低下を目的とし、300R出口と最終コーナー入り口の間にある丘を削る形で右、左、右と大きく切り返すシケインが設置された。シケイン脇のウォール部分にダンロップの広告が設置され、ダンロップシケインと呼ばれる。
サントリーシケイン設置
1987年には100R手前の左250Rの超高速コーナーにシケインが設置される。コーナーを直進し、フルブレーキで左、右と切り返す形となった。これにより100Rは大きく狐を描くように右に回り込む形となり、難易度は大幅に増す事になる。サントリーがスポンサーとなり、1990年代以降は缶コーヒー「BOSS」の大看板が設置される。このシケインをAコーナー、ダンロップシケインをBコーナーとする簡略化した名称も一般的に使われるようになった。この改修により、1周は4.4kmとなり、2003年までこのコースは使われる事になる。
なお、この時に1コーナーからバンクへと続く路面は剥がされ、ダートのランオフエリアとなった。
現レイアウト
2005年から使われている現在のレイアウトは、1475mのホームストレートは生かし、終盤までは超高速レイアウト。終盤は中速コーナーが連続するテクニカルセクションを織り交ぜた高速テクニカルコースとなった。
長い直線から最大のオーバーテイクポイントとなる1コーナーは、旧レイアウトよりも鋭角なヘアピンとなった。2コーナーからの坂はなだらかになり、3コーナーへ。サントリーシケインは廃止され、ブラインドの高速左90度コーナー(コカコーラ・コーナー)となった。100Rはランオフ確保のため、旧レイアウトよりも手前に置かれ、大きな狐を描く高速右コーナーで、旧コースよりもカーブが緩くなり通過速度は高くなる。ヘアピンも若干手前に変更され、100R出口からヘアピン入り口の距離は縮み、ブレーキングが非常に難しくなった。
ヘアピンを抜けると右の超高速コーナー300Rへ入り、全開のままダンロップシケインへ入る。新しいダンロップシケインはフルブレーキから右に大きく切り返し、すぐに左に切り返す形となり、旧コースに比べて通過速度は下がっている。一気に坂を上りながらテクニカルセクションへ、ブラインドでラインが複数ある難易度の高いつづら折りのコーナーが3つ連続で続く。最終コーナーはラインが複数あり、インベタで回るドライバーもいれば、外を回るドライバーもおり、ここの脱出がストレートの速度に影響するため、非常に難しいコーナーとされている。
1周の距離は4.563km。コーナー数は16に変更された。ピットレーン入り口はホームストレートの中間にあるため、ピットに入る速度を大きく抑制するためにシケイン状のコーナーになっている。このピット入り口のシケインを上手く通過する事でピットのロスも減らせる形になっている。
特徴
立地
標高545-580mにあり、天候が不安定であることで知られる。夕方以降には気温が急激に下がることも多い。また、気圧が低い関係からターボチャージャー搭載車が有利となり得るため、一時期のSUPER GTでは自然吸気車にハンデが与えられたこともあった。霧の発生も多く、緊急時用のドクターヘリの飛行が困難になることもある。
これら霧の発生や降雨による、レースの中止やスタートの遅延などの事例もあるが、悪天候時における事故の発生したレースには次のようなものがある。
1976年(昭和51年) - F1世界選手権イン・ジャパン
1985年(昭和60年) - 世界耐久選手権(WEC-JAPAN)
1998年(平成10年)5月 - 全日本GT選手権・第2戦 → 太田哲也#悲劇の事故
2006年(平成18年)4月 - フォーミュラ・ニッポン第1戦[34]
2008年(平成20年)9月 - フォーミュラ・ニッポン第7戦
アクセス
観客は自家用車で来場し、敷地内の駐車場に駐車するのが一般的であるが、元々近傍にある東名高速道路は非常に交通量が多い上、休日ともなると御殿場プレミアム・アウトレットに向かう買物客がこれに加わること、またサーキット周辺の一般道で幹線道路は国道246号と国道138号(御殿場バイパス)ぐらいで抜け道も少なく、抜け道自体が片側一車線の市道であることから、レース開催時には御殿場インターチェンジやぐみ沢交差点付近での渋滞が発生しがちである。
自家用車以外でのアクセスは御殿場駅からの路線バスがあるが、大きなレースの際には御殿場からの臨時バスのほか、他駅からもシャトルバスが運転される。前述したように、コース周辺での渋滞問題を考慮した結果、2007年・2008年のF1日本グランプリ開催時にはシャトルバスによるアクセスに来場手段を限定したこともある(この際は自家用車での来場はおろか、徒歩での入場すら(近隣住民であっても)禁止された)。
2012年(平成24年)には、新東名高速道路の御殿場ジャンクション以西が一部開通したため、交通事情の改善が期待される。
FSW行きシャトルバスが終了してもバスでのアクセスはできる。
御殿場駅から富士霊園行き乗車、富士霊園入り口下車、西ゲートまで徒歩
※2011年3月現在、2010年の台風による被害によって周辺道路に甚大な被害が及び、通行止めとなった道路が随所に発生したため、西ゲートが一時的に閉鎖された状態となっており、来場者はすべて南側メインゲートから来場することが指示されている。
場内設備
レース開催日には場内限定のミニFM局が運用され、場内実況を手持ちのラジオで聞くことができる。また、総務省創設による「ホワイトスペース特区」に認定されており、空き電波帯域を使用した場内ワンセグ放送の実験を2011年11月の富士スプリントカップで実施、2012年4月には総務省から実験試験局に対する放送免許が付与され、2012年5月のSUPER GTからワンセグのほか、場内に設置されたデジタルサイネージへのフルセグ放送の実験も行われる。これにより大型ビジョンで放送していた映像・音声が手持ちのワンセグ対応端末やサーキット内のデジタルサイネージで視聴することが可能となる。
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