
昨年の12月に行ってきた、群馬県太田市にある金山城を、写真を使ってご紹介したいと思います。いやぁ~時間が経っちゃって、実は市のボランティアの人の話がうろ覚えだったり(^_^;)
全体図

赤い部分は自分で書き込んでます。
金山城は戦国時代にあった城で、この一帯を治めていた新田一族の岩松氏の城です。
戦国時代はマイナー武将に甘んじている新田一族の岩松氏ですが、その前の室町時代(だいたい戦国より200年くらい前)では、この新田氏の一人である新田義貞と足利尊氏が、それぞれ別の天皇を立てて争いました。いわゆる南北朝時代ですね。
ただ新田義貞と言う人は、新田氏の中でもかなぁ~り末端の人だったので、衆寡敵せず、善戦もむなしく足利一族に敗北します。義貞って鎌倉幕府滅ぼしたんですがねぇ・・・。
結果として関東一帯の支配者だった足利氏に、喧嘩を売ったら地元じゃ生きていけなくなるのは必然。早々に足利側に着いていたほかの新田氏はともかく、義貞直系は北関東では身を隠してひっそりと生きていくことになったそうです。いやもうね、これがつい最近までの話らしいですよ。案内してくれたボランティアさんが言ってました。
新田義貞は室町時代では逆賊扱いだったんですが、面白いことに明治時代では逆に天皇を助けた忠義の士として評価されてます。
そしてその新田氏の治めた金山城はどういう目的の城かというと、ずばり北関東の橋頭堡です。越後・東北への玄関口であり、逆から見れば前線基地であり、補給拠点でした。昔はこの辺はかなり農業生産力が高かったようです。
話はそれますが、この辺は古墳が多く見つかります。それも副葬品がかなり立派な物、それこそ近畿地方の中央権力に近い位置にある古墳と同レベルのものが出土するそうです。つまり昔から中央の権力が及んだ=重要拠点だったということらしいですね。
そういうわけで誰もがこの土地を欲しがったので、ヤバい時だと武田に上杉に北条に佐竹に囲まれてました。ちなみに武田の先方は、あの真田信繁の親父の真田昌幸というから、ヤバさのほどがうかがえます。光栄三国志でいうと、陶謙シナリオを太史慈(一発変換したよ)抜きでやるようなものでしょうか。
最後は北条に降伏するんですが、それでも100年以上も難攻不落でした。
正面入り口

ここからだと良くわかりませんが、通路に沿って峰を生かした土塁があります。
土塁

これ、どっちも両側は切り立った崖になってます。当時ははげ山に近かったらしいので、登るのはかなり難しかったでしょう。
駐車場展望台からの眺め

ご覧の通りのかなりの標高です。麓には立派な寺があり門前通りになっていますが、整備されたのは戦国より後で、当時は家臣団も山城の方に居住していたと考えられています。
城についてざっくりいうと、この城は駐車場のある場所を起点に東西に細長く伸びていて、峰と峰をつないで防衛線を形成しています。この防衛線の名残が土塁なのですが、堀や通路にも工夫が凝らしてあります。
空堀
馬場通路
上の二つは堀と通路ですが、どちらも石畳になっていますね。普通は水の少ない山城でも、侵入を防ぐ堀は、歩きにくくするため杭などが打ち付けてあります。それなのに通路と同じく歩きやすくされている。中世~戦国期の城で石畳が敷いてあるのは極めて珍しいそうです。
これは防衛側の兵が移動しやすいようになっていたと考えられています。つまり地形を生かして、機動力のある防衛態勢を取ることが可能だったのではないか?
さらに全体の中央部に位置する物見台。
物見台

出城と物見台が各所にあり、ここからは関東平野を一望することができます。
物見台から

ここからは赤城山が見えます。
話がそれますが、上杉謙信が攻めてくるときは農村の余剰人員を連れてきて、冬場に捨てて帰っていったそうです。さすが戦争キ〇ガイの謙信はやることが違いますねぇ~。えげつないぜ。んで、実はこの辺にはそのまま定住した越後の人が残っているそうで、わりと住民性が違うらしいですよ。ウソかホントかは分かりませんが、案内の人がゆーてました。
おっと城の話でした。この城の泣き所は細長いせいで、南側が死角になっていることです。というわけで南には出城が築かれました。
見附出丸
ここからなら死角なし。

上杉謙信はよくここから攻めていたようです。
さて、物見台すぐ下は虎口で、その先には兵士や馬の駐屯所があります。
虎口

虎口っていうのは城の出入り口です。攻め手はまずここを目指すので防御も堅い、まさに虎の口というわけですね。(もともとは小口と書いたとも言われています)
虎口は食い違いにしたり二重構造にして、守り手側が攻撃しやすい作りになっていますが、こちらも微妙に通路の中心線から外れていて見通しが悪く、両側は崖になっています。物見台側の高台からの攻撃も容易でしょうね。
虎口の先はかなり広々としています。おそらく、ここまで攻められることなんてまずなかったでしょうね。
月ノ池

虎口から先は緩やかな上り坂で、途中には月ノ池という小さなため池があります。
大手虎口

この城の最終防衛ラインです。ここはかなりの迫力です!!
分かりやすく左手側からの俯瞰。

上手側が圧倒的に有利な位置関係が見えます。
日ノ池

この城の目玉であるもう一つの池です。直径は約15m。間近で見るとかなり大きく、驚いたことにここは湧水が出てます!それもかなり山の上なのに!
水源か高い所でも確保できていた、とうのも難攻不落の要因なんでしょう。前も書いた通り、日本の山城で水源が今も生きているのは「金山城」と佐野の「唐沢山城」、そして上杉謙信の居城「春日山城」だけです。(富山の山城でも生きてたかも)
しかもこの池からは平安時代の遺物が出るそうです。戦国時代でも戦勝祈願や雨乞いの行事が行われていたらしいので、城が出来る前から、宗教的な行事の場として神聖視されていたのではないかと推測されています。
また話がそれますが、この辺の古墳は頭が必ず赤城山を向いているそうです。信仰の中心に赤城山があったことから、この日ノ池も何かしら関係しているのでは?なんて想像もできますね。
水路

通路にはかなり深い水路があります。これは石垣を劣化させる雨による土壌の流失を防ぐ目的があったと考えられています。ため池が日と月の二段構えなのも、水利施設への工夫が見えますね。
南曲輪

大手虎口の右手高台が南の城郭で、かなり広いスペースがあり、多くの兵士が駐屯していたとみられます。実は山頂に神社があるので、この道を登っていくのが一番楽。でも下りより、登りながら見ていく方が攻め手の気分が味わえて良いですよ。
新田神社

金山城の実城(みじょう、城主のいる中心部分)と言われる部分は、新田氏ゆかりの新田神社があります。

クスノキかケヤキでしょうか。とても大きな古木がありました。
現在天守閣に当たる部分は何もありませんが、石垣と日ノ池だけでもお腹いっぱい、戦国の山城が満喫できる見事な城だったと思います。
個人的な意見ですが、ただ守るだけでなく機動的に敵を迎え撃つことも主眼に置かれているような印象を受けました。こういう城は新田氏よりも、同じ南北朝時代を戦った楠木正成が好きそうな気がしますが、無名に近い小戦国大名の城としては、かなり驚かされましたね。
ところでこの城は北条に降伏した後、最終的に廃城になりました。ですがこの地域は徳川の直轄領になったので、江戸時代でも変わらぬ重要拠点だったのでしょう。
なんて質問を案内の人にしてみたら意外な答えが聞けました。家康って新田氏系列の清和源氏を名乗ってるんですが、天領にしたのもその箔付けらしいですよ。
あと最初にちょこっと名前が出た城主の岩松さん。この人は結局部下に下剋上されます。しかもその後、家康に新田一族の家系図の供出を命じられるも拒否。そのせいで江戸時代はずっと冷や飯食いでした。いやぁ権力者って偉くなり過ぎると、本当にろくな事しないですね・・・。
三国志の劉備も、他人の国を騙して乗っ取ったとき(入蜀のこと)、祝いの酒盛りを開いたら部下に「こんな仁義に背くことして酒盛りなんざぁ、たいした聖人君子さまだな、えぇ?」みたいな皮肉を丁寧に言われて、まぁブチ切れてその人の一族郎党皆殺しにしてたり。
そんな人間の歴史はろくでもないものですが、残った城はろくでもある立派な物でした。
案内のボランティアさんがいつもいるのかは分かりませんが、いるととても丁寧に面白く教えてくれるのが良かったので、桜や紅葉の時期にまた来てみたいですね。麓から歩くとなかなかハードなハイキングにもなります。子供とお弁当を持って出かけるのにも良いかもしれません。
群馬のマチュピチュ?いや、これはまさに群馬オリジナルでしょ。太田市の金山城、とても良い城跡です。戦国好きならぜひ行ってみてください。オススメよ!