![A night with a full moon 〇 A night with a full moon 〇](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/034/619/143/34619143/p1m.jpg?ct=927a3c7da4e2)
お腹から出ているマフラー♪
ちょーセクシ〰(^◇^)
今夜は満月。
大潮で魚は釣れないし、星も見えにくいし、事故も増えるけど・・・
大好きな満月の夜
とりわけ、生まれたての月がすこぅしずつ、動いているさまを見ると
引力を感じます
ダーリンにまたがって、羽ばたけそうな
そんな夜
どこまで飛んでいこうかしら?
こんな夜は、こんな本でも・・・
自分にとっての真実は、絶対ではなく相対なのかもしれないし・・・
規範の中での真実は、真実の仮面をかぶった真実なのかもしれない・・・
未熟なあたしは、
研鑽を続け、学び続けたいと思う次第でございます。
山本七平著『人間集団における人望の研究』
http://tinyurl.com/pve5mje
では、いったいこの「知恵」とは、どんな概念なのであろう。
元来は「わきまえ」「たしなみ」「つつしみ」といった意味であることは前に述べたが、それを一言で言えば「自己抑制・自己統御」である。
そして、人間が何らかの意味で「賢者」になるには、自己抑制に基づく修練を要請されることは自明であろう。
前に鍛冶工、織工、操舵手といった人も「賢者」と呼ばれていると記したが、いわば職人がその技術を獲得するためには、まず自己抑制に基づく長い修練が必要であり、それによってある種の能力を獲得しているのだから、これも「賢者」と呼ばれて不思議ではない。
そして社会人となり、社会的な「知恵」のある「賢者」になるにも、いわば「王師」になるにも、同じようにある種の能力を獲得するために自己抑制が必要なわけである。
この考え方は「職人は官営工場の職場で自分の仕事を完成し、君子は学の場に入ってその道を完成する」といった『論語』の言葉と、ある種の共通性を持っている。
人間は生まれながらにして「自己抑制」の力を持っているわけでなく、倫理的なわけでもなく、したいことをしたいのが赤ん坊である。そして、その欲望が満たされれば喜びを感ずる。
これはあくまでも事実であり、この傾向は大人になっても残るから『箴言』が記しているように「盗んだ水は甘く、ひそかに食べるパンはうまい」し、他人の迷惑を考えずに「七情」を野放しに発散すれば気分はさっぱりする。
そして、この状態から脱して「自ら治める」すなわち「自己抑制」が可能になるのは、一に教育・訓練、または修養という自己訓練によるのであって、それによって、その資質がはじめて獲得できる。
『論語』は、「教えありて類なし」で、人間に生まれながらの類別があるのでなく、教育によって人はどうにでもなると考えたように、『ベン・シラ』も同じように考えている。この点、中国人とユダヤ人は徹底した教育民族であったと言ってよい。
これは両者ともに平等主義が前提であり、たとえば「君子と小人」、「知恵ある者と愚かなる者」、「覚者」と「愚者」といった一種の"階級"は、血筋や出生、また貧富によって定まるのでなく、一に、教育と自己修練によって定まるものであると考えている。
『近思録』に記されているように、聖人になることは万人に可能なのであり、それは自らを教育する意志があるか否かの問題なのである。
(中略)
いわば平等主義は、教育主義・能力主義にならざるをえない。ということは、人間が社会的動物であり、分業が存在するかぎり、これを統御し調整する者が必要になるからであ。簡単に言えば、いかなる平等社会でも、組織には必ず「上中下」があるということである。この「上中下」が、血筋・身分・階級などで生まれながらに決定していれば別だが、そうでなければ「教養」という「束縛」で自己制御して、自らを教育することができる能力のある者によって上中下が定められねばならない。
そしてこの能力には、当然、「徳」「知恵」といった能力も含まれる。
また、これとも別の技術的能力も社会は要請するが、それを獲得するにも自己抑制が必要なことは言うまでもない。
だが、その獲得した能力の質、種類、方向などによって、社会が上下の分業という形になることも、また事実であり、これは平等社会でも変わりない。
前に記した『孟子』は、「君子と野人」は、社会秩序樹立のためどうしても必要で、野人が君子に食糧を提供することは、鉄工や陶工に食料をわたして、その製品と交換するのと同じことだと述べている。
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2014/12/06 19:04:32