あけましておめでとうございます。
今まで言わなかったけど、じつはわたしは登山家なんだよ。
数年前にも富士山の山頂を目指した。
え?すごい?
すごくなんかないよ。だって登山家なんだもん。
お正月からのんきにテレビを観て、ぐちゃぐちゃ餅食ってるだけの君たちとはちがうから。
まあ君たちも、一日3千歩のウォーキングを雨の日と風の日以外に1か月もやってるrisaSpecなら富士山くらい登るだろうなとはうすうす思ってるだろうが、まあ一応、富士山に登った証拠として写真を見せておきます。
これは5合目の山小屋からわたしが撮影した写真です。

富士山新5合目
撮影:risaSpec
しかしこの5合目から先へ進もうとしたとき、山小屋の売店のおじさんから「ここで引き返しなさい。この先へ行ってはいけない」と言うのでした。
「どうしてですか?ここまでやっと登ってきたのに。雪崩でもあったのですか」
「君、ここまであの車で登って来たんでしょ?この先は道がなくてもう車じゃ行けないからね。自分の足で登る気はないんでしょ?」
こ、こんなことがあるだろうか。あともう少しだったのに・・
他人から山を降りろと指図されるのは、登山家として最大の屈辱だった。
でも車で行けないんなら、まあしかたがないけど。
「足で登る気ないんでしょ」だと? あたりまえだ!
寒い!
登山の目的は頂上に達することだ。
しかしどの登山口から登るかで、同じ山でもわりとラクに頂上へ行けたり、そうかと思えばつらくて苦しくて、何度も断念して引き返そうとしながらやっと頂へ辿り着く登山道もある。
ラクな登山口を選ぶべきだよね。
同じ頂上をを目指すなら、わざわざ困難な道を選ぶことはない。
でも。
登山家はなぜか。
ラクに頂上に達すると、次はより困難な登山口から登ろうとするのだ。
どうしてだろう。
わたしたちはみんな生まれかたがちがう。
生まれた場所も。環境も。
その人生の登山口を選ぶことさえできない。
そこから山を登って行かなければならない宿命だ。
だから、みんな、ちがう登山道を登るから、途中に見える景色もみんながちがう。
登り始めた時代によって、雪の季節だったり、激しい風雨のこともある。
頂上へ行った誰かが「この山はこういうふうに登るんだよ」と言ってくれても、みんな登山道がちがうんだから、そんなことなんの参考にもならない。
そして。
ラクな登山口に生まれた登山家は難なくその山を制圧して羨ましいけれど。
なのにその人はなぜ厳しいとわかっている登山口から再び登り直そうとするのだろうか。
それは山の頂上の景色が教えてくれるんだ。
「あらゆる登山口から登りなさい」と。
あるときは厳しい道を、でもあるときは楽しく、あるときは一旦引き返してしまうこともある。
けれど、どこから何度登ってみても、頂上の景色は同じであることを知るために。
いろんな人がいる。
いろんな考えの人がいる。
太郎さんとはわかり合えない。
そして花子さんとは話も通じない。
だから登山家は独りで山を登る。
この登山道は自分にしか歩けない道なのだ。
そしてその道を歩きながら、「After all alone(結局人は孤独)」だと知る。
けれど、翌年に太郎さんが登ったという登山口から登ってみる。
さらにその翌年は花子さんの登山道を登るとわかるんだ。
彼らがどんな気持ちでこの道を登ったのか。どこで苦しかったのか。どこで眠ったか。
そして、なぜあんな考え方になったのかが、なぜわかり合えなかったのか、それがわかる。
そして。
誰の登山道を登ってみても。
最後には、あの、同じ風景の山頂にたどり着く。
それを知るために登山家は同じ山をあらゆる登山口から、たった独りで頂上を目指すのだ。
それが、わたしは。
「リインカーネーション(転生)」だと思ってる。
誰もあなたのことをわかってはくれないの?
あたりまえだ。他の人があなたの登山道を知るはずはない。
人生は悲しいかい?
生きてることはつらいかい?
もっと強い体を持っていたら。
もっと美人に生まれていたら。
もっと頭がよかったら。
この山はかんたんに登れたはずだと思うだろう。
でもね。そういう恵まれた状態で登る登山道には必ずあちこちにいきなり転落する崖があることを知ってるか。
どの道も学ぶことがちがうだけで、過酷さはおんなじだ。
それで失敗した君は、生まれ変わって、今度は頭がわるいから欲がなく、かっこわるいからいい気にもなりようがない登山家として、もっと過酷な登山口に立つはずだ。
それなら道のりは前よりずっとつらくても、あと一歩のあの崖で転落することはないから。
そして、この人生で既に頂上を極めたと思ってる君。
君に聞くけど。
君さ、君は3合目に咲いていたあの小さな花を見たか。
厳しい風雪の中で懸命に身をよじりながら花を開こうとしていたあの花に涙したか。
また6合目では、自分の体を犠牲にしてまで雪から君を守り、休める場所をつくってくれた、あの何も言わない老木の愛に、その木陰を離れるとき君は感謝したのか。
だから、また登るんだよ。
だけどそしていつか。
あらゆる登山口の最後の登山口から、独りで山の頂にたどり着いたとき、やっと君は知るだろう。
「After all Alone」の人生は、「After all ALL」だったことを。
すべての人はちがうと思ってたけど、ほんとは同じであったことを。
みんながただ風に吹かれてこの頂からの景色を眺めることを。
みんなで手を繋いで登っているのでは何度登ったってわからない。
孤独な登山道を歩いたからこそ知るんだ。
「孤」とは、すなわち「全」であったことを。
以前書いた「
After all “ALL”」とはこういうことを書いたブログだ。
「くじけるな。君ならできる」とか「やればできる」とか。
子どもの頃から聞かされてきて、もううんざりだよね。
「俺のことなんてなんにも知らないくせに」・・ほんとにそう。そのとおりだ。
テキトーなんだよ。そういうこと言って励ますやつなんて、自分に酔ってるだけだ。
相手にするな。
でもね。
このわたしが言おう。
「くじけるな。君ならできる」
それは昔その山の頂上に立った君が生まれ変わって登ってることを知ってるからだ。
もう何百回も。
だけど今度の登山口は厳しいね。今まででいちばんつらいよね。
その登山口を選んだ君の勇気には頭が下がる。
休んでもいいよ。休もうか。ちょっと。
でも、君ならできるんだ。わかってるんだ。
7合目からはまた東と西へ別れるけど。
わたしの肩につかまれ。
そこまで一緒に登ろう。
それがね。結婚っていうことだ。
2025年を越えた。
まだ頂上は雲の上に隠れてる。
2026年。
がむしゃらに登るんじゃなく、一歩一歩を丁寧に登っていこうね。
風の音を聞き逃さないように。
小さな花が震えるのを見逃さないように。
頂上に辿り着く自信がまだない今こそ、いちばんたいせつなときだ。
だってそれが約束されていたら、君はまた、周囲のことは見ようともしないから。
新しい年があけた。
新年早々失敗しちゃってもいい。
だいじょうぶ。
だいじょうぶだよ。
雲が切れたら、ゆっくり、立ち上がろうか。