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risaSpecのブログ一覧

2025年12月21日 イイね!

今夜、君の目からウロコが落ちて価値観が激変する! risaSpecが本気で語るSM論(risaSpecは「釣り」はしません)

最初に言っておきますが、わたしはSMというものに興味がありません。
そのわたしがSMを語るといえば、みんカラの中にもいる変態たちは「知ったかぶり」とバカにするでしょう。
しかしわたしはみなさんとは頭の構造がちがいます。
以前書いた「少し前を歩く娘へ」という詩は、大人になった娘がいる父親になりきって書きましたが、ほんとのそういう人以上に娘への父親の気持ちを表現できてると思います。
わたしのシミュレーション能力はことほどさように凄まじいのです。

そして今日のブログを読んだら、今までSMマニアだった君も、あるいはSMなんかきもちわるいと眉をしかめるあなたも、今までの価値観が大きく音を立てて崩れ去り、全員がこれまでとはまったくちがう気持ちでSMを賞賛することになるでしょう。


わたしは20代の頃テレビ局で働いていました。
局の近くの喫茶店で昼食を食べていると、よく知ってるチャラいディレクターが知らないおじさんと2人で入ってきて、わたしを見つけて「理沙ちゃん、ここいい?」と言って「いいよ」とも言ってないのに図々しく座ってきました。

そしてそのディレクターは、一緒に来たおじさんにヘラヘラ笑いながら「こちら、ドSの理沙ちゃんです」とわたしを紹介したので、パスタを食べながら上目遣いでディレクターを睨むと「ほらほらほら、ドSドS」とおおはしゃぎです。

そのときもう1人のおじさんが「ははは。このお嬢さんはSなんかではないよ」と笑いました。
するとディレクターはびっくりした顔をして「え?!Mなんですか?理沙ちゃんが?!ないないない」と笑います。

わたしがディレクターに「おまえさ、世の中にはSかMかの2種類しかいないと思ってる?世の中は頭いいやつとおまえみたいなバカの2種類だよ」と言うと、おじさんは「そのとおり。いやあ愉快愉快」と、大きくうなづかれたのでした。

このおじさんは何かの番組の収録で来てた「SMの大家」なんだそうです。
その後SMについて難しそうな話を語り出されましたが、わたしは興味ないのでほぼ聞いておらず30分くらいで席を立って別れました。
ただ、このとき、そのおじさんが「多くの人が言ってるSMは、あんなのはただのリンチだ。ほんとうのSMは愛なんだ」と言ってて、わたしはさも感心したように「はああ、そうなんですかあ」と深くうなづきながら、頭の中では「こいつアホか」としか思っていませんでした。

しかし、あれから長い時を経て、そんなことすっかり忘れていたわたしでしたが、つい最近わずか1分で、そのSMの真髄に目覚める出来事があったのです。

みん友のみなさんはよくごぞんじのとおり、わたしは1日3千歩ものウォーキングを毎日しているスポーツウーマンですが(あーいやいや、もう19日間も続いたのでアスリートかな?)、休日、住宅街を歩いていると、小さな子どもとお父さんが外で遊んでいるところに出会いました。

親子は家の前で楽しそうにしていましたが、不意に子どもが後ろを見ている隙にお父さんがさっと車の後ろに隠れたのです。
振り返った子どもはお父さんがいなくなってて不安な顔で「おとうさん・・おとうさん・」とつぶやくように呼び、その後大声で「おとうさーんおとうさーん」と、もうギャン泣きです。

するとお父さんはパッと車の影から飛び出してきて笑顔で両手を広げ、子どもはお父さんに向かって泣きながら走って飛び付きます。
お父さんは力強く抱きしめ、その子の頭をくしゃくしゃに撫で回してました。

わたしは微笑みながらそこを通り過ぎましたが、いきなり脳がギュイーンと回り始めたのです。

今の光景は大人の目線からすると微笑ましいものです。
みなさんだってやったことがあるでしょう。
子どもがいない人でも、飼っている犬にはやったことがあるでしょう。

しかしこれを子どもの立場から眺めると、もう立派に虐待です。
子どもが悲しむことをわかっていて、わざと隠れているのです。
子どもは不安で悲しくなって「自分は見捨てられた」と思うかもしれません。
それを車に隠れてニヤニヤ見てるだなんていじめでしかないではありませんか。

そういえばよく思い出すと、さっきの子どもはお父さんが現れて、走って抱きつきに行ってますが、笑顔ではなかった。
悲しみの顔のまま、唇を噛んで走ってました。
その奥には「なんでお父さんはボクをこんな悲しいめに遭わせるの」といってるように。

でもお父さんはそんな子どもを抱きしめながらきっと「かわいい!どんなことがあってもこの子を守り抜いてみせるぞ!」と思ったことでしょう。
そして「これが愛だ」と言い張るでしょう。

この二律背反はいったいなんだ。
「ほんとうのSMは愛なんだ」というあのおじさんのことばが思い起こされます。
住宅街をウォーキングしながら、この謎について、天才の脳が動き出します。

もう2千歩も歩いているので、残りあと千歩で答えを出したい!
3千歩を超えると膝がガクガクで夕飯がつくれなくなります。

親が小さな子どもにかわいいドレスを着せて「わあお姫さまみたい!」というのはわかります。
しかし一方で怪獣の着ぐるみを着せて、「わー怪獣だあ」って笑いながら逃げる親もいます。
なぜかわいい我が子に醜い姿の怪獣の着ぐるみを着させるのか。
しかしそうすることでなぜ我が子がものすごく可愛らしく見えるのか。

わたしの知っている70歳近い男性が「笑われるだろうけど同じ歳の妻が可愛くて仕方がない」と言うのです。
奥さまも知っていますが、ふつうにお婆さんです。
彼女は若い頃、ものすごく美人だったのだそうです。
しかし年齢には勝てず今ではしわくちゃのただのお婆さんになってしまい、でもだからこそすごくかわいくて愛おしいのだそうです。
奥さま自身はおそらく「歳とったんだから当たり前じゃん」と思ってるでしょうけど、そこがまた怪獣の着ぐるみを着せられてきょとんとした顔をしている子どものようなのでしょう。
わたしはこの男性が、美人の容姿の奥にある、奥さまのほんとの姿をずっと愛し続けていることがわかりとても感動したものです。
それは「あら、仲のおよろしいこと」なんて茶化せる話ではなく、頭が下がる思いでした。美人だったならなおのことです。
老いても仲がいいことが素晴らしいのではなく、このご夫婦は知り合ったあの若い頃から、本質から外れたところには心を奪われず、さいしょから愛に気づいていて、その愛にずっと忠実に歩んできたお二人なのです。

肉体は日々朽ちていきます。
知り合った頃は、たくましかった男性や、美人でスタイルのよかった女性も、それから数十年経ち、見るも無残な姿になっています。
そう言うと「失礼ね!」なんて言うから愛が見つかりません。
「失礼だ」という人は一生を通じてあなたの人間としての魅力は肉体だけでしかなかったのだ、とあなた自身が言ってるのと同じです。

老いていくと、人は、若いときに持っていた武器をすべて奪われます。
男性も筋肉が落ち、女性も美貌が失われ、頭がいいと言われてた人もだんだん「ちょっとアレとって。アレって何?って、だからアレだよアレ」っていうようになってきます。
年収が高くても65歳になって年金生活に入れば平均受給額は14万円。中央値では10万円ちょっと。国民年金だけだと5〜6万円。
蓄えがあってもこわくて使えないでしょうから財力も奪われたに等しい。

そういうすべてが失われてしまったとき、最後に現れてくるのがその人の本性です。
そこが純粋な人はそれでも、いや、すべてを失ったからこそ、かわいいのです。

仕事上の立派な肩書きや、かっこいいクルマや、おしゃれな洋服や、化粧で覆われた姿に惑わされることなく、その人の本当の姿が、飾るものが何もないからこそ誰にでもクリアに、あけすけに見えてきます。
そこに感じる「かわいらしさ」は、若い女の子のこざかしいかわいらしさとは次元を異にして、非常に「ほんとうの愛」に結びつきやすい純粋なかわいらしさであり、そこを愛おしいと思える心もまた、とても「愛」に近づいている。
肉体が老いていくとき、そこで初めて人間はほんとうの真価が問われるのです。

奇しくも最近のブログに「10人の中から1人を選ぶんじゃなくて、10の顔を持つ1人の中からその人のたったひとつの本当を探して拾い上げることが愛だ」と書いたけど、そこにも通ずる。
本気でお化粧してブラにテニスボールを10個詰めたら10人の中から選ばれます。
しかし、そういう女が男性に望むのはね・・・
その手で優しく化粧を落としてくれて、ブラからテニスボールを全部出して、そして「かわいい」と言ってほしいのです。
(「でも理沙ちゃんの場合、2個は残しとこうね」とかそういうギャグは要らない)

もしもわたしがみん友さんのtakaさんとたっちゃんとトシゾーくんを縛り上げてムチでしばき倒して、それでも3人揃って「り、りささまぁ」と必死でローソクまみれの手を伸ばしてきたらかわいいだろうか。

2500歩のところで立ち止まり、ふと想像する。

いや、きもちわるい。てゆーかこわい。

なぜかというと、それはただのリンチだからです。
それがSM「ごっこ」です。
経済や経営がわかっていない子どもが「お店屋さんごっこ」してるのとおんなじだ。

SMは、惨めに陥れられてもなお相手にすがるという本性を掘り起こすための擬似的な手段なのです。
それは裸になんかならなくていいし、縄もローソクもなくていい。

愛する我が子から身を隠す行為もそうだし、女性なら経験してるだろうけど、わたしも男性によくやられたあの行為。
「理沙ちゃん、今ビリっていった。お尻のとこ破れてないか見て」とお尻を突き出し、至近距離でわたしの顔にオナラをするあの行為。
そしてそんな下劣なことをしておきながら、「ううっ」って顔を歪めるわたしに「かわいそうな理沙ちゃん」と大笑いしながら抱きついてくるあの心理もそうでしょう。
かわいそうならすんなよ、まじで。


SMというのは主従の関係だと思うけれど、女性が総じてS化してきている。
女性と男性でいろんなことを区別するのはおかしいという。

躾というのができず、息子がスーパーの駐車場で停まってる車を次々ボンボン叩きながら走ってもニコニコその後ろを歩く親を見た。「この車の持ち主もうちの王子様に叩いてもらって嬉しいでしょうね」ってなもんだ。親が子どもにひれ伏し従属するとこういう異常な姿になる。

主従が逆転した愛憎は、SMごっこのリンチでしかない。
愛を取り違えてしまった先には、すさんだ荒野が未来に置かれるだろう。

主従というのは、偉いとか偉くないとか、そういうことではなく役割なんだ。
女には男の主導が必要であり、男にはそれを支える女が必要なのだ。

雪山では激しい風雪に人間はかんたんに倒れてしまう。
男が抱きしめて吹雪から守ってくれないと女は死んでしまう。
でも抱き締める男は一身に吹雪を受けても、じつはその内側から抱きしめた女の体温がずっと温め続けてくれているから2人は吹雪なんかに負けないんだ。
どちらが上とか下とかではなく、これが調和することで生まれる強さなのです。

ふたりが共に同じ、あなたたちがいう「対等」の立場で、「あなたはそっちで頑張って!わたしはこっちで頑張るから!」なんてやってたら2人とも死ぬだけなんだよ。

「あら、それは男女共同参画に反するんじゃないかしら!」って、、
いいから黙ってろ。
そういう底の浅い話をしてるんじゃないんだよ。
ローソクたらすぞっ

Posted at 2025/12/21 11:23:57 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日記
2025年12月14日 イイね!

早くも続編登場!「1963年作品「続・明日に生きる」 主演・risaSpec

早くも続編登場。
物語は思わぬ方向へ進展します。

risaSpecタイムスリップ作品「続・明日に生きる」
Posted at 2025/12/14 17:38:34 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日記
2025年12月14日 イイね!

年忘れ!天才にしかできない新企画の登場です

暇だったのでPrimeで1960年代の日本映画を数本飛ばしながら観ました。
約3時間、いくつかの映画を観て、あの時代の空気感、エッセンス、世界観をすべて頭にインプット。
我ながらおそるべき学習能力です。

そしてすべてrisaSpec完全オリジナルの脚本、構成で、あの時代を再現しました。

どこか懐かしく、せつなく、だけど下品で、短絡で、それでも夢と希望に溢れたあの時代の世界観を、天才の脚本でお楽しみください。

整備手帳に格納しました。

それでは!高度成長期の東京へ行ってらっしゃい。

risaSpecタイムスリップ作品「明日に生きる」
Posted at 2025/12/14 03:01:16 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2025年12月12日 イイね!

2001年 宇宙の旅

「2001年宇宙の旅」という映画を観たことがあるだろうか。
わたしは映画を観た後に「2001年宇宙の旅」は原作も読んだ。

映画の冒頭で長方形の黒い無機質なボードが類人猿の前に現れる。
その前で類人猿たちは大きな骨を拾って、物によって物を破壊することを覚える。

原作では、その前に類人猿たちが草を結ぶということを始めるシーンがある。

つまりこの黒いボードの前で類人猿たちは知恵を覚え、学習するのだ。

このボードを「モノリス」といって、映画の中でもところどころに現れ、重要な存在になっているのだけど、それがいったい何であるかはまったく説明されていない。

しかし原作でははっきりと、モノリスは地球外の知的生命体の通信塔であり、これによって地球人を教育したというように書かれていた。

でも映画を観たわたしは、その説明には違和感があった。
原作者本人に対して「それは違うでしょ」とまで思った。

原作のあとがきを読むと、アーサー・C・クラークは、「私が書いた2001年とキューブリックが映画で描いた2001年は異なるもの」というふうなことを言っている。

ここに大きな鍵があると思った。
モノリスは「2001年」で非常に重要な存在である。
しかしアーサー・C・クラークはこれを宇宙人の通信塔としているのに、キューブリックはきっとそうではない別のものとして描いていることが、似たようなストーリーでありながら、本質的に、根本的に異なるものになったのだと思う。

映画を観ているとき、わたしはさっぱり何をやってる映画なのかわからなかった。
モノリスもそうだし、ラスト近くで、人間がめまぐるしく赤ちゃんになったりおじいちゃんになったりしているのも、書物を開くと中身が白紙だというところも。

しかし、最後に、球体に包まれた胎児が宇宙に浮かぶラストシーンを観て、わたしは声を上げて泣いてしまっていた。
わたしの中では、そこですべての謎が繋がったんだ。

映画の中ではそういう説明がいっさいなく、キューブリックは難解な映画をつくろうと思った、とも言っている。
原作を読んだのは、わたしの解釈は正しかったのかどうかを確認したかったからだけど、原作は異なるものだった。
それはアーサー・C・クラークとキューブリックで、モノリスという存在がぜんぜん異なるものとして描かれたせいだと思っている。

わたし流にいうと、「2001年宇宙の旅」は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」である。
どちらも死後の世界を描いている。
でもアーサー・C・クラークの原作はそんなテーマではないのだ。

たとえば書物を開くと中身が白紙、というのはこういうことだと思う。
世の中はすべてが白紙であり、書物の中に書かれていることとは、人間が、そこに文字が存在して、その意味はこうだということを合意して共通認識として存在させているものなのだ。

わたしは学生時代、アナログから次の世代としてデジタルに移行しているのではなく、本当は世の中はもともと離散的であり、それに人間たちが共通認識で連続性を持たせているだけなのではないかと考えたことがある。

たとえば壁の向こうはどうなっているかわからないし、通り抜けることはできない。
でも本当は壁というのは連続性のあるものではなく、いくつかの点と何もない疎密で構成されていて、点と点の間を覗けば壁の向こうが見えるし、その間をくぐり抜ければ壁の向こうに行けるのではないか?
それができないのは、人間たちがみんなで点と点を増大または延長して、「ここは全部壁だよね」「そうだそうだ」という認識でそこには隙間のない壁があるとしたから通り抜けられなくなったのではないか?と考えたんだ。

このわたしの若い頃の発想は、つまりあらゆるものは想いによって造られ、それに対する人間たちの共通認識が、それを存在させている、ということだ。

このことをキューブリックは文字の書かれていない書物で表現したのではないだろうか。
書物というのはもともとはじつは何も書かれていない白紙で、人間の想念がそこに文字を書き、人間の共通認識がその文字に意味を与え、共通の理解をしているんだ、と言いたかったのではないか。
そしてほんとは書物だって実在はしてないんだろう。

ではモノリスとはなんだ。
モノリスとは、形而上をかたちに具現したものだとわたしは解釈している。

わたしは「何をか言わんや」という芸術が嫌いだ。
そういうのは突き詰めると、作者はたいして何も考えずに、「どう感じるのかはあなた次第。私は何も言いますまい」という卑怯を感じるんだ。本当は自分もわかってないだろ、と思う。

音楽でいうと、たとえばポップスというのは潔い。
どんな人が聞いても「これ好き」「これつまんなーい」という審判が即座に下せてしまう。
しかし、今おじいちゃんと言われる世代の人たちの青春時代にあったプログレッシヴロックというのは違う。「好き」とか「つまんない」以前に、「何これ?」っていう感じだ。
わたしはあれをいい音楽だとは思わない。むしろなんだか凄そうに見せかけてるだけのように思う。
わたしはデジタルシンセサイザーの世代だけど、プログレの時代のムーグやソリストなどのアナログシンセサイザーも演奏してた。
でもカットオフフリーケンシーやレゾナンスで音をつくるって、そう意図的にできるものじゃなくてほとんど偶然の産物の連続なのよ。

プログレの中ではエマーソン・レイク&パーマーだけが、プログレだけど実はとてもポップス的なスピリッツで真っ向勝負しているだけだ。
それでもなぜプログレが人気を博したのかというと、おそらく聴く人たちが尾ひれ背ひれをつけてきたからだろう。

「古池や カワズ飛び込む 水の音」というのがあり名作と言われるが、ほんとにそうだろうか?
あれはたとえばわたしが小説を書くとして、そこに取り入れるならこんな感じだ。

それは静かな夜だった。
遠くで池に一匹のカエルが飛び込んだ音が聞こえてくるほどに。

これだけの話だ。
それ以上の意味を感じることがおかしい。

プログレッシヴロックは絵画でいえば抽象画だ。

でもね。
そういう芸術の中でもなぜか心を揺さぶられるものは確かにある。

この絵はザオ・ウーキーという画家の「僕らはまだ二人だ」という作品。



美術館でザオ・ウーキー展に行ったとき、どの絵を観ても何が何だか意味がわからない。
しかしこの絵の前にきたとき、わたしは思わず立ち止まりじっと見つめて、気がついたらボロボロと涙を流していた。

なぜこういうことが起こるのか不思議だった。

それはつまりこういうことなんだろうと思う。

たとえばわたしはかつては作曲をしたし、絵は昔からずっと描いている。
でもわたしなんかの作品は、「いい曲ですね」「じょうずな絵ですね」で終わる。
それは作者が音楽や絵画を直接他人に伝えているからだ。
当たり前なんだけど。

でもザオ・ウーキーの絵は違った。
何が描かれているのかさっぱりわからない。
伝えられてるけど絵からは何も伝わってこないんだ。

じゃあ、涙がこぼれてくるこの感動は何なんだ。

それは画家が描いた絵を水平方向に絵を観る人に伝えられたのではなく、きっとその絵は垂直方向に放たれ、観る者も垂直方向に意識を上げて、形而上で結ばれたから生まれた感動なのだと思う。
だから、何が、どこがどういいのかなんて、形而下では言語化できないし説明できない。
なのに、なぜか、涙が止まらなかったのよ。

そして、それを、キューブリックはモノリスとして表現したのではないだろうかと思ってる。

顔が可愛いとか、たくましいとか、だから好きになったんだとか、そういうのって水平レベルの伝達で、何かのきっかけにはなるかもしれないけれども、それを愛だなんて表現するから人間はおかしくなってきた。
水平レベルで語られる愛とは、ちょっと乱暴かもしれないけれど肉欲だ。

垂直方向で語られる愛とは、二人の間に一度形而上を介して伝わっているはずだ。

説明ができないこと。
論理性を介在させられないこと。
なのにこんなに心が揺さぶられ涙が止まらない。

そこには熱い温度がない。

むしろどちらかというと温度が低くて。

その人としか通じ合わない想い。

わたしは強く抱きしめ合って「もう離さない」なんて泣き叫ぶ美しいシーンの向こうではなく、もっと静かで、もっと穏やかで、もっと温度の低いところの向こうにこそ、ひっそりと、だけど、確かに、愛ってあると思うんだ。

人間が何をやっても、愛し合っても、戦争をくりかえしても。
その向こうで。
ただじっと、何も変わらない表情で。モノリスはあるのだろう。




今回、難しいよね。ごめん、わたしもうまく書けない。
なのでコメントは結構です。

あと、わたしは「2001年宇宙の旅」について解説書みたいなものは読んだことがありません。どんな解説がなされていてもわたしはわたしの解釈しか信じません。
同じくみなさんがわたしの解釈を信じる必要もありません。
水平方向の伝達では意味がないからです。
Posted at 2025/12/12 02:40:55 | コメント(6) | トラックバック(0) | 日記
2025年12月08日 イイね!

(カメラがニガテな女が語る)クルマの写真の撮りかた

わたしは何かに興味を持つと、それをプロ並みになるまで突き詰めるところがあります。
かつては音楽がそうだったし、絵もそうだし、最近ではお家を買って庭をデザイン画から起こしてちょっとした土木工事も含めて1人でDIYでつくってきました。

しかしなぜかカメラだけはいつまで経ってもうまくならないし、正直、あんまり勉強する気にならないのです。なぜかわかりません。自分でも不思議です。

カメラはCanon EOS 60Dっていうキヤノンの中級機を、もう10年以上使っているけど、レンズも標準2本、マクロ1本、望遠2本しか持ってない。
そんなわたしなので、ここでカメラ講座なんかを書くわけにはいかないけれど、今日はわたしがクルマの写真を撮るときに気をつけてることを書いてみます。

先日、群馬県と長野県の県境付近に行ってみたけど、あんまりいいロケーションにたどり着けず、結局ちゃんとした写真は1枚も撮れなかったのですが、途中でスナップ的に撮ったこの写真を見てください。




写真としてはただのスナップで、背景も含め、おもしろくもなんともないんだけど、クルマだけはカタログ写真並みにキレイに撮れてると思わない?
このようにおもしろみのない風景の中でもクルマがカチッと撮れてれば、それなりに鑑賞に耐えられます。

ちょっと注意して見てほしいのですが、わたしは写真を撮るとき、このようにクルマは必ず日陰に置きます。
そして、この写真の左側の景色には太陽光が強く当たってますよね。
この景色が放つ反射光をボディに映り込ませて、クルマの質感を表現するのです。
すると同時にプレスラインもくっきりと出てきます。
(背景のボケはレンズではなく、Photoshopでボカしました。拡大して橋の欄干を見るといかに選択範囲をテキトーにとってるかがわかります笑)


もう1枚、これは愛車紹介にも出してる写真。



この場所は前に一度来たことがあって、そのときは朝で、CX-5を停めてる場所にはお陽さまが当たってました。
写真の奥が西です。
太陽が西に傾けば、奥の樹が、その樹形の影を道に落とすはずで、そこへ車を入れようと考えました。
そのとき東側には太陽光が当たってるはずで、その明るい景色がCX-5のサイドに映り込むはず。
それでその日は撮影はせず、後日、あまり陽が傾くと背景も暗くなるので、午後のジャストなタイミングで手持ちで撮影しました。(三脚立てられるようなとこじゃなかったから)

●クルマは日陰に置く。
●クルマに映り込む景色には太陽光が強く当たっている。
●そして露出はアンダー気味に撮る。

これがわたしがクルマを撮るときに気をつけてることです。

みん友さんの写真を見ていて多いのは、クルマがまともに太陽光に当たってる写真。
肉眼では「光り輝いててかっこいい」って思うのかもしれないけれど、それでは質感も出ないしプレスラインも表現できない。光と影の演出がないからクルマがのっぺりとして立体感が出ないのです。

白とかシルバーの淡色車はレタッチでも質感を出すのがほんとに難しいので、「クルマを撮る」というより、「クルマに映り込んだ景色を撮る」くらいの気持ちで撮影したほうがいいと思います。
ものすごく広い場所にぽつんとクルマを置いた感じはステキなようでいて、ボディに映り込む景色がそもそもありません。
ボディは、ボディそのものではなく、映り込んだ景色で表現したいです。

アンダーで撮るっていうのはなぜかというと。
デジタルって0と1ですよね?
明るく撮ると光の反射が白く出ますが、「白」っていう色は「0」で、0というのは情報が何もないっていうことです。
暗いのはPhotoshopのデジタル現像で明るくしていけば、黒くつぶれていた中から隠れていた反射光が浮かび上がってくるのだけど、白はそもそも情報が記録されてないので、どんなに現像で暗くしても白は白のままでしかないのです。
クルマにまともに太陽が当たってる状態だと、その景色の映り込みも飛んでしまってるはず。

わたしにとって撮影と、デジタル現像・レタッチはセットなのです。
撮影するときは、あとでどう現像するのかをイメージしながら露出を決めています。

その例として、次の霞ヶ浦で撮った2枚の写真。
両方拡大して見比べてください。

上の写真はカメラで撮ったままの写真でとても暗いですよね。
これが、アンダーで撮るということです。

下の写真はそれをわたしが現像してレタッチしたものです。

クルマのサイドとリアパネルの光の映り込みにご注目ください。
上の写真では黒くつぶれてのっぺりしてたのが、現像で調整するとこのように光の反射が浮き上がって立体感が出てきます。(拡大しないと違いがわかりません!)

(元の画像)


(レタッチ後)



次は長野県からの帰り、途中の道の駅で撮った1枚。
これは何も考えずに撮って、レタッチもほぼしていません。
それでもきれいに写ってるのは、新車なのにDIYでわざわざ電動ポリッシャーで研磨してガラスコーティングした賜物。
撮影以前にクルマをキレイにしておくことは大原則です。




さて。
ときどき気が向いたときに、みん友さんの写真をレタッチしてあげることがあります。その中からお二人の方につくった写真を、ご本人の承諾を得て掲載しておきます。

aba-buさんのBMW Z4 Roadster。
上がaba-buさんがブログに出してらっしゃったもの。
下は、その写真を、わたしがレタッチしたものです。

基本的には、新車に蘇らせるというコンセプトでした。
元の画像もきれいに撮れてますが、より黒に深みを増し艶やかにしました。それと、ホイールがきれいに表現できてるでしょ。
他には空の雲の奥行き感を出して、車の後ろにあるバリケードと右端に見切れているボラードはじゃまだったので消し、車を引き立たせるため路面をきれいに整備して、さらに無機質感を高める色温度に。最後にBMWのロゴと車名を入れました。

(元の画像)


(レタッチ後)



次はプリウスようこちゃん。
上が元画像。下がレタッチ後。
シルバーは映り込みが少ないのでとっても難しい。
やりすぎて、バック・トゥ・ザ・フューチャーのデロリアンのようなアルミボディの質感になっちゃいましたが、意外とプリウスαに合ってます。
サイドパネルのわずかな映り込みを強調して、ヘッドライトカバーの透明度を綺麗に上げて、同時にフロントウインドウのガラスも透明感が上がってると思います。
プリウスようこちゃんがいくつなのか知らなかったけど、わたしより1個上の18歳だと本人が言い張ってるので、18歳っぽいポップなロゴを加えました。
みんながクルマを撮るときは低い位置でカメラを構えがちですが、上から撮ってるのがいいですよね。さすがは身長5メートルのプリウスようこちゃんです。

(元画像)


(レタッチ後)




そして。
わたしのクルマの写真のいちばんの代表作はやっぱりこれかな。
WISHを買って2年目に九州まで走って、そのとき阿蘇で撮った写真。
撮影もレタッチもカタログの表紙のような写真をテーマに、気合が入っています。
ここはじつは駐車場で白線が引かれてましたが、それを消しました。
阿蘇山も写真ではこんなに赤くなかったんですが、記憶の中の色を再現しました。
空なんかは、もうわたしが絵として描いています。
右上の太陽も、わたしが描いた「絵」です。

ついでに言うと、今のブログのタイトル画像の煙もわたしが描いた「絵」です。




レコーディングっていうのは、各楽器やヴォーカルを、それぞれのトラックに0VUを超えないようにきれいに収めていく作業です。
ミュージシャンはそこに全力で挑んで終了ですが、レコーディングエンジニアがその創作性、芸術性を発揮するのは、その後たくさんのトラックを最終的にLとRの2chに落とすTD(トラックダウン、ミックスダウン)という作業です。
このときにさまざまに音を加工し、音響的なギミックも足していきます。

わたしは演奏やレコーディングよりもTDの作業がとても楽しかったし、それが写真でいうと、撮影後のレタッチなのです。

これからクルマの写真に挑戦するという人は、へたに高価なカメラを買うよりは、カメラはそこそこのミラーレス一眼で、レタッチのアプリケーションを買ったほうがいいと思います。


<みん友さんの画像をレタッチするのは申告制ではありません。今回のお二人にもお願いされたわけではなく、わたしが「いいな」と思った写真を勝手にレタッチしたものです>
Posted at 2025/12/09 13:24:39 | コメント(7) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「今夜、君の目からウロコが落ちて価値観が激変する! risaSpecが本気で語るSM論(risaSpecは「釣り」はしません) http://cvw.jp/b/2273104/48829399/
何シテル?   12/21 13:06
身長 / 168センチ 体重 / 52kg  スリーサイズ / B:貧乳  W:ふつう  H:ふつう  年齢:そこらへんによくある ごくふつうの年齢
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