お休みの日の朝はお散歩をします。
こういうときは手ぶらがいいのですが、電話がかかってくるかもしれないし、音楽も聴きたいのでiPhoneは手離せません。
だからといってお尻のポケットでは落としてしまいそうなのでブラに入れてしまいます。
遠くへ行き過ぎて自力で帰れなくなったときのために一応小銭入れもブラの中に。
万一、明るい間に帰れなかった場合のためにマグライトも右のカップに。
予備の乾電池単一4本は左。
水分補給のための麦茶もブラに押し込みます。
え?
まさか。
麦茶っていってもそんなでかいのじゃないよ。
だって、ブラだよ?ブラ。
キミ、頭だいじょーぶか?
そんな大きいペットボトルなんか入らないって。500mlのだよ。
どお?
便利でしょ?
え?
非常時に備えて金庫やヘルメットとかも入ってるんじゃないの?って?
おいちょっと待て。
あのさ。
おまえさ。
そんなの入ると思うか?
いくらわたしが貧乳だとはいえ。
「あーごめんごめん」じゃなくって、ちょっとそこ座れ。
いくらブログだからって調子に乗ってなんでもかんでもあり得ないこと言ってるからつまんなくなっちゃうんだよ。ね?
いくらなんでも、金庫やヘルメットがブラに収まるわけないことくらい考えたらわかるよね。ちょっと反省しろ。
そういう防災関係はパンツの中だよ
わたしは散歩が好きだ。
ウォーキングは嫌いだが散歩はする。
散歩というのはわたしにとっては冒険なんだよ。
そして冒険の始まりには、いつも空を見上げて雲を探すんだ。
子どもだったあのときもそうだった。
小学校の2年生くらいだったかな。
ふと見上げた空に、矢印のようなかたちの雲があって、その方向にどんどん進んだ。
誰かの家の塀を乗り越え、公園を突っ切って、踏切を渡って。
だんだんと陽が傾き、いつのまにか草むらの中で夕暮れを迎えた。
すっかり道に迷って、半べそをかいて途方にくれた。
妖怪が出てくるかもしれないし、人さらいがくるかもしれないし、このまま死んでしまうかもしれないと思った。
草むらの中にしゃがんでポケットの中にあったアメ玉を舐めた。
今ごろみんながわたしを心配しているだろう。
「わたしはわるい子なんだ」
そう思ったら、アメ玉をコロコロと転がしながら涙がぽたぽたと落ちてきた。
絶望の縁で見上げると、空は夕焼けに真っ赤に染まって、そこにはまた矢印のような雲があった。
草の葉で傷だらけになった脚で、もう一度立ち上がり、その雲の示すほうへ草を分け進むと、とつぜんぽっかりと広い道に出た。
それは。
小学校から家に帰る、いつもの道だった。
人はよく寄り道をする。
そして気づけば、もう自力では引き返せないほど遠くに来てしまうことがある。
誰かに助けてもらいたいけれど、助けようにも誰も助けに行けないところにまで来てしまったのは自分自身だ。
そのときは、自分の人生を省みて、どうか泣いてほしい。
でも、その涙が枯れ果てたとき、じっと目を凝らして、耳を澄ましてごらん。
誰も助けに来てはくれないけれども、あなたのすぐそばに必ず「帰り道」がある。
どうしてか。
あなたがどんなに人から離れて、自分を嫌って、どんなに遠くへ迷い込んでも、どこまでもどこまでも「道」は、あなたをあきらめず、あなたを見捨てず、まっすぐ追いかけて伸びてくるからだ。
嘘じゃないんだよ。
命をかけた冒険なんか一度もしたことないような、周囲や上司の顔色ばっかり伺ってるようなやつが気安く「うそ」とか言うな。
ほんとなんだよ。
ただ、その道を、背の高い草むらがいつも見えなくしている。
目の前の草むらを押し分けて、その向こうで待っていてくれる道にたどり着こうとする力のことを、それを、わたしは「勇気」と呼んでいる。
自分にはそんな道は伸びてきてくれてないというあなたは、おめでたいのでもう少し草むらの中でしくしく泣いていなさい。
わたしには、20代の頃だけど、もうここで何もかもが終わったと感じたときがある。
たった1人の、あるクリスマスの深夜、東京にめずらしく雪が降ってきた。
「もうだめだ、さすがのわたしもここまでだ」とわたしは25時の西新宿の歩道橋の上に倒れ込んでいた。
こんなに頑張ってきたのに。
こんなに全力で、まっすぐ走ってきたのに。
そのすべてが崩れ去った。
誰もいない歩道橋に仰向けになったわたしの体に、どんどん雪が降り積もる。
さっきまであんなに寒かったのに、もう寒さすら感じなくなっても、わたしはそのまま動かなかった。
顔の全部が雪に覆われていた。
このまま死んでいくのかなあとぼんやり、思った。
そのときにね。
なぜだか3歳くらいの頃の自分が原っぱを走っている姿が俯瞰で見えた。
あれは・・・どこだったんだろう。
なんだか笑顔で、とってもうれしそうにわたしが1人で走ってる。
ときどき空を見上げては転んで、でもまた立ち上がって走ってた。
あの子は。
そのまま走って、20年後、今のここの場所に必ずやって来るだろう。
だって、その子は、このわたしだからね。
そのとき、その子が今のわたしの姿を見てどう思うんだろう。
わたしはその子に「これがあなたが目指して走ってきた未来のあなたの姿だよ。残念だったね、ご苦労さん」なんて言えるだろうか。
わたしのことはもういいけど、あの子にこんな姿を見せるわけにはいかない。
こんなとこでくたばってるわけにはいかないんだ。
あの子が、ここへやって来るその前に、立ち上がらなきゃ。
そう、思った。
そのときにね。
・・・聞こえてくるんだよ。
こんな、死んでしまえばいいようなわたしなんかを、こんなとこまで探しあて、あの、小学校からの、あの帰り道が、あんなに広い青梅街道も甲州街道も押しのけて、深夜の巨大な新宿のビル街にまで力強く伸びてくる音が。
今、どん底だと思ってる人。
自分なんかもうどうなったっていいって、そう思う人。
「ここまでだ」と君が思うなら、もうそこまでだ。
「まだ行ける」と思うなら、さらに深い草むらに君は迷い込むだろう。
人生でどんな道を進むのか。
それは人それぞれみたいにみんないうけど、そうじゃない。
じつはみんなが同じだ。
わたしたちが探すべき道は、たどり着かなきゃならない道はね。
目を輝かせることなんてない、ときめくこともない、驚くこともスリルも何もない、人にどうだと見せるものでもない、ただ。
ただ、いつもやさしい風が吹くだけの、あの「帰り道」なんだよ。
その道は、「幸せだなあ」と笑顔で歩いてるときや、深い悲しみに泣いているときに現れることはない。
なぜか必ず、絶望に泣き崩れ、その涙も枯れて泣き止んだときにだけ現れる。
辛いことがあって。
悲しいこともあって。
叫びながら壁に拳を撃ちつけたくなる日もあるだろう。
でも。
とにかく。
人生という映画で、そのシーンは、もう終わったんだ。
次に進む道を探すんじゃなくて。
次に君が進む道はね。
君はまだ覚えているだろうか。
君にしかわからない君だけの「帰り道」を。
ねえ。
今日はまだ何も食べてないんでしょ?
そろそろ辺りは暗くなってきたから。
だから。
おうちへ帰ろ。ね?
そして。
うなずく君のすぐそばに。
ほんとは既に。
「道」は先回りして到着している。
wishing all broken hearts to mend oneday.
(すべての傷ついた心たちがいつかやさしさに包まれることを願うよ)
ちょっと今日のブログは重かったけれど。
つまんないことですぐに落ち込んしまうバカには、これくらい重くないと届かないからね。