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risaSpecのブログ一覧

2026年01月11日 イイね!

成人式と たよりない温もりの缶コーヒー remix

今年もまた成人式です。
花粉が飛び散る前に、やっすいショールのアクリルの毛が東京の電車の中に舞い上がる日です。

もうわたしはいったい何度目の成人式かも忘れましたが、とにかく成人の日は成人式に行かなければなりません。
そして毎年毎年、区長さんから「今日からみなさんも20歳の自覚を持って」と言われ、毎年毎年20歳の自覚で生きてるから、また今年も成人式なのです。
いや、わたしだってね。じつはもうそろそろ行くのやめてもいいんじゃないのかなあと思い、年末に親しい友人2人に腹を割って聞いてみたのですよ。

「ねえ、わたしって20歳に見えてるよね?」

「20歳?それはさすがに無理がありすぎるんじゃない?」
「そうそう。いくらなんでも20歳には見えないよ。誰が見たって」

そうなんだ・・・ショックです。

20歳に見えるように頑張ってきたつもりでしたが、どうやらそれでも大人にはなりきれてなくって、他人の目からはまだ18歳だか19歳の小娘にしか見られていないのでした。
やはりこういうことをズバリと言ってくれる親友はありがたいものです。

わたしはいったいいつになったら大人になれるのでしょうか。
もうガキっぽいのは嫌です!
早く、オトナの女だとか妖艶な熟女とか言われてみたい!

でもまあ自分では大人のつもりでも、みんながそう言うのなら仕方がありません。
今年もまたやっぱり成人式に行かなければなりません。

入口へ行くと区役所のおばさんに止められました。

「あらまあ、理沙ちゃん、今年もまた来たの?」

「はい。おばさんこんにちは」

「あのね、理沙ちゃん。去年もおばさん言ったと思うんだけど、成人式って一生で一回だけのお式なの」

「おばさんだって毎年来てるじゃないですか」

「そう言われちゃうとおばさんもちょっと恥ずかしくなっちゃうけどね。でも去年もうこれで最後よ、来年はもう来ちゃダメよって、おばさん、ミカンあげたと思うんだけど」

「もう食べちゃいました」

「うん、食べたとか食べないとかじゃないのよ。理沙ちゃん区役所から来る成人式の案内ハガキ持ってないでしょ?」

「あ、待ってください。持ってます」

「え?持ってるの?・・・あー、理沙ちゃん、これはね、、よく見てごらんなさい?
<成人式>じゃなくって、<成人病>って書いてあるでしょ? これ成人病検診の案内ハガキなの」

「・・・・・」

「あ、ごめんなさいね。おばさんも悪気があって言ったんじゃないの。ちょっと間違えちゃったのよね。じゃあ中には入れないけどおばさんの横にいていいわよ。もうすぐお式が始まるから。声が聞こえるようにここのドアを開けておくわね。でも今年はぜったい入って行っちゃダメよ」

――― みなさん本日はご成人おめでとうございます。みなさんも今日からは大人の仲間入りです。晴れてお酒も飲めるし、もう少年院ではなく堂々と大人の刑務所に入れるし、マクドナルドなんかでちまちま働かなくても胸を張って風俗店で働けるようになりました。

「理沙ちゃん。なんで興奮してるの?胸を張ってって言われたでしょ?胸が張った人でないと面接で落とされるから理沙ちゃんには関係ないのよ」

――― それでは新成人の皆さんで「翼をください」を大きな声で歌いましょう!

「理沙ちゃん。またあのお歌だけど、今年は歌いながら中に入って行っちゃダメよ?」

――― いまー わたしのー ねがーいごとがー

「ちょっと!みんな!その子を止めて!理沙ちゃん!理沙ちゃん!」

――― かなーうーなーらばー

「理沙ちゃん!止まりなさい!」

――― こっのっ おおっぞらーにー 翼を広げー
「理沙ちゃん、両腕広げちゃダメ!止まって!気をつけ!気をつけして!止まれ!」

――― 飛んでーゆきたーいーよー 

「理沙ちゃんが歌いながら体揺すり始めてる!教育委員会全員!あのおばさん取り押さえなさい!」

――― かっなしっみっのないー 自由な空へー 翼はためーかーせー 行きたいー

「110番!警察ー!!」


その後警察の人にも来年からはもう来ないように言われたんだけど、こっちだって行きたくて行ってんじゃないんだよ。
わたしだって早く大人になりたいのよ。ふざけんなよ、まったく。



自分の成人式の日。わたしはどこで何をしていたのかさえ覚えていない。
大学か、音楽スタジオか、冷たい手をさすりながらガソリンスタンドでバイトしていたかの毎日だ。
恋愛映画とか、青春ドラマだとか、そういうところとはずっと遠いところでいつも走り回ってた。

レコード会社のディレクターにデモテープを持って行っては叱られてた。

「恋の歌を書け。人生がどうとか地球がどうとかガキが歌っても響かないんだよ。なんだ?この<宇宙の地平線を越えた>って歌詞は。それでこんなオーケストラみたいな凝ったアレンジいらないからもっと歌いやすいメロディーで8ビートでシンプルに<大好き大好き I Love You>でいいんだよ」

「宇宙の地平線っていうのは・・ほら<シュヴァルツシルトの事象の地平面>ってあるじゃないですか。愛がその先を超えたところに・・」

「うるせーよバカ。おまえ恋とかしたことないの?おまえだってあるだろ?20歳だろ?あの人のこと思うと胸がキュンキュン痛くなるみたいな、そういうの書いてこいよ。おまえふだん何食って生きてるんだよ」

その頃はお金がなくて、ふだん食べてるものといえばヤマザキの肉まんか、吉野家でキャベツを千切りしただけの100円サラダだけだった。店員さんに「サラダだけ?」と聞かれ、「ダイエットしてるんで」とせいいっぱい明るく笑って。

恋は・・・していた。

あの頃、わたしを大切にしてくれてた恋人を、わたしは女らしいやさしさで包んであげることができなかった。

彼は「理沙の音楽はすごいよ」って言ってくれた。
ラジオのテーマ曲に採用されたときは自分のことのように喜んでくれて、「理沙、サインしてくれ」って言ってた。

故郷を離れて、いつもお金がなく、力もないわたしたちは、バイト帰りの雨の道で、勢いよく車が跳ねた水を被った。

「いつか見てろ」なんて言葉だけが空回りする二人の<20歳の子どもたち>に、東京という街は大きすぎて、そして冷たすぎた。

友だちはみんなすごかったよ。
銀行や航空会社にみんなが就職を決めていくそばで、わたしは夜中の小さな公園のブランコからずっと「宇宙の地平線」を見つめてた。

彼が故郷へ明日戻るという夜、東京にはめずらしく雪が降って、川沿いの道で待ち合わせた彼はとてもやつれて見えた。
彼の頬に手を当てて「痩せちゃったね」って言いながら、人前で泣かないわたしなのに涙が溢れてきた。
別れの悲しみじゃなくて、明日からの孤独への怖さでもなくて、ただどうしてふつうの女の子のようにいっぱい笑顔をあげて、セックスをして、黒く焦げたハンバーグをつくって舌を出すことできなかったんだろう。そして。
そしてわたしはどうして「愛してる」のひとことをいつもいつも言い忘れたのか。
それが、とても悲しかった。

「理沙、泣かないで」と、彼は笑顔でポケットから温かな缶コーヒーをわたしにくれた。
「理沙の恋人だったことは僕の誇りだ」そう言って去って行く後ろ姿に、わたしはずっと頭を下げていた。

その手に強く握りしめてた缶コーヒーの、たよりないあの温もりを、今でもわたしの手のひらは覚えてる。

それから30歳を過ぎるまで、わたしは恋人をつくらなかった。
彼のことを忘れられなかったからじゃない。恋は終わった。
だから彼のことはもういいけれど、あの冷たく暗い貧乏アパートの廊下の隅に、「ふたりがつくった愛」だけが、わたしたちに捨てられたまま、今もずっと膝を抱えて凍えてる気がしてた。
もしもさびしさに負けて、手っ取り早く道端に転がってる恋をわたしが拾ったとしたら、、、小さくてでもどこまでも純粋だった「あの愛」にわるい。そう、思ってた。

若さは、なんでもできると思いながら、なんにもできない。
なんにだってなれると大人たちに言われながら、なんでもないのが若さだ。
かっこなんかつけたって、どんなに男の子たちから声をかけられても、ペラッペラだ。
でも、そのチンピラたちは、その時代をどう生きたかで、たった100円の缶コーヒーに人の温もりを知り、涙ってどんなときに流すべきかを知る。

夏の海は、水平線を眺めれば、遠く、美しい。あの先には何があるんだろうと思いを馳せる。
砂浜を見れば、若くて綺麗な女の子たちや、日に焼けた逞しい筋肉の男の子たちがいる。
そして振り返るとコンビニの袋に入ったゴミが散乱してて、汚い。

青春時代、みんなバカのひとつ覚えみたいに海へ行くけど。
青春時代、その同じ海のどこを見たのかで、人生は変わる。

わたしの青春は、誰より惨めだった。
お金がないからおしゃれなんかできない。おしゃれどころかいつもおなかをすかせていた。
でもいつも「宇宙の地平線の、その先」を東京の路地裏から見ていた。
東京のラッシュアワーでは靴で踏まれ、かんたんに肩をはじき飛ばされながら、夢見る頭のわるい少女は、風に飛ばされた帽子のように都会の中を右へ左へ転がりつづけた。

(わたしの家の2階の窓の外には、遠く、あの巨大な街の灯りが見える。
夜、眠る前に、いつも眺めて思う。)

けれども今は。
わたしは誰よりステキな青春を越えてきたな、と思うんだ。
何度も何度も転んだけれど、よく、あそこから立ち上がってここまで走ってきてくれたものだと、若かったあの子に感謝をしたい。

人に誇れるものはない。誰も拍手をくれない青春時代だったけど。
今は誰にも負けないわたしが拍手を贈るよ。

「ありがとう。よく、頑張ったね。」



この話を若い子たちに伝えるために、また来年も成人式に行こうかと思うんだけど、どうかな。
Posted at 2026/01/11 11:18:13 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2026年01月06日 イイね!

この道を誰もが最後にはひとりぼっちで

幼い足で歩いた道

転ばないように一歩一歩気をつけて歩いていた道

ランドセルを降ろしてカバンに持ち替えるとまもなく
背の高い男の人がわたしの隣を歩いた

ふたりの靴はスニーカーとローファーから
いつのまにか紳士靴とパンプスにかわって また道を歩いた

やがてふたりの間には小さな足が加わり
3人で そして4人で
手をつなぎ 仲良く道を歩いた

それから長い時が流れて

子どもたちは愛する誰かと
別の道を歩き始め

低くなったヒールと くたびれた革靴は
また二人きりになってその道を歩いた

秋の枯れ葉が舞う階段で
もう足取りもゆっくりになって
杖をつき
ときどき転びそうになりながら
それでもふたりは助け合いながら道を歩いた

そしてある日とつぜん
木枯らしが最後の葉っぱをやさしく飛ばして
その日から

わたしは 一人で この道を歩いていた

あの 遠い幼い日のように
一歩一歩足下に確かめ
また わたしは一人で道を歩いていた

恋とか別れとか 笑顔とか涙とか
あなたたちが大きな声で叫ぶ幸せとか不幸とか

そういうことの 少し先へと (理沙)



                          倉敷・チボリ公園
                          撮影:risaSpec
                          Canon EOS 60D


寄り添う愛は美しいけれど、寄り添ってなきゃ信じ合えない愛は、どんなに愛し合っても肉体が朽ちることに勝てない。
わたしたちって、学生時代からどんなに愛の議論を重ねても、どうしてかどうしても、愛の、その指先にさえ触れることができない。

けっきょく、愛に終わりを告げる肉体の死に恐怖するからだ。
愛する人を失って、残されたその先の孤独に耐えきれそうにない。

でも。
わたしたちが生まれてきたのは、死を乗り越えるためだったんじゃないのか。
そして愛は、そんな小さなことの、もっとずっとずっと先にあるんじゃないだろうか。
じゃあわたしたちって論点を最初からずっとまちがえてきてるんじゃないだろうか。

どんなことがあっても。どんなに悲しくても。つらくても。
たとえ孤独になっても。そして、いつか死んでも。

その道を歩こう。
その先にある、愛を、最後まであきらめるな。
Posted at 2026/01/06 17:15:32 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日記
2026年01月03日 イイね!

また、山へ登ろう。

あけましておめでとうございます。


今まで言わなかったけど、じつはわたしは登山家なんだよ。
数年前にも富士山の山頂を目指した。

え?すごい?
すごくなんかないよ。だって登山家なんだもん。
お正月からのんきにテレビを観て、ぐちゃぐちゃ餅食ってるだけの君たちとはちがうから。

まあ君たちも、一日3千歩のウォーキングを雨の日と風の日以外に1か月もやってるrisaSpecなら富士山くらい登るだろうなとはうすうす思ってるだろうが、まあ一応、富士山に登った証拠として写真を見せておきます。

これは5合目の山小屋からわたしが撮影した写真です。




                              富士山新5合目
                              撮影:risaSpec

しかしこの5合目から先へ進もうとしたとき、山小屋の売店のおじさんから「ここで引き返しなさい。この先へ行ってはいけない」と言うのでした。

「どうしてですか?ここまでやっと登ってきたのに。雪崩でもあったのですか」

「君、ここまであの車で登って来たんでしょ?この先は道がなくてもう車じゃ行けないからね。自分の足で登る気はないんでしょ?」

こ、こんなことがあるだろうか。あともう少しだったのに・・

他人から山を降りろと指図されるのは、登山家として最大の屈辱だった。
でも車で行けないんなら、まあしかたがないけど。
「足で登る気ないんでしょ」だと? あたりまえだ! 寒い!



登山の目的は頂上に達することだ。
しかしどの登山口から登るかで、同じ山でもわりとラクに頂上へ行けたり、そうかと思えばつらくて苦しくて、何度も断念して引き返そうとしながらやっと頂へ辿り着く登山道もある。
ラクな登山口を選ぶべきだよね。
同じ頂上をを目指すなら、わざわざ困難な道を選ぶことはない。

でも。
登山家はなぜか。
ラクに頂上に達すると、次はより困難な登山口から登ろうとするのだ。
どうしてだろう。

わたしたちはみんな生まれかたがちがう。
生まれた場所も。環境も。
その人生の登山口を選ぶことさえできない。
そこから山を登って行かなければならない宿命だ。

だから、みんな、ちがう登山道を登るから、途中に見える景色もみんながちがう。
登り始めた時代によって、雪の季節だったり、激しい風雨のこともある。
頂上へ行った誰かが「この山はこういうふうに登るんだよ」と言ってくれても、みんな登山道がちがうんだから、そんなことなんの参考にもならない。

そして。
ラクな登山口に生まれた登山家は難なくその山を制圧して羨ましいけれど。
なのにその人はなぜ厳しいとわかっている登山口から再び登り直そうとするのだろうか。

それは山の頂上の景色が教えてくれるんだ。

「あらゆる登山口から登りなさい」と。

あるときは厳しい道を、でもあるときは楽しく、あるときは一旦引き返してしまうこともある。
けれど、どこから何度登ってみても、頂上の景色は同じであることを知るために。

いろんな人がいる。
いろんな考えの人がいる。
太郎さんとはわかり合えない。
そして花子さんとは話も通じない。

だから登山家は独りで山を登る。
この登山道は自分にしか歩けない道なのだ。
そしてその道を歩きながら、「After all alone(結局人は孤独)」だと知る。

けれど、翌年に太郎さんが登ったという登山口から登ってみる。
さらにその翌年は花子さんの登山道を登るとわかるんだ。
彼らがどんな気持ちでこの道を登ったのか。どこで苦しかったのか。どこで眠ったか。
そして、なぜあんな考え方になったのかが、なぜわかり合えなかったのか、それがわかる。

そして。
誰の登山道を登ってみても。
最後には、あの、同じ風景の山頂にたどり着く。

それを知るために登山家は同じ山をあらゆる登山口から、たった独りで頂上を目指すのだ。


それが、わたしは。

「リインカーネーション(転生)」だと思ってる。


誰もあなたのことをわかってはくれないの?
あたりまえだ。他の人があなたの登山道を知るはずはない。

人生は悲しいかい?
生きてることはつらいかい?

もっと強い体を持っていたら。
もっと美人に生まれていたら。
もっと頭がよかったら。
この山はかんたんに登れたはずだと思うだろう。

でもね。そういう恵まれた状態で登る登山道には必ずあちこちにいきなり転落する崖があることを知ってるか。
どの道も学ぶことがちがうだけで、過酷さはおんなじだ。
それで失敗した君は、生まれ変わって、今度は頭がわるいから欲がなく、かっこわるいからいい気にもなりようがない登山家として、もっと過酷な登山口に立つはずだ。
それなら道のりは前よりずっとつらくても、あと一歩のあの崖で転落することはないから。

そして、この人生で既に頂上を極めたと思ってる君。
君に聞くけど。

君さ、君は3合目に咲いていたあの小さな花を見たか。
厳しい風雪の中で懸命に身をよじりながら花を開こうとしていたあの花に涙したか。

また6合目では、自分の体を犠牲にしてまで雪から君を守り、休める場所をつくってくれた、あの何も言わない老木の愛に、その木陰を離れるとき君は感謝したのか。

だから、また登るんだよ。

だけどそしていつか。
あらゆる登山口の最後の登山口から、独りで山の頂にたどり着いたとき、やっと君は知るだろう。

「After all Alone」の人生は、「After all ALL」だったことを。

すべての人はちがうと思ってたけど、ほんとは同じであったことを。

みんながただ風に吹かれてこの頂からの景色を眺めることを。

みんなで手を繋いで登っているのでは何度登ったってわからない。
孤独な登山道を歩いたからこそ知るんだ。
「孤」とは、すなわち「全」であったことを。

以前書いた「After all “ALL”」とはこういうことを書いたブログだ。

「くじけるな。君ならできる」とか「やればできる」とか。
子どもの頃から聞かされてきて、もううんざりだよね。

「俺のことなんてなんにも知らないくせに」・・ほんとにそう。そのとおりだ。
テキトーなんだよ。そういうこと言って励ますやつなんて、自分に酔ってるだけだ。
相手にするな。

でもね。
このわたしが言おう。

「くじけるな。君ならできる」

それは昔その山の頂上に立った君が生まれ変わって登ってることを知ってるからだ。
もう何百回も。
だけど今度の登山口は厳しいね。今まででいちばんつらいよね。
その登山口を選んだ君の勇気には頭が下がる。

休んでもいいよ。休もうか。ちょっと。
でも、君ならできるんだ。わかってるんだ。

7合目からはまた東と西へ別れるけど。
わたしの肩につかまれ。
そこまで一緒に登ろう。

それがね。結婚っていうことだ。

2025年を越えた。
まだ頂上は雲の上に隠れてる。

2026年。
がむしゃらに登るんじゃなく、一歩一歩を丁寧に登っていこうね。
風の音を聞き逃さないように。
小さな花が震えるのを見逃さないように。
頂上に辿り着く自信がまだない今こそ、いちばんたいせつなときだ。
だってそれが約束されていたら、君はまた、周囲のことは見ようともしないから。

新しい年があけた。
新年早々失敗しちゃってもいい。

だいじょうぶ。
だいじょうぶだよ。

雲が切れたら、ゆっくり、立ち上がろうか。
Posted at 2026/01/03 20:50:51 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日記
2025年12月30日 イイね!

今年もありがとう 来年もよろしくね

わたしたちはいつも。

昨日の失敗を悔やんで肩を落としては、明日の不安に押しつぶされそうになる。

じゃあわたしたちって。

戻ることのできない過去と、まだやって来てもいない未来のことばかりに人生を費やす毎日で、今までの人生で、「今日を今日のために生きた日」っていったい何日あっただろうね。

100歳まで生きたとしても、その人の人生って、その中で「今日を今日のために生きた日の日数」のことだとわたしは思うよ。

大人になってからは、そんなの、5日とか6日もないんじゃない?
じゃ、人生は5日か6日だよ。
そんな短い人生でいったい何ができるんだ。

夢の中に生きるな。
昨日と明日という幻の中に生きるだけでは、最後の最後にそっと手のひらを開いてもそこには何もない。
夢から醒めたら、喜びも苦しみも、じつはぜんぶ自分が描いた幻だったことを知るだけだ。

ベッドに入ったら「これから死んでゆくんだ」と思い、朝起きたら「今生まれた」と思う。
そしてまた夜に死んでゆくのなら、人生は今日という一日だ。

肉体の寿命は、どうでもいい。
それは自分では決めることはできないし、人それぞれだ。
長いからいいとかって話でもない。

そんなことよりも。
この人生で、心の寿命を何日伸ばせるのか、それがたいせつだ。




2025年がまもなく終わる。
今年、頑張って勝ち抜いた君は偉かった。
そして、負けることに耐えた君はもっと偉かったね。

でもここですべて忘れよう。
明日に運んではいけない。

来年は、「今日のための今日」をたいせつに生きよう。



来年もまた、この生意気なrisaSpecを、どうぞよろしくお願いします。【理沙】



p.s. わたしのページで「あけおめ」「ことよろ」は禁止ワードです。
略しちゃいけないことって、あると思わない?
Posted at 2025/12/30 00:47:19 | コメント(7) | トラックバック(0) | 日記
2025年12月26日 イイね!

小学生の頃のrisaSpecに学ぼう。

小学生の頃、学年が上がって新しい教科書をもらうと、帰りのバスの中で国語の教科書をすぐに全部読んだ。
読んでいると、授業で何を問われるのかがだいたいわかってくる。
その答えもすぐわかるんだけど、するとすぐに、わたしはその答えとは真逆の答えの論拠を探していた。

授業では「では、みなさん、今読んだお話で、二人のおじいさんはどっちがいいおじいさんですか?」なんて訊かれる。

学級委員の沢田さんが「はい」と手をあげ、「わたしはコブをとってもらったおじいさんがいいおじいさんと思います。いいおじいさんだから鬼にコブをとってもらえたんだと思います。もう一人のおじいさんはわるいおじいさんだと思います。欲をかいているからです。だからコブがふたつになったのだと思います」

するとクラスのみんなは拍手をして、教師も満面の笑顔で学級委員を褒め称える。

小学生のわたしはこういう定番の流れに非常に違和感があり、抵抗があった。
なのですぐさま「はい」と手を挙げる。

すると教師はチラッとわたしを見て「またか」と、苦虫を噛んだ顔で目を逸らした。

「えー、それでは次に、、どうしてこのおじいさんは・・」

それでもわたしは「はい!はい!はい!」と元気よく手を挙げつづける。

そして深いため息をつきながら、やむなく「はい。理沙さん。短くね!短く!」

「はい。わたしは逆の意見です。コブをとってもらったおじいさんはわるいおじいさんで、コブがふたつになったおじいさんはいいおじいさんだと思います。」

「はい。長いのでもういいです」

「学級委員の沢田さんはもっと長かったです。
不幸がなくなれば人は幸せになります。2人のおじいさんにとって不幸はコブです。
一個ずつ同じだけの不幸を持っていました。
1人のおじいさんはその不幸を鬼にとってもらって、でも、その不幸はもう一人のおじいさんにくっつけられました。自分の不幸を他の人に背負わせて、自分だけは幸せになって最後の挿絵ではニコニコ笑っています。こんなおじいさんがいい人だとは思えません」

教師はピクピク怒りの表情ですが、わたしはかまわず続けます。

「コブをもらったおじいさんは2倍の不幸を背負わされ悲しいです。でもそれは確かに欲をかいたからです。2倍の不幸を背負わされたおじいさんはきっとそのことを深く反省して、10年後には、もう欲をかかない、自分の不幸を他人に背負わせたりしない、いいおじいさんになってるハズです」

「そんなこと教科書には書かれていないでしょう。ハズ、って何ですか。ハズって」

「芸能人はテレビでおならはしません。でも隠してるだけで家に帰ればおならはします。なのにテレビで見てないからというだけでおならはしない人ですか?オナラしてるハズです。」

教師は早く話を終わらせたくて、大きな声でこう結論づけました。

「このおじいさんは悪いおじいさんです!10年後にいいおじいさんになってると理沙さんは言ってますが、10年後は死んでます。だっておじいさんですから」

頭のわるい男子は「ギャハハ」と笑いましたが、わたしの目が輝きます。

「このおじいさんはいくつですか?50歳ですか?80歳ですか?寿命じゃなくて事故で死ぬんですか?そんなこと教科書のどこに書いてありますか?10年後に死ぬハズっていうのは何ページの何行目にありますか?」

教師は真っ赤になって怒り出し大声でこう言います。

「みなさん。世の中にはいろんな人がいます。理沙さんのようにひねくれた人もいます。でも沢田さんが言ったように書かないとテストで◯はもらえませんからね!」

わたしはさらに大きな声で言います。

「わたしたちはテストで◯をもらうために勉強してるんですか?」

「そうです!勉強はテストで◯をもらうためにするんです!」

「他の人を踏み台にして幸せになろうって、みんなで勉強してるんですか?そうしないと◯はもらえないんですか?!」

チャイムが鳴り、教室を出ていく教師をわたしは立ったまま睨んでいました。涙がポロポロ流れてきました。
なぜみんなはコブが2つになったおじいさんの気持ちにはなれないのか。
コブが2つになったおじいさんにもうしわけない気持ちだった。

後日、小学校に母親が呼び出され、こっぴどく叱られたようです。
いったいご家庭でどんな教育をなさっているのか。理沙さんがいると授業にならず、みんなが困る。こんな調子では附属中学には行けませんよ!・・・と。
こんなのが日常茶飯事で、迷惑をかけた。

中学になって、わたしはあの頃の自分は自己顕示欲が強かったのかなと思いました。
ほんとはコブがなくなったおじいさんがいいおじいさんです。
そんなことはわたしもわかっていました。
でもなぜ敢えて「わるいおじいさん」ということにしてわたしは国語教師に挑んだのか。それは目立ちたいという承認欲求だったのかな?とそのときは思っていました。

しかし高校生になって、体育を休み、体育館の隅に1人でみんながやるバスケットボールを眺めていたとき、わたしは小学生のあの頃の自分の真意にやっと気づいたのです。

体育の授業でやるバスケなんてポジションも戦略もありません。
ボールが右へ行けば右に、左に行けば左に全員がバタバタ走ります。
体育館の隅でそれを俯瞰するわたしには、その姿がとても滑稽に、また、おぞましく見えたのです。休んでなければわたしもあの中にいたでしょう。

なぜあんなにみんな必死にボールを追いかけるのか。
あのボールは、いったいなんだ。
あのボールは正義か、あのボールは幸せなのか。

必死にそのボールを追いかけ奪い合う友たちの姿を見て、「この人たちは、ふと立ち止まって、今自分が何をしているのか考えることはないのだろうか」と哀れになってきました。

そして小学生の頃のわたしが、なぜ自分でも間違ってるとわかってるディベートにあれだけ必死になったのか、当時のわたしでもわかってはいなかった、そのほんとうの気持ちにやっと気づいたのです。

あの子は。
どっちのおじいさんがいいおじいさんかなんてどうでもよかったのです。
ただ、あらかじめ決められた結論に、自分たちが教育によって洗脳されようとしていることに本能的に気づき、そこに抗おうとしていたのです。

すでに決められた価値観に、どのような個性や感受性があってもそれを学校教育は許さず、強引に潰し、同じ方向に向かわされる。
「1+1がいくつか」ならともかく、考え方やエモーションまでを。
そこに従わないと「◯」はもらえないのです。

体育館を飛び回るあのバスケットボールはテストの「◯」です。
それが欲しくてみんなが醜態を晒して必死に奪い合う。
なぜみんなは自分を失ってまで「◯」がほしいのか。
「◯」とは、なんだ。

ボールを奪えば勝者です。
奪われた人は「何やってんの!もうちょっとだったのに」とみんなから責められます。

みんな心にコブを1つずつ持っている。
勝者は「◯」をもらい、醜いコブがとれ、そのコブは敗者の誰かにくっつけられるのです。
勝者はそれを哀れむことはない。「ざまあ」と中指を立てる。
「◯」をもらうというのは、誰かに不幸を背負わせる。
受験の相対評価ってそういうことです。
こんなくだらないババ抜きに誰も疑問を持たずにみんながボールを追いかけ走り続ける。
それもそのはず、小学生のときから「このおじいさんが◯だ」と言われ、素直に従ってきた優秀な者たちです。

今でも学級委員みたいな人は大嫌い。
なぜかというとそういう人は自分の頭でものを考えないからです。

わたしに言わせれば、真面目で健全で頭がいいと評価されるこういう人こそ、頭がわるい。
こういう優等生が世の中をダメにしていく。
いとも簡単に洗脳されちゃうクセがあるからね。
むしろなんにでも抗ってきた不良のほうがよっぽどマシです。
少なくともまだ可能性を感じます。

社会に出て、仕事では、仕事の本質よりも、こういう優等生バカとの闘いに半分以上のエネルギーを消費させられてきたと思ってる。
公務員だった頃は、ほとんど身内のバカとの闘いに明け暮れた。

正しさとは、あらゆる思想も理屈も時代も超えて、人間の根幹を揺さぶるものでなくてはならない。
それは教科書には書かれてない。
だって、教科書に書かれている正義は国によってちがう。
世界中の国の人たちが◯を求めてその教科書を勉強するから、だから。
だから、戦争(たたかい)が起こる。

わたしは日本を愛しています。日本人であることに誇りを持っています。
そしてわたしたちは他国を批判し、でも他国から批判される。
学級委員は「武器なんか持たずに話し合いましょう。そうすればきっとわかりあえるはず」と手を挙げ、さらなるバカたちが拍手する。
でもね。
日本も、外国も。みんなそれぞれに異なる「◯」を持って、それを正しいと信じ抜いてる。
学級委員の論理では平和はいつまで経ってもやって来ない。

じゃあいったいどうすればいいのか。

あのね。

一次元は線、二次元は面、三次元は面に高さという概念を加えた立体です。
二次元の住人は平面でしかないから、紙の上に何が書かれているのかわからない。
平面っていうのは、その紙を上からでなく、真横からしか見れない世界だからね。
だから何が書かれているのかわからないけれども、そこに書かれていることは、「みんなには読めないかもしれないけど正しいんですよ」「◯なんですよ」とだけ教えられる。
しかし三次元の住人なら、高さがあるから、真上から何が書かれているのかが読める。

当時学級委員の沢田さんもわたしも、ただのガキだ。
二次元の住人みたいなものだ。
大人が紙の上に何を書いたのかわからない。
それはより高次の三次元に行って真上から紙を見なければわからない。

それができない小学生のわたしは、パラドックスという手法を使って、必死にそのひとつ上の高次の視座を得ようとしていたんだ。
だから。三次元の住人からはいつも嫌われた。


愛とはなにか。
平和とはなにか。
調和とはなにか。
やさしさとはなにか。
ほんとうの平等とはなにか。


そんなこと、わたしたちにはわからない。
だって三次元を越えられないから。
だったら。
もうひとつ上に行こう。
より高次の四次元に行けばそれはきっとたちどころに、かんたんにわかるはずだ。

じゃあどうすれば三次元のわたしたちはその視座を持てるんだ。

わたしたちが心に持つ醜いコブは、わたしたち自身がつくった。
それは自分自身で取り去る責任がある。
少なくともそれを誰かに押し付け、背負わせるような考えを持ってはならないのだ。

そのように、小学生だったあの子が。
わたしに、そして世界に、今も叫んでる。

あの子は。
あんまり成績の良くない子だったし、棒切れを持って1人で探検に出かけては辺りが暗くなっても帰ってこない心配ばかりかける子だったけど。
あの子に会いに行きたい。タイムマシーンができたら真っ先に。
あの子を前にしたら・・
今のわたしなんか、とてもかなわないんだろうと思うんだ。
Posted at 2025/12/26 11:52:06 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記

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