最初に言っておきますが、わたしはSMというものに興味がありません。
そのわたしがSMを語るといえば、みんカラの中にもいる変態たちは「知ったかぶり」とバカにするでしょう。
しかしわたしはみなさんとは頭の構造がちがいます。
以前書いた
「少し前を歩く娘へ」という詩は、大人になった娘がいる父親になりきって書きましたが、ほんとのそういう人以上に娘への父親の気持ちを表現できてると思います。
わたしのシミュレーション能力はことほどさように凄まじいのです。
そして今日のブログを読んだら、今までSMマニアだった君も、あるいはSMなんかきもちわるいと眉をしかめるあなたも、今までの価値観が大きく音を立てて崩れ去り、全員がこれまでとはまったくちがう気持ちでSMを賞賛することになるでしょう。
わたしは20代の頃テレビ局で働いていました。
局の近くの喫茶店で昼食を食べていると、よく知ってるチャラいディレクターが知らないおじさんと2人で入ってきて、わたしを見つけて「理沙ちゃん、ここいい?」と言って「いいよ」とも言ってないのに図々しく座ってきました。
そしてそのディレクターは、一緒に来たおじさんにヘラヘラ笑いながら「こちら、ドSの理沙ちゃんです」とわたしを紹介したので、パスタを食べながら上目遣いでディレクターを睨むと「ほらほらほら、ドSドS」とおおはしゃぎです。
そのときもう1人のおじさんが「ははは。このお嬢さんはSなんかではないよ」と笑いました。
するとディレクターはびっくりした顔をして「え?!Mなんですか?理沙ちゃんが?!ないないない」と笑います。
わたしがディレクターに「おまえさ、世の中にはSかMかの2種類しかいないと思ってる?世の中は頭いいやつとおまえみたいなバカの2種類だよ」と言うと、おじさんは「そのとおり。いやあ愉快愉快」と、大きくうなづかれたのでした。
このおじさんは何かの番組の収録で来てた「SMの大家」なんだそうです。
その後SMについて難しそうな話を語り出されましたが、わたしは興味ないのでほぼ聞いておらず30分くらいで席を立って別れました。
ただ、このとき、そのおじさんが「多くの人が言ってるSMは、あんなのはただのリンチだ。ほんとうのSMは愛なんだ」と言ってて、わたしはさも感心したように「はああ、そうなんですかあ」と深くうなづきながら、頭の中では「こいつアホか」としか思っていませんでした。
しかし、あれから長い時を経て、そんなことすっかり忘れていたわたしでしたが、つい最近わずか1分で、そのSMの真髄に目覚める出来事があったのです。
みん友のみなさんはよくごぞんじのとおり、わたしは1日3千歩ものウォーキングを毎日しているスポーツウーマンですが(あーいやいや、もう19日間も続いたのでアスリートかな?)、休日、住宅街を歩いていると、小さな子どもとお父さんが外で遊んでいるところに出会いました。
親子は家の前で楽しそうにしていましたが、不意に子どもが後ろを見ている隙にお父さんがさっと車の後ろに隠れたのです。
振り返った子どもはお父さんがいなくなってて不安な顔で「おとうさん・・おとうさん・」とつぶやくように呼び、その後大声で「おとうさーんおとうさーん」と、もうギャン泣きです。
するとお父さんはパッと車の影から飛び出してきて笑顔で両手を広げ、子どもはお父さんに向かって泣きながら走って飛び付きます。
お父さんは力強く抱きしめ、その子の頭をくしゃくしゃに撫で回してました。
わたしは微笑みながらそこを通り過ぎましたが、いきなり脳がギュイーンと回り始めたのです。
今の光景は大人の目線からすると微笑ましいものです。
みなさんだってやったことがあるでしょう。
子どもがいない人でも、飼っている犬にはやったことがあるでしょう。
しかしこれを子どもの立場から眺めると、もう立派に虐待です。
子どもが悲しむことをわかっていて、わざと隠れているのです。
子どもは不安で悲しくなって「自分は見捨てられた」と思うかもしれません。
それを車に隠れてニヤニヤ見てるだなんていじめでしかないではありませんか。
そういえばよく思い出すと、さっきの子どもはお父さんが現れて、走って抱きつきに行ってますが、笑顔ではなかった。
悲しみの顔のまま、唇を噛んで走ってました。
その奥には「なんでお父さんはボクをこんな悲しいめに遭わせるの」といってるように。
でもお父さんはそんな子どもを抱きしめながらきっと「かわいい!どんなことがあってもこの子を守り抜いてみせるぞ!」と思ったことでしょう。
そして「これが愛だ」と言い張るでしょう。
この二律背反はいったいなんだ。
「ほんとうのSMは愛なんだ」というあのおじさんのことばが思い起こされます。
住宅街をウォーキングしながら、この謎について、天才の脳が動き出します。
もう2千歩も歩いているので、残りあと千歩で答えを出したい!
3千歩を超えると膝がガクガクで夕飯がつくれなくなります。
親が小さな子どもにかわいいドレスを着せて「わあお姫さまみたい!」というのはわかります。
しかし一方で怪獣の着ぐるみを着せて、「わー怪獣だあ」って笑いながら逃げる親もいます。
なぜかわいい我が子に醜い姿の怪獣の着ぐるみを着させるのか。
しかしそうすることでなぜ我が子がものすごく可愛らしく見えるのか。
わたしの知っている70歳近い男性が「笑われるだろうけど同じ歳の妻が可愛くて仕方がない」と言うのです。
奥さまも知っていますが、ふつうにお婆さんです。
彼女は若い頃、ものすごく美人だったのだそうです。
しかし年齢には勝てず今ではしわくちゃのただのお婆さんになってしまい、でもだからこそすごくかわいくて愛おしいのだそうです。
奥さま自身はおそらく「歳とったんだから当たり前じゃん」と思ってるでしょうけど、そこがまた怪獣の着ぐるみを着せられてきょとんとした顔をしている子どものようなのでしょう。
わたしはこの男性が、美人の容姿の奥にある、奥さまのほんとの姿をずっと愛し続けていることがわかりとても感動したものです。
それは「あら、仲のおよろしいこと」なんて茶化せる話ではなく、頭が下がる思いでした。美人だったならなおのことです。
老いても仲がいいことが素晴らしいのではなく、このご夫婦は知り合ったあの若い頃から、本質から外れたところには心を奪われず、さいしょから愛に気づいていて、その愛にずっと忠実に歩んできたお二人なのです。
肉体は日々朽ちていきます。
知り合った頃は、たくましかった男性や、美人でスタイルのよかった女性も、それから数十年経ち、見るも無残な姿になっています。
そう言うと「失礼ね!」なんて言うから愛が見つかりません。
「失礼だ」という人は一生を通じてあなたの人間としての魅力は肉体だけでしかなかったのだ、とあなた自身が言ってるのと同じです。
老いていくと、人は、若いときに持っていた武器をすべて奪われます。
男性も筋肉が落ち、女性も美貌が失われ、頭がいいと言われてた人もだんだん「ちょっとアレとって。アレって何?って、だからアレだよアレ」っていうようになってきます。
年収が高くても65歳になって年金生活に入れば平均受給額は14万円。中央値では10万円ちょっと。国民年金だけだと5〜6万円。
蓄えがあってもこわくて使えないでしょうから財力も奪われたに等しい。
そういうすべてが失われてしまったとき、最後に現れてくるのがその人の本性です。
そこが純粋な人はそれでも、いや、すべてを失ったからこそ、かわいいのです。
仕事上の立派な肩書きや、かっこいいクルマや、おしゃれな洋服や、化粧で覆われた姿に惑わされることなく、その人の本当の姿が、飾るものが何もないからこそ誰にでもクリアに、あけすけに見えてきます。
そこに感じる「かわいらしさ」は、若い女の子のこざかしいかわいらしさとは次元を異にして、非常に「ほんとうの愛」に結びつきやすい純粋なかわいらしさであり、そこを愛おしいと思える心もまた、とても「愛」に近づいている。
肉体が老いていくとき、そこで初めて人間はほんとうの真価が問われるのです。
奇しくも最近のブログに「10人の中から1人を選ぶんじゃなくて、10の顔を持つ1人の中からその人のたったひとつの本当を探して拾い上げることが愛だ」と書いたけど、そこにも通ずる。
本気でお化粧してブラにテニスボールを10個詰めたら10人の中から選ばれます。
しかし、そういう女が男性に望むのはね・・・
その手で優しく化粧を落としてくれて、ブラからテニスボールを全部出して、そして「かわいい」と言ってほしいのです。
(「でも理沙ちゃんの場合、2個は残しとこうね」とかそういうギャグは要らない)
もしもわたしがみん友さんのtakaさんとたっちゃんとトシゾーくんを縛り上げてムチでしばき倒して、それでも3人揃って「り、りささまぁ」と必死でローソクまみれの手を伸ばしてきたらかわいいだろうか。
2500歩のところで立ち止まり、ふと想像する。
いや、きもちわるい。てゆーかこわい。
なぜかというと、それはただのリンチだからです。
それがSM「ごっこ」です。
経済や経営がわかっていない子どもが「お店屋さんごっこ」してるのとおんなじだ。
SMは、惨めに陥れられてもなお相手にすがるという本性を掘り起こすための擬似的な手段なのです。
それは裸になんかならなくていいし、縄もローソクもなくていい。
愛する我が子から身を隠す行為もそうだし、女性なら経験してるだろうけど、わたしも男性によくやられたあの行為。
「理沙ちゃん、今ビリっていった。お尻のとこ破れてないか見て」とお尻を突き出し、至近距離でわたしの顔にオナラをするあの行為。
そしてそんな下劣なことをしておきながら、「ううっ」って顔を歪めるわたしに「かわいそうな理沙ちゃん」と大笑いしながら抱きついてくるあの心理もそうでしょう。
かわいそうならすんなよ、まじで。
SMというのは主従の関係だと思うけれど、女性が総じてS化してきている。
女性と男性でいろんなことを区別するのはおかしいという。
躾というのができず、息子がスーパーの駐車場で停まってる車を次々ボンボン叩きながら走ってもニコニコその後ろを歩く親を見た。「この車の持ち主もうちの王子様に叩いてもらって嬉しいでしょうね」ってなもんだ。親が子どもにひれ伏し従属するとこういう異常な姿になる。
主従が逆転した愛憎は、SMごっこのリンチでしかない。
愛を取り違えてしまった先には、すさんだ荒野が未来に置かれるだろう。
主従というのは、偉いとか偉くないとか、そういうことではなく役割なんだ。
女には男の主導が必要であり、男にはそれを支える女が必要なのだ。
雪山では激しい風雪に人間はかんたんに倒れてしまう。
男が抱きしめて吹雪から守ってくれないと女は死んでしまう。
でも抱き締める男は一身に吹雪を受けても、じつはその内側から抱きしめた女の体温がずっと温め続けてくれているから2人は吹雪なんかに負けないんだ。
どちらが上とか下とかではなく、これが調和することで生まれる強さなのです。
ふたりが共に同じ、あなたたちがいう「対等」の立場で、「あなたはそっちで頑張って!わたしはこっちで頑張るから!」なんてやってたら2人とも死ぬだけなんだよ。
「あら、それは男女共同参画に反するんじゃないかしら!」って、、
いいから黙ってろ。
そういう底の浅い話をしてるんじゃないんだよ。
ローソクたらすぞっ