みなさんは古事記って読んだことがあるだろうか。
だいたいみんなが知ってるのは日本書紀のような気がするけど、最近古事記を夢中で読んでいる。
天の高天原の神々が、イザナキ神とイザナミ神に
「この漂っている国をつくり固めよ」と命じて、イザナキ神とイザナミ神が潮をかき鳴らして、引き上げた時、その矛からしたたり落ちた潮が
積もり重なって島になった。
この島は淤能碁呂志摩(おのごろじま)といって、沼島のことではないかといわれている。
「潮をかき鳴らして」というのは場所からしてうずしおのことだろうね。
そしてこの島にイザナキとイザナミは降り立ち夫婦の契りを結ぶ。
この沼島に上立神岩という岩がある。
この岩のことはちょっと頭に留めてほしい。
さて。
ちょっと話変わって、みなさんは「かごめかごめ」の歌は知っているでしょう。
この歌は日本語なので意味としてはわかる。
わかるけれど何を意図しているのかはさっぱりわからない。
ただ「神の依代(よりしろ)や神座(かみくら)を中心として,その周囲を繰り返し回りながら神がかりする」とされている。
なんとなく「かごめ」とは「囲め」であり、囲んだ中心には籠があって鳥が入っていて、というのはわかるけど、「夜明けの晩」だとか「後ろの正面」だとかになってくると解釈に困る。
なぜか。
なぜ平易な日本語であるのにわたしたちにその意味がわからない。
「かごめかごめ」というのは、日本語のようであって、じつは日本語ではなくヘブライ語であるという説がある。
ヘブライ語で「カゴー」という言葉があり、その意味は「囲む」。
これに「誰を」とか「何を」を意味する設尾語の「ミー」をつけて「カゴーミー」とすると「誰を(何を)囲む?」ということになる。
「(カゴー)ナ」(お願いします)
「ナカナ」(休む)
「トリー」(取りはずせ!という強い命令)
「ヴァ」(そして、という意味の接続詞)
すると
カーゴミー カーゴミー
カゴーナ ナカナ トリー ヴァ
と読み替えれば明確な意味が浮かび上がってくる。
誰を囲う? 何を囲う?
取り囲んで休んでください
そして 取り出せ
「取り囲んで休んでください」というのは、自分達にとっては取り囲んだ何かを休ませるために、「しっかりと取り囲んで守れ。安置せよ」という意味にもなる。
「そして取り出せ」というのは「そしていつの日にか取り出せ」だとわたしは解釈している。
この後もことごとくすべてのワードがヘブライ語に置き換わる。
「いついつ出会う」は「ヒィツィ ヒィツィ ディユゥー」だし、
「夜明けの晩につると亀が」は「ヤー アカー バンニ ツ カメア」。
「滑った」は「ショーヴェッテ」。
「後ろの正面だーれ」は「フーシャー ショーメム ダラッ」。
ではヘブライ語をまとめて現代日本語に訳してみる。
何を取り囲むのか?誰を囲んで守るのか?
封じて安置すべきものを取り出せ!
そして火をつけろ!燃やし尽くせ!社を根絶せよ!
造られたお守りの岩は功を奏することなく
焼かれた荒れ地は見捨てられた
たいへん恐ろしい詩であるが、これには別の解釈がある。
とくに例の「後ろの正面だーれ」というところが鍵になる。
「後ろの(正面)」を「フーシャー」とすれば「見捨てる」という意味なのでこうなるけれど、「フシュラッ」というヘブライ語だと「支配された」という意味に置き換わり、「ダラッ」ではなく「ダラー」だと「荒地に水を引く」というまったく反対の意味になってくる。
何を取り囲むのか?
誰を囲んで守るのか?
封じて安置すべきものを取り出せ!
そして火をつけろ
燃やせ
社を根絶せよ
お守りの岩は水が湧き、荒地が支配され水を引く
そしてわたしにはどうしてもこちらの解釈のほうが正しいと思えてならない。
それはもう一方の「焼かれた荒れ地は見捨てられた」という解釈であれば「トリー ヴァ(取り出せ)」という詩が存在意義を失うと思うのだ。
そしてそもそも「後ろの正面 だーれ」と歌うのなら「フーシャー ショーメム ダラッ」よりも「フシュラッ ショーメム ダラー」ではないか。
もうひとつ。
これはヘブライ語だからといって遠いイスラエルのことを歌ったものではなく、ヘブライ語で日本に向けて歌われている。
ではいったいいつ誰が「カーゴミー」を「囲め」とし、「フシュラッ ショーメム ダラー」を「後ろの正面だーれ」と日本語に置き換えたのか。
それは時代を考証すると、当時、ヘブライ語と日本語を理解していた空海だったのではないかと言われている。
そしてなぜこの歌は大昔から日本の子どもたちに歌い継がれてきたのか。
すると、つまり、こういうことではないか。
日本のどこかに大きな岩に守られたたいせつな何か、、秘宝と言っていいかもしれない、、、があり、しかしあるときその岩は守りきれずに焼かれるけれど、そのとき守られていた秘宝が現れ、荒地は幸福に満たされる。
このことをすべての日本人は忘れてはならず、子どものときからずっとわらべうたとして歌い継がれてきたのではないか。
さて、ここで古事記に戻る。
イザナキとイザナミが最初につくった淤能碁呂志摩の「上立神岩」を検索して画像を見てほしい。
この岩は30メートルもの高さがあり、1億年前の地球のシワを残す奇岩として知られる。
これこそが、「かごめかごめ」に歌われる「お守りの岩」で、ここに秘宝は安置されているのではないだろうか。
「かごめかごめ」で囲んでいるのは、この「上立神岩」なのではないか。
そして、この岩はいつか、何かとてつもなく大きな力によって焼き尽くされ、秘宝を守りきれなくなるのだという。
さて、イスラエルからも古事記からも離れて、現代の日本に戻ろう。
これは最近気づいた。
これを言いたくて今回ここまで長々と書いた。
いつ発生してもおかしくないといわれる巨大な南海トラフ地震。
その震源域は東は静岡から西は宮崎までの広範に及ぶが、そのちょうど中央、ほんとに中央にあるのが、、、
それが。
イザナキとイザナミが最初につくった「淤能碁呂志摩」(沼島)と「上立神岩」である。
南海トラフ地震は終焉ではなく、「かごめかごめ」によればそのとき「神の宝は地上に現れ」、「荒れた」(日本の又は世界の)「大地」が「幸福で満たされる」のだ。
それを信じよう。
だいじょうぶ。
わたしたちは、死なない。
泣きじゃくりながら、みんなで手を繋いで、その恐怖を乗り越えてみようか。
その後、すぐに。
まもなくすぐに。
南海トラフをもっともおそれる地域に住む人こそ、真っ先にその奇跡を見るかもしれない。
注・risaSpecの勝手な妄想です。
<追記>
勝手な妄想ですが、そのついでにもう少し言っておくと、南海トラフ地震の発生確率は30年以内に70〜80パーセントと言われ、先ごろ80パーセントに引き上げられました。
日本の各地の予想される地震はすべて発生確率も発表されていますが、その計算には単純平均モデルという計算方法が使われています。
ところが、南海トラフ地震、このただひとつだけが時間予測モデルという、他とは違う計算方法が採用されていてほとんどの地震学者が科学的事実と矛盾すると、発表時に政府に反対したそうです。
しかし政府としては時間予測モデルによる結果をどうしても採用したがり、それならせめて「時間予測モデルではこうだけど単純平均モデルではこうなる」と併記するように求めて一旦おさまったんだけど、政府は結局これを無視して時間予測モデルの30年以内に70〜80パーセントだけを国民に発表したのです。
これはずいぶん前に東京新聞が証拠と共にすっぱ抜いています。
なぜかわかりますよね?広範囲で巨大な南海トラフ地震にはみんながおそれるのでそこにはお金を集められます。協力した地震学者は研究費が集まります。
そして国民に対しては、予測される災害は常に最悪のシナリオを想定すべきである、と言い訳すればみんなも納得しちゃうでしょう。
それでは南海トラフ地震が今後30年以内に起こる確率を、政府発表の時間予測モデルではなく、多くの地震学者が唱え、南海トラフ地震以外のすべての地震の予測に用いられている単純平均モデルで計算するとどうなるか。
発生確率は、80パーセントなんかではなく、20パーセントとなるそうです。
また巨大地震であるかどうかもはっきりとわかっていません。
まあ震源が陸に近いので津波の到達速度が東北の震災よりはるかに早いというのは確かでしょうけど。
今日交通事故に遭う確率が80パーセントといわれたらわたしは家から外に出ませんが、20パーセントなら通常運転です。そもそも事故の確率0パーセントの日なんてないですからね。
皆さんはどうでしょうか?
ただね。確率が1パーセントでもあれば、「南海トラフ地震なんか起こらない」というわけではないし、むしろいつか必ず起こります。そしてそれが明日起こる可能性だってあることはあることは、勘違いされないよう念のために申し添えます。