2025年01月14日
成人式に100円の缶コーヒーを想う 〜 risaSpecの教育論 〜
昨日は朝から大忙しでした、
成人式に出席するからです。
もういったい何度目の成人式かも忘れましたが、とにかく成人の日は成人式です。
そして毎年毎年、区長さんから「今日からみなさんも20歳の自覚を持って」と言われてるから、毎年毎年20歳として生きているので、また今年も成人式です。
じつはもうそろそろ2025年はやめてもいいんじゃないかのかなあ、と思い、去年親しい友人2人に聞いてみたのです。
「ねえ、わたしって20歳に見えてるよね?」
「20歳?それはさすがに無理があるんじゃない?」
「そうそう。いくらなんでも20歳には見えないよ。誰が見たって」
そうなんだ。
20歳に見えるように頑張ってきたつもりでしたが、どうやらまだ大人にはなりきれず、他人の目からはまだ18歳だか19歳にしか見られていないことがわかりました。
わたしはいったいいつになったら大人になれるのでしょうか。
もうガキっぽいのは嫌です!
早く、妖艶な熟女とか言われてみたいのです!
でもまあ自分では大人のつもりでも、みんながそう言うのなら仕方がありません。
今年もまたやっぱり成人式に行かなければなりません。
入口へ行くと区役所のおばさんに止められました。
「あらまあ、理沙ちゃん、今年もまた来たの?」
「はい。おばさんこんにちは」
「あのね、理沙ちゃん。去年もおばさん言ったと思うんだけど、成人式って一生で一回だけのお式なの」
「でもおばさんだって毎年来てるじゃないですか」
「そう言われちゃうとおばさんもちょっと恥ずかしくなっちゃうけどね。でも去年もうこれで最後よ、来年はもう来ちゃダメよって、おばさん、ミカンあげたと思うんだけど」
「もう食べちゃいました」
「うん、食べたとか食べないとかじゃないのよ。理沙ちゃん区役所からの案内ハガキ持ってないでしょ?」
「あ、待ってください。持ってます」
「え?持ってるの?・・・あ、理沙ちゃん、これはね、、よく見てごらんなさい?
<成人式>じゃなくって、<成人病>って書いてあるでしょ? これ成人病検診の案内ハガキなのよ」
「・・・・・」
「あ、ごめんなさいね。おばさんも悪気があって言ったんじゃないの。ちょっと間違えちゃったのよね。じゃあ中には入れないけどおばさんの横にいていいわよ。もうすぐお式が始まるから。声が聞こえるようにここのドアを開けておくわね。でも今年はぜったい入って行っちゃダメよ」
——— みなさん本日はご成人おめでとうございます。みなさんも今日から大人の仲間入りです。晴れてお酒も飲めるし、もう少年院ではなく堂々と大人の刑務所に入れるし、マクドナルドなんかでちまちま働かなくても胸を張って風俗店でアルバイトできるようになりました。
「理沙ちゃん。なんで興奮してるの?胸を張ってって言われたでしょ?胸が張った人でないと面接で落とされるから理沙ちゃんには関係ないのよ」
――― それでは新成人の皆さんで「翼をください」を大きな声で歌いましょう!
「理沙ちゃん。またあのお歌だけど、今年は歌いながら中に入って行っちゃダメよ?」
――― いまー わたしのー ねがーいごとがー
「ちょっとみんな!その子を止めて!理沙ちゃん!理沙ちゃん!」
――― かなーうーなーらばー
「みんな早く止めて!あの1人で歌いながら入って行くおばさんを止めて!」
――― この大空に翼を広げー
「理沙ちゃん、両腕広げちゃダメ!止まって!気をつけ!気をつけして!止まれ!」
――― この大空に翼を広げ 飛んでゆきたいよー
「理沙ちゃんが歌いながら体揺すり始めてる!教育委員会全員であのおばさん取り押さえてー」
――― 悲しみのない 自由な空へー 翼はためーかーせー 行きたいー
「110番!警察ー!!」
その後警察の人にも来年からはもう来ないように言われたんだけど、こっちも行きたくて行ってんじゃないんだよ。
わたしだって早く大人になりたいのよ。もう振袖も擦り切れて毛羽立ってるし。
帰るとき、たっくんとケンヤが「おー理沙、成人式終わったし飲み行こうぜー」って言うので、イライラしてたわたしはつい怒鳴ってしまいました。
「おいっ、二十歳のガキが大人に向かって偉そうな口をきくなっ」
自分の成人式の日。わたしはどこで何をしていたのかさえ覚えていない。
大学か、音楽スタジオか、冷たい手をさすりながらガソリンスタンドでバイトしていたかの毎日だ。
恋愛映画とか、青春ドラマだとか、そういうところとはずっと遠いところでいつも走り回ってた。
あの頃、わたしを大切にしてくれてた恋人を、わたしは女らしいやさしさで包んであげることができなかった。
レコード会社のディレクターにデモテープを持って行って、恋の歌を書け、人生がどうとかガキが歌っても響かないんだよ、こんなオーケストラみたいな凝ったアレンジいらないから歌いやすいメロディーで8ビートでシンプルに、あ、それとお前次のライブはミニスカートはけよ、パンツ見えるような、とか言われる。
でも彼だけは「理沙の音楽はすごいよ」って言ってくれた。
ラジオのテーマ曲に採用されたときは自分のことのように喜んでくれて、「理沙、サインしてくれ」って言ってた。
故郷を離れて、いつもお金がなく、力もないわたしたちは、バイト帰りの道で車が勢いよく跳ねた水たまりの水を被った。
「いつか見てろ」なんて言葉だけが空回りする二人の<20歳の子どもたち>に、この東京という街は大きすぎて、そして冷たすぎた。
彼が故郷へ明日戻るという夜、東京にはめずらしく雪が降って、川沿いの道で待ち合わせた彼はとてもやつれて見えた。
彼の頬に手を当てて「痩せちゃったね」って言いながら、人前で泣かないわたしなのに涙が溢れてきた。
別れの悲しみじゃなくて、明日からの孤独への怖さでもなくて、ただどうしてふつうの女の子のようにいっぱい笑顔をあげて、セックスをして、黒く焦げたハンバーグをつくって舌を出すことできなかったんだろう。そして。
そしてわたしはどうして「愛してる」のひとことをいつも言い忘れたのか。
それが、とても悲しかった。
「理沙、泣かないで」と彼は精一杯の笑顔で温かな缶コーヒーをわたしにくれた。
「理沙の恋人だったことは僕の誇りだ」そう言って去って行く後ろ姿に向かって、わたしはずっと頭を下げていた。
あの缶コーヒーの、もう頼りない温もりを、今でもわたしの手のひらは覚えてる。
それから30歳を過ぎるまで、わたしは恋人をつくらなかった。
若さは、なんでもできると思いながら、なんにもできない。
なんにだってなれると大人たちに言われながら、なんでもないのが若さだ。
かっこなんかつけたって、どんなに男の子たちから声をかけられても、ペラッペラだ。
でも、そのチンピラたちは、その時代をどう生きたかで、たった100円の缶コーヒーで人の温もりを知り、涙ってどんなときに流すべきかを知る。
わたしには子どもがいない。
なのになぜか、もし子どもがいたら、母としてどう育てるのか、何を教えるべきかを考えることがある。
子どもには子どもの考えがあり生き方があるから、それは実際に子どもがいなければ何が正しいのかわからないけど、ただできるだけ子どもを助けたくないと思う。
おいしいご飯を20歳になってもつくってあげたりしてたら、何にも言ってないのにその食後においしいコーヒーなんか淹れてたら、「酸味強いわ。ブラジルあったっしょ」なんて言わせてたら、あの暗く寒いコンビニの駐車場の隅にうずくまって一人で食べるヤマザキの肉まんのおいしさに小さく笑顔になったり、100円玉で買えてしまう缶コーヒーの温もりに誰かのせいいっぱいのやさしさを感じることはない。
子どもが河を飛び越えようとするとき、手を貸してはいけない。
その子が勇気を振り絞って自分で跳ぶまで、対岸であなたはただ待つんだ。
だけど、その子が怖くて泣きながら、それでも覚悟を決めて飛んだときに。
よろしいか。どんな角度から飛んできてもぜったいにその子を抱きとめるんだ。
どんなことがあっても、ぜったいに落としてはいけない。それが、親だ。
夢とは、つかんだときじゃなくて、それを追いかけてるときの風景に何を感じて走り続けるのかがいちばんだいじなんだ。
それを伝えるために、また来年も成人式に行こうかと思うんだけど、どうかな。
p.s.「成人式のご案内」と「成人病のご案内」ってとこ、わたし天才だよなあ。
自分でしびれた。
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2025/01/14 03:00:44
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