2024年06月22日
人は誰でも、できればきれいな心で生きたいと願うものだ。
しかし心が一点の汚れもなくきれいだという人はいない。
社会の中でいろんな人と関わるたび、人はときに優しさや愛にも触れるが、それよりもむしろこの心の汚れが刺激され、憎悪やプライドで争いを起こし、ますます心を汚していくことがほとんどだ。
でも逆に心のすべてが泥のように汚い人というのもいない。
それもただの1人もいない。
心とは透明なグラスにきれいな水が入っていて、でもその底に少し泥が沈殿しているような姿だろう。
だから一見すると、泥はあるものの大部分がきれいな水である。
だからたいていは、その泥に気づかない。
そして自分の泥にも多くの人が気づかない。
気づかないから気づかないうちに、人と関わるたび密かに泥は増していく。
ある種の人は。
グラスを眺めて、僅かに沈殿する泥を許せない。
自分の心の中に、少しでも泥が存在してることを許せない。
だからその泥を全部取り出してグラスの中をきれいな水だけにしようと試みる。
こういう人はいい人だ。
こういう人は頭のいい努力家であり、完璧主義者だ。
そしてこういう人は、ほぼ確実に精神障害に至る。
なぜか。
実際にグラスにきれいな水を注ぎ、そこに土を入れてみよう。
しばらくすると土は重いのでグラスの底に沈殿する。
この土をあなたならどうやって取り出すだろうか?
別のグラスを用意して泥を通さないフィルターをかぶせて、そこにグラスの水を移すという方法はだめだ。
心と心の器はあなた1人の一つのものでしかない。他人の心なんか使えないのだ。
そのひとつのグラスの中から物理的に取り出さなければならない。
そしてそもそもそんな心のフィルターをあなたは持っているのか。
そんなものがあれば最初からグラスにかぶせておけば泥なんか入ってこなかった。
水と一緒に泥もシンクにぶちまけてしまうのもだめ。
グラスの中が空っぽになる。
心のない人間は、もはや人とは言えない。
きれいな水だけは残さなければならないのだ。
スプーンで泥をすくい出すしか方法はない。
それは至難の業だけどそれしか思いつかない。
でも泥をすくい出す度に、きれいな水も少しずつ捨てることになってしまう。
それはもったいなから今度はピンセットで一粒ずつ取り出すことを試みる。
何千何万、いやそれ以上の泥の粒子をつまんで取り出すのはおそらく時間がかかり、生きてるうちにはできないかもしれない。
そしてその間自分のきれいな心は無視して泥だけに意識を集中するから闇に人生を奪われることになるだろう。そして。
そしてどんな方法をとっても泥はかくはんされ、水の中で舞い上がり、泥の量は変わらなくてもグラスの中は一面が泥水になる。
心の中の泥を取り出そうとしたら、逆にグラスの中は泥だらけになってしまう。
それを見たとき。人の精神は、必ず壊れる。
そのとき、グラスが、音を立てて壊れる。
では、泥を取り出す方法を教えよう。
じつはかんたんだ。
グラスの中の泥はどうでもいい。
それがどれだけ溜まっていようが、そんなこともどうでもいい。
グラスの中から泥を取り出すのではなく、グラスに、ただきれいな水だけを注いでいくのだ。
水道の蛇口の下にグラスを置いてただきれいな水だけを注ぎつづける。
そうしていつかグラスの中を眺めたら、気づかないうちに、泥はきれいな水を注ぎつづけたことですべて跡形もなくグラスから溢れ出て、ただの一粒も残っていないだろう。
グラスの中は、きれいな水だけになっている。
よろしいか。
自分の心の醜さにいちいち目を向けるな。
人間は、泥には、勝てない。
「自分がやったことを反省しろ」というが、反省したって一度入り込んだ泥は消えないし、取り出すことも至難の技で、そうやって反省してるうちに心が壊れる。グラスは割れてしまうのだ。
「反省」とはやってしまったことにクヨクヨすることではなく、もうせめて新たな泥をグラスに入れないことを心に決めるためにするものである。
涙は、悲しいときには流すな。美しさにこそ涙しよう。
わたしは方法を示した。
君に委ねたいのは、新たに注ぐその水は、ほんとうに「きれいな水」なのかどうか?
それだけは、あなたが選んで決めることだ。
ねえ。
そしていつか。
遠い、いつか。
グラスに一片の汚れのないあなたのきれいな心を。
あなたの愛する人が、かつてのあなたのように水の中に泥を溜め込み死を決意したり、心病むとき。
静かに自分の水を注いであげられる人になれたらいいね。
Posted at 2024/06/22 23:30:02 | |
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