2025年06月29日
朝の通勤はターミナル駅で1回乗り換えます。
長いコンコースを歩いてると、たくさんの人たちの列とすれ違います。
誰も他人を見ずに無表情で歩いてるのですが、すれ違う全員が、わたしの前を歩く大きな男性を見て、ひきつったような顔で避けるように左右に膨らみます。
わたしも追い抜いたときにその男性をチラッと見て驚きました。
年齢は60過ぎでしょう。
くたびれたポロシャツで、その胸にはフランス人形を大事に抱えて、歩きながらその人形の頭を撫でています。
しかもわたしが横目で見たとき、そのフランス人形がくるっとわたしのほう向いて目が合っちゃったんです。
ひえええ
この駅からは10分で職場に着くのですが、毎日この駅で必ずコーヒーを飲んでます。
そしてiPadで今日の予定を確認してると、さっきのフランス人形おじさんが入ってきてわたしの前の席に座ったのです!
フランス人形の口にアイスコーヒーのストローをあてて笑顔でまた頭を撫でています。
この人は一体なんだろう。
わたしは考え、頭の中である仮説を立てました。
もしかすると、この人には愛する奥さまがいて、先立たれてしまったのではないだろうか。
そのショックのあまり、奥さまがたいせつにしていたフランス人形を奥さまだと思い込むようになり、ずっと一緒にいるんじゃないだろうか。
わたしはそんな想像をしながら両手で顔を隠しました。
バカみたいだけど朝のカフェで涙が溢れてきたのです。
人前で泣かないわたしなのに。
この男性はきっと、若い日、一度だけ浮気をしてしまったのです。
そのことを最後の最後まで彼は謝ることができないまま夫婦は年老いていきました。
奥さまの誕生日に、大好きな鯛焼きを買って帰ったら、奥さまがどこにもいない。
「あれ?」と思って寝室へ行くと、奥さまは静かに寝ていらっしゃいました。
でもいつもと様子が違い、触れることもなく男は一瞬で何が起こったのかを知りました。
病弱だった奥さまの安らかな寝顔の、その横には、、
彼女が最後の力を振り絞り弱々しい文字で綴られた1枚の手紙がありました。
ごめんなさい
たぶん明日からご不便かけることと思います
今日はキッチンのおにぎり、温めて食べてください・・・
もうダメです。
わたしは両手で顔を隠してもう声を震わせて泣いてしまいました。
そういうことに違いありません。
いや、そうでしかありません。
テーブルに置いたスマホが振動し、横目で見ると、部下の人からのショートメールです。
「どうかなさいましたか?我々で朝礼始めてしまってよろしいでしょうか?」
朝礼だ?
そんなもの!今、どうでもいい!
こいつには人間の心ってものがないのかっ
でもそうもいかないので、わたしは席を立った。
そのとき思いついてカバンの中を探すとグミがあったので、近づいてそれをフランス人形の前に置き、おじさんに言いました。
「食べさせてあげて。お腹空いてるでしょう?」
おじさんは静かな目で、涙でぐしょぐしょになったわたしの顔をじっと見て、こう言った。
「これ人形だよ? あんた病院行ったほうがいいんじゃないの?」
人は誰もが1人で生まれてきた。
そしてどうしても誰かを求めて2人になり、そしてその2人は子どもを産み、やがてその子もまた孫を産む。
そうやって人は人生の中で「たいせつな人」を1人ずつ増やし、幸せを増やす。
しかしその大きくなってゆく幸せの数と同じだけ、いつか必ず別れる悲しみも増える。
もしも1人だったら、そのつらい別れに悲しむことはなかった。
それがわかっているのに、なのにそれでも人は、どうしてかどうしても、懸命に誰かと結びつき合おうとするものだ。
ずいぶん昔にわたしがつくった、こんな詩がある。
<この道を、誰もが、最後にはひとりぼっちで。>
幼い足で一人で歩いた道
ランドセルを降ろしてカバンに持ち変えると間もなく
背の高い男の人がわたしの隣を歩いた
二人の靴はスニーカーとローファーから
いつのまにか
紳士靴とパンプスに変わって また道を歩いた
やがてその二人の間には小さな足が加わり 3人でそして4人で
手を繋ぎ仲良く道を歩いた
それから長い長い時が流れて
子どもたちは愛する誰かと
別の道を歩き始めて
低くなったヒールと くたびれた靴は
また二人きりになって道を歩いた
秋の枯葉が舞う階段で
もう足取りもゆっくりになって
杖をつき
ときどき転びそうになりながら
それでもふたりは助け合いながら道を歩いた
ある日からとつぜん
わたしはひとりで歩いていた
あの 遠い幼い日のように
一歩一歩を足元に確かめるように
また わたしはひとりで道を歩いていた
恋とか愛とか 笑顔とか涙とか
あなたたちが大きな声でいう幸せとか不幸とか
そういうことの 少し先へと(理沙)
寄り添う愛は美しいけれど、寄り添い合わなきゃ信じられない愛は、どんなに愛し合っても肉体が朽ちることに勝てない。
わたしたちって、学生時代からどんなに愛の議論を重ねても、どうしてかどうしても、愛の、その指先にすらさわれなかった。
けっきょく、愛に終わりを告げる肉体の死に恐怖するからだ。
残されたその先の孤独に耐えきれそうにない。
わたしたちは死を超えるために生まれてきたんじゃなかったのか。
そして愛は、そんな小さなことの、もっとずっとずっと先にあるんじゃないだろうか。
わたしたちって論点をさいしょから最後までまちがえてきてるんじゃないだろうか。
どんなことがあっても。
どんなに悲しくても。つらくても。
たとえ孤独になっても。そしていつか死んでも。
その道を歩こう。
道の先にある、その愛を最後まであきらめるな。
前回のブログの雪辱戦です。
なお、前半の話は、じつはすべて実話です。
画像はCX-5ではなく、WISHの車内です。
Posted at 2025/06/29 16:59:09 | |
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