「2001年宇宙の旅」という映画を観たことがあるだろうか。
わたしは映画を観た後に「2001年宇宙の旅」は原作も読んだ。
映画の冒頭で長方形の黒い無機質なボードが類人猿の前に現れる。
その前で類人猿たちは大きな骨を拾って、物によって物を破壊することを覚える。
原作では、その前に類人猿たちが草を結ぶということを始めるシーンがある。
つまりこの黒いボードの前で類人猿たちは知恵を覚え、学習するのだ。
このボードを「モノリス」といって、映画の中でもところどころに現れ、重要な存在になっているのだけど、それがいったい何であるかはまったく説明されていない。
しかし原作でははっきりと、モノリスは地球外の知的生命体の通信塔であり、これによって地球人を教育したというように書かれていた。
でも映画を観たわたしは、その説明には違和感があった。
原作者本人に対して「それは違うでしょ」とまで思った。
原作のあとがきを読むと、アーサー・C・クラークは、「私が書いた2001年とキューブリックが映画で描いた2001年は異なるもの」というふうなことを言っている。
ここに大きな鍵があると思った。
モノリスは「2001年」で非常に重要な存在である。
しかしアーサー・C・クラークはこれを宇宙人の通信塔としているのに、キューブリックはきっとそうではない別のものとして描いていることが、似たようなストーリーでありながら、本質的に、根本的に異なるものになったのだと思う。
映画を観ているとき、わたしはさっぱり何をやってる映画なのかわからなかった。
モノリスもそうだし、ラスト近くで、人間がめまぐるしく赤ちゃんになったりおじいちゃんになったりしているのも、書物を開くと中身が白紙だというところも。
しかし、最後に、球体に包まれた胎児が宇宙に浮かぶラストシーンを観て、わたしは声を上げて泣いてしまっていた。
わたしの中では、そこですべての謎が繋がったんだ。
映画の中ではそういう説明がいっさいなく、キューブリックは難解な映画をつくろうと思った、とも言っている。
原作を読んだのは、わたしの解釈は正しかったのかどうかを確認したかったからだけど、原作は異なるものだった。
それはアーサー・C・クラークとキューブリックで、モノリスという存在がぜんぜん異なるものとして描かれたせいだと思っている。
わたし流にいうと、「2001年宇宙の旅」は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」である。
どちらも死後の世界を描いている。
でもアーサー・C・クラークの原作はそんなテーマではないのだ。
たとえば書物を開くと中身が白紙、というのはこういうことだと思う。
世の中はすべてが白紙であり、書物の中に書かれていることとは、人間が、そこに文字が存在して、その意味はこうだということを合意して共通認識として存在させているものなのだ。
わたしは学生時代、アナログから次の世代としてデジタルに移行しているのではなく、本当は世の中はもともと離散的であり、それに人間たちが共通認識で連続性を持たせているだけなのではないかと考えたことがある。
たとえば壁の向こうはどうなっているかわからないし、通り抜けることはできない。
でも本当は壁というのは連続性のあるものではなく、いくつかの点と何もない疎密で構成されていて、点と点の間を覗けば壁の向こうが見えるし、その間をくぐり抜ければ壁の向こうに行けるのではないか?
それができないのは、人間たちがみんなで点と点を増大または延長して、「ここは全部壁だよね」「そうだそうだ」という認識でそこには隙間のない壁があるとしたから通り抜けられなくなったのではないか?と考えたんだ。
このわたしの若い頃の発想は、つまりあらゆるものは想いによって造られ、それに対する人間たちの共通認識が、それを存在させている、ということだ。
このことをキューブリックは文字の書かれていない書物で表現したのではないだろうか。
書物というのはもともとはじつは何も書かれていない白紙で、人間の想念がそこに文字を書き、人間の共通認識がその文字に意味を与え、共通の理解をしているんだ、と言いたかったのではないか。
そしてほんとは書物だって実在はしてないんだろう。
ではモノリスとはなんだ。
モノリスとは、形而上をかたちに具現したものだとわたしは解釈している。
わたしは「何をか言わんや」という芸術が嫌いだ。
そういうのは突き詰めると、作者はたいして何も考えずに、「どう感じるのかはあなた次第。私は何も言いますまい」という卑怯を感じるんだ。本当は自分もわかってないだろ、と思う。
音楽でいうと、たとえばポップスというのは潔い。
どんな人が聞いても「これ好き」「これつまんなーい」という審判が即座に下せてしまう。
しかし、今おじいちゃんと言われる世代の人たちの青春時代にあったプログレッシヴロックというのは違う。「好き」とか「つまんない」以前に、「何これ?」っていう感じだ。
わたしはあれをいい音楽だとは思わない。むしろなんだか凄そうに見せかけてるだけのように思う。
わたしはデジタルシンセサイザーの世代だけど、プログレの時代のムーグやソリストなどのアナログシンセサイザーも演奏してた。
でもカットオフフリーケンシーやレゾナンスで音をつくるって、そう意図的にできるものじゃなくてほとんど偶然の産物の連続なのよ。
プログレの中ではエマーソン・レイク&パーマーだけが、プログレだけど実はとてもポップス的なスピリッツで真っ向勝負しているだけだ。
それでもなぜプログレが人気を博したのかというと、おそらく聴く人たちが尾ひれ背ひれをつけてきたからだろう。
「古池や カワズ飛び込む 水の音」というのがあり名作と言われるが、ほんとにそうだろうか?
あれはたとえばわたしが小説を書くとして、そこに取り入れるならこんな感じだ。
それは静かな夜だった。
遠くで池に一匹のカエルが飛び込んだ音が聞こえてくるほどに。
これだけの話だ。
それ以上の意味を感じることがおかしい。
プログレッシヴロックは絵画でいえば抽象画だ。
でもね。
そういう芸術の中でもなぜか心を揺さぶられるものは確かにある。
この絵はザオ・ウーキーという画家の「僕らはまだ二人だ」という作品。
美術館でザオ・ウーキー展に行ったとき、どの絵を観ても何が何だか意味がわからない。
しかしこの絵の前にきたとき、わたしは思わず立ち止まりじっと見つめて、気がついたらボロボロと涙を流していた。
なぜこういうことが起こるのか不思議だった。
それはつまりこういうことなんだろうと思う。
たとえばわたしはかつては作曲をしたし、絵は昔からずっと描いている。
でもわたしなんかの作品は、「いい曲ですね」「じょうずな絵ですね」で終わる。
それは作者が音楽や絵画を直接他人に伝えているからだ。
当たり前なんだけど。
でもザオ・ウーキーの絵は違った。
何が描かれているのかさっぱりわからない。
伝えられてるけど絵からは何も伝わってこないんだ。
じゃあ、涙がこぼれてくるこの感動は何なんだ。
それは画家が描いた絵を水平方向に絵を観る人に伝えられたのではなく、きっとその絵は垂直方向に放たれ、観る者も垂直方向に意識を上げて、形而上で結ばれたから生まれた感動なのだと思う。
だから、何が、どこがどういいのかなんて、形而下では言語化できないし説明できない。
なのに、なぜか、涙が止まらなかったのよ。
そして、それを、キューブリックはモノリスとして表現したのではないだろうかと思ってる。
顔が可愛いとか、たくましいとか、だから好きになったんだとか、そういうのって水平レベルの伝達で、何かのきっかけにはなるかもしれないけれども、それを愛だなんて表現するから人間はおかしくなってきた。
水平レベルで語られる愛とは、ちょっと乱暴かもしれないけれど肉欲だ。
垂直方向で語られる愛とは、二人の間に一度形而上を介して伝わっているはずだ。
説明ができないこと。
論理性を介在させられないこと。
なのにこんなに心が揺さぶられ涙が止まらない。
そこには熱い温度がない。
むしろどちらかというと温度が低くて。
その人としか通じ合わない想い。
わたしは強く抱きしめ合って「もう離さない」なんて泣き叫ぶ美しいシーンの向こうではなく、もっと静かで、もっと穏やかで、もっと温度の低いところの向こうにこそ、ひっそりと、だけど、確かに、愛ってあると思うんだ。
人間が何をやっても、愛し合っても、戦争をくりかえしても。
その向こうで。
ただじっと、何も変わらない表情で。モノリスはあるのだろう。
今回、難しいよね。ごめん、わたしもうまく書けない。
なのでコメントは結構です。
あと、わたしは「2001年宇宙の旅」について解説書みたいなものは読んだことがありません。どんな解説がなされていてもわたしはわたしの解釈しか信じません。
同じくみなさんがわたしの解釈を信じる必要もありません。
水平方向の伝達では意味がないからです。