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2024年06月27日 イイね!

「古事記」と「かごめかごめ」

みなさんは古事記って読んだことがあるだろうか。
だいたいみんなが知ってるのは日本書紀のような気がするけど、最近古事記を夢中で読んでいる。

天の高天原の神々が、イザナキ神とイザナミ神に
「この漂っている国をつくり固めよ」と命じて、イザナキ神とイザナミ神が潮をかき鳴らして、引き上げた時、その矛からしたたり落ちた潮が
積もり重なって島になった。
この島は淤能碁呂志摩(おのごろじま)といって、沼島のことではないかといわれている。
「潮をかき鳴らして」というのは場所からしてうずしおのことだろうね。
そしてこの島にイザナキとイザナミは降り立ち夫婦の契りを結ぶ。
この沼島に上立神岩という岩がある。
この岩のことはちょっと頭に留めてほしい。

さて。
ちょっと話変わって、みなさんは「かごめかごめ」の歌は知っているでしょう。
この歌は日本語なので意味としてはわかる。
わかるけれど何を意図しているのかはさっぱりわからない。
ただ「神の依代(よりしろ)や神座(かみくら)を中心として,その周囲を繰り返し回りながら神がかりする」とされている。

なんとなく「かごめ」とは「囲め」であり、囲んだ中心には籠があって鳥が入っていて、というのはわかるけど、「夜明けの晩」だとか「後ろの正面」だとかになってくると解釈に困る。

なぜか。
なぜ平易な日本語であるのにわたしたちにその意味がわからない。

「かごめかごめ」というのは、日本語のようであって、じつは日本語ではなくヘブライ語であるという説がある。

ヘブライ語で「カゴー」という言葉があり、その意味は「囲む」。
これに「誰を」とか「何を」を意味する設尾語の「ミー」をつけて「カゴーミー」とすると「誰を(何を)囲む?」ということになる。

「(カゴー)ナ」(お願いします)
「ナカナ」(休む)
「トリー」(取りはずせ!という強い命令)
「ヴァ」(そして、という意味の接続詞)

すると

カーゴミー カーゴミー
カゴーナ ナカナ トリー ヴァ

と読み替えれば明確な意味が浮かび上がってくる。

誰を囲う? 何を囲う?
取り囲んで休んでください
そして 取り出せ

「取り囲んで休んでください」というのは、自分達にとっては取り囲んだ何かを休ませるために、「しっかりと取り囲んで守れ。安置せよ」という意味にもなる。
「そして取り出せ」というのは「そしていつの日にか取り出せ」だとわたしは解釈している。

この後もことごとくすべてのワードがヘブライ語に置き換わる。

「いついつ出会う」は「ヒィツィ ヒィツィ ディユゥー」だし、
「夜明けの晩につると亀が」は「ヤー アカー バンニ ツ カメア」。
「滑った」は「ショーヴェッテ」。
「後ろの正面だーれ」は「フーシャー ショーメム ダラッ」。


ではヘブライ語をまとめて現代日本語に訳してみる。

何を取り囲むのか?誰を囲んで守るのか?
封じて安置すべきものを取り出せ!
そして火をつけろ!燃やし尽くせ!社を根絶せよ!
造られたお守りの岩は功を奏することなく
焼かれた荒れ地は見捨てられた

たいへん恐ろしい詩であるが、これには別の解釈がある。
とくに例の「後ろの正面だーれ」というところが鍵になる。

「後ろの(正面)」を「フーシャー」とすれば「見捨てる」という意味なのでこうなるけれど、「フシュラッ」というヘブライ語だと「支配された」という意味に置き換わり、「ダラッ」ではなく「ダラー」だと「荒地に水を引く」というまったく反対の意味になってくる。

何を取り囲むのか?
誰を囲んで守るのか?

封じて安置すべきものを取り出せ!

そして火をつけろ
燃やせ
社を根絶せよ

お守りの岩は水が湧き、荒地が支配され水を引く


そしてわたしにはどうしてもこちらの解釈のほうが正しいと思えてならない。
それはもう一方の「焼かれた荒れ地は見捨てられた」という解釈であれば「トリー ヴァ(取り出せ)」という詩が存在意義を失うと思うのだ。
そしてそもそも「後ろの正面 だーれ」と歌うのなら「フーシャー ショーメム ダラッ」よりも「フシュラッ ショーメム ダラー」ではないか。

もうひとつ。
これはヘブライ語だからといって遠いイスラエルのことを歌ったものではなく、ヘブライ語で日本に向けて歌われている。

ではいったいいつ誰が「カーゴミー」を「囲め」とし、「フシュラッ ショーメム ダラー」を「後ろの正面だーれ」と日本語に置き換えたのか。
それは時代を考証すると、当時、ヘブライ語と日本語を理解していた空海だったのではないかと言われている。
そしてなぜこの歌は大昔から日本の子どもたちに歌い継がれてきたのか。

すると、つまり、こういうことではないか。
日本のどこかに大きな岩に守られたたいせつな何か、、秘宝と言っていいかもしれない、、、があり、しかしあるときその岩は守りきれずに焼かれるけれど、そのとき守られていた秘宝が現れ、荒地は幸福に満たされる。

このことをすべての日本人は忘れてはならず、子どものときからずっとわらべうたとして歌い継がれてきたのではないか。

さて、ここで古事記に戻る。
イザナキとイザナミが最初につくった淤能碁呂志摩の「上立神岩」を検索して画像を見てほしい。
この岩は30メートルもの高さがあり、1億年前の地球のシワを残す奇岩として知られる。

これこそが、「かごめかごめ」に歌われる「お守りの岩」で、ここに秘宝は安置されているのではないだろうか。

「かごめかごめ」で囲んでいるのは、この「上立神岩」なのではないか。

そして、この岩はいつか、何かとてつもなく大きな力によって焼き尽くされ、秘宝を守りきれなくなるのだという。


さて、イスラエルからも古事記からも離れて、現代の日本に戻ろう。

これは最近気づいた。
これを言いたくて今回ここまで長々と書いた。

いつ発生してもおかしくないといわれる巨大な南海トラフ地震。
その震源域は東は静岡から西は宮崎までの広範に及ぶが、そのちょうど中央、ほんとに中央にあるのが、、、

それが。

イザナキとイザナミが最初につくった「淤能碁呂志摩」(沼島)と「上立神岩」である。





南海トラフ地震は終焉ではなく、「かごめかごめ」によればそのとき「神の宝は地上に現れ」、「荒れた」(日本の又は世界の)「大地」が「幸福で満たされる」のだ。

それを信じよう。

だいじょうぶ。
わたしたちは、死なない。
泣きじゃくりながら、みんなで手を繋いで、その恐怖を乗り越えてみようか。

その後、すぐに。
まもなくすぐに。

南海トラフをもっともおそれる地域に住む人こそ、真っ先にその奇跡を見るかもしれない。


注・risaSpecの勝手な妄想です。

<追記>
勝手な妄想ですが、そのついでにもう少し言っておくと、南海トラフ地震の発生確率は30年以内に70〜80パーセントと言われ、先ごろ80パーセントに引き上げられました。
日本の各地の予想される地震はすべて発生確率も発表されていますが、その計算には単純平均モデルという計算方法が使われています。
ところが、南海トラフ地震、このただひとつだけが時間予測モデルという、他とは違う計算方法が採用されていてほとんどの地震学者が科学的事実と矛盾すると、発表時に政府に反対したそうです。
しかし政府としては時間予測モデルによる結果をどうしても採用したがり、地震学者たちは、それならせめて「時間予測モデルではこうだけど単純平均モデルではこうなる」と併記するように求めて一旦おさまったんだけど、政府は結局これを無視して時間予測モデルの30年以内に70〜80パーセントだけを国民に発表したのです。
これはずいぶん前に東京新聞が証拠と共にすっぱ抜いています。

なぜかわかりますよね?広範囲で巨大な南海トラフ地震にはみんながおそれるのでそこにはお金を集められます。
消費税も社会福祉のためといえばみんな黙るのでどんどん上がっていきます。
国民に「一大事」だと思わせることができれば災害対策として増税できます。
ガソリン暫定税率分のトリガー条項も東日本大震災復興のために発動しないと言ったらみんな黙ります。
でもいったいそのうちの何パーセントが復興に使われてるんでしょうか。
ほとんど天下り先企業に調査費としてばら撒いてるだけでしょ。

そしてみんなが反対する中で、協力した地震学者は研究費が集まります。

もしバレても、国民に対しては、予測される災害は常に最悪のシナリオを想定すべきである、と言い訳すればみんなも納得しちゃうでしょう。

さて。
それでは。
南海トラフ地震が今後30年以内に起こる確率を、政府発表の時間予測モデルではなく、多くの地震学者が唱え、南海トラフ地震以外のすべての地震の予測に用いられている「単純平均モデル」で計算するとどうなるか。

発生確率は、80パーセントなんかではなく、20パーセントとなるそうです。
また、発生しても、言われているほどの巨大地震であるかどうかもはっきりとわかっていません。

まあ震源が陸に近いので津波の到達速度が東北の震災よりはるかに早いというのは確かでしょうけど。

今日交通事故に遭う確率が80パーセントといわれたらわたしは家から外に出ませんが、20パーセントなら通常運転です。そもそも事故の確率0パーセントの日なんてないですからね。
皆さんはどうでしょうか?

ただね。確率が1パーセントでもあれば、「南海トラフ地震なんか起こらない」というわけではないし、むしろいつか必ず起こります。そしてそれが明日起こる可能性だってあることは、勘違いされないよう念のために申し添えます。
Posted at 2024/06/27 14:48:05 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2024年06月22日 イイね!

心の治しかた

人は誰でも、できればきれいな心で生きたいと願うものだ。
しかし心が一点の汚れもなくきれいだという人はいない。

社会の中でいろんな人と関わるたび、人はときに優しさや愛にも触れるが、それよりもむしろこの心の汚れが刺激され、憎悪やプライドで争いを起こし、ますます心を汚していくことがほとんどだ。

でも逆に心のすべてが泥のように汚い人というのもいない。
それもただの1人もいない。

心とは透明なグラスにきれいな水が入っていて、でもその底に少し泥が沈殿しているような姿だろう。

だから一見すると、泥はあるものの大部分がきれいな水である。
だからたいていは、その泥に気づかない。
そして自分の泥にも多くの人が気づかない。
気づかないから気づかないうちに、人と関わるたび密かに泥は増していく。

ある種の人は。
グラスを眺めて、僅かに沈殿する泥を許せない。
自分の心の中に、少しでも泥が存在してることを許せない。
だからその泥を全部取り出してグラスの中をきれいな水だけにしようと試みる。

こういう人はいい人だ。
こういう人は頭のいい努力家であり、完璧主義者だ。
そしてこういう人は、ほぼ確実に精神障害に至る。

なぜか。

実際にグラスにきれいな水を注ぎ、そこに土を入れてみよう。
しばらくすると土は重いのでグラスの底に沈殿する。
この土をあなたならどうやって取り出すだろうか?

別のグラスを用意して泥を通さないフィルターをかぶせて、そこにグラスの水を移すという方法はだめだ。
心と心の器はあなた1人の一つのものでしかない。他人の心なんか使えないのだ。
そのひとつのグラスの中から物理的に取り出さなければならない。
そしてそもそもそんな心のフィルターをあなたは持っているのか。
そんなものがあれば最初からグラスにかぶせておけば泥なんか入ってこなかった。

水と一緒に泥もシンクにぶちまけてしまうのもだめ。
グラスの中が空っぽになる。
心のない人間は、もはや人とは言えない。
きれいな水だけは残さなければならないのだ。

スプーンで泥をすくい出すしか方法はない。
それは至難の業だけどそれしか思いつかない。
でも泥をすくい出す度に、きれいな水も少しずつ捨てることになってしまう。
それはもったいなから今度はピンセットで一粒ずつ取り出すことを試みる。
何千何万、いやそれ以上の泥の粒子をつまんで取り出すのはおそらく時間がかかり、生きてるうちにはできないかもしれない。
そしてその間自分のきれいな心は無視して泥だけに意識を集中するから闇に人生を奪われることになるだろう。そして。

そしてどんな方法をとっても泥はかくはんされ、水の中で舞い上がり、泥の量は変わらなくてもグラスの中は一面が泥水になる。
心の中の泥を取り出そうとしたら、逆にグラスの中は泥だらけになってしまう。
それを見たとき。人の精神は、必ず壊れる。
そのとき、グラスが、音を立てて壊れる。


では、泥を取り出す方法を教えよう。
じつはかんたんだ。

グラスの中の泥はどうでもいい。
それがどれだけ溜まっていようが、そんなこともどうでもいい。

グラスの中から泥を取り出すのではなく、グラスに、ただきれいな水だけを注いでいくのだ。

水道の蛇口の下にグラスを置いてただきれいな水だけを注ぎつづける。
そうしていつかグラスの中を眺めたら、気づかないうちに、泥はきれいな水を注ぎつづけたことですべて跡形もなくグラスから溢れ出て、ただの一粒も残っていないだろう。
グラスの中は、きれいな水だけになっている。


よろしいか。
自分の心の醜さにいちいち目を向けるな。
人間は、泥には、勝てない。

「自分がやったことを反省しろ」というが、反省したって一度入り込んだ泥は消えないし、取り出すことも至難の技で、そうやって反省してるうちに心が壊れる。グラスは割れてしまうのだ。
「反省」とはやってしまったことにクヨクヨすることではなく、もうせめて新たな泥をグラスに入れないことを心に決めるためにするものである。
涙は、悲しいときには流すな。美しさにこそ涙しよう。

わたしは方法を示した。
君に委ねたいのは、新たに注ぐその水は、ほんとうに「きれいな水」なのかどうか?
それだけは、あなたが選んで決めることだ。


ねえ。

そしていつか。
遠い、いつか。

グラスに一片の汚れのないあなたのきれいな心を。

あなたの愛する人が、かつてのあなたのように水の中に泥を溜め込み死を決意したり、心病むとき。

静かに自分の水を注いであげられる人になれたらいいね。

Posted at 2024/06/22 23:30:02 | コメント(9) | トラックバック(0) | 日記
2024年06月16日 イイね!

さあケツを叩け!

家にいるときは、冬はスウェット、夏はショートパンツという違いはあれどウエストがゴムの緩いのを履いてる。
そして両手を後ろに突っ込んでいつも自分のお尻を触っている。
とても触り心地がいいからだ。
おそらくわたしの体の中で最もスベスベしている。

体の中で最も肌が綺麗なこの部分をなぜ最も隠してしまっているのか。
顔がケツならいいのに。
デニムのお尻をこういうふうに切り取って、ぜひ道ゆく人たちにも一度手触りを確認してもらいたいものだ。



撫でていると今度は揉みたくなる。
揉み始めると無意識に力一杯揉みまくる。
なるほど巨乳を揉むというのはこういう感覚なのかもしれません。なかなかいいぞ。

揉むのに飽きると急にペチペチと叩き出す。
最初は適当なのだが、やはり音楽というのはわたしの体に染み付いていて、次第に8ビートを刻み、歌い出す。

けーつけーつ けっつけつ

え?何笑ってるの?
君たちって歌詞でメロディがわかるの?
これは系統としてはドビュッシーの「月の光」みたいな曲なんだよ?

え?タイトル?
あータイトルは考えてなかったけど、そうだね、タイトルは、「ケツケツ音頭」。

え?なに?
君たちってタイトルでその楽曲の和声進行やメロディーがわかるの?
へええ、すごい才能をお持ちですのね。
出だしのコードはAaug7なんだけど?
その後、16ビートに変わり、最後は頭を振りながら32部音符で連打する。

他人の失敗は許せても自分の失敗は許せない。
それはじつに悔しい。
仕事でそういうことはまずないけれど、家の中ではしょっちゅうだ。

パスタを茹でようと鍋に火をかけ、キッチンタイマーで12分とセットする。
その間ソファでテレビを観ていて、ふと気づくと、もうそろそろ茹で上がってるはずなのにタイマーが鳴らないので、またお尻に両手を突っ込んでキッチンへ行くと、タイマーのスタートボタンを押してなかったことに気づく。

「あーーーーー」と、下着のパンツごと足首まで下げながらしゃがんで絶叫する。
そしてパンツを上げると共に、さっと立ち直り、いつものわたしに戻る。

わたしはカレーを毎日火を入れて熟成させる。
日々、チョコレートや香辛料や野菜や、思いつくものを足しては煮込む。
それは2ヶ月も3ヶ月も。
自分でも味は再現が不可能なカレーになっていく。
一口食べると口の中をシャワーで洗いたいほど辛い。
なのでいつもうちのコンロにはカレーが入った鍋が置いてある。
それがこの間、別の料理を作っていたとき。
Tokyo Callingを踊りながら作っていたとき。
片手がカレーの鍋に当たって、キッチンに大量のカレーをぶちまけてしまった。

あああああああああああ!!!

パンツを降ろしてしゃがむだけでは足らず、「なんだ!こんなもん!」と乱暴にTシャツも脱ぎ捨て、リビングまで走っていって両腕を上げて全裸で叫びながらぴょんぴょん6回飛び跳ねた。
そうしてキッチンに戻って服を着るといつものわたしに戻って極めて冷静に後始末をするのだ。


人生に失敗はつきものだ。
ときにはもう自分はここまでだと、自分を捨ててしまいたくなるときもあるだろう。

わたしにもあった。何度か。
「risaSpecの黒歴史」というブログを連載したことがあるが(現在削除済み)、あの最後の最後に、わたしが新宿の深夜の歩道橋の上で力尽きて倒れ込んだときのことを書いた。
仰向けに寝転ぶわたしに、その日めずらしく東京に冷たい雪が降った。
わたしの顔にも体にも雪が降り積もったけれど、わたしは動かず、あのとき「ついにわたしもここまでか」と静かに目を閉じた。

しかし、みんな。
この人生は、映画だ。

君が監督で、君が主演の。

わたしもこの映画の監督で主演女優なんだ。

こんなとこでくたばってどうする。
こんなのが映画のラストシーンだったら、こんなつまらない作品はない。

いくら主演だからって最初から最後まで勝ちっぱなしのドラマなんて観せられても退屈でおもしろくなんかない。
だからこういうシーンは映画に必ず必要なんだ。
誰がどう考えても「すべて終わった」っていうシーンが。
誰もが「ここから立ち上がるなんてもうあり得ない」と映画館の席を立とうとするような、このシーン。

それでも。
もしもそれでも。
大逆転で立ち上がったとしたら、それはドラマとしてカッコよくないか?
それこそが映画なんじゃないか?

そして立ち上がって次にわたしが目指したステージは、あのブログを読んだ皆さんがご承知のとおりだけど、その後も何度も八方塞がりの窮地に追い込まれた。
けれどわたしはそのたびそれをおもしろがった。

またこういうシーンか。
確かに清らかで、誰より強いシーンが、ちょっとここ数年続きすぎた。
ちょうどいいとこでまたこういう墜落のシーンが入ってくる。
今度はどうやって次の「逆転のシーン」につなげていこうか。
ただ目の前のこの敵を倒すんじゃなくて、もっと別の次元に、もっと高みに登る次のシーンをどう描いていこうか。
もうわたしはそういうふうにしか考えないんだよ。

どんなDeadEndでも監督のわたしが何度も「GO」を出すのは、主演女優のわたしを信じてるから。
必ずやってくれる。台本を超えてあいつは必ず監督のわたしをも驚かせてくれる。
どんな映画にも、どんな雑誌にもないやり方で。

君は「へーそんなもんかね」とケツをかきながら思ってるだろう。
それは君がただの観客だからだ。
それはいつも間抜けヅラで他人が作った他人が演じる映画を観て、のんきに「立て!立ち上がれ!負けるな」なんて言ってるだけだからだ。

あのね、君だって。
君だって、生まれたときから、じつはフィルムは回ってるんだよ。
長い長い映画は既に始まってる。
あのカッコ悪かった失恋や、それでも幸せな結婚や。
仕事が続かず辞めてはパチンコしてる君もフィルムにはきちんと刻まれている。
その映画も、もう中盤まで来ちゃってるんだよ。
おまえ、長すぎる!くすぶってる尺が!

<だってどうすれば逆転できるんだよ>
そんなことは走ってれば風が教えてくれる。
「またそういう話かよ」っていうのも走ってないからだ。
能書きはいいから自分のケツを叩け!

君のつくる映画はつまらない。
ダラダラと退屈であくびが出ちゃう。
もう陳腐な結末も予想できちゃう。

でもさ。だから。
だからこそ描けるんだよ。
そういう人にしか描けない。
ダメな男の大逆転のラストシーンは。

いい映画をつくって、いつかわたしにも見せてくれ。
Posted at 2024/06/16 05:07:30 | コメント(5) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「少し前を歩く娘へ http://cvw.jp/b/2273104/48483430/
何シテル?   06/13 15:18
身長 / 168センチ 体重 / 52kg  スリーサイズ / B:貧乳  W:ふつう  H:ふつう  年齢:そこらへんによくある ごくふつうの年齢
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