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2024年07月12日 イイね!

音楽がわたしに教えてくれたこと

わたし高校生のときほんとに芸能界にデビューするとこだったのです。
これ、ネタじゃなくって、ほんとに。

芸能界と書いたのは、わたしはアーティストのつもりで自分の音楽ができると思ってたのに、大人たちの思惑はそうではなく、それは宣材写真撮影でレモンを持たされたことでわかった。
そもそも日本で一番レモンが似合わない女子高生のわたしに!
それで「持てません」と泣いてやめた。
泣いたっていうのは悔しかったんだ。
わたしの音楽って、世間ではひらひらしたミニスカートに負ける程度のものなのか、と。

その後わたしは曲を書き溜めて大阪とか京都のライブハウスで演奏活動を始め、東京にもタイバンで呼ばれたりしてました。
ほんとに「音楽」というものにかなり真剣に取り組んでいたのです。

小学校の低学年のときにイヤでやめたピアノも、高校生の頃は朝誰より早く登校し、音楽室のピアノ練習室にこもって弾きまくり、そろそろ授業が始まるだろうと廊下に出ると誰もいない。
「あれ?今日、日曜やったっけ?」と思ったら、なんともう夕方で、みんなが帰ったあとだったということもありました。(実話です)

高校1年生の文化祭がわたしの初ステージでした。
そのとき「ピアノの弦を引っ掻く」という奏法を、演奏中に思いつきました。
きっとハープのような効果が得られると思ったのです。

しかし、ピアノを弾く人はご存知と思いますが、ピアノの弦を引っ掻いても音は出ません。
ダンパーというものでミュートされているからです。
ペダルを踏むとダンパーは外れますが、それだと弦に手が届かない。
そこで鍵盤の上に内股でしゃがみこんで膝全体で押し込むことでダンパーを外し、ピアノの屋根の中に上半身をつっこんで弦を引っ掻きまわしたのです!
もちろんピックなんかでは歯が立たないので、ポケットに入ってたお家の鍵でがらんがらんかき鳴らしました。

もうそっこーで、舞台に上がってきた音楽教師に、わたしはピアノから引きずり降ろされ、職員室で「今後学校のピアノに触ってはならない」と担任から厳しく言われました。
音楽教師の怒りはそれでも収まらず、「あなたには校内だけでなく、もう世界中のピアノに触れてほしくありません!器物破壊行為ですよ!」とわめかれました。

そのときわたしは目をぱちくりして、両方の手のひらを見ながら、「芸術とは、破壊なんだ!」と岡本太郎のモノマネをして、担任に後頭部をバインダーでどつかれたのです。

あの奏法は、あれ以来、今もってなお、世界のどこでも演奏されていないでしょう。
そんなの、聞いたことがありません。
そう。時代は、まだ、わたしに追いつけないのです!
まだ高校生だったわたしに、世界が今もってなお追いつけない理由・・みなさん、わかりますか?

ふっふっふ
意味がないからです。
器物破壊行為だからです。

(でもなんかキース・ジャレットはやったらしいと最近聞いた。もしそれがほんとなら担任教師と音楽教師!おまえらキース・ジャレットの頭もバインダーでどついてくるんだろうなっ)

高校3年になる頃、わたしのバンドは、ライブだけではなく、なぜか関西ではないローカル局のテレビに出たり、わたしのオリジナル曲が東京のラジオ番組のテーマ曲になったりもして、大手のプロダクションにスカウトもされたんですけど、音楽を通して学んだことは今のわたしをかたちづくる重要な部品となっています。



(↑当時大阪のライブハウスにあった、使い込まれてはいたけど、この憧れのCP80をもらって、以後ずっとわたしの愛機だった。懐かしい)

コンピュータを覚えたのも音楽のためだし、自分達のコンサートのチケットやポスターをつくるために印刷の勉強もしたから、その後仕事でフライヤーとかを完全版下までつくってデジタル入稿できるのはそのおかげだし、そしてそしてなにより、ストイックにひとつのことを追いつづけることが身につきました。

クリスマスイブの夕方、手を繋ぐ同じ年頃の恋人たちをよけながら、重いシンセサイザーをかついでスタジオへ急ぐ自分が好きだった。

わたしの社会人としてのさいしょは、テレビ局のテクニカルのお仕事でしたが、これもけっきょく大学ではなく音楽活動がもたらしてくれたものでした。



日本の音楽シーンを語るとき、わたしは服部良一さんを忘れてはならないと思っています。
氏は、元々はクラシックの人だったはずですが、その後ジャズに傾倒していったようです。

「東京ブギウギ」「買物ブギー」「銀座カンカン娘」

戦争中の当時は楽曲のその演奏が禁止されるほど不謹慎でフザけた音楽とされました。(敵国の音楽ということもあっただろうし)
また、どんなに軍に圧力をかけられても「軍歌を1曲も書かなかった」作曲家でもあります。

そして戦後。
日本の歌謡界は古賀メロディが席巻します。
人生の悲哀を歌う楽曲は多くの人の心に染み入り涙を誘います。

「人生の並木路」「誰か故郷を想わざる」「悲しい酒」、、

当然のことながら商業主義のレコード会社は服部良一にこう言います。
「あなたも古賀メロディのような曲を書いてくれないかなあ」

これに対して氏は、静かにこう答えたのだそうです。

「そりゃあ人間は悲しいさ。でも、その悲しみにつけこむ歌は・・・卑怯だよ」

わたしはいつも思うのです。
人は、生きてることがもともと悲しい。
誰もが悲しみを背負って産まれてきた。
だから、涙とか、悲しみを訴えれば多くの人の共感を呼びます。
だけど、みんなで悲しみを共感して肩を抱き合い泣くことの、それが次の一歩のためにいったいなんの役に立つのでしょうか。

高校生の頃、服部良一という人のことはもちろん知らなかったけど、わたしもメジャーコードばかりで曲をつくったし、恋に破れて悲しいみたいな歌はほとんどない。
そして今も、リアルでも、たとえばこのみんカラのブログにしても、わたしは。

悲しみを綴りたくないのです。
下品だと眉をしかめられても、悲しい涙よりは、お笑いを書きたい。
肩を落として膝をついて慰め合うより、そこからいっしょに立ち上がる一歩を書きたい。
そして。走りつづければ、涙は風にかわくことを。

いつも明るく笑う人は、ただそれだけで尊い。
「あいつはお気楽なヤツだ」と人に言われてもいい。
明るければ、たとえそれが演技だってお芝居だってかまわない。
だって、明るく楽しいだけの人生を送れる人など、この世には一人もいないのです。


暗く重い人生じゃなく。
でも、明るく軽い人生ではなく。

「明るく、重く」わたしは生きてゆきたいのです。

Posted at 2024/07/12 23:00:13 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記

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