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risaSpecのブログ一覧

2024年06月22日 イイね!

心の治しかた

人は誰でも、できればきれいな心で生きたいと願うものだ。
しかし心が一点の汚れもなくきれいだという人はいない。

社会の中でいろんな人と関わるたび、人はときに優しさや愛にも触れるが、それよりもむしろこの心の汚れが刺激され、憎悪やプライドで争いを起こし、ますます心を汚していくことがほとんどだ。

でも逆に心のすべてが泥のように汚い人というのもいない。
それもただの1人もいない。

心とは透明なグラスにきれいな水が入っていて、でもその底に少し泥が沈殿しているような姿だろう。

だから一見すると、泥はあるものの大部分がきれいな水である。
だからたいていは、その泥に気づかない。
そして自分の泥にも多くの人が気づかない。
気づかないから気づかないうちに、人と関わるたび密かに泥は増していく。

ある種の人は。
グラスを眺めて、僅かに沈殿する泥を許せない。
自分の心の中に、少しでも泥が存在してることを許せない。
だからその泥を全部取り出してグラスの中をきれいな水だけにしようと試みる。

こういう人はいい人だ。
こういう人は頭のいい努力家であり、完璧主義者だ。
そしてこういう人は、ほぼ確実に精神障害に至る。

なぜか。

実際にグラスにきれいな水を注ぎ、そこに土を入れてみよう。
しばらくすると土は重いのでグラスの底に沈殿する。
この土をあなたならどうやって取り出すだろうか?

別のグラスを用意して泥を通さないフィルターをかぶせて、そこにグラスの水を移すという方法はだめだ。
心と心の器はあなた1人の一つのものでしかない。他人の心なんか使えないのだ。
そのひとつのグラスの中から物理的に取り出さなければならない。
そしてそもそもそんな心のフィルターをあなたは持っているのか。
そんなものがあれば最初からグラスにかぶせておけば泥なんか入ってこなかった。

水と一緒に泥もシンクにぶちまけてしまうのもだめ。
グラスの中が空っぽになる。
心のない人間は、もはや人とは言えない。
きれいな水だけは残さなければならないのだ。

スプーンで泥をすくい出すしか方法はない。
それは至難の業だけどそれしか思いつかない。
でも泥をすくい出す度に、きれいな水も少しずつ捨てることになってしまう。
それはもったいなから今度はピンセットで一粒ずつ取り出すことを試みる。
何千何万、いやそれ以上の泥の粒子をつまんで取り出すのはおそらく時間がかかり、生きてるうちにはできないかもしれない。
そしてその間自分のきれいな心は無視して泥だけに意識を集中するから闇に人生を奪われることになるだろう。そして。

そしてどんな方法をとっても泥はかくはんされ、水の中で舞い上がり、泥の量は変わらなくてもグラスの中は一面が泥水になる。
心の中の泥を取り出そうとしたら、逆にグラスの中は泥だらけになってしまう。
それを見たとき。人の精神は、必ず壊れる。
そのとき、グラスが、音を立てて壊れる。


では、泥を取り出す方法を教えよう。
じつはかんたんだ。

グラスの中の泥はどうでもいい。
それがどれだけ溜まっていようが、そんなこともどうでもいい。

グラスの中から泥を取り出すのではなく、グラスに、ただきれいな水だけを注いでいくのだ。

水道の蛇口の下にグラスを置いてただきれいな水だけを注ぎつづける。
そうしていつかグラスの中を眺めたら、気づかないうちに、泥はきれいな水を注ぎつづけたことですべて跡形もなくグラスから溢れ出て、ただの一粒も残っていないだろう。
グラスの中は、きれいな水だけになっている。


よろしいか。
自分の心の醜さにいちいち目を向けるな。
人間は、泥には、勝てない。

「自分がやったことを反省しろ」というが、反省したって一度入り込んだ泥は消えないし、取り出すことも至難の技で、そうやって反省してるうちに心が壊れる。グラスは割れてしまうのだ。
「反省」とはやってしまったことにクヨクヨすることではなく、もうせめて新たな泥をグラスに入れないことを心に決めるためにするものである。
涙は、悲しいときには流すな。美しさにこそ涙しよう。

わたしは方法を示した。
君に委ねたいのは、新たに注ぐその水は、ほんとうに「きれいな水」なのかどうか?
それだけは、あなたが選んで決めることだ。


ねえ。

そしていつか。
遠い、いつか。

グラスに一片の汚れのないあなたのきれいな心を。

あなたの愛する人が、かつてのあなたのように水の中に泥を溜め込み死を決意したり、心病むとき。

静かに自分の水を注いであげられる人になれたらいいね。

Posted at 2024/06/22 23:30:02 | コメント(9) | トラックバック(0) | 日記
2024年06月16日 イイね!

さあケツを叩け!

家にいるときは、冬はスウェット、夏はショートパンツという違いはあれどウエストがゴムの緩いのを履いてる。
そして両手を後ろに突っ込んでいつも自分のお尻を触っている。
とても触り心地がいいからだ。
おそらくわたしの体の中で最もスベスベしている。

体の中で最も肌が綺麗なこの部分をなぜ最も隠してしまっているのか。
顔がケツならいいのに。
デニムのお尻をこういうふうに切り取って、ぜひ道ゆく人たちにも一度手触りを確認してもらいたいものだ。



撫でていると今度は揉みたくなる。
揉み始めると無意識に力一杯揉みまくる。
なるほど巨乳を揉むというのはこういう感覚なのかもしれません。なかなかいいぞ。

揉むのに飽きると急にペチペチと叩き出す。
最初は適当なのだが、やはり音楽というのはわたしの体に染み付いていて、次第に8ビートを刻み、歌い出す。

けーつけーつ けっつけつ

え?何笑ってるの?
君たちって歌詞でメロディがわかるの?
これは系統としてはドビュッシーの「月の光」みたいな曲なんだよ?

え?タイトル?
あータイトルは考えてなかったけど、そうだね、タイトルは、「ケツケツ音頭」。

え?なに?
君たちってタイトルでその楽曲の和声進行やメロディーがわかるの?
へええ、すごい才能をお持ちですのね。
出だしのコードはAaug7なんだけど?
その後、16ビートに変わり、最後は頭を振りながら32部音符で連打する。

他人の失敗は許せても自分の失敗は許せない。
それはじつに悔しい。
仕事でそういうことはまずないけれど、家の中ではしょっちゅうだ。

パスタを茹でようと鍋に火をかけ、キッチンタイマーで12分とセットする。
その間ソファでテレビを観ていて、ふと気づくと、もうそろそろ茹で上がってるはずなのにタイマーが鳴らないので、またお尻に両手を突っ込んでキッチンへ行くと、タイマーのスタートボタンを押してなかったことに気づく。

「あーーーーー」と、下着のパンツごと足首まで下げながらしゃがんで絶叫する。
そしてパンツを上げると共に、さっと立ち直り、いつものわたしに戻る。

わたしはカレーを毎日火を入れて熟成させる。
日々、チョコレートや香辛料や野菜や、思いつくものを足しては煮込む。
それは2ヶ月も3ヶ月も。
自分でも味は再現が不可能なカレーになっていく。
一口食べると口の中をシャワーで洗いたいほど辛い。
なのでいつもうちのコンロにはカレーが入った鍋が置いてある。
それがこの間、別の料理を作っていたとき。
Tokyo Callingを踊りながら作っていたとき。
片手がカレーの鍋に当たって、キッチンに大量のカレーをぶちまけてしまった。

あああああああああああ!!!

パンツを降ろしてしゃがむだけでは足らず、「なんだ!こんなもん!」と乱暴にTシャツも脱ぎ捨て、リビングまで走っていって両腕を上げて全裸で叫びながらぴょんぴょん6回飛び跳ねた。
そうしてキッチンに戻って服を着るといつものわたしに戻って極めて冷静に後始末をするのだ。


人生に失敗はつきものだ。
ときにはもう自分はここまでだと、自分を捨ててしまいたくなるときもあるだろう。

わたしにもあった。何度か。
「risaSpecの黒歴史」というブログを連載したことがあるが(現在削除済み)、あの最後の最後に、わたしが新宿の深夜の歩道橋の上で力尽きて倒れ込んだときのことを書いた。
仰向けに寝転ぶわたしに、その日めずらしく東京に冷たい雪が降った。
わたしの顔にも体にも雪が降り積もったけれど、わたしは動かず、あのとき「ついにわたしもここまでか」と静かに目を閉じた。

しかし、みんな。
この人生は、映画だ。

君が監督で、君が主演の。

わたしもこの映画の監督で主演女優なんだ。

こんなとこでくたばってどうする。
こんなのが映画のラストシーンだったら、こんなつまらない作品はない。

いくら主演だからって最初から最後まで勝ちっぱなしのドラマなんて観せられても退屈でおもしろくなんかない。
だからこういうシーンは映画に必ず必要なんだ。
誰がどう考えても「すべて終わった」っていうシーンが。
誰もが「ここから立ち上がるなんてもうあり得ない」と映画館の席を立とうとするような、このシーン。

それでも。
もしもそれでも。
大逆転で立ち上がったとしたら、それはドラマとしてカッコよくないか?
それこそが映画なんじゃないか?

そして立ち上がって次にわたしが目指したステージは、あのブログを読んだ皆さんがご承知のとおりだけど、その後も何度も八方塞がりの窮地に追い込まれた。
けれどわたしはそのたびそれをおもしろがった。

またこういうシーンか。
確かに清らかで、誰より強いシーンが、ちょっとここ数年続きすぎた。
ちょうどいいとこでまたこういう墜落のシーンが入ってくる。
今度はどうやって次の「逆転のシーン」につなげていこうか。
ただ目の前のこの敵を倒すんじゃなくて、もっと別の次元に、もっと高みに登る次のシーンをどう描いていこうか。
もうわたしはそういうふうにしか考えないんだよ。

どんなDeadEndでも監督のわたしが何度も「GO」を出すのは、主演女優のわたしを信じてるから。
必ずやってくれる。台本を超えてあいつは必ず監督のわたしをも驚かせてくれる。
どんな映画にも、どんな雑誌にもないやり方で。

君は「へーそんなもんかね」とケツをかきながら思ってるだろう。
それは君がただの観客だからだ。
それはいつも間抜けヅラで他人が作った他人が演じる映画を観て、のんきに「立て!立ち上がれ!負けるな」なんて言ってるだけだからだ。

あのね、君だって。
君だって、生まれたときから、じつはフィルムは回ってるんだよ。
長い長い映画は既に始まってる。
あのカッコ悪かった失恋や、それでも幸せな結婚や。
仕事が続かず辞めてはパチンコしてる君もフィルムにはきちんと刻まれている。
その映画も、もう中盤まで来ちゃってるんだよ。
おまえ、長すぎる!くすぶってる尺が!

<だってどうすれば逆転できるんだよ>
そんなことは走ってれば風が教えてくれる。
「またそういう話かよ」っていうのも走ってないからだ。
能書きはいいから自分のケツを叩け!

君のつくる映画はつまらない。
ダラダラと退屈であくびが出ちゃう。
もう陳腐な結末も予想できちゃう。

でもさ。だから。
だからこそ描けるんだよ。
そういう人にしか描けない。
ダメな男の大逆転のラストシーンは。

いい映画をつくって、いつかわたしにも見せてくれ。
Posted at 2024/06/16 05:07:30 | コメント(5) | トラックバック(0) | 日記
2024年03月13日 イイね!

祝 risaSpecゴールド免許復帰




ずっと免許はゴールドでちたが、7年前、原付スクーターで前の車を追い越ちて信号で止まりまちた。
すると若い警官がはちってきてここにサインちてくださいというので、てっきりみんカラのわたちのファンかと思ってサインちてあげたらなんと割り込み運転ということらちいのです。
あれ、いまだにちょっと納得はいかないち、ゴールドだから軽微な違反は免除されると思ったのでちたが、点数は引かれず満点でも違反歴があるとゴールド免許はちっこうするらちいのです。
おかげで次の更新では5年ブルーでちた。

ちかち!
それを乗り越え、やっと今回はれてゴールド免許に復帰ちたのであります!

警察署では後日の受け取りになるので即日発行の免許センターへ行きまちた。
写真を撮るので宝塚みたいなメイクで。

新ちい免許証をもらって免許センターを出るとなんだかにやけてちまい、ゴールドをまじまじ見たくて宝塚なままカフェに立ち寄りまちた。
ラテを受け取り座ろうと思ったら、あれ? 席が空いてない。

え?これはいったいどういうこと?

スタッフではラチがあかないので店長さんを呼んでもらいまちた。

「お客さま、どうかなさいましたか?」
「座るとこないんだけど。これはいったいどういう扱いなの?」
「そうおっしゃられましても、当店のお席は予約制ではないので、、」
「あのね、、わたちゴールド免許なんだけど?! ほら!」
「えええっ た、たいへん失礼しました。今すぐご用意いたします」

そうちて店長さんは3人組の大人の女性たちのテーブルへ行って席を立つよう言ってくれたのだけど、ママ友軍団はそう簡単には納得せず、わたちに向かって「なんなのこの女。あんたあとから来たんだからそこで立って待ってなさいよっ」と怒鳴るのです。

店長さんが慌ててわたちに「お客さま、申し訳ございません。この下品なブルーどもにもう一度例のものを」というのでちかたなくゴールド免許を出ちて「どけっ 大人ブルーどもっ」と一喝すると3人ともコソコソと出ていったのでちた。

「お客さま、本当に失礼いたしました」

「いえいえ、レジでゴールド免許を提示ちなかったわたちもわるいのでいいですよ」

「さすがゴールド免許の方はお心まで寛大で、そこらへんのブルーどもとは器が違いますね。あ、それとゴールドのお客様はストローは取り放題のサービスとなっておりますのでどうぞご利用ください」

「そうなの?なんだかわるいわね」

ストロー7本で飲むとさすがにSサイズのラテは一口で飲み終えてちまいまちた。
カフェを出て歩いていると不良に囲まれ「金貸してくんないかなあ」と言われたけどポケットから免許証を出すとチラッと見えただけで「やっべ。す、すいませんでした」と逃げていくち、警察署の前を通ると警察音楽隊がファンファーレを鳴らすち、歩行者信号はわたちがたどり着いた途端に赤から青に変わるのでちた。
あの信号はいったいどういう仕組みでわたちがゴールド免許保持者だってことを認識ちているのでちょうか。

それからいつものスーパーへ行ってお買い物をちたんだけど、レジで「お支払いはカードですか?現金ですか?」と聞かれたので、「ゴールド免許で!」と元気よくいうと「か、かしこまりましたっ」とペコペコしながら免許をピッとされただけでお買い物ができまちた。

スーパーを出るとちょうど目の前の道をおばあさんが渡ろうとちていて、そこに猛スピードでトラックが突っ込んできます。

「あっ あぶないっ」

すばやくトラックめがけてゴールド免許をぴゅっと投げつけるとトラックは吹っ飛び、空中で大爆発ちてちまいまちた。

「おばあさん!だいじょうぶでちたか?」



じつは免許取り立ての頃はスピード違反で捕まりまくって120日免停になったこともある。
それからは40km/hの道は必ず40k/hで走る習慣ができて、高速道でもほんとに100km/h以上では走らない超安全運転の今のわたしができあがった。
どんなに短時間でも必ずコインパーキングに入れるし、信号のない横断歩道の近くに人がいたら渡るか渡らないかがわからなくっても必ず一旦停止するし、ファミレスに行ったら必ずレジでお金を払うようにもなったし、急におしっこがしたくなってもきちんとトイレまで行くようにもなった。いいか!見渡す限りの大平原でもだぞ!人が10km四方いないのにだぞ!(それならするか、今でもふつーに。へへへ)
なのでわたしはあの点数制度は1年でクリアになることも含めてとてもいい制度だと思ってる。

人間も生まれたときに、もしかしたら1人1人に点数がついてるのかもしれない。
人を傷つけたらマイナス2点。
誰かを助けたらプラス1点。
大きく道を踏み外すと免停にもなるけど、それでも投げやりにならずまた1からやり直す人の前歴はクリアされ満点に戻ることができる。

そうやって繰り返し死んでいくときわたしたちはせめて生まれたときに持ってた点数に戻れてるんだろうか。

この世の価値としての人間の点数は、年収が高くて、いい車に乗って、豪邸に住めば高まるはずだけど、その人はほんとの意味での人間の点数としては免停のまま一生を終えるのかもしれないし、家もなくお金もなく人からはバカにされ、けれどいつも笑顔を絶やさない人は最後の最後にゴールド免許かもしれない。

ただ難しいのは、今の自分の点数が何点なのかがわからないこと。
免停になってもそのお知らせすら来ないこと。
自分の感覚でいいと思ってしたことがほんとの意味では減点になってるかもしれないということ。
何をすれば点数が増えて、何をやったら減点になるのすら、わかってるようでじつはわかってない。
信じるのは自分の感覚だけだけど、そもそもその感覚がほんとに正しいものなのか自信がない。

だから人は愛によく似たものを愛と勘違いし、人を恨み、自分を傷つけ、立ち上がることのできない世界へと自ら進んで行ってしまう。

愛によく似たものに翻弄される人は、きっとどこまで行っても愛のその指先にすら触れられることはないでしょう。

法律とか判例とかじゃない。
相手が誰だからとかじゃない。
どこかの雑誌に書いてあったからとかじゃない。
「だってみんなそうしてるから」とかじゃない。
それが損だとか得だとかじゃない。

わたしたちはただ、自分の信じる自分のきもちが示す正義だけに忠実に生きよう。
それで免停になったらくじけることなくまた立ち上がって棒切れで地面に線を引くんだ。
人生は、いつだって、どこにだってスタートラインを引き直せる。
「そんなことはないよ」と自分の人生を振り返る人は、ただその一本の線を自分で引こうとしなかったことに気づけ。

頑張れ、愛しいブルーども。
Posted at 2024/03/13 20:43:23 | コメント(9) | トラックバック(0) | 日記
2024年03月10日 イイね!

risaSpecとスポーツ

野球は興味ないんだけど大谷選手が結婚したらしいね。
それで結婚相手が公表されなかったから、みんな誰だ誰だって大騒ぎらしいけど。
わたしそんなのどうでもいいと思うよ。
君にだってそんなの関係ないんだし、他人の結婚に首突っ込んで詮索するもんじゃないよ。

・・・え?・・・

もしかして理沙さんじゃないのかって?

いやいやそんなわけないでしょ。
わたしじゃないから!それぜったい違うから!それだけはないよ!
なんか証拠があってそんなこと言ってる?じゃあ証拠見せてごらんよ。ないでしょ? だってわたしじゃないんだもん。いやマジで。
そもそも、だってほらわたし大谷選手に会ったことすらないんだからさ。ファンでもないし。

仮にだよ? 仮にわたしが大谷選手の結婚相手だったとして、それでわたしあなたになにか迷惑かけたのかなあ。どんな迷惑かけた?かけてないでしょ?
かけてないっていうかそもそも違うから!わたしじゃないんだもん。
しつこいなあ。あなたそういうとこ直したほうがいいよ。
本人がちがうって言ってるのに信じないなら、どうしてもそう思いたいんだったらそう思っとけばいいよ。
もっとも「そう思いたければそう思えばいい」っていうのは99パーセント嘘ついてる人のセリフだけどさ。
いやいやいやわたしは残りの1パーセントだって言いたかったの。

じゃあじゃあじゃあ!
もしわたしが大谷選手の結婚相手だったらあなたに100万円あげるよ!・・・どお?・・・あ、ごめん。1万円にしとこうかな・・・いやいや自信あるよ。めっちゃ自信はあるよ。だってわたしじゃないんだもん。いいよじゃあ2万円でも、べつに。
でもそれだけ気にするって、じつはあなたなんじゃないの?結婚相手。
え?違う? うん、そりゃ違うだろうね。そうでしょうそうでしょう。


これを友だちに銀座線の車内でやってみようって言ったら「いくつだと思ってるんですか」とあっさり断られてしまった。
まったく世知辛い世の中になったもんだ。
20代でやってもつまんないけど、いい歳したわたしがやるからこそおもしろいんだけどね。


わたしはスポーツってほぼ無縁である。
中学のときはテニス部でけっこう真面目に練習してた。暑い日以外は。
ところが高校生になって、まったくスポーツへの興味をなくした。
体育の時間、休んで見学してみんながバスケやってるときに一個のボールを追っていい歳した高校生が右や左へ走り回るのがなんかバカみたいに思えてきたのだった。
まるで飢えた人が食べ物を求めるように「パスパス!」って叫んでるし、輪っかにボール入っただけで明暗が別れて一喜一憂する。
気まぐれに動くボールは経済の動向にも見えたし、わたしたちがいう幸福や不幸のようにも思えた。
そしてまたGHQが日本占領下で行った3S政策をこの頃すでに知っていたこともあって、ボールを追うというより、ボールの姿をしたAMERICAに操られている日本人の姿を見た思いでもあった。

この時期、わたしは音楽にのめり込み大阪や東京でもライヴに呼ばれそれなりの人気があった。
野球部とかバレー部を遠くに見ながら音楽室の練習室で暗くなるまでピアノを弾いててそれがかっこいいと思ってたんだ。(家にはピアノがなかったので)
もし野球部の子なんかと付き合ってデートしたら土手に寝転んで葉っぱを口にくわえて空を見上げるんだろうかとか思った。
当時はそういう「さわやか健康バカ」が大嫌いだった。
そしていわゆる不良ではないものの、わたしはとにかくルールから外れまくる高校生だった。

しかし最近は思う。
健全な精神は健全な肉体に宿る、というが、とても納得する。
さらに精神と肉体はそうした二元論ではなく、もしかすると一元論なのではないかとさえ思う。
またいつの間にかわたしはひとりで車で河原へ行き、棒切れを拾って地面に絵を描いて、飽きるとその棒を大声で叫びながら全力で川に投げるという、葉っぱくわえるどころじゃないほどの「さわやか健康バカ」になってしまっている。

職員採用するとき、わたしはその人の過去はあまり問わない。
「今がどうか」、そこにしか関心を持たない。
なので学生時代に何をやってたかなんてことは面接でも聞かない。
でもチームワークとかコミュニケーションラインを大事にしてくれる人は、やっぱり学生時代にスポーツをやってきた人に多い。
若い頃スポーツを小馬鹿にしていたことはわたしが誤っていたんだな、と近頃は思う。

肉体は精神を超えない。
でもその精神とはいつも曖昧な軌道を描きながら肉に強く惹かれ、ときには破綻する。

そう考えるようになった。

だから、今回のお話を受けたときは「いいんじゃないかな」って思ったんだよ。
羽生選手のときは、どっちがいい悪いじゃないんだけど、お義母様とわたしの間にちょっとしたすれ違いがあった。
でもその反省も踏まえて今回はお受けしてもいいかなと考えている。

え?誰と、って?

うん、ごめんね。そこはわたし翔くんからほんとにきつく止められちゃってるからさ。
まさかみんカラごときなんかでさ。




p.s. すみません。前回のブログはあんまりウケなかったようなので消去します。
イイねやコメントくださった皆様、ほんとにごめんなさい。
Posted at 2024/03/10 02:47:57 | コメント(9) | トラックバック(0) | 日記
2024年03月05日 イイね!

卒業する君たちへ  〜そして、遠い日のわたしへ。〜




信じられるのは自分しかいない。誰も信じられない。自分のことは自分でやってきたと思ってた。
でも動き出した電車の窓にふるさとの風景が後ろへ後ろへと流れたときに込み上げてきた涙に、君は初めて「そうではなかった」と知る。

地元ではミスなんちゃらとか言われ、仲間達からは東京行ったら男に気をつけろよとあんなに言われたのに、道玄坂で声をかけられたら宮下パークへの行き方聞かれただけで。
「田舎から出てきたばっかでわからないです」と答える短いスカートが悲しい。

いつも大人たちを小バカにして、「あんなふうにはなりたくない。わたしは突き抜けるんだ」とかっこよく東京に来たけど、乗り換えの山手線のホームではその大人たちに次々に突き飛ばされて乗りたい電車にすら乗れない小さな小さな存在でしかないことを知った。

いいかクソガキ。

東京という巨大な街では君が思うとおりの行き先へ向かう電車になんか、君は乗れないんだ。

わたしはけっして若い君たちの追随を許さない。
君たちが小バカにする、誰かの顔色を伺いながらビクビク生きる、右の拳を左手で包んで寂しく笑ってそれが大人だとか笑う、まるで勇気のない時代の川柳が歩いてるような大人というカテゴリーに、わたしを入れるな。

それでも。
だけど。それでも。
どうか。

「サスティナブルな事業」がどうとか、「女性独自の視点で」とか、そういうふざけた話はずっとずっと遠くに聞きながら、黙々とシャベルを地面に突き立てて、傷だらけの体で閉まりかけるシャッターに次々と滑り込んで。

<あの長い長い長い冬の中で死んでしまいそうに凍える魂をたった1人で泣きながら必死で温めて。>

そしてまたお尻の埃をパンパンとはらっては、くたばってた路地裏から泥だらけでまたメインストリートへ何度も何度も何度も全力で走って行け。そうして、いつか。

そうしていつか。
今から遠いいつか。

その日、ぬくもりの奥に冷たさがあるような、それとも冷たさをぬくもりが包むような、今日のような春の風が吹く年老いた丘の上で。

もう主人公ではなくなってただの風景のような姿になったわたしは君を待ってる。
君がわたしと同じ瞳で来ることを、信じてる。

君はきっとそこへ来るだろう。
だって君は遠い遠いあの日の、わたしと同じあの道を駆け抜けてきたわたし自身だから。

そのとき初めてわたしが君を褒めるから。
だからどうか君に。

どうか世界の誰より愛しい君に、もう冷たくなっていくわたしの身体を最後にそっと抱いてほしい。

「あなたがわたしでよかった」と。







<あとがき>

わたし、天才?



Posted at 2024/03/05 01:46:48 | コメント(9) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「日本のあちこちを巡るための ふたつめの、あの遠い日の「夏休みの秘密基地」 http://cvw.jp/b/2273104/48561981/
何シテル?   07/25 12:55
身長 / 168センチ 体重 / 52kg  スリーサイズ / B:貧乳  W:ふつう  H:ふつう  年齢:そこらへんによくある ごくふつうの年齢
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