コーリン・チャップマンが生涯追い続けてきた軽量化への揺るぎない信念は、
1960年代から1970年代にかけて彼のLotusチームに多大な成功をもたらした。
「馬力をアップすれば直線は速くなる ・・・
だが、軽量化をすればサーキット全体の速さにつながる」
これもまた、チャップマンが残した名言のひとつだ。
2014年3月、ケータハムカーズ ジャパンはセブン160を発表した。
スズキの軽自動車用ターボエンジンを搭載した、
セブンシリーズのエントリーモデルである。
エンジンは64psから80psにパワーアップされており、
車重はわずか490kg。0-100km/h加速は6.9秒を実現している。
このモデルの原型は ・・・
1957年にロンドンモーターショーで発表されたロータス・セブンだ。
実に60年以上にわたって製造されていることになる。
ロータスは、天才エンジニアのコーリン・チャップマンが ・・・
創業したスポーツカーメーカーである。
彼は大学在学中にモータースポーツに目覚め、
クルマにかかる費用を稼ぐために中古車販売を始めた。
戦後すぐの混乱期で、ガソリン配給権の得られる中古車は大人気だったのだ。
しかし、1947年になるとガソリン統制は廃止され、
中古車業は立ち行かなくなる。
急いで在庫を整理したが、最後に1台が売れ残ってしまった。
20年ほど前のオースチン・セブンが、あまりに旧式なので買い手がつかなかったのだ。
チャップマンは、
この古いクルマを改造してレーシング仕様に仕立て直すことを思いつく。
ガールフレンドのヘイゼル(後のチャップマン夫人)の ・・・
家の裏庭に車を持ち込み、改造を始めた。
シャシーを強化して剛性を高め、
エンジンの圧縮比アップやキャブレターの交換などで出力も向上させた。
1948年になるとローカルなレースに出場するようになり、好成績を残す。
チャップマンはこのマシンをロータスと名づけた。
植物の蓮(ハス)を意味する言葉である。
車を「ロータス」と名づけた理由を彼は一切明かしていないが、
数ある説の1つとして彼のガールフレンド(後の妻)であったヘイゼルに対して、
彼が「蓮の花」(Lotus blossom )というあだ名を付けたためではないかと言われている。
この記念すべき第1号車は、ロータス・マーク1と呼ばれることになった。
第2号車であるロータス・マーク2は1950年に行われたレースイベントで、
ブガッティ・タイプ37に勝利してしまう。
旧型とはいえグランプリマシンを打ち負かしたということで、
ロータスの声望は高まった。
続いて作られたマーク3は、フォーミュラ750で圧倒的な速さを見せつける。
本格的にスポーツカーの製造を行うため、チャップマンは1952年の1月1日、
ロンドンにロータス・エンジニアリング社を設立した。
転機となったのは、マーク6である。
このモデルは、設計の段階から量産化が考慮されていた。
それまではオースチン・セブンのラダーフレームを利用して ・・・
レーシングカーを仕立てていたが、
マーク6では独自のスペースフレームを採用している。
わずか25kgという非常に軽量なもので、
アルミ製のボディーパネルを取り付けても40kgだった。
マーク6はキットフォームの形で販売されていた。
シャシーやボディー、サスペンションなどのパーツの形で提供され、
購入した客は自らの手で組み立てることになる。
完成車として販売すると高率の税金がかけられるが、
パーツならば免除されるからである。
また、レーシングカーを購入する人々にとっては、
自分で最後の仕上げを行うことは楽しみでもあった。
エンジンはフォードの1.2リッター直列4気筒をはじめとするいくつかの選択肢があり、
自分で用意することも可能だった。
マーク6は大人気となり、1955年までに100台以上が販売された。
ロータス・エンジニアリング社の工場は古い馬小屋を借用して作られたもので、
フル稼働してもこれが精いっぱいだった。
チャップマンは次なるプロダクションモデルの製造のために会社を改組し、
新たな工場を建設した。1957年、2台のニューモデルがデビューする。
1台は前述のセブンで、同時に発表されたのがエリートである。
エリートはロータスとしては初のクローズドボディーを備えた、
GTスポーツという性格を持ったモデルだった。
車体構造はFRPモノコックボディーという革新的なもので、
軽量であるとともにCd値0.29と空力に優れた形状を採用していた。
高出力のコベントリー・クライマックスエンジンを搭載し、
四輪独立のサスペンションを備えたエリートは、レースでも高い戦闘力を誇り、
ルマン24時間レースでは6回のクラス優勝を飾っている。
エリートは1963年までに約1000台が製造された。
スポーツカーメーカーとしての足場を固めたロータスは、
北米マーケットに進出を果たす。その戦略の中心を担ったのが、
1962年のロンドンモーターショーで発表されたエランである。
車体はバックボーンフレームにFRPのボディーを組み合わせたもので、
この構造は後々のモデルにも受け継がれることとなる。
もくろみどおり北米で大成功を収めたエランは、合計で1万8000台が製造された。
チャップマンはロードカーの製造のみを行ったのではなく、
モータースポーツにも大きな足跡を残している。
そもそもマーク1は自分がレースをするために作ったものだったのであり、
初期のロータスでは彼自身がドライブしてルマンなどの大舞台に出場している。
ロータスが初めてF1に参戦したのは、1958年である。
当初はさしたる成績をあげられなかったが、
1960年にミドシップレイアウトの18を投入すると状況が好転する。
モナコGPではこのマシンを購入したロブ・ウォーカー・レーシングチームの ・・・
スターリング・モスが優勝し、ロータスマシン初のGP勝利となった。
チーム・ロータスとしては、翌1961年にアメリカGPで初優勝を果たしている。
1962年に登場した25は、レーシングカーデザインに革命を起こした。
従来のスペースフレームに代わり、モノコック構造を採用したのである。
D字型断面を持つメンバーを左右に持ち、
前後のバルクヘッドと組み合わせてバスタブ型のモノコックを形成する。
軽量でねじり剛性に優れた構造で、
高いロードホールディング性能により圧倒的な戦闘力を誇った。
熟成が進んだ翌1963年シーズンは、ジム・クラークのドライブで10戦中7勝を挙げ、
ドライバーとコンストラクターズのダブルタイトルを手にした。
このほかにも、ロータスが導入した革新的技術は多い。
72では、ラジエーターをフロントからサイドに移し、
ボディー全体をウエッジシェイプにするデザインを採用した。
サイドラジエーターは現在のF1では常識だが、
これもチャップマンのアイデアなのである。
78ではさらに空力の考え方を前に進め、グラウンドエフェクト理論を取り入れた。
サイドポンツーンをウイング形状にし、強大なダウンフォースを生み出したのだ。
78と改良型の79で、ロータスは1978年のコンストラクターズタイトルを獲得した。
チャップマンは、1982年に心臓発作でこの世を去った。
死の直前、彼はチームにアクティブサスペンションの開発を指示している。
翌年のF1に投入したアクティブサス仕様の92は成功しなかったものの、
87年の99Tはアイルトン・セナと中嶋 悟のドライブで好成績を残し、
その後のF1に大きな影響を与えた。
チャップマンは、生涯を通じて常に新しい技術にチャレンジしてきたのだ。
ただ、現在もスポーツカーマニアに愛されているセブンは、
決して目新しいテクノロジーが盛り込まれているわけではない。
60年以上前に原型が作られたのだから当然だが、
当時も同時に発売されたエリートに比べればはるかに保守的な構造だった。
しかし、それはチャップマンが初めて作ったマーク1の志を継ぐ、
誰もが楽しめるクルマであり、モータースポーツを愛する人々の心をとらえたのだ。
チャップマンの魂は、今もセブンの中に宿っている。
しかし!チャップマンの信念 ・・・
セブンに乗るワタスが ・・・
軽量化!出来ていない (爆)