
庵野監督は本放送で昭和46年の仮面ライダーを観ていないんじゃないか?と、思ったので失礼ながら年齢を調べてみたところ、昭和35年生まれのネズミ年。仮面ライダーの放映当時は小学5年生と思われるので観ていた。と、判断した。
当時の彼は山口県宇部市に住んでいたようなので、観れない環境ではなかったハズた。
ただ当時の日本は、高速道路網が山口県まで延びてなく、新幹線も東京駅~新大阪駅までしか走ってなかったために「地域性」というのは今とはかなり違うくらい有った。インターネットも無くて、電電公社の長距離電話も国際通話並みの料金だった。
そんな中で観た仮面ライダーは、撮影拠点だった川崎市北部の生田やお台場の潮風公園なんて、やはりブラウン管の中のこととしてしか彼の目に映らなかっただろう。
当時の生田では、生田緑地で行われた関東ローム層崩壊実験崩落事故で役人や報道関係者まで土石流に巻き込まれ死亡したり、
お台場なんて汚くて誰も近寄らなかった寂しい荒れ地で潮風公園なんか立ち入り禁止区域だった。撮影チームは主題歌「ロンリー仮面ライダー」の歌詞通りの気分になっただろう。
では、宇部はどんなところだったのかと言えば、セメント工場の町で、宇部セメントは日本の高度成長期で需要はウナギ登り。景気は今よりもずっと良かった。
ダンプカードライバーたちは、瀬戸内海に面した道路一帯に在る「貝汁」の店でアサリの味噌汁と白米だけで腹を満たして働いていた。
古き良き時代でメシを食う店の前の路上駐車なんて当たり前だった。
ハナシを生田に戻すと、ロケでは予算の問題なのか生田スタジオの近隣で行われることが多かった。今は無いが向ヶ丘遊園やそこに至る道路、もしくは生田緑地、枡形山、弁天洞窟など、とても新宿から急行電車で20分とは思えない緑に囲まれた自然環境や、建設途中で廃墟となった作りかけマンションなど、ロケに使えるところも数多く有った。新宿と言えば、新宿の箱根山というところでもロケは行っていたな。亀バズーカ、ハサミジャガーのときに。
今は川崎市多摩区王禅寺と呼ばれる住宅街も、土地分譲のために多摩丘陵斜面が整地され道路も舗装されたりしてロケには好都合だった。この状況は仮面ライダーシリーズのエックスライダーくらいまでは続いただろう。
ワシ自身は、藤岡弘氏がケガにより佐々木剛氏に交代になり、子ども向け番組になって以降は殆んど観ていないために詳しくは無いので、説明内容が間違っているかも知れん。
まぁ、当時宇部に住む小学生の彼には、仮面ライダーのロケ地なんて想像も出来ないだろうから、自分がシン仮面ライダーの監督になって仮面ライダーを撮るときに、昭和の仮面ライダーのイメージを追っても無理が有るよ。ということだな。
生田のロケでは、ケータリングなんて、安い弁当を買って来て仮面ライダーとショッカーの戦闘員が楽しそうに地べたに並んで座って食べていた。
子どもの夢を壊すハナシになるが、フルカウル付きの速そうなサイクロンはカウルの中のスピードメーターなんか無くて、ベニア板を黒く塗って取り付けて有ったり、黄色い2灯式ヘッドランプなんか外側からビニールテープで固定して有ったしマフラーには期限切れの発煙筒を仕込んで撮影していた。当時は内燃機関の排気管からは煙がたくさんモクモク出るのがハイパワーの証だった。
画像は、佐々木剛氏の2号ライダー編での山本リンダさん、島田陽子さん。パンツ見えてる方が山本リンダさん。50年以上前の彼女たち。
ブログ一覧 | 音楽/映画/テレビ
Posted at
2023/07/22 12:06:58