
尋常ではない短時間で,県境を越えた先にある,地域屈指のホテルへ乗り付ける。
無言でホテルの格を象徴する車格,勿論駐車するのはいつもの定位置である,エントランスのすぐ脇だ。
「赤いべべ着た号」がエントランスを横切るのを,グレーを帯びたグラス越しに,見て取ったコンシェルジェは,受話器を取ると厨房の番号を押した。到着の報を受けたシェフがスタッフに檄を飛ばし,にわかに厨房が忙しくなる。
助手席のドアを開け,彼女をエスコートしたA君は,飛び出して来た馴染みのホテルマンに軽口を叩きながら,キーを軽く放り投げて渡した。
中に入りスタッフに軽く会釈しながら,エレベーターに乗り込むと,一気に最上階の夜景が4方を包むダイニング・ルームへ。
席に着くと同時に淡い黄金色のシャンパンが注がれ,オードブルが運ばれてくる。
馴染みのシェフとは一昨日のあいだに相談して,アペリティーフから食後のカクテルに至るまで,メニューはすでに詰めてある。言うまでもなく事前に調べ上げた,彼女の好き嫌いも考慮されている。
シャンパンはブリュトにしたい所だが,飲み慣れない彼女のこと,A君の妥協の限界,ドミ・セックを選んである。オードブルから甲殻類を外したのも惜しいが。
メニューや酒を選ぶ時間は全て省いてある。あれこれ考える時間を与えるということは,同時に冷静に戻る時間も与える危惧がある。
大志を貫徹するには,冷める余裕を全て奪い去って,サプライズの連続で,どんどんたたみ込んで行くのが大事だ。
贅を尽くした本日のお勧めフレンチを終え,カクテルに移る頃には,グランド・ピアノが彼女の大好きなアーチストの曲を奏で始める。
ロシアン・ウォッカをベースにフレッシュ・ジュースを加えたカクテルの,口当たりの良さについ気を許して,少し飲み過ぎている。淡いピンク色を帯びた頬が,感激でさらに赤みを増した。
勿論これも予め,彼女の周囲に探りを入れ,調べ尽くした好みのうちの,1つのジャンルに過ぎない。ピアニストに曲目の順序,そしてそれらを奏でるタイミングは周到に頼んである。
やがて曲はバラードになり,頬を寄せて踊る2人を,照度を落とした淡いオレンジ色のダウン・ライトの光芒が包み込む。
最終準備段階完了
その頃には2人の語らいを誰も邪魔しない,スイート・ルームの準備はすでに整っている。ベースのリズムに合わせながら,フロアで揺れて踊っているA君に向けて,テーブルそばに立った支配人が,密やかに目配せした。
それに応えてA君も,彼の胸に軽く顔を埋めている「白百合」の背中越しに,口元を少しだけ緩め軽く頷いた。
そして支配人はシート位置を直す仕草のついでに,いつもの部屋のキーをシートの隅にそっと隠した。
後は最高峰目指したアタックを遂行するのみだ。登頂ルートは完全に開けている。
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通学快速 | クルマ
Posted at
2007/02/23 20:07:24