
「そんなことがあったんだ。大変な目に遭ったな」
「あの頃は私もウブだったから・・・」
長く延ばした紅いマニキュアに挟まれた,白い煙草の先がポッと明るさを増す。殆どシルエットのみだった女の端正な横顔と,日本人離れした細長い鼻孔が,薄明かりの中で浮かび上がる。小さな灰の小片がひらひらと純白のシーツに舞い落ちる。
女は遠く昔の情景を見るかのような虚ろな目つきで,情熱の紅に彩られた唇を少し突き出して,天井目がけてため息と混ぜながら,煙を細く長く吐き出した。微かに青みを帯びた細長い雲が,開口部をフル・スパンに取った窓の方向へと,天井下をゆっくりとたなびいて行く。
窓の外には,家路を急ぐヘッドライトの光芒の帯が,高速道路のオレンジ色の照明の川に沿って,緩やかなカーブを描きながら,地平線へと長く延びていた。
「あれ以来,イケメン青年実業家にはすっかりアレルギーになってしまったわ」
眉間に寄せた微かな皺が苦悩の過去を物語っている。
「どうしても彼と重なるのよね。好青年という類もね」
「なるほど。それで俺とかい? まぁ,そうでなけりゃ・・・」
太い左腕を真横に延ばした男が言った。長い栗色の髪で包まれた頭の重みで,そろそろ痺れて来る頃だが,必要とあらば朝までそのままでいられるだけの自信と経験はある。
「でも,そのアレルギーの御陰で,今のダンナと・・・」
その下に何か生き物でもいるかのような,ブランケット表面の波打つ動きが,男の語尾が終わる間際に,一段と大きくなるのが,女の透き通る白さの中に筋が浮かび上がった首の,少し下あたりに見て取れた。
そこでは男の掌が,先程からゆっくりとした不規則なリズムで,休み無く動き続けている。
「そうね,彼とは似ても似つかぬ,真面目さだけが取り柄の」
私立女子高に通っていた頃,親が半ば無理矢理つけた家庭教師のことだ。当時は旧帝大医学部の学生だった。女子大に進んだ後も,機会を見つけては,ミュージカルに演劇にと,親が切符を手配しては,娘に,そして本当は男にも新しい服も買い与え,2人を送り出していた。費用も親が裏で渡していた。
「奴ほどは無理としても,世間からすれば十分に羨む暮らしだろ」
「まぁね・・・」
そう言いながら女は再び,煙を細く長く吐き上げた。
「表の稼ぎに加えて,刃物を振り回す度に,色々と入って来るのも多いだろうし」
「そうだけど,でもこう見えても苦労は多いんだから・・・何かと」
「立派な良妻賢母の教授夫人を通すには・・・」
「確かに良妻賢母だ・・・」
ブランケット表面の波高がゆっくりと2回大きくなる。
「ところで私みたいなのが,一体何人ぐらいいるの?」
「さあ~ どのぐらいいるんだろうな・・・」
「怒らないからぁ~」
甘えた声で男の肩を揺らす。ねだる時の所作は,あの頃とあまり変わっていない。
「E子やA君とも長い付き合いなんでしょ?」
「そりゃそうだけど。聞かない方が・・・」
女は半身を翻し,目を見開いて上目づかいに,男の次の言葉を待った。
左手の血流が復活し,痺れが徐々に和らいでくる。
「俺も詳しいことは・・・,ピアニストのE子と,俺の女友達の話からすると,裏が取れてるだけでも・・・」
「片手ぐらい?」
「もう少しかな・・・」
男はブランケットから右手を抜き出すと,シルバーの表面に汗をかいた,バケツの中に浮かぶ「モエ・シャンドン」のグリーン・ボトルの首を掴み,そのままラッパ飲みした。
「じゃあ両手?」
女は無邪気な表情で茶目っ気たっぷりに,顔の横でパッと両掌を開いた。こんな時の表情はあの頃と少しも変わっていない。男の網膜ではなく,脳幹に繰り広げられたスクリーンには,十数年前にワープした「白百合」の姿が映っている。
そんな動揺を悟られまいとするかのように,男はゴクリと喉を鳴らして,炭酸の刺激と共に飲み込んだ。
「そんなことより,そろそろまた・・・」
男はボトルを傾け,口移ししようと顔を横に向けて,口封じに掛かろうとする。
「誤魔化さないでよ。両手両足あれば足りるでしょ?」
「兄弟のも合わせれば多分・・・ そんなことは,今更どうでも・・・」
「やっぱり・・・結構いたんだ・・・」
ため息混じりに呟いた。
「まぁな。所詮,あれじゃ餌食になるなと言うほうが無理だ」
「それに,回りが警告したところで,みんな『自分だけは特別』と思うからな」
「私もそうだったわ・・・」
「本当に悪い奴だ」
「人のこと言えた義理・・・?」
語尾を上げながら,女が流し目できっと睨んだ。
その一瞬の表情は,映画に出てくる極妻の凄みを思い出させた。
「今更だが,後で奴も言ってた。・・・お前がピカイチだったとな」
「今ではすっかりこうなっちゃたけど・・・」
「いやいや,あの頃より数百倍もイイ女になったよ。第一あの頃は俺にとっては,望むだけ無駄な高嶺の花だったし」
「それが地上に堕ちてきた?」
「そして数百倍も『都合の』イイ女になった・・・でしょ?」
「んなこたぁーない。若い頃だったらどうあがいても無理な憧れが,こうやって・・・」
そう言いながら,右手のボトルをバケツの氷の中に突っ込むと,再び男の右手がブランケットの下に潜り込む。
「冷たい」
小さく呟くと,一瞬,女はびくっと上体を震わせた。
「それに・・・」
「それに・・何なの?」
少し虚ろになった目で,女が次の言葉を催促した。再びブランケットの表面は揺れている。
「ソフト・ターゲットを狙わないのが,せめてもの俺の仁義だ」
「食うか食われるか,乗るか乗られるか。そんな相手が,俺の性に合ってる」
かつての「白百合」,今では妖艶な美しさに凄みが加わった「黒百合」は,半時間ばかし話しをしている間に,すっかり元気を取り戻したことを確かめた。
半身を起こしながら上体を捻ると,枕元の灰皿で短くなった煙草を揉み消した。ボーン・チャイナの灰皿の白さと,吸い殻のリュージュの紅が鮮やかなコントラストを描き出す。その脇で「ベッドでの寝煙草はご遠慮ください」の小さな立て札が,寂しく不満そうに見えた。
そして,好みがドミ・セックからブリュットに変わった,シャンパンのボトルを手にして,グラス2杯分にあたる量を飲み込んだ。
透き通る白さの細く長い首筋と,顎の下の線が見事な一直線を成した。立て膝の優美な曲線がシルエットとして浮かび上がる。紅いマニキュアをした細く長い指で握られた,ボトル・ネックの金ラベルだけが鮮やかに光っている。
シャッターさえ切れば,明日からでもCMのポスターとして使える。
そして女はゆっくりと全身を翻し,男の両脇の少し横に,両手を開けてついた。男の脇を挟んだ膝頭が,シーツに窪みを作る。そして重力により上半身の曲線美がさらに強調された。
「乗られる・・・か」
女は「クスッ」と小さく笑いながら呟くと,吸いこまれるような大きな黒い瞳で,男の瞳をじっと見下ろした。
天井のダクトから放たれたエアコンの冷気に連れられて,「ジャン・パトゥ ミル」の香りが,千枚の花びらと共に,男の顔に舞い降りて来た。
清楚で可憐なエレガントさを表すオスマンサス・・・金木犀のトップノートに始まり,官能的な催淫剤としても知られる,パチョリのラストノートで締めくくった,千種からなるフローラル・ノートは,忘れたとは云えしっかりと彼女の根底に残っている「白百合」と,今の妖艶な,時には凛とした蒼く透き通った氷山の冷たさをも感じさせる「黒百合」とが綾を織りなす,可憐で危険なハーモニーに,とてもよく似合っていた。
かつてA君が贈った花束の「数は力なり」の威力をも思わせる,千枚の花びらの芳香に,溺れそうになる心を振り切るかのように,揺れる中で男はこう心の底で呟いた。
「そろそろ,次の事情聴取の準備に掛かるか・・・」
通学快速 全編 完