
鈴鹿のイベント、SOUND OF ENGINEに行ってきました。
私と当時の部下であった仲間たちとの、血と涙と汗の結晶である、1台のレーシングカーを見に行くためです。
95年から97年まで、ルマン24時間レースに挑戦するためだけに、自分たちの力で作り上げていったマシン、それがMC8Rです。
という事で、少し当時を思い返してみます。
もう20年以上前の話なので、記憶も怪しく、長文になるので、今日は95年の話をかいつまんでです。
まずは、94年に、突拍子もない話が社長からありました。
『MR2に、セルシオのエンジンを搭載してGT1カテゴリーでルマン24時間レースに挑戦する!』
なんのこっちゃです。
相手は、ゴードンマーレイが世に送り出してきていたマクラーレンF1を筆頭に、ジャガーXJ220、F40、911、Ventury600LM、ブガッティEB110等、私にとってはほぼ空想の世界のクルマばかりでした。
そもそも、私を筆頭にレーシングカーの設計に携わったものなど誰もいません。
そこで、エンジン関係は大手自動車会社でレースエンジン開発をしていた方に、先生として月に2回イロハを教えてもらい、シャシーとボディは社長の熱血指導の下で、設計製作を実施していったのでした。風洞実験も、実車風洞で試すなど、出来る限りのことをやり続け、突っ走りました。
最初のプロトタイプが走り出したのは、94年でした。
自動車メーカーさんのテストコースを借りてのシェイクダウンで走ったのは、数百メートルでした。
コンパニオンフランジが破損して駆動が伝わらず、即撤収でした。
その時のエンジンは、セルシオに搭載された1UZ(4000cc)をベースにKKKのK26-2670を左右バンクに取付過給したものでした。
コンピューターは、純正のままでエアフロを使い、追加インジェクターで対応していました。
430馬力程度だったはずです。
このエンジンは、データ取りのための実験エンジンで、カムプロフィールの製作・実験、吸気管長の比較、排気管内圧力の把握、サージタンク容量の決定などに使われ、ベンチで回され続けました。
それらの、苦労を基に95年には500馬力弱から580馬力程度まで出力を向上させ、ルマンにエントリーできるまでこぎつけました。
国内でのテストは、失敗の連続でした。この岡山では、オーバーヒートからオイルポンプを壊し、徹夜で修理して翌日の富士で走行させるも、タービンがブローしていて、やはりスロー走行だけでした。
不安を抱えたままで、渡仏してテストを続けるわけですが、何とか組み上げて南フランスのノガロサーキットにて初めて全開走行が出来たわけです。
270km/Hオーバーで走る、自分たちの手で作り上げた車に興奮が抑えられませんでした。
私は、なんだかんだと理由をつけて、助手席に乗り込み全開走行を体験し、カーボンブレーキの強烈さに驚き、スリックタイヤのコーナリングパワーと、レーシングカーの持つ低重心に感動しました。
また、90度クランクを持つ4000cc、V8ターボエンジンの持つトルクに圧倒されました。
その後もテストは続き、ポールリカールへ。
セットアップが進んできて、更に他のライバルチームも合流して、実際に戦闘力の把握が出来たわけです。隣のピットにいた、EB110のチームが満足に走れず、うらやましいと言ってきたことが記憶にあります。
余談ですが、ポールリカールは、『バリバリ伝説』でグンが島崎スペシャルに乗ってはっついた、ミストラルストレートがあります。
漫画の話とは言え、感無量でしたよ。
来る日も来る日も、テストして深夜までメンテして、テストして、メンテしてを繰り返し、メンバーもマシンもどんどんと疲弊しながら、いよいよルマンウィークを迎えたわけです。
ルマンでは、車検からお祭りです。
多くの観客が、マシンを見ようとやってきます。
当時は、まだチケットを買わなくても見ることができたんじゃないかな?
練習走行を実施し、予選を走り、金曜には当時恒例のエンジン交換&隣の飛行場でのテスト走行をしたわけです。
そして、迎えた翌日の決勝です。
長い話でしたので、残りはまた後日です。
Posted at 2017/11/20 00:33:29 | |
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