第109師団長兼小笠原地区集団長
硫黄島の最高指揮官は栗林忠道中将
(大将)
中将も西竹一中佐と同じく騎兵出身
陸軍省の馬政課長時に今も残る
愛馬進軍歌
の歌詞の選者
硫黄島部隊の総指揮官であり小笠原兵団長を兼務
長野県出身 55歳 陸士26期生
アメリカ・カナダ駐在経験があり弟23軍参謀長として南中国で作戦
硫黄島
小笠原諸島から270km南にある島
弟109師団(膽兵団)の約13900名が守備していた
師団砲兵は三八式榴弾砲120mm4門、野砲9門75mmよりなるが
アメリカ戦車と対決するため大本営は5個大隊の独立速射砲隊を送り込む
(2400名 一式機動速射砲47mm 60門)
さらに当時特殊兵器であった九八特殊臼砲330mm12門を操作する独立臼砲弟20大隊
独立臼砲弟20大隊は他九四式軽迫撃砲90mm28門装備 兵員400名
他 司令部直属の中迫弟3大隊413名は九六式中迫撃砲150.5mm10門
九四式軽迫撃砲6門
海軍も井上左馬二大佐の硫黄島警備隊約6000名が陸軍の指揮下にあった
横浜港出航
硫黄島に向う
戦車弟26連隊が乗船した船舶は
松岡汽船の利根川丸(4997t)と
日産汽船の日秀丸(7785t)
利根川丸には12輌、日秀丸には24輌の戦車を搭載して横浜港を出航
1944年7月14日南下した船団は海防艦代号の護衛するなか
7月18日、小笠原諸島・父島付近でアメリカ潜水艦コピア号に日秀丸が撃沈される
西中佐は一旦本土に帰還、戦車を補充して無事硫黄島に着任
地面を掘るとやっと出る地下水はマグネシウムと流黄が含まれ、呑むと下痢を起こす、またパラチフスに悩まされ続ける
ほぼ毎日のような空襲爆撃、火山ガスと地熱、食糧難、栄養失調、伝染病
そのような状況でも、あれだけの地下杭道と450箇所以上の砲台やカムフラージュした機銃座を巧みに設営
その体力・精神力は神の領域
アメリカ船団出航
アメリカの海兵師団の乗船した大船団がハワイを出航したのは1945年1月27日
指揮官のターナー中将は商船を改造したエルドラード(7430t)より攻撃命令を下す
2月18日
早朝海面いっぱいに軍艦現る
地上にある物資を地下に運ぶ 不可解なアメリカ 一日の猶予 嵐の前の静けさ
栗林中将 全部隊に命令
「諸士待望の敵来る、諸士は太平洋の防波堤となり最後の一兵たりとも尚ゲリラとなりて敵をなやますべし」
艦砲射撃と爆撃
猛烈な艦砲射撃と空襲攻撃、南海岸より2月19日早朝上陸開始
北岸に第4海兵師団、南岸に第5海兵師団が上陸
後詰めの第3海兵師団は沖合いに待機
上陸後アメリカ軍は奥地の千鳥飛行場を占領する為西進を開始
硫黄島には南の千鳥・中央の元山・建設途中の北飛行場がある。飛行機は今は無し
続く
Posted at 2007/03/12 01:17:41 | |
トラックバック(0) |
旧日本軍車輛 | 趣味