ついに X JAPAN 攻撃再開
X JAPAN (エックス ジャパン)は日本のロックバンド。1989年に
X (エックス)としてメジャーデビュー。その後1992年に
X JAPAN へと改名する。1997年解散。通称としてXと呼ばれる。
1982年、千葉県館山市で当時高校生だったYOSHIKIとTOSHIを中心に結成。後に「ヴィジュアル系」といわれるロックの先駆者的存在とされ、Janne Da Arc、Dir en grey、ナイトメアなどに影響を与えている。
VIDEO
Vocal:TOSHI
Guitar:HIDE
Guitar:PATA
Bass:HEATH
Drums:YOSHIKI
バンド名の由来
X というバンド名は、Xという字が本来持っている「無限の可能性」という意味がこめられている。結成当初は、「正式なバンド名が決まるまでの仮の名前」であって、「1文字だとコンテストのパンフレットで目立つから」という、軽い気持ちであった。 その後、世界進出にあたりアメリカに同名のバンドが存在することが分かり、1992年8月HEATH加入発表と共に
X JAPAN へと改名する。
来歴
結成から東京進出まで
幼稚園の頃からの幼馴染だったYOSHIKIとTOSHIは、小学校高学年でアメリカのロックバンド「キッス」の話をするような少年であった。小学校6年生の時に「一緒にバンドを組もう」と約束をした、とされる。中学生の時に「
DYNAMITE 」(1978-1980)、後の「
NOISE 」)(1980夏-1982)を結成。中学校の予餞会が初ライブだった。通っていた中学校が生徒増加で分割してしまい、ヴォーカリストが別の中学に編入されてしまった為、当初ギターだったTOSHIがヴォーカリストになった。地元では進学校として有名な安房高校に進学した2人は、その後もバンドを続けていたが、進学問題で他のメンバーが脱退。他校のメンバーを加えて1982年に始めたのが
X だった。
当時のXは、コンテスト荒らしとして地元では有名なバンドで、TOSHIはバレーボール部と掛け持ちしていた為に、坊主頭で出場していた。
幼少の頃からピアノを習っていたYOSHIKIは、高校生当時「勉強もできてピアノも弾けるが、不良」という、学校にとっては厄介な存在だった。当時の様子をYOSHIKIは「バリカンを持った先生に館山市内を追い掛けられた」と、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に回想している。金髪リーゼントなのに期末試験ではトップクラスの成績、学校行事ではピアノを演奏するなど、当時から異彩を放っていた。「笑っていいとも」などのトーク番組出演時に、YOSHIKIは他にも「ピアノの先生から『転ぶときは手をつかずに顔から転べ』と言われていた」などのエピソードも披露している。また上記「徹子の部屋」番組中、当時のX最高速曲は「Stab Me In The Back」だったにもかかわらず、過激過ぎると判断したのか、Xの1番速い曲として「ROSE OF PAIN」のツーバス連打部分を紹介している。
高校卒業後の進路として武蔵野音楽大学へ推薦入学するはずだったYOSHIKIは、クラシックに対して行き詰まりを感じ、入試1週間前の1984年1月に突如入試を断念してしまう。YOSHIKIは、ロックバンドとして成功する道を選び上京。TOSHIも、バンド活動の為に都内の調律の専門学校へ進学。こうして2人は活動拠点を東京に移した。
インディーズ時代
上京後の2人は、何のツテもない状態でメンバーやライブハウスを探し、1年後の1985年にはバンドとしての体裁を何とか整えられるようになる。6月、初のシングル「I'LL KILL YOU」をDADA RECORDSからリリース。その後YOSHIKIの母親が300万円出資し、有限会社として自身のレーベル「エクスタシーレコード」を設立。1986年4月に「オルガスム」をリリースする。この頃になるとファンもある程度定着したが、メンバーが常に流動的だった。販売が好調だった「オルガスム」を再プレスできなかったのは、この為である。
この頃のXは、日本テレビ「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「ヘビメタコーナー」に出演していた。「早朝シリーズ(就寝中の芸能人の部屋に侵入し、バズーカなどの爆音で起こす名物コーナー)」の一つである「早朝ヘビメタ」や、ステージ衣装のままで競技を行う「ヘビメタ運動会」などで話題となる。当時の放送では、YOSHIKIとTOSHIはそれぞれゲイリー・ヨシキ、オジー・アキラと名乗っていた。また、同番組の企画で「やしろ食堂ライブ」を行い、TAIJIが店の前の一般道で炎を吹き、狭い店内でYOSHIKIがドラムを叩き、HIDEがギターを振り回し、TOSHI、HIDEが客に向かって「食え~!!」と叫び、高速ナンバー「オルガスム」を演奏。迷惑そうな店主と黙々と食事を続ける女性客をよそに僅か1分少々の間で新装開店の店内を破壊し尽くした。ちなみに、HIDEのX加入後初仕事でもある。番組最終回において過去の名場面を放送した際、Xが絡む場面については一切放送されなかった。
実際のライブにおいてもYOSHIKIやメンバーが暴れて火を吹いたりライブハウスを壊すなどの暴走は当たり前。ライブ中の毎回、ガソリン注いでシンバル燃やす、ライブ後の打ち上げでも喧嘩が絶えず、数々のライブハウスや居酒屋から出入禁止となった。当時、ロックミュージシャンが居酒屋へ入る時、YOSHIKIがいないかどうか店員にチェックされた程である。その特異な行動から、HIDE率いるサーベルタイガー、TAIJI率いるディメンシアと共に「関東三大粗大ゴミバンド」とバッシング(嘲笑い)の対象になった。
当時の音楽業界、特にロックのジャンルにおいて「テレビ出演」はタブー視されており、硬派なイメージを保つ事で彼等の世界観を保とうとする風潮があった。しかし、それを嘲笑うかの如くテレビ番組やライブでやりたい放題のXは、業界関係者や他のバンドから「ヘビメタをお笑いネタにされた」として厄介者のレッテルを貼られた。後の作品「紅」さえも認められない時期があったという。
結局、これらのテレビ出演がターニングポイントとなり、Xの知名度は一気に全国へと広がる事となる。また、この頃のXは、酒の席で「他のバンドがやらない面白い事をやろう」と考えた末、当時デモテープの配布すら滅多に無かった時代にプロモビデオを客に配布した。この時、他にも配布するものとして、冷蔵庫、電子レンジ、トラックなど本気とも冗談とも取れるアイデアが出たという。自身のプロモーションを積極的に行う点では、他のバンドより抜きん出ていた(他のバンドからは金持ちバンドとしてみられていたらしい)。なお、このようにお笑い番組にまで出演したということは「いくらいい曲を作っていても聴いてもらえなければ意味が無い」という考えから「知名度が必要」という判断をしたためであるという。
それと前後して、メンバーも固定化された。一時期Xに加入していたTAIJIが1986年の年末に再び加入。ビクターから発売されたオムニバスアルバムのレコーディングでPATAがヘルプで参加。その後、1987年初めには、サーベルタイガーを解散させ美容師になる決心をしたHIDEをYOSHIKIが説得し、Xに加入させた。いつの間にかPATAも正式にメンバーとなり、メジャーデビュー時のラインナップが揃った。
こうして最高のメンバーが揃ったXは精力的に活動を続け、1988年4月、遂にアルバム「VANISHING VISION」をリリース、発売1週間で初回プレス1万枚を完売する。これは、当時としては驚異的な事であった。この時、既に数社とのメジャーレーベルとの契約交渉を進めており、この年の夏に当時のCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)とメジャー契約を果たす。
CBSソニーとの契約 メジャー進出時、Xとの契約を巡ってレコード会社間の争奪戦となった。「VANISHING VISION」は、メジャーから発売される可能性もあったが、YOSHIKIの「インディーズでまだ何も残していない」との判断で、エクスタシーからのリリースとなった。結局、Xが契約したのは、1番条件が悪かったとされるCBSソニーだった。Xがソニーと契約した理由は、他社のディレクター達が「BMWを買ってやる」や「黒髪にしたら売れる」といったような、ナメた態度をとっていたからだとされている。こうしたメジャーレーベルの人間の横柄な態度にメンバーはその都度キレまくっていたので、交渉は冷静に対処できるYOSHIKIが担当したという。
実は、契約したソニー側も会社としては積極的にXを獲得する動きは見せなかった。ただ、当時「サウンドディベロップメント」(スカウト・育成部門、通称SD)部門所属だった津田直士が紆余曲折を経て「STAFF ROOM 3rd.」という新規プロジェクトチーム配属となった事から、津田自らがディレクターとなりXと会社を説得。結局「~3rd.」はマネジメントまで引き受けることとなった。
メジャーデビュー、東京ドーム3days
1989年4月21日、CBSソニーからアルバム「BLUE BLOOD」でメジャーデビュー。オリコン初登場6位を記録する。また、この年だけで60万枚のセールスを記録する。当時はまだ、音楽業界でミリオンヒットが珍しい時代であり、さらにトップレベルのロックバンドですら10万枚の売上で大ヒットだったこの時代、Xのセールス記録は驚異的な記録であった。
その後、同年9月に『紅』をシングルカット。テレビ朝日「ミュージックステーション」などをはじめとする音楽番組出演などの積極的なメディア露出で、ヴィジュアル系バンドを見た事の無かった多くの人達に強烈なインパクトを与え、また楽曲の良さでも世間の注目を浴びる。この時もXのメディア露出過多について音楽業界から賛否両論を浴びせられたが、そんな事も吹き飛ばすかの如く、世間の支持を集め瞬く間にトップバンドへと登り詰めた。
破竹の勢いでメジャーシーンを突き進むXであったが、YOSHIKIの過激すぎるドラムプレイがアクシデントを引き起こした。同年11月23日の渋谷公会堂でのライブ中にYOSHIKIが倒れ、以降のライブは延期されたのである。この時から、YOSHIKIは首や腕に「爆弾」を抱えながらバンドを続ける事となる。しかしYOSHIKIが不在でも、Xは日本有線大賞新人賞・日本ゴールドディスク大賞など数々の賞を総ナメにして、X現象は全国へと広まっていった。
1990年2月、初の日本武道館ライブでツアーを再開。5月の大阪城ホールライブをもって、次のアルバムのレコーディングの為に渡米、表舞台から姿を消した。しかし本人達が不在の間にも、前代未聞のFILM GIG(フィルムコンサート)を行い成功させるなど、Xの存在は一種の社会現象となった。
アメリカ・ロサンゼルスでの長期レコーディングでは、またYOSHIKIが倒れてしまう。Xの最高速曲である「STAB ME IN THE BACK」のレコーディング後に頚椎の異常を訴え、頸椎椎間板ヘルニアと疲労で倒れてしまう。このとき、YOSHIKIは過去にない症例をおこし3日間寝込んだという。以降のレコーディングスケジュールは大幅に延期。レコード会社からは1991年7月のリリースをリミットとされた為、他の高速ナンバーや「ART OF LIFE」などのレコーディングを断念し、同年6月帰国。翌7月1日、アルバム「Jealousy」をリリース。オリコンチャート1位を記録する。8月23日、初の東京ドーム公演を果たし、10月29日には日本武道館で「エクスタシーサミット'91」を開催。同時期、新宿の小田急ミロードに「X SHOP JEALOUSIX」を期間限定で出店、日清食品から「カップヌードルX味」が発売されるなど、この頃のXはメディア露出なども合わせて絶頂期を迎えていた。12月8日にはNHKホールで、「X with Orcestra」を開催。さらに12月20日のツアーファイナルの武道館ではFILM GIGのダブルアンコールで本人たちが登場し、この頃に一部新聞で報道された「X解散」という解散説をYOSHIKI自ら「俺たちは解散する気なんかありません」と完全に否定。HIDEに至っては「誰が解散だー!!!」とステージ上でブチ切れていた。そして12月31日には紅白歌合戦出場など、Xは日本を代表するバンドとなっていた。
しかしその間、YOSHIKIとTAIJIには次第に埋まらない溝ができていた。
1992年1月5、6、7日には日本人アーティストとして初となる、東京ドーム3DAYS公演「破滅に向かって」を敢行し、延べ12万人を動員することとなる。しかし、このライブでTAIJIが脱退。その後、1月31日の「ミュージックステーション」番組内のビデオメッセージにより、TOSHIの口からTAIJIの脱退が正式に発表された。TAIJI脱退の理由について、当初「音楽性とファッション性の違いから」と説明されていたが、その後のTAIJIの著書において「YOSHIKIに直接脱退を迫られた」という内容を告白している。「ギャラのアップ要求などバンドの嫌われ役に徹していたことに、YOSHIKIが疲れ果てたのではないか」や、また「一部のスタッフがYOSHIKIに働きかけたのではないか」など解雇理由についてTAIJIが著書で述べている。
ソニーとの契約解除、世界進出
同年3月、ソニーミュージックエンタテインメントから「YOSHIKIの我が侭にはこれ以上つき合えない」といった理由で、メジャー契約の更新を拒否される。この時点でXは所属レコード会社、所属事務所(マネジメントもソニーが丸抱えだった為)も無くなってしまう。
これは1991年リリースされたアルバム「Jealousy」のレコーディング時におけるYOSHIKIの頚椎トラブルでレコーディング期間が大幅に伸び費用がかさんだことや、世界進出に対する費用対効果の面や方向性の違いが原因とされる。Xの人気を考慮しても、ソニーミュージックの我慢は限界に達していた。
契約が切れてしまったXは、新しいレーベルとの契約と同時に、新たなベーシストをオーディションをしながら探していった。そして1992年夏、世界進出を果たすべくアメリカのタイム・ワーナー(当時)と契約。ニューヨークのロックフェラーセンターで記者会見を開いた。海外ではアトランティックレーベル、日本ではMMG(後のイーストウェストジャパン、現在はワーナーミュージック・ジャパンの1レーベル)から作品をリリースすることに決定。この時、同時に元マジェスティック・イザベルのHEATHの加入も発表されている。
海外進出を決めたのは良かったものの、アメリカ・ロサンゼルスに同名の「X」というバンドが存在したため、
X JAPAN に改名(ちなみに当初はX
FROM JAPAN と名乗っていたが、直ぐに変更した経緯がある)。
長期のレコーディング、バンド以外の活動
ワーナーとの契約が済んだX JAPANが最初に取り組んだのが、「Jealousy」に収録できなかった「ART OF LIFE」のレコーディングだった。デモテープは1990年夏には既に出来上がっていたが、TOSHIのヴォーカル録りが難航。1993年8月に、ようやくリリースされる。
これと平行して各メンバーのソロ活動が活発になるが、次第にX本体とのスケジュールの都合がつかなくなるなどした為に、Xのレコーディングスケジュールも管理していたYOSHIKIが、他のメンバーに不信感を募らせていった。だが相変わらず、Xのアルバムレコーディングは遅々として進まなかった。
本来、「Jealousy」に続くアルバムは世界進出アルバムとしてリリースされるはずであった。しかし、上記のバンド内の状況、TOSHIの英語発音の問題(「ART OF LIFE」では、長期のヴォーカル録りでも満足できなかったYOSHIKIが、パソコンを使って修正し続けたという経緯がある)、他のメンバーがあまり乗り気でなかった等々の理由により、YOSHIKIは「DAHLIA」での全世界リリース(「DAHLIA」英語盤の製作)を断念した。
さらに、その長期にわたるレコーディングはワーナーとの関係をも悪化させる。契約から4年ものアルバムレコーディングで経費がかかりすぎるとして、レコーディング費用捻出の為に仕上った楽曲を片っ端からシングルとしてリリース。それでも費用がかさんだ結果、YOSHIKIはフェラーリを売却し自腹でX JAPANのレコーディングを続行。さらに、YOSHIKIは持病の頚椎椎間板ヘルニアの為に数曲のハイスピードな楽曲のレコーディングを断念している。
このようなアルバムがなかなか出ないバンドの状況とは別の所で、日本国内ではFILM GIGが開かれたり、X JAPANブランドのコンドーム発売、UFOキャッチャー向け人形のキャラクター化、セガサターン用ゲーム発売、フォーミュラ・ニッポンへの参戦、ユネスコ主催の奈良東大寺ライブへの参加、年末の東京ドームライブの恒例化、紅白への連続出場等々、様々な活動があった。
DAHLIA TOUR~「DAHLIA」リリース、解散
出口の見えない「DAHLIA」のレコーディングが終わらぬまま、1995年11月、アルバムが未発表にもかかわらず遂に全国ツアー「DAHLIA TOUR1995-1996」が開始されてしまう。YOSHIKIの体調を考慮して、基本的に1~2週間に1個所で2daysという緩い日程だった。にもかかわらず翌1995年12月、仙台公演2daysが中止。翌1996年3月14日、名古屋公演2日目にYOSHIKIがライブ中に椎間板ヘルニアを再発して、そのまま以後のツアー日程は全て中止され、事実上ツアー終了。実に(福岡の延期を除く)18公演中、7公演が中止となってしまった。特に福岡ドームに至っては、延期公演の振替も中止というありさまであった。
そして長期のレコーディングの末、1996年11月4日に最後のオリジナルアルバム『DAHLIA』がリリースされた。しかし5年もの歳月を掛けたにも関わらず、アルバム発売以前に全10曲中6曲までがシングルリリースされる(さらに『DAHLIA』リリース後に「SCARS」もシングルカットされた)という、ベスト盤的アルバムとなった。この頃からTOSHIはXに息苦しさを感じるようになったと発言している。事実、後に一部公開された『DAHLIA』のレコーディング映像では終始TOSHIは意見することも許されておらず、ほぼスタッフとYOSHIKIの主導による細かな編集作業で、TOSHIのボーカル部分の細部を何度も修正している。
1997年4月、音楽性・方向性の違いを理由にTOSHIが脱退する。後任のヴォーカルを見つけられなかったバンドは、「2000年X JAPAN復活再結成、その為の一旦解散」を決定。9月22日読売新聞紙上に広告を掲出、解散を発表した。同日、記者会見を開き、X JAPANは解散した。その後、ファンに対する「けじめ」としてライブをしよう、とHIDEがYOSHIKIを説得。TOSHIも参加して、1997年12月31日に東京ドームで「THE LAST LIVE~最後の夜~」が行われ、終了後出演した紅白歌合戦のステージで幕引きとなった。
HIDEの死と解散後のX JAPAN
「2000年再結成」までの間、各メンバーはソロ活動を展開する。中でもHIDEは、hide with Spread Beaver名義で精力的に活動を始めた。しかしその矢先、1998年5月2日にHIDEが急逝、これによりX JAPANの再結成は叶えない幻となった(2005年6月のR-25、2002年1月のWeekly Oricon、1999年6月のFeatureなど様々な場でのインタビューでYOSHIKIが公言している)。HIDEの死は、X JAPANというバンドを解散早々伝説化させる要因になった。また、以降も「ART OF LIFE」や「THE LAST LIVE」などのライブ盤やDVD、インターネット上での投票によるベスト盤リリース、全国主要都市や韓国・ソウルでのFILM GIG開催などが続いた。
さらに、HIDEと同郷であり、hide MUSEUMの建設にも関わった小泉純一郎首相が「X JAPANのファン」と公言し話題を呼び、「Forever Love」が自民党の国政選挙の際にCFで使われた。しかし、その一方でTOSHIの洗脳騒動やYOSHIKIの迷走などかつてのファンを不安にさせるニュースも数多く報道されていた。特にYOSHIKIは日本で表立った音楽活動を殆ど行わなくなり、アメリカでのVIOLET UKの活動を主体にプロジェクトを進めるも、10年近い歳月と数億とも言われる予算を費やしながらも現在まで正式発売された音源はテストミックス1曲のみという結果である。これには公私共に深い信頼関係にあったHIDEの死去が自身に与えた精神的なダメージが大きかったためであることを後に語っている。
日本国内のみならず、海外、特に東アジア、東南アジア圏でのX JAPAN人気も相当なものである。韓国では「Tears」が、映画『僕の彼女を紹介します』挿入歌として、日本文化解禁後の韓国映画において初の日本語楽曲使用となった。また、ヨーロッパ圏ではXの楽曲をカヴァーするバンドも現れている。後述の再結成発表の場でもアジア圏から東京に駆けつけたファンやリアルタイムでXを知らない若者たちの姿などが多く報道されていたことから、解散後も新たなファン層を開拓していたと言える。
2007年再結成
2007年には再び再結成の話が急浮上した。これはTOSHIが「YOSHIKIと再結成する話し合いを進めている」と同年2月10日に自身のホームページ上で明かしたことによるものだった。そのメッセージでTOSHIはX JAPANのかつてのマネージメント事務所社長がTOSHIのライヴ会場に何度も足を運び、他のメンバーが再結成したがってるがTOSHIはどうだろうかと、頼んで来たと話している。再結成に対して否定的であったTOSHIは、最初は頑なに断り続けていたが、あまりにも何度も来られたため、YOSHIKIにも確認し、共通の友人でもあるアーティストにも応援と期待を頂いて話を進めているとTOSHIはそのメッセージで話していた。共通の友人でもあるアーティストとは小室哲哉のことであり、小室もmyspaceに持っている自分のブログで英語で再結成について言及していた。
また、2007年2月13日発売の週刊誌・週刊女性では、TOSHIがインタビューに答え、「近々YOSHIKIがいるロサンゼルスに行く予定です。とりあえず音出してみようと思っています」とも話していた。
しかし2007年3月にX JAPANのリーダーとして活動の鍵を握っていたYOSHIKIが、自分のmyspaceブログ(項目YOSHIKIの外部リンクを参考)紙面を通じて「そのような事実はない」と英語ではっきり否定する発言を述べており、その直後TOSHIのホームページから再結成を言及したメッセージがなんの説明もなく削除されたことから、事実上2007年のX JAPANの再結成は無いことと考えられた。しかし、その後YOSHIKIがスポニチの取材に対し、「ぼくの意志は固まっている。ファンの人生でもあったバンドだから、慎重に意見を聞きつつ復活の準備を進めている」などと語ったため、再結成の可能性は濃厚になった。[1]
そして、2007年2月14日にはソニー在籍時(即ちX時代)のアルバム『BLUE BLOOD』『Jealousy』の2枚がリマスター発売され、また、2007年3月21日にはTOSHI自身のオフィシャルサイトにて、ロサンゼルスのYOSHIKIのスタジオを訪ね、およそ10年ぶりに共に演奏したことを明らかにし、その際にセッションした楽曲はYOSHIKIがhideへの追悼曲として作曲し、2005年のYOSHIKIのソロアルバム『ETERNAL MELODY II』に収録していた「Without you」であったことも明かし、YOSHIKIとのプロジェクト、新曲のリリースの動きが進行していることをほのめかした。実際、X JAPANが解散し10年、結成から25年、メジャーデビューから18年経ったことになる。
そして、スポニチの報道から4ヶ月後の2007年10月18日、オフィシャルホームページに『緊急告知』という形で活動再開が正式に発表され、東京都港区台場のアクアシティお台場屋上において、新曲「I.V.(アイヴイ)」のプロモーションビデオの公開撮影を10月22日に行う旨が報道された[2]。同日めざましテレビで同曲の一部分が公開された。また、「I.V.」はハリウッド映画『SAW4』の全世界メインテーマソングに決定しており、この楽曲でX JAPANは念願の全世界デビューを果たすこととなる。この曲には亡きhideのギター音をデジタル加工して使用するなどまぎれもないX JAPAN5人の楽曲として制作された新曲であるが、この時点での音源化は未定とされており、発売の詳細発表はおよそ3ヵ月後の正式発表まで待つこととなる。また、世界デビュー曲ということもあり、歌詞は英語でDAHLIA製作時に問題となったTOSHIの発音などもYOSHIKIによって指導が行われたという。復活のXデーとなった22日にはお台場にファンが3000~10000人ほど集結し、救急車まで出動する事態となり、危うく撮影中止も懸念されたものの、無事撮影は行われ、存命中の4人そしてYOSHIKIに抱きかかえられた人形のHIDEが揃い、10年ぶりにX JAPANの『5人』がファンの前に姿を現した。この撮影では『HIDEも世界に連れて行く』という意味合いが強く、前述のHIDE人形のほか、彼の立ち位置には空席のマイクスタンドとギターが設置されていた。さらに同日めざましテレビや各種雑誌媒体によるYOSHIKIの単独インタビューも行われた。撮影終了後にはファンに向かってメンバーが復活の挨拶を行い、2008年春を目処に東京での復活コンサートを計画していることなども明らかにされた。YOSHIKIが語るところでは春のコンサート以外は殆ど何も決まっていないに等しく、今後X JAPANが継続した活動を行うのかどうかやアルバム製作があるかどうかなどは自身もわからないとしていた。
後日、TVでのインタビューに YOSHIKIはXに終止符を打つ為の再結成で綺麗な形で終わらせる為であり、長期間の活動はしないとのビジョンを語った。また、HIDEの後任のギタリストに関しては、ゲストと言う形をとり、HIDEのポジションを空けておく、Xは常にHIDEと一緒という発言から新たにHIDEのギターを収録することが不可能なことやTOSHIとの確執が完全に解消されたわけではないといった趣旨の発言からも、長期の活動は難しいのが現実だろうと思われる。なお、TOSHIは復活後のソロコンサートで「X JAPANもやりながら癒しの音楽もやっていきたい」と語っていた。
一方でTAIJIはこの件に関して一切コメントを発していない。
2008年~
再結成発表後に真っ先にXが行った活動は過去のライブ映像を完全な形でデジタル化することであった。 その第一弾として発売が発表されたのはXが『X JAPAN』として行った最初のライブであり、日本人初のドーム球場での年越しコンサートでもある「日本直撃カウントダウンX JAPAN Returns」の完全版である。 CMは2007年12月5日の「FNS歌謡祭」の桑田佳祐の出番直前に解禁され、そのコピーは「X JAPANがついに帰ってきた」というものであった。 当初このDVDは12月30日盤、31日盤と特典をセットにしたBOXとが2008年1月発売とアナウンスされたが、後に延期された。延期理由は「BOXに新曲のPVを付属する」というもので、ここで10月に撮影された『I.V.』のフルバージョンが初商品化となる予定である。
YOSHIKIは今後も過去の映像をデジタル化することを公言しており、「DAHLIA TOUR FINAL」や「THE LAST LIVE」の完全版の発売予定がアナウンスされている。
2008年1月20日、YOSHIKIによる、一般ファンも招待制で出席可能の記者会見が渋谷アップルストアで行われた。この会見で同年3月28日、30日に、東京ドームで2Daysの復活ライブが行われることが発表された。また、会見同日に先行予約が開始され、23日の時点では既に予約が10万枚分を越えていた。この予想以上の反響に応え、当初の予定を変更しドームの後方席も開放し増席することを決定し、さらに夏以降の追加公演と、Xにとって初の海外公演となる欧米・アジアツアーの年内の発表も明かされた[3]。復活ライブは『X JAPAN 攻撃再開 2008 I.V. ~破滅に向かって~』と、かつてのXの東京ドーム3DAYS公演と同じ名前が付けられ、28日は「破壊の夜」、30日は「創造の夜」と命名された。立ち位置に付いても触れており、「HIDEがいたときと同じ配置で行く」と改めて『5人のX JAPAN』によるコンサートであることが強調された[4]。さらにこの会見で「I.V.」のiTunes Storeなどにおける全世界23ヶ国同時発売が発表され、これによってX JAPANは音源発売という形で世界に向けて動き出したことになり、本格的に
世界進出 を実現させることになった。
また同日夕方、タワーレコード渋谷店において、X JAPANメンバーと招待されたファン160人によるトークライブが行われ、長年確執が報じられてきたYOSHIKIとTOSHIの間でも和やかに言葉が交わされていた。
さらに公式ページには「I.V.」「Without you」を収録したX JAPAN自身が完全監修した日本語楽曲ベストアルバム発売計画がX月X日発売予定とされている。