X JAPAN解散後のソロ活動はhide with Spread Beaver名義で行っている。hideと、ソロ活動のツアーサポートメンバー(バックバンド)による一つのバンドに近い形態であり、hide曰く「沢田研二とエキゾチックスみたいな感じ」だという。それとは別にzilch(ヂルチ)という日本国外のミュージシャンと組んだバンド(ユニット)があり、アメリカ(世界)デビューを計画しており、マリリン・マンソンから「前座でいいからやらせてくれ」と対バンを申し込まれたりもしていた。
hideは基本的にテレビやゲームが好きで、好んで視聴したり遊んだりしていた。これらがあるとそればかりをしてしまうために、一年の内の多くを過ごしていたロサンゼルスでは(日本のテレビ番組が放送されないため)音楽ぐらいしかやる事が無く、集中できるために音楽を作るには適した環境と語っていた。テレビ番組の中では特にお笑い番組が好きで、当時人気を誇っていた「ダウンタウンのごっつええ感じ」などがお気に入りであり、ダウンタウン(特に松本人志)のファンでもあった。また、スーパーファミコンソフト『スターフォックス』にはまっていたために、デビューシングルの『EYES LOVE YOU』のPVではそこから得たアイディアを取り入れている。
しかし、『HURRY GO ROUND』の歌詞や、ラジオ番組「オールナイトニッポンR」での発言が意味深長で自殺に関連するのではないかという見方や、はたまた事故ではなく自殺だと断言している人間の存在までもあり、様々な見解がある。警察は雑誌取材などに「『牽引』にしては首の輪が小さく、むしろ死を意図するものであった。また、『バンドや音楽活動で悩み酒量が増えていた』と聞いており、突発的に死に踏み切ったのだと思われる」と答えている。
hideの墓には大きく『hide』の文字が書かれており今でもファンによる多くの献花が飾られている。また、墓石には愛用のギターを模したレリーフの隣に事実上遺作となった『HURRY GO ROUND』の歌詞と両親から息子へのメッセージが刻まれているほか、記帳用のノートも設置されている。なお、墓にはファンによる墓地の荒廃を防ぐために松本家からの注意書きも設置されており、献花は包装をはがすこと、線香を束であげない、水、酒などの液体を墓石にかけないといったルールが記されている。
作品
シングル
EYES LOVE YOU(1993年8月5日)
50%&50%(1993年8月5日)
DICE(1994年1月21日)
TELL ME(1994年3月24日)
MISERY(1996年6月24日)
Beauty&Stupid(1996年8月12日)
Hi-Ho/GOOD BYE(1996年12月18日)
ROCKET DIVE(1998年1月28日)
ピンク スパイダー(1998年5月13日)
ever free (1998年5月27日)
HURRY GO ROUND(1998年10月21日)
TELL ME(2000年1月19日)
In Motion(2002年7月10日)
「Junk story」はシングルとしてはリリースされず(In Motionと同時期に作られていた)
アルバムHIDE YOUR FACE (1994年2月23日)
PSYENCE (1996年9月2日)
Ja,Zoo (1998年11月21日)
ベストアルバムhide BEST ~PSYCHOMMUNITY~(ベストアルバム)(2000年3月2日)
hideが作った3枚のアルバムの中から選曲したベスト。
hide SINGLES ~Junk Story~(シングルス)(2002年7月24日)
hideがリリースした全てのシングルに加え、未発表曲「Junk Story」を加えたシングルコレクション。HDCD対応
KING OF PSYBORG ROCK STAR(ベストアルバム)(2004年4月28日)
hideの7回忌を記念し、hideが生前にコンセプトとしていた「PSYBORG ROCK」を中心に収録されたベストアルバム。HDCD対応
hide PERFECT SINGLE BOX(コンプリートシングルBOX)(2005年9月21日)
シリアルナンバー入り完全受注生産商品。hide歴代のシングル13枚と、2005年9月25日で閉館したhide MUSEUMメモリアルDVDを一箱におさめた。
hide SINGLES+PSYBORG ROCK iTunes Special!! (2006年2月8日)
hideのiTunes Store楽曲配信第一弾として製作されたセレクション。全てのシングルA面と死後に発表された「In Motion」「Junk Story」の2曲に入手困難な状態が続いていたX時代のセルフカヴァー「MISCAST」に「DOUBT(MIXED LEMONed JELLY MIX)」「FLAME(PSYENCE FACTION version)」の2曲のリミックスを追加した全20曲。
幼少の頃からピアノを習っていたYOSHIKIは、高校生当時「勉強もできてピアノも弾けるが、不良」という、学校にとっては厄介な存在だった。当時の様子をYOSHIKIは「バリカンを持った先生に館山市内を追い掛けられた」と、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に回想している。金髪リーゼントなのに期末試験ではトップクラスの成績、学校行事ではピアノを演奏するなど、当時から異彩を放っていた。「笑っていいとも」などのトーク番組出演時に、YOSHIKIは他にも「ピアノの先生から『転ぶときは手をつかずに顔から転べ』と言われていた」などのエピソードも披露している。また上記「徹子の部屋」番組中、当時のX最高速曲は「Stab Me In The Back」だったにもかかわらず、過激過ぎると判断したのか、Xの1番速い曲として「ROSE OF PAIN」のツーバス連打部分を紹介している。
アメリカ・ロサンゼルスでの長期レコーディングでは、またYOSHIKIが倒れてしまう。Xの最高速曲である「STAB ME IN THE BACK」のレコーディング後に頚椎の異常を訴え、頸椎椎間板ヘルニアと疲労で倒れてしまう。このとき、YOSHIKIは過去にない症例をおこし3日間寝込んだという。以降のレコーディングスケジュールは大幅に延期。レコード会社からは1991年7月のリリースをリミットとされた為、他の高速ナンバーや「ART OF LIFE」などのレコーディングを断念し、同年6月帰国。翌7月1日、アルバム「Jealousy」をリリース。オリコンチャート1位を記録する。8月23日、初の東京ドーム公演を果たし、10月29日には日本武道館で「エクスタシーサミット'91」を開催。同時期、新宿の小田急ミロードに「X SHOP JEALOUSIX」を期間限定で出店、日清食品から「カップヌードルX味」が発売されるなど、この頃のXはメディア露出なども合わせて絶頂期を迎えていた。12月8日にはNHKホールで、「X with Orcestra」を開催。さらに12月20日のツアーファイナルの武道館ではFILM GIGのダブルアンコールで本人たちが登場し、この頃に一部新聞で報道された「X解散」という解散説をYOSHIKI自ら「俺たちは解散する気なんかありません」と完全に否定。HIDEに至っては「誰が解散だー!!!」とステージ上でブチ切れていた。そして12月31日には紅白歌合戦出場など、Xは日本を代表するバンドとなっていた。
海外進出を決めたのは良かったものの、アメリカ・ロサンゼルスに同名の「X」というバンドが存在したため、X JAPANに改名(ちなみに当初はX FROM JAPANと名乗っていたが、直ぐに変更した経緯がある)。
長期のレコーディング、バンド以外の活動
ワーナーとの契約が済んだX JAPANが最初に取り組んだのが、「Jealousy」に収録できなかった「ART OF LIFE」のレコーディングだった。デモテープは1990年夏には既に出来上がっていたが、TOSHIのヴォーカル録りが難航。1993年8月に、ようやくリリースされる。
本来、「Jealousy」に続くアルバムは世界進出アルバムとしてリリースされるはずであった。しかし、上記のバンド内の状況、TOSHIの英語発音の問題(「ART OF LIFE」では、長期のヴォーカル録りでも満足できなかったYOSHIKIが、パソコンを使って修正し続けたという経緯がある)、他のメンバーがあまり乗り気でなかった等々の理由により、YOSHIKIは「DAHLIA」での全世界リリース(「DAHLIA」英語盤の製作)を断念した。
1997年4月、音楽性・方向性の違いを理由にTOSHIが脱退する。後任のヴォーカルを見つけられなかったバンドは、「2000年X JAPAN復活再結成、その為の一旦解散」を決定。9月22日読売新聞紙上に広告を掲出、解散を発表した。同日、記者会見を開き、X JAPANは解散した。その後、ファンに対する「けじめ」としてライブをしよう、とHIDEがYOSHIKIを説得。TOSHIも参加して、1997年12月31日に東京ドームで「THE LAST LIVE~最後の夜~」が行われ、終了後出演した紅白歌合戦のステージで幕引きとなった。
HIDEの死と解散後のX JAPAN
「2000年再結成」までの間、各メンバーはソロ活動を展開する。中でもHIDEは、hide with Spread Beaver名義で精力的に活動を始めた。しかしその矢先、1998年5月2日にHIDEが急逝、これによりX JAPANの再結成は叶えない幻となった(2005年6月のR-25、2002年1月のWeekly Oricon、1999年6月のFeatureなど様々な場でのインタビューでYOSHIKIが公言している)。HIDEの死は、X JAPANというバンドを解散早々伝説化させる要因になった。また、以降も「ART OF LIFE」や「THE LAST LIVE」などのライブ盤やDVD、インターネット上での投票によるベスト盤リリース、全国主要都市や韓国・ソウルでのFILM GIG開催などが続いた。