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2008年05月02日 イイね!

hide没後10年・・・

hide没後10年・・・1998年5月2日から早くてもう10年の歳月が流れました・・・

hideがいなくなってからもう10年・・・






hideの事はいつまでも忘れない・・・
皆の心の中でいつまでも生き続けるから・・・


たくさんの音楽と感動をありがとう・・・これからも人の心を動かすような存在でいて下さい。




hide Tell me




















概要
横須賀サーベルタイガー解散後、1987年初めに当時のXに加入。PATAも加わって、メジャーデビュー時のメンバー構成になり、たいていの楽曲でリードギターを担当した。また、一部曲の作詞および作曲も担当。ライブ等でも独自の派手かつ奇抜なパフォーマンス、ビジュアルで自らを主張し、YOSHIKIとはまた一味違う存在感を放った。他のメンバーが派手なビジュアルを止め、徐々に素顔を見せるようになる中で、HIDEだけは「ファンからどう見られるか」に徹底して拘り、ヘアースタイル、ステージ衣装にビジュアル性を重視し、独自の個性を貫き続けた。

1993年から開始したソロ活動では、作詞、作曲、ボーカル、ギター、ベース(一部曲)、プロデューサーなどほとんどを自らが行ったマルチプレーヤーである。

X JAPAN解散後のソロ活動はhide with Spread Beaver名義で行っている。hideと、ソロ活動のツアーサポートメンバー(バックバンド)による一つのバンドに近い形態であり、hide曰く「沢田研二とエキゾチックスみたいな感じ」だという。それとは別にzilch(ヂルチ)という日本国外のミュージシャンと組んだバンド(ユニット)があり、アメリカ(世界)デビューを計画しており、マリリン・マンソンから「前座でいいからやらせてくれ」と対バンを申し込まれたりもしていた。

解散前のXも含めてこれらの活動は基本的に並行して行われていたが、それら全てが軌道に乗り始めた矢先に死去した。

彼の没後も公式ページは更新されており、X復活後もYOSHIKIらの「HIDEを含めたX JAPAN」という意向から彼の公式ページでも他の4人と同様の内容が掲載され、復活コンサートのチケット販売も行われた。


人物
本名は松本秀人(まつもとひでと)、神奈川県横須賀市出身。血液型はAB型。逗子開成高等学校卒業。

少年時代には肥満からくるコンプレックスのため、内気で大人しい子供だったという。小学校の卒業文集の将来の夢の欄には「医者になってみはなされた患者さんを助けてあげたい」と書いている。中学時代にはイジメも経験した。

また、教育熱心な家庭であったのか塾や習い事に通う忙しい小学生であったという。アメリカへの集団でのホームステイも経験している。その当時を知る人は、少年時代のhideからはテレビなどで活躍するhideの姿はとても想像がつかなかったと語っている。

中学生の頃にキッスのレコードを初めて聞いた時に大きな衝撃を受け、ロックに目覚める。 以後は俗に言う「ロック少年」となり、様々なロックを聴き漁るようになる。そういった中でhideが強く影響を受けたバンドには、主に、キッス(特にエース・フレーリー)、クラッシュ、アイアン・メイデンなどの名前が挙げられる。山本恭司 (BOW WOW) のファンでもあり、hideの愛器となる「モッキンバード」を手にするようになったキッカケは「(BOW WOWの)ミツヒロ(斎藤光浩)さんが持っていたから」とのことである。

その後、エレキギターを手に入れたが当初はバンド活動はしておらず、そのまま高校へと進学した。その進学した高校が「エレキ禁止」であったためにバンドを組めずにいたが、不良の溜まり場などと言われていた横須賀のドブ板ストリートに出入りするようになり、そこで出会った仲間達とバンドを結成する。このバンドがX加入以前に活動していた唯一のバンド、「サーベルタイガー」となった(正確には、中学でもバンドを組んだが形だけで音楽活動はしなかった)。

また、「おばあちゃん子」であったhideは美容院を営んでいた祖母からの影響を少なからず受けている。Xデビュー当時は祖母のサリーをステージ衣装として借りていたことも。祖母と言うには若くて派手な人であったために、後のファッションなどの基盤となったとも言われ、更に高校卒業後にはハリウッド美容専門学校へと進み、卒業をして実際に美容院で働いてもいた。中学生のhideに高級品であったギブソンを買い与えたのも祖母。「サーベルタイガー」を解散した時には、全ての音楽活動からは足を洗って美容師として生きていこうと決心をしたが、結局はYOSHIKIの誘いでXに加入することになる。

hideは基本的にテレビやゲームが好きで、好んで視聴したり遊んだりしていた。これらがあるとそればかりをしてしまうために、一年の内の多くを過ごしていたロサンゼルスでは(日本のテレビ番組が放送されないため)音楽ぐらいしかやる事が無く、集中できるために音楽を作るには適した環境と語っていた。テレビ番組の中では特にお笑い番組が好きで、当時人気を誇っていた「ダウンタウンのごっつええ感じ」などがお気に入りであり、ダウンタウン(特に松本人志)のファンでもあった。また、スーパーファミコンソフト『スターフォックス』にはまっていたために、デビューシングルの『EYES LOVE YOU』のPVではそこから得たアイディアを取り入れている。

hideは酒好きで有名。日本酒が好み。ただし、X加入までは殆ど飲めなかったらしい。Xに加入したHIDEに酒を教えたのはPATAであると言われる。

晩年期の音楽的嗜好としては、ナイン・インチ・ネイルズ、ミニストリー、マリリン・マンソン、ホワイトゾンビ、ジェーンズ・アディクション、ストーン・テンプル・パイロッツ、ダムド、オブリヴィオン・ダスト、Cocco、少年ナイフ、コーネリアスなどが挙げられる。また今井寿と藤井麻輝と雑誌で対談した時に意気投合し、当時今井と藤井が組んでいたSCHAFTとコラボレーションをする方向で話が盛り上がった(実現こそしなかったが、zilchのリミックスアルバムにSCHAFTが参加することで希望は叶えられた。)。オルタナティブロック等の、ジャンルに囚わない幅広い音楽傾向が、hideのソロ活動の作曲面に寄与していたものと思われる。


略歴1980年頃、自らが中心となりアマチュアバンドサーベルタイガー(横須賀サーベルタイガー)を結成。曲を作り、ギターを担当した。SABER TIGERとは別のバンド。
1986年、サーベルタイガーは人気・知名度も上がり、その名が知られるまでになっていたがメンバーの脱退などをきっかけに解散。一度は音楽をやめるつもりであったが、同じようにバンド活動をしていたXのYOSHIKIからの誘いを受けてXに加入した。
1989年4月にXはアルバム『BLUE BLOOD』でメジャーデビュー。ギタリストにとどまらずビジュアル全般を担当し、メンバーの髪のセットなどもしていたという。Xは主にYOSHIKIが作詞・作曲を行っていたが、HIDEも一部曲で作詞・作曲をしていた。
1993年8月5日、『EYES LOVE YOU』(アイズ・ラブ・ユー)、『50%&50%』(フィフティー・フィフティー)のシングル2枚同時発売でソロデビュー。Xと平行してのソロ活動が始まった。9月23日にはZI:KILLのTUSKと、映像作品『Seth et Holth』を発表する。「ZI:KILLとhide=ジキルとハイド」という洒落にもなっている。
1994年2月、初のソロアルバム『HIDE YOUR FACE』(ハイド・ユア・フェイス)をリリース。ジャケットを飾る、仮面のオブジェは映画『エイリアン』などで有名なH・R・ギーガーによるデザインである。また、同年3月から4月にかけて初のソロツアーを行った。
1996年、アマチュアバンドであったZEPPET STOREの楽曲や存在を世間に知らしめたいという動機からLEMONed(レモネード)を立ち上げる。5月22日に同名タイトルのオムニバスアルバムとビデオを発売しレーベルの存在を公にした。また、6月より2ndアルバム『PSYENCE』に向けての活動が始まった。
1997年9月、TOSHIの脱退により、X JAPANの解散を発表する。12月31日の「THE LAST LIVE」をもってXは解散した。しかし、「2000年X再結成」をメンバーと約束していたという。(hide死去時にYOSHIKIが公表)
1998年1月1日、ラストライブの翌日にhide with Spread Beaverとして朝日新聞紙上に全面広告を掲載。シングル『ROCKET DIVE』をリリース。
1998年5月2日、朝7時30分頃にhideは自宅マンションの寝室にて、ドアノブに掛けたタオルで首を吊って呼吸停止した状態で、同居していた婚約者によって発見された。病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。
5月5日、関係者のみ300人を集め密葬が執り行われた。
5月6日通夜、5月7日告別式の両日はファンの献花を受け付け、連日ファンが大挙して押し寄せた。
5月7日、脱退したTOSHI、TAIJIを含むX JAPANメンバーをはじめ、親交のあった音楽仲間や業界関係者も列席した。告別式はテレビで生中継された。
5月13日、シングル『ピンクスパイダー』、5月27日にシングル『ever free』を、生前に予定されていた通りにリリース。
7月23日、zilchとしての1stアルバム『3 2 1』が発表される。zilchはレイ・マクヴェイと、ポール・レイヴンというメンバーと共に結成した前衛的なロックバンド(音楽ユニット)である。
10月21日、未発表曲としてシングル『HURRY GO ROUND』がリリース。これは生前に録っていた仮歌の音源を使用して、hideと共に最もレコーディング作業に深く関わっていたI.N.Aによって完成された。
11月21日、アルバム『Ja,Zoo』がリリース。このアルバムは生前には未完成であったが、Spread Beaverのメンバーや、サーベルタイガー時代からの仲間であるkyoや菊池哲などの参加により完成された。
1999年5月1日、hideの死から丁度一年後に、トリビュート・アルバム『hide TRIBUTE SPIRITS』がリリースされた。hideに縁のあるミュージシャンや、hideがBOØWY時代からファンであった布袋寅泰など、そうそうたる顔触れが参加している。
2000年7月20日、記念館hide MUSEUMが故郷である神奈川県横須賀市の海岸沿いに開館した。
衣裳や楽器などhideにゆかりのある品々を展示、併設の「Cafe Le PSYENCE」ではライブも行われた。
オープン式典にはX JAPANファンを公言し、設立にも協力したという衆議院議員の小泉純一郎も出席。
横須賀市内を走る湘南京急バス堀内営業所でも、hide並びにhide MUSEUMをテーマにした路線バスを2台製作・運行させている。
2004年5月2日、七回忌に当たる日には「FILM GIG」などのイベントが行われた。
2005年9月25日に記念館は閉館。当初は3年間の期間限定であったが結果的に2年延長された。閉館後も展示品などは時期を見て公開する予定である。
2007年4月1日、原宿にLEMONed shopがオープン。
2007年10月17日、X JAPAN再始動。新曲『I.V.』は生前の彼の演奏を含めた楽曲となり、念願であった世界デビューへhideも同行する形となった。同22日のプロモーションビデオ撮影には彼の立ち位置に空席のマイクスタンドとエレキギターが設置され、YOSHIKIがhideの人形を持って登場するなどより『hideも一緒である』ということを強調していた。
2008年3月28日、X JAPANの復活ライブに特殊映像などを駆使して再現されたhideが登場した。


活動

初仕事
彼がXに加入しての初仕事はXのギター担当としてライブをすることであった。 しかし、彼がXとして最初に立った舞台はライブハウスやコンサートホールではなく、流行らないとある小さな食堂のカウンターであった。 これが「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の企画で行われた「やしろ食堂」ライブで、ギターを演奏しながらTOSHIと共に女性客に向かい「食え~!」と叫んでいた。


hideとINA
hideのツアーメンバーでもあるINAだが、元々はXのレコーディングに参加していたスタッフであった。 その後、hideがソロ活動を始めた際に全面的に参加するなどhideの音楽にとても深く関わっていく事になる。 ツアーでも本来は俗に言う「裏方」であった筈だが、hideが無理矢理表舞台へ引っ張り出したという話である。

しかし、単なる製作スタッフやメンバーという存在にとどまらず、hideには欠かせない存在であった。 hideは自宅に一通りの機材を揃えてデモテープを自宅で製作していたが、この作業は常にINAと二人で行っていた。 「hide」というミュージシャンを、松本秀人(≠hide)とINAの二人でプロデュースしているという感覚であったらしい。

このデモテープはデモテープとしては質の高いものであり、これは、質の高いデモテープを作る事によってレコーディングに携わる人間に対して曲の意図をより明確に伝えられるためである。また、アルバム『PSYENCE』の中の『LASSIE』は雰囲気などのために敢えてデモテープの音源をそのまま収録してある。

「INA」として世に出るようになってからも、hideは本名の「稲田君」と呼んでいた(PATAの事を「石塚君、石塚先生」とも呼んでいた)。


LEMONed
LEMONed(レモネード)はhideの設立したレーベルであり、英俗語である「LEMON(=不良品)」に過去形の「ed」を付けて、「不良品だった」という意味を込めた命名である。また同時に、大量生産されるこの時代で僅かな確率で生産された「不良品」が、似た者同士のアーティストの中で異彩を放ち、「僕たちもかつては不良品だった」と笑えるようにとhide自身語っている。ZEPPET STOREとの出会いをきっかけに立ち上げたが、音楽に限らずhideが「良い」と思ったものをサポートしていくために設立された。音楽以外には、ファッションやグッズの販売店や美容院、フォーミュラ・ニッポンのチームルマンのスポンサーにもなった。毎年夏にはMIX LEMONed JERRYを開催、また千葉マリンスタジアムでのイベントなども行った。


zilch
zilch(ヂルチ)は、レイ・マクヴェイ (Ray McVeigh) (元PROFESSIONALS、SEX PISTOLSのサポートなど)、ポール・レイヴン (Paul Raven) (元Killing Joke、元PRONG、ベーシスト)というメンバーと共に結成したバンド(ユニット)である。 当初のメンバーはhideを含めた三人とされているが、様々なミュージシャンを加えるなど、敢えてメンバーの固定化をしない柔軟な体制でもあった。

ロックンロール、パンク、ヘヴィメタル、グランジ、オルタナティブ、インダストリアルといった、それまでのロックを消化した新しい形の非常に前衛的なロックを目指していた。 完成されたアルバム『3 2 1』は、「邦楽」と「洋楽」という垣根を超えた、非アメリカ人によるアメリカへ向けての挑戦状であった。
「hide」に求められる音楽と、hide自身がやりたいと望む音楽とのギャップを取り除き、hideがやりたい音楽を、純粋に良いと思う音楽を作るという目的もあった。
hideがいなくなった後にリリースされた『3 2 1』のブックレットには、hideへ向けたマクヴェイとレイヴンのメッセージが寄せられた。

アルバムリリース後にツアーなども構想されており、真夏のロック・フェスティバルである「サマーソニック」の前身フェス「beautiful monsters tour」ではマリリン・マンソンとの共演も予定されていた。

残されたメンバーや様々なミュージシャンによって活動は継続されていたが、2007年10月にポール・レイヴンが死去したため、今後zilch名義での楽曲製作が行われるかは不透明である。


逸話
難病を患ったファンである少女、貴志真由子の「hideに会いたい」という願いを、支援団体のメイク・ア・ウィッシュを通じて受けたhideは1995年12月31日、Xの東京ドームライブで少女と会い、ライブの打ち上げにも招待して少女を友達だと紹介した。その後も手紙を送ったり、お見舞いに訪れたりという交流を持ち、少女を励ますことになった。翌年、治療のために骨髄移植手術を受けた少女が手術後の拒絶反応のため心臓に水が溜まり危篤状態となり、彼女の母親から「最期を看取って欲しい」と連絡を受けた時にはその日の予定を全てキャンセルし、病院へ駆けつけて数時間の間励まし続けた。結果、その晩に危篤状態を抜け出し徐々に病状は良くなって数ヵ月後には退院する事もできた。その後にhideは「できることをするだけ」とあくまで個人的に骨髄バンクに登録をしたが、その際に所属事務所が独断で急遽記者会見をセッティングしてしまい、実弟でありhideのパーソナルマネージャーを務めていた松本裕士は、そのことを一切知らなかったと後に出版した追憶本「兄弟」の中で明かしている。記者会見自体は行われたが、その後にhideは「これじゃあ売名行為じゃねえか!!」と言って彼を殴り飛ばした(hide自身ももちろんその事は知らなかった)。慈善活動をひけらかすような行動を嫌っての事であったが、結果的にはこの報道が骨髄バンクの認知度向上に大きく貢献する事となった。
Xの「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」というフレーズを考案。これがヴィジュアル系という言葉を生み出したのはhideと言われる所以になる。また、hideが音楽界に与えた視覚面や音楽面の影響は多大で、音楽ライターの市川哲史などからヴィジュアル系はhideから始まってhideで終わったとも言われている。
ファン想いであることが有名で、大物になるほど回避しがちなTV出演について「地方でライヴに来られないファンの為にも出る」と積極的であったり、「チケット代も安くないのに、更に高いお金を遣わせるのはいけない」と、ソロ活動についての関連グッズは全て5,000円以下であったという。
hideが初めて手にしたギターは新古品のギブソンのレスポール(ナチュラルカラーのレスポールデラックスモデル)であった。祖母に無理だと思って頼んでおいたら、在日米軍横須賀基地内に出入りが出来たのでフリーマーケットで買ってきてくれたという。当時は現在以上に高級品でロック好きには憧れの的であったために、隣の学校や、「友達の友達」という人までが自宅にギターを見に来るという状況になった。だがそのギターは、PATA曰く「金がなかった頃に売っちゃたのかもしれない」とのこと。そのため、記念すべきhideの最初のギターの行方は誰にもわからない。
hideの勤めていた美容院(ジャガーが経営)の常連にヤクザの娘がいて、その常連が行方不明になったとき、その常連の日記の最後に「松本秀人 サーベルタイガー」と書いてあったため、その関連性を疑われ、車に乗せられる。富士の樹海まで連れて行かれ、自白するよう強要されたが、hideは「分からない。」と主張し続け、なんとか解放してもらう。
サーベルタイガー時代、当時デッド・ワイヤーのドラム・TETSUを迎えようと電話したところ、TETSUは留守で母親が出てきて、伝言を頼んだ。しかし、本名を名乗っていたため、TETSUには「松本さんという方から、一緒にバンドをやりませんか?」としか伝わらず、無視することに。しかし、サーベルタイガーに加入するといううわさがデッド・ワイヤーに広まってしまい、TETSUとTAIJIが大喧嘩。結果、引っ込みのつかなくなったTETSUがサーベルタイガーに加入したが、これが元で一時hideとTAIJIの仲は気まずいものになってしまった。
また、KYOをサーベルタイガーのメンバーに加えようとしたとき、待ち合わせ場所にKYOがライブ並の格好でhide曰く、「モーセの十戒のごとく」人が避ける様を見て、「他人の振りして逃げようかと思った」と言っている。ただ、KYOも「お前も人の事言えなかったろうが」と返している。
サーベルタイガー解散の理由は、REMが私用でライブをすっぽがし、裏でローディーがギターを弾いてごまかすという事件があり、これに疑問を持ったTETSUが脱退を表明、それを聞いたhide・KYO・TOKIも「今のメンバー以外にはありえない」として解散を決意した。
解散後も、hide・KYO・TETSUはお互いに自分のバンドを持っているにもかかわらず、「元サーベルタイガーの○○です」と、言っていた。
hideがサーベルタイガーを解散させ、ミュージシャンを辞める決意をしたとき、親交のあったミュージシャンにその事を電話で話した。しかし、サーベルタイガー時代からhideの活躍ぶりは有名で中にはバンドへの誘いもあったが全部断ってきた。その最後にYOSHIKIに掛けた際、YOSHIKIに「Xに入らない?」と誘われた際、hideは、「ちょっと考えさせて。」と言った。翌日、都内にある居酒屋でそのことを承諾すると、それまでそばでおとなしくしていたTOSHIとTAIJIが歓喜をあげ、酒を飲みまくり挙句の果てには組体操まで行うことになったという。
1992年ごろ、Xの全盛期にTOSHIが単独で持っていたラジオ番組「オールナイトニッポン」にYOSHIKIがゲスト出演した回に番組終盤突如乱入。YOSHIKIが本番中に火を噴こうとする、さらに酒を追加する、そこらじゅうのボタンをいじってわけのわからないSEが鳴るなど既に放送事故スレスレであったが、HIDEの乱入で更に番組は崩壊。完全に泥酔状態で呂律も回らず既に泥酔状態のYOSHIKIと共に進行を妨げ、終始かつての飲みにTOSHIが来なかった事にこだわり続けていた(TOSHI曰く出入り禁止を喰らったとのこと)。そして、たまたまおはようナイスデイの取材に来ていた東海林のり子の実況と共に平和な深夜番組を破壊しつくした。

突然の死去
1998年5月1日、hideはSpread Beaverのメンバーと共にフジテレビ音楽番組「ロケットパンチ!」の収録を行う。 その打ち上げ後、日付をまたいで更に飲み、泥酔したhideは実弟でマネージャーの松本裕士が運転する車で自宅マンションまで送られた。

5月2日朝7時30分頃、hideは自宅マンション寝室のドアノブに掛けたタオルで首を吊った状態で発見された。 その後、病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。 当日午後3時頃から、一斉に「元X JAPANのギタリストhideが死亡、警視庁は自殺と断定」と速報で報道された。

警視庁が自殺と断定した根拠は、ドアノブにタオルを巻きつけて首を吊った状態で発見されたという状況証拠である。 そのためニュースやワイドショーでは自殺したものと扱われた。

しかし、当初から事故死だったのではないかという見方が出ていた。 遺書がなかった事、死去前に自殺するような印象を残していなかった事、直前にも自殺を感じさせる兆候はなかったと証言されている事、生前のインタビュー、死去の数日前にhideが都内に建てるスタジオの土地の仮契約をしていた事、などといった理由がこれに関連する。『ピンクスパイダー』の一連の歌詞について「自殺」と関連付けられる説もあるが、これについてはhide自身が雑誌等で「『ピンクスパイダー』の歌詞は『世の中そんなに甘くはない』という挫折と失敗を表した歌。『若いうちは後先考えず突き進め』というメッセージを込めた『ROCKET DIVE』、『人間何度でもやり直せる』という再生・再起の意味を込めた『ever free 』と合わせて3部作の1つとして聴いて欲しい」と語るなど、死を意図したものとは位置付けられていない。

後に発表された松本裕士の見解は、「ギタリストである彼は、職業柄肩こりが激しく眠れない事もあったほどで、タオルなどで肩を吊ってマッサージしていたという。これは、スポーツ選手などがよくやる牽引(タオルを首にかけて引っ張る方法)である。死去直前の5月2日未明まで酒を飲んでおり泥酔状態でそれをしてしまった為、そのまま眠ってしまい、結果事故死した。」というものである。事実、彼の亡くなる数時間前に撮影された「ロケットパンチ」でのインタビュー中、(ギターのストラップのあたる左肩が痛いのか)特に左肩を揉むしぐさを頻繁にしている。 警察の発表した「自殺」に対して、hideの死去は主にファンの間では「不慮の事故死」と見られている。

しかし、『HURRY GO ROUND』の歌詞や、ラジオ番組「オールナイトニッポンR」での発言が意味深長で自殺に関連するのではないかという見方や、はたまた事故ではなく自殺だと断言している人間の存在までもあり、様々な見解がある。警察は雑誌取材などに「『牽引』にしては首の輪が小さく、むしろ死を意図するものであった。また、『バンドや音楽活動で悩み酒量が増えていた』と聞いており、突発的に死に踏み切ったのだと思われる」と答えている。

なお、YOSHIKIは「彼は自殺するような人間ではない。」と発言している。

死去後に時間が経過してからは、テレビなどでhideを取り上げる際には「自殺」、「事故死」という言葉を使わず、「急死」または「急逝」とされている。その理由は「自殺、事故どちらも断定するには曖昧だから」だと思われる(2007年に転落死した坂井泉水も同様)。


葬儀までの5日間
hideの遺体は5月3日に東京都中央区築地の築地本願寺に安置された。夕方、YOSHIKIがロサンゼルスから帰国し成田空港から築地本願寺に直行、遺体と対面をした。YOSHIKIは最初これを「悪い冗談じゃないか」とも思っていたが、飛行機の中での正式な報道を見た瞬間に現実であることを受け入れ号泣したという。

翌日5月4日、週が明け本格的にワイドショーなどで大々的に取り上げられる。築地本願寺にファンが集まり始め、その数は千人規模となる。夕方にYOSHIKIが寺の正面に姿を現し、報道陣を前にメッセージを発表した。

5月5日には、関係者のみ300人を集め密葬が執り行われた。その間もファンは絶え間無く押し寄せ、その数は数千人にも膨れ上がった。また、疲労と心労が重なったファンが次々と倒れ、救急車で病院に搬送された。さらに、「hideが自殺」と報道されていたためにファンの後追い自殺が東京都調布市や千葉市、築地本願寺境内で相次いだ。そのため、翌日には警視庁の要請で元X JAPANのメンバーが記者会見を開き、自殺を思いとどまるように訴えた。このような後追い自殺を防ぐためか、後に状況証拠から自殺と考えられるような芸能人が現れても極力「原因を調査中」などとして「自殺」という報道を避けるようになった(2007年の坂井泉水など)。

5月6日の通夜、5月7日の告別式の両日はファンの献花を受け付け、連日ファンが大挙して押し寄せた。中には単なる通行人や野次馬もいたとされるが、通夜、告別式に5万人近くが集まったとされ、隅田川沿いに2~3kmのファンの列が出来たことも報道されていた。「ファンは列に並ぶ際、パニックになるような事も無く、むしろ近隣住民の迷惑にならないようにゴミ拾いまで進んで行う素行の良さであった」と葬儀翌日の朝日新聞・天声人語で語られているが、実際は各所で将棋倒しなどの事故、警察の対応の悪さによるパニックも起きている。これまで有名人の告別式などが催されたことがあるが、美空ひばりや尾崎豊の告別式に訪れた人の数を超え、これほどまでファンが集まったのは戦後の日本では例が無い。

5月7日の告別式はテレビで生中継された。告別式には、脱退したTOSHI、TAIJIを含む元X JAPANメンバーをはじめ、親交のあった音楽仲間や業界関係者が列席した。築地本願寺開山以来のグランドピアノ持ち込みによるYOSHIKIの伴奏で、TOSHIがX JAPANの『Forever Love』を歌った。hideの『Good Bye』が流される中、出棺される。道路に交通規制が掛けられ一般車両を完全に止めた状態であったが、ファンが大挙して道路に広がり霊柩車を追いかける者まで現れる非常事態となり、築地本願寺周辺がパニック状態になった。

その後、hideは渋谷区の代々幡斎場で荼毘に付された。法名「秀徳院釋慈音」(しゅうとくいん しゃくじおん)。遺骨は四十九日法要をもって、神奈川県三浦市の三浦霊園に納骨され、一部はロサンゼルスの海に当時のzilchのメンバーや松本裕士によって散骨されている。

hideの墓には大きく『hide』の文字が書かれており今でもファンによる多くの献花が飾られている。また、墓石には愛用のギターを模したレリーフの隣に事実上遺作となった『HURRY GO ROUND』の歌詞と両親から息子へのメッセージが刻まれているほか、記帳用のノートも設置されている。なお、墓にはファンによる墓地の荒廃を防ぐために松本家からの注意書きも設置されており、献花は包装をはがすこと、線香を束であげない、水、酒などの液体を墓石にかけないといったルールが記されている。


作品

シングル
EYES LOVE YOU(1993年8月5日)
50%&50%(1993年8月5日)
DICE(1994年1月21日)
TELL ME(1994年3月24日)
MISERY(1996年6月24日)
Beauty&Stupid(1996年8月12日)
Hi-Ho/GOOD BYE(1996年12月18日)
ROCKET DIVE(1998年1月28日)
ピンク スパイダー(1998年5月13日)
ever free (1998年5月27日)
HURRY GO ROUND(1998年10月21日)
TELL ME(2000年1月19日)
In Motion(2002年7月10日)
「Junk story」はシングルとしてはリリースされず(In Motionと同時期に作られていた)

アルバムHIDE YOUR FACE (1994年2月23日)
PSYENCE (1996年9月2日)
Ja,Zoo (1998年11月21日)

ベストアルバムhide BEST ~PSYCHOMMUNITY~(ベストアルバム)(2000年3月2日)
hideが作った3枚のアルバムの中から選曲したベスト。
hide SINGLES ~Junk Story~(シングルス)(2002年7月24日)
hideがリリースした全てのシングルに加え、未発表曲「Junk Story」を加えたシングルコレクション。HDCD対応
KING OF PSYBORG ROCK STAR(ベストアルバム)(2004年4月28日)
hideの7回忌を記念し、hideが生前にコンセプトとしていた「PSYBORG ROCK」を中心に収録されたベストアルバム。HDCD対応
hide PERFECT SINGLE BOX(コンプリートシングルBOX)(2005年9月21日)
シリアルナンバー入り完全受注生産商品。hide歴代のシングル13枚と、2005年9月25日で閉館したhide MUSEUMメモリアルDVDを一箱におさめた。
hide SINGLES+PSYBORG ROCK iTunes Special!! (2006年2月8日)
hideのiTunes Store楽曲配信第一弾として製作されたセレクション。全てのシングルA面と死後に発表された「In Motion」「Junk Story」の2曲に入手困難な状態が続いていたX時代のセルフカヴァー「MISCAST」に「DOUBT(MIXED LEMONed JELLY MIX)」「FLAME(PSYENCE FACTION version)」の2曲のリミックスを追加した全20曲。

zilch
1. 3・2・1 (1998年7月23日※)

※アルバム自体は1996年当時にレコーディングされ既に完成していたが、契約上発売までにかなりの歳月を要した。
2. SKYJIN (2001年9月27日)

3・2・1を製作した後に、hideを含むメンバー間で練られていた構想を形にしたアルバム。

その他
顔でかーい (1998年1月21日)
Hideはプロデュース・作曲(共作)・編曲として関わっている。歌・Funta。
鼻毛がちょっととびだしている。 (1998年3月21日)
Hideはプロデュース・作曲(共作)・編曲として関わっている。歌・Funta。
tune-up(リミックスアルバム)(1997年6月21日)
hideの楽曲を7組のチームがリミックスしたもの。
BasTardEYES(リミックスアルバム)(1999年3月3日)
zilchやhideと交流のあったアーティストらがリミックスしたzilchのアルバム。CDのほか、初回限定には、ビデオが付いていた。
少年ナイフUltra Mix(リミックスアルバム)
世界的に有名な日本のガールズバンドでhideとも親交があった少年ナイフのリミックスをhideが担当(5曲目の「タワー・オブ・ザ・サン」)。
96/69(リミックスアルバム)
小山田圭吾ことCORNELIUSのアルバム「69/96」のリミックスアルバム。9曲目「HEAVY METAL THUNDER」にて参加。
hide TRIBUTE SPIRITS(トリビュートアルバム)(1999年5月1日)
後にDope HEADzとなるI.N.A、HEATH、PATAによるX「CELEBRATION」のカヴァーには、hideが生前にレコーディングしてI.N.AがMacに保存していたヴォーカル音源を使っている。現時点でhideバージョンの「CELEBRATION」はこのアルバムのみに収録。
Psy-clone ~hide electronic remixes~(リミックス・アルバム)(2002年5月22日)
hideの楽曲をトランスや、テクノ、ハウスなどにリミックス。

タイアップ
タイアップのあった楽曲

TELL ME - 「エースコック・スーパーカップ」CF
MISERY - 「花王サクセス」CF(当時「サクセス」という掛け声もhideの声だった)
Hi-Ho - テレビ朝日系「サンデージャングル」オープニング
GOOD BYE - テレビ朝日系「サンデージャングル」エンディング
ROCKET DIVE - 「ミズノ」CF、「テレビ東京系 アニメ「AWOL」オープニング
ピンク スパイダー - 札幌テレビ・日本テレビ系「号外!!爆笑大問題」エンディング
HURRY GO ROUND - 日本テレビ系「スーパーテレビ情報最前線」エンディング
In Motion - TBS系「世界・ふしぎ発見!」エンディング

ツアーメンバー
ツアーメンバーの名前、パートなどはほぼすべて当時の表記である。

hide FIRST SOLO TOUR '94 『HIDE OUR PSYCHOMMUNITY ~hideの部屋へようこそ~』
hide (VOCAL, GUITAR)
RAN (GUITAR) (TWINZER)
PATA (GUITAR) (X JAPAN)
CHIROLYN (BASS) (DEBONAIR)
JOE (DRUMS) (ZIGGY)
D.I.E (KEYBORD)
I.N.A (MANIPULATOR & PERCUSSION)
hide solo tour 1996 『PSYENCE A GO GO』
hide (VOCAL & GUITAR)
PATA (GUITAR) (X JAPAN)
KIYOSHI (GUITAR) (media youth)
CHIROLYN (BASS) (DEBONAIR)
JOE (DRUMS) (ZIGGY)
D.I.E. (KEYBORD)
I.N.A. (COMPUTER & PERCUSSION)
hide with Spread Beaver appear!! 『1998 TRIBAL Ja,Zoo』
hide (GTR & Vo) (ex. X JAPAN)
I.N.A. (Computer & Percussion)
KIYOSHI (GTR) (MEDIA YOUTH)
CHIROLYN (B) (DEBONAIR)
JOE (Dr) (ZIGGY)
D.I.E. (Key)
KAZ (GTR) (OBLIVION DUST)
PATA (GTR) (ex. X JAPAN) ※助っ人怪人

使用機材
hideはX加入以前のアマチュア時代から長年フェルナンデス(Burny)製のモッキンバードモデル (MG-X) を愛用していた。様々なデザインの物が多数存在するが、代表的なものを挙げるとまずhide自らがマーカーで描いたサイケデリックなデザインのフロントにディマジオ、リアにEMGのピックアップを搭載した通称ペイント。これにはボディ材にモンキーポッドが使用され(ネックはメイプル)粘りのある中音域が気に入っていたようだ。次に彼所有の1959年製ギブソンレスポールのスペックを盛り込んだ通称チェリーサンバースト&レモンドロップ。この2本はレスポールと同じメイプルトップマホガニーバックボディ、マホガニーネックとし、ピックアップは彼のために開発されたフェルナンデスVH-401にサスティナーを搭載したもの。この仕様は少々の変更はあったが彼がこの世を去るまでのMG-Xの最終型となり、それ以降の「イエローハート」、「サイエンス」、「基盤」(全て通称)なども同仕様となっている。余談ではあるが、彼の使用するギターのレプリカモデル(値段にして8万円から45万円のもの)がフェルナンデス社から発売(一部を除き生産終了)されている。アーティストモデルとしては彼の生前、死後を問わず過去に例がないほどの驚異的な売れ行きを見せ、ここからもhideというギタリストの人気の高さと影響力を窺い知る事が出来る。
主にレコーディングで使用していたギターには一番のメインとされたギブソンの1959年製造のレスポールスタンダードや、フェルナンデスの通称「レモンドロップ」MGモデル、通称「くじら」モデルなどがある。また、この59年製のレスポールはPATAの所有する59年製レスポールとは型番が数番違いであり、全くの同一またはそれに近い時期に作られたのではないかとの事。
エフェクターはボスのOD-1、Rocktronのランページ、ヴォックスのV-748ワウ、DigitechのWhammy等。
アンプはENGL、マーシャル等。
ソロ活動時は、生演奏をコンピュータに取り込み微調整や生では不可能な音を作る手法を採るPSYBORG ROCK(←hide命名)を基本に作曲。
アルバム「Ja,Zoo」のレコーディングでは5種6台のアンプを同時に鳴らし各々の音量バランスで様々な音を作り出す方法を採用。

「くじら」と「HR(Hide Rebirth)」
PATA所有のフェルナンデス製エクスプローラー型モデル(希少なコリーナをネック&ボディに使用、ピックアップはトムホームズの453Limited)を弾き気に入ったhideはにそれと全く同じ仕様で形のみ同社H(輸出名Vertigo)シェイプのモデルをオーダー、「くじら」と名付け「Ja,Zoo」のレコーディングで使用。新アルバムのツアーの為に「くじら」といままでの愛器「MG-X」を融合させた新しい「hideモデル」をフェルナンデスに提案し、ニューシェイプのモデルが完成。しかし最後のカラーを決める打ち合わせ予定日の前日、hideはこの世を去った。それから3年経った2001年5月、当時作られたプロトタイプ(hide MUSEUMに展示されていた)をもとに限定300本、コリーナを特性の似たホンジュラスマホガニーへ変更し「HR-195」として発売(カラーはナチュラルのみ)され、また翌2002年8月にはその廉価版「HR-85」も500本限定で発売(カラーはナチュラルとブラックの2種)された。hideのためのシェイプ「HR」は世界に800数本しか存在しない貴重なギターとなった。


Posted at 2008/05/02 19:56:57 | コメント(7) | トラックバック(0) | X JAPAN | 音楽/映画/テレビ
2008年01月30日 イイね!

X JAPAN 攻撃再開 2008 I.V.~破滅に向かって~

X JAPAN 攻撃再開 2008 I.V.~破滅に向かって~











ついに X JAPAN 攻撃再開

X JAPAN(エックス ジャパン)は日本のロックバンド。1989年にX(エックス)としてメジャーデビュー。その後1992年にX JAPANへと改名する。1997年解散。通称としてXと呼ばれる。

1982年、千葉県館山市で当時高校生だったYOSHIKIとTOSHIを中心に結成。後に「ヴィジュアル系」といわれるロックの先駆者的存在とされ、Janne Da Arc、Dir en grey、ナイトメアなどに影響を与えている。



Vocal:TOSHI
Guitar:HIDE
Guitar:PATA
Bass:HEATH
Drums:YOSHIKI


バンド名の由来
Xというバンド名は、Xという字が本来持っている「無限の可能性」という意味がこめられている。結成当初は、「正式なバンド名が決まるまでの仮の名前」であって、「1文字だとコンテストのパンフレットで目立つから」という、軽い気持ちであった。 その後、世界進出にあたりアメリカに同名のバンドが存在することが分かり、1992年8月HEATH加入発表と共にX JAPANへと改名する。


来歴

結成から東京進出まで
幼稚園の頃からの幼馴染だったYOSHIKIとTOSHIは、小学校高学年でアメリカのロックバンド「キッス」の話をするような少年であった。小学校6年生の時に「一緒にバンドを組もう」と約束をした、とされる。中学生の時に「DYNAMITE」(1978-1980)、後の「NOISE」)(1980夏-1982)を結成。中学校の予餞会が初ライブだった。通っていた中学校が生徒増加で分割してしまい、ヴォーカリストが別の中学に編入されてしまった為、当初ギターだったTOSHIがヴォーカリストになった。地元では進学校として有名な安房高校に進学した2人は、その後もバンドを続けていたが、進学問題で他のメンバーが脱退。他校のメンバーを加えて1982年に始めたのがXだった。

当時のXは、コンテスト荒らしとして地元では有名なバンドで、TOSHIはバレーボール部と掛け持ちしていた為に、坊主頭で出場していた。

幼少の頃からピアノを習っていたYOSHIKIは、高校生当時「勉強もできてピアノも弾けるが、不良」という、学校にとっては厄介な存在だった。当時の様子をYOSHIKIは「バリカンを持った先生に館山市内を追い掛けられた」と、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に回想している。金髪リーゼントなのに期末試験ではトップクラスの成績、学校行事ではピアノを演奏するなど、当時から異彩を放っていた。「笑っていいとも」などのトーク番組出演時に、YOSHIKIは他にも「ピアノの先生から『転ぶときは手をつかずに顔から転べ』と言われていた」などのエピソードも披露している。また上記「徹子の部屋」番組中、当時のX最高速曲は「Stab Me In The Back」だったにもかかわらず、過激過ぎると判断したのか、Xの1番速い曲として「ROSE OF PAIN」のツーバス連打部分を紹介している。

高校卒業後の進路として武蔵野音楽大学へ推薦入学するはずだったYOSHIKIは、クラシックに対して行き詰まりを感じ、入試1週間前の1984年1月に突如入試を断念してしまう。YOSHIKIは、ロックバンドとして成功する道を選び上京。TOSHIも、バンド活動の為に都内の調律の専門学校へ進学。こうして2人は活動拠点を東京に移した。


インディーズ時代
上京後の2人は、何のツテもない状態でメンバーやライブハウスを探し、1年後の1985年にはバンドとしての体裁を何とか整えられるようになる。6月、初のシングル「I'LL KILL YOU」をDADA RECORDSからリリース。その後YOSHIKIの母親が300万円出資し、有限会社として自身のレーベル「エクスタシーレコード」を設立。1986年4月に「オルガスム」をリリースする。この頃になるとファンもある程度定着したが、メンバーが常に流動的だった。販売が好調だった「オルガスム」を再プレスできなかったのは、この為である。

この頃のXは、日本テレビ「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「ヘビメタコーナー」に出演していた。「早朝シリーズ(就寝中の芸能人の部屋に侵入し、バズーカなどの爆音で起こす名物コーナー)」の一つである「早朝ヘビメタ」や、ステージ衣装のままで競技を行う「ヘビメタ運動会」などで話題となる。当時の放送では、YOSHIKIとTOSHIはそれぞれゲイリー・ヨシキ、オジー・アキラと名乗っていた。また、同番組の企画で「やしろ食堂ライブ」を行い、TAIJIが店の前の一般道で炎を吹き、狭い店内でYOSHIKIがドラムを叩き、HIDEがギターを振り回し、TOSHI、HIDEが客に向かって「食え~!!」と叫び、高速ナンバー「オルガスム」を演奏。迷惑そうな店主と黙々と食事を続ける女性客をよそに僅か1分少々の間で新装開店の店内を破壊し尽くした。ちなみに、HIDEのX加入後初仕事でもある。番組最終回において過去の名場面を放送した際、Xが絡む場面については一切放送されなかった。

実際のライブにおいてもYOSHIKIやメンバーが暴れて火を吹いたりライブハウスを壊すなどの暴走は当たり前。ライブ中の毎回、ガソリン注いでシンバル燃やす、ライブ後の打ち上げでも喧嘩が絶えず、数々のライブハウスや居酒屋から出入禁止となった。当時、ロックミュージシャンが居酒屋へ入る時、YOSHIKIがいないかどうか店員にチェックされた程である。その特異な行動から、HIDE率いるサーベルタイガー、TAIJI率いるディメンシアと共に「関東三大粗大ゴミバンド」とバッシング(嘲笑い)の対象になった。

当時の音楽業界、特にロックのジャンルにおいて「テレビ出演」はタブー視されており、硬派なイメージを保つ事で彼等の世界観を保とうとする風潮があった。しかし、それを嘲笑うかの如くテレビ番組やライブでやりたい放題のXは、業界関係者や他のバンドから「ヘビメタをお笑いネタにされた」として厄介者のレッテルを貼られた。後の作品「紅」さえも認められない時期があったという。

結局、これらのテレビ出演がターニングポイントとなり、Xの知名度は一気に全国へと広がる事となる。また、この頃のXは、酒の席で「他のバンドがやらない面白い事をやろう」と考えた末、当時デモテープの配布すら滅多に無かった時代にプロモビデオを客に配布した。この時、他にも配布するものとして、冷蔵庫、電子レンジ、トラックなど本気とも冗談とも取れるアイデアが出たという。自身のプロモーションを積極的に行う点では、他のバンドより抜きん出ていた(他のバンドからは金持ちバンドとしてみられていたらしい)。なお、このようにお笑い番組にまで出演したということは「いくらいい曲を作っていても聴いてもらえなければ意味が無い」という考えから「知名度が必要」という判断をしたためであるという。

それと前後して、メンバーも固定化された。一時期Xに加入していたTAIJIが1986年の年末に再び加入。ビクターから発売されたオムニバスアルバムのレコーディングでPATAがヘルプで参加。その後、1987年初めには、サーベルタイガーを解散させ美容師になる決心をしたHIDEをYOSHIKIが説得し、Xに加入させた。いつの間にかPATAも正式にメンバーとなり、メジャーデビュー時のラインナップが揃った。

こうして最高のメンバーが揃ったXは精力的に活動を続け、1988年4月、遂にアルバム「VANISHING VISION」をリリース、発売1週間で初回プレス1万枚を完売する。これは、当時としては驚異的な事であった。この時、既に数社とのメジャーレーベルとの契約交渉を進めており、この年の夏に当時のCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)とメジャー契約を果たす。


CBSソニーとの契約メジャー進出時、Xとの契約を巡ってレコード会社間の争奪戦となった。「VANISHING VISION」は、メジャーから発売される可能性もあったが、YOSHIKIの「インディーズでまだ何も残していない」との判断で、エクスタシーからのリリースとなった。結局、Xが契約したのは、1番条件が悪かったとされるCBSソニーだった。Xがソニーと契約した理由は、他社のディレクター達が「BMWを買ってやる」や「黒髪にしたら売れる」といったような、ナメた態度をとっていたからだとされている。こうしたメジャーレーベルの人間の横柄な態度にメンバーはその都度キレまくっていたので、交渉は冷静に対処できるYOSHIKIが担当したという。

実は、契約したソニー側も会社としては積極的にXを獲得する動きは見せなかった。ただ、当時「サウンドディベロップメント」(スカウト・育成部門、通称SD)部門所属だった津田直士が紆余曲折を経て「STAFF ROOM 3rd.」という新規プロジェクトチーム配属となった事から、津田自らがディレクターとなりXと会社を説得。結局「~3rd.」はマネジメントまで引き受けることとなった。


メジャーデビュー、東京ドーム3days
1989年4月21日、CBSソニーからアルバム「BLUE BLOOD」でメジャーデビュー。オリコン初登場6位を記録する。また、この年だけで60万枚のセールスを記録する。当時はまだ、音楽業界でミリオンヒットが珍しい時代であり、さらにトップレベルのロックバンドですら10万枚の売上で大ヒットだったこの時代、Xのセールス記録は驚異的な記録であった。

その後、同年9月に『紅』をシングルカット。テレビ朝日「ミュージックステーション」などをはじめとする音楽番組出演などの積極的なメディア露出で、ヴィジュアル系バンドを見た事の無かった多くの人達に強烈なインパクトを与え、また楽曲の良さでも世間の注目を浴びる。この時もXのメディア露出過多について音楽業界から賛否両論を浴びせられたが、そんな事も吹き飛ばすかの如く、世間の支持を集め瞬く間にトップバンドへと登り詰めた。

破竹の勢いでメジャーシーンを突き進むXであったが、YOSHIKIの過激すぎるドラムプレイがアクシデントを引き起こした。同年11月23日の渋谷公会堂でのライブ中にYOSHIKIが倒れ、以降のライブは延期されたのである。この時から、YOSHIKIは首や腕に「爆弾」を抱えながらバンドを続ける事となる。しかしYOSHIKIが不在でも、Xは日本有線大賞新人賞・日本ゴールドディスク大賞など数々の賞を総ナメにして、X現象は全国へと広まっていった。

1990年2月、初の日本武道館ライブでツアーを再開。5月の大阪城ホールライブをもって、次のアルバムのレコーディングの為に渡米、表舞台から姿を消した。しかし本人達が不在の間にも、前代未聞のFILM GIG(フィルムコンサート)を行い成功させるなど、Xの存在は一種の社会現象となった。

アメリカ・ロサンゼルスでの長期レコーディングでは、またYOSHIKIが倒れてしまう。Xの最高速曲である「STAB ME IN THE BACK」のレコーディング後に頚椎の異常を訴え、頸椎椎間板ヘルニアと疲労で倒れてしまう。このとき、YOSHIKIは過去にない症例をおこし3日間寝込んだという。以降のレコーディングスケジュールは大幅に延期。レコード会社からは1991年7月のリリースをリミットとされた為、他の高速ナンバーや「ART OF LIFE」などのレコーディングを断念し、同年6月帰国。翌7月1日、アルバム「Jealousy」をリリース。オリコンチャート1位を記録する。8月23日、初の東京ドーム公演を果たし、10月29日には日本武道館で「エクスタシーサミット'91」を開催。同時期、新宿の小田急ミロードに「X SHOP JEALOUSIX」を期間限定で出店、日清食品から「カップヌードルX味」が発売されるなど、この頃のXはメディア露出なども合わせて絶頂期を迎えていた。12月8日にはNHKホールで、「X with Orcestra」を開催。さらに12月20日のツアーファイナルの武道館ではFILM GIGのダブルアンコールで本人たちが登場し、この頃に一部新聞で報道された「X解散」という解散説をYOSHIKI自ら「俺たちは解散する気なんかありません」と完全に否定。HIDEに至っては「誰が解散だー!!!」とステージ上でブチ切れていた。そして12月31日には紅白歌合戦出場など、Xは日本を代表するバンドとなっていた。

しかしその間、YOSHIKIとTAIJIには次第に埋まらない溝ができていた。

1992年1月5、6、7日には日本人アーティストとして初となる、東京ドーム3DAYS公演「破滅に向かって」を敢行し、延べ12万人を動員することとなる。しかし、このライブでTAIJIが脱退。その後、1月31日の「ミュージックステーション」番組内のビデオメッセージにより、TOSHIの口からTAIJIの脱退が正式に発表された。TAIJI脱退の理由について、当初「音楽性とファッション性の違いから」と説明されていたが、その後のTAIJIの著書において「YOSHIKIに直接脱退を迫られた」という内容を告白している。「ギャラのアップ要求などバンドの嫌われ役に徹していたことに、YOSHIKIが疲れ果てたのではないか」や、また「一部のスタッフがYOSHIKIに働きかけたのではないか」など解雇理由についてTAIJIが著書で述べている。


ソニーとの契約解除、世界進出
同年3月、ソニーミュージックエンタテインメントから「YOSHIKIの我が侭にはこれ以上つき合えない」といった理由で、メジャー契約の更新を拒否される。この時点でXは所属レコード会社、所属事務所(マネジメントもソニーが丸抱えだった為)も無くなってしまう。

これは1991年リリースされたアルバム「Jealousy」のレコーディング時におけるYOSHIKIの頚椎トラブルでレコーディング期間が大幅に伸び費用がかさんだことや、世界進出に対する費用対効果の面や方向性の違いが原因とされる。Xの人気を考慮しても、ソニーミュージックの我慢は限界に達していた。

契約が切れてしまったXは、新しいレーベルとの契約と同時に、新たなベーシストをオーディションをしながら探していった。そして1992年夏、世界進出を果たすべくアメリカのタイム・ワーナー(当時)と契約。ニューヨークのロックフェラーセンターで記者会見を開いた。海外ではアトランティックレーベル、日本ではMMG(後のイーストウェストジャパン、現在はワーナーミュージック・ジャパンの1レーベル)から作品をリリースすることに決定。この時、同時に元マジェスティック・イザベルのHEATHの加入も発表されている。

海外進出を決めたのは良かったものの、アメリカ・ロサンゼルスに同名の「X」というバンドが存在したため、X JAPANに改名(ちなみに当初はX FROM JAPANと名乗っていたが、直ぐに変更した経緯がある)。


長期のレコーディング、バンド以外の活動
ワーナーとの契約が済んだX JAPANが最初に取り組んだのが、「Jealousy」に収録できなかった「ART OF LIFE」のレコーディングだった。デモテープは1990年夏には既に出来上がっていたが、TOSHIのヴォーカル録りが難航。1993年8月に、ようやくリリースされる。

これと平行して各メンバーのソロ活動が活発になるが、次第にX本体とのスケジュールの都合がつかなくなるなどした為に、Xのレコーディングスケジュールも管理していたYOSHIKIが、他のメンバーに不信感を募らせていった。だが相変わらず、Xのアルバムレコーディングは遅々として進まなかった。

本来、「Jealousy」に続くアルバムは世界進出アルバムとしてリリースされるはずであった。しかし、上記のバンド内の状況、TOSHIの英語発音の問題(「ART OF LIFE」では、長期のヴォーカル録りでも満足できなかったYOSHIKIが、パソコンを使って修正し続けたという経緯がある)、他のメンバーがあまり乗り気でなかった等々の理由により、YOSHIKIは「DAHLIA」での全世界リリース(「DAHLIA」英語盤の製作)を断念した。

さらに、その長期にわたるレコーディングはワーナーとの関係をも悪化させる。契約から4年ものアルバムレコーディングで経費がかかりすぎるとして、レコーディング費用捻出の為に仕上った楽曲を片っ端からシングルとしてリリース。それでも費用がかさんだ結果、YOSHIKIはフェラーリを売却し自腹でX JAPANのレコーディングを続行。さらに、YOSHIKIは持病の頚椎椎間板ヘルニアの為に数曲のハイスピードな楽曲のレコーディングを断念している。

このようなアルバムがなかなか出ないバンドの状況とは別の所で、日本国内ではFILM GIGが開かれたり、X JAPANブランドのコンドーム発売、UFOキャッチャー向け人形のキャラクター化、セガサターン用ゲーム発売、フォーミュラ・ニッポンへの参戦、ユネスコ主催の奈良東大寺ライブへの参加、年末の東京ドームライブの恒例化、紅白への連続出場等々、様々な活動があった。


DAHLIA TOUR~「DAHLIA」リリース、解散
出口の見えない「DAHLIA」のレコーディングが終わらぬまま、1995年11月、アルバムが未発表にもかかわらず遂に全国ツアー「DAHLIA TOUR1995-1996」が開始されてしまう。YOSHIKIの体調を考慮して、基本的に1~2週間に1個所で2daysという緩い日程だった。にもかかわらず翌1995年12月、仙台公演2daysが中止。翌1996年3月14日、名古屋公演2日目にYOSHIKIがライブ中に椎間板ヘルニアを再発して、そのまま以後のツアー日程は全て中止され、事実上ツアー終了。実に(福岡の延期を除く)18公演中、7公演が中止となってしまった。特に福岡ドームに至っては、延期公演の振替も中止というありさまであった。

そして長期のレコーディングの末、1996年11月4日に最後のオリジナルアルバム『DAHLIA』がリリースされた。しかし5年もの歳月を掛けたにも関わらず、アルバム発売以前に全10曲中6曲までがシングルリリースされる(さらに『DAHLIA』リリース後に「SCARS」もシングルカットされた)という、ベスト盤的アルバムとなった。この頃からTOSHIはXに息苦しさを感じるようになったと発言している。事実、後に一部公開された『DAHLIA』のレコーディング映像では終始TOSHIは意見することも許されておらず、ほぼスタッフとYOSHIKIの主導による細かな編集作業で、TOSHIのボーカル部分の細部を何度も修正している。

1997年4月、音楽性・方向性の違いを理由にTOSHIが脱退する。後任のヴォーカルを見つけられなかったバンドは、「2000年X JAPAN復活再結成、その為の一旦解散」を決定。9月22日読売新聞紙上に広告を掲出、解散を発表した。同日、記者会見を開き、X JAPANは解散した。その後、ファンに対する「けじめ」としてライブをしよう、とHIDEがYOSHIKIを説得。TOSHIも参加して、1997年12月31日に東京ドームで「THE LAST LIVE~最後の夜~」が行われ、終了後出演した紅白歌合戦のステージで幕引きとなった。


HIDEの死と解散後のX JAPAN
「2000年再結成」までの間、各メンバーはソロ活動を展開する。中でもHIDEは、hide with Spread Beaver名義で精力的に活動を始めた。しかしその矢先、1998年5月2日にHIDEが急逝、これによりX JAPANの再結成は叶えない幻となった(2005年6月のR-25、2002年1月のWeekly Oricon、1999年6月のFeatureなど様々な場でのインタビューでYOSHIKIが公言している)。HIDEの死は、X JAPANというバンドを解散早々伝説化させる要因になった。また、以降も「ART OF LIFE」や「THE LAST LIVE」などのライブ盤やDVD、インターネット上での投票によるベスト盤リリース、全国主要都市や韓国・ソウルでのFILM GIG開催などが続いた。

さらに、HIDEと同郷であり、hide MUSEUMの建設にも関わった小泉純一郎首相が「X JAPANのファン」と公言し話題を呼び、「Forever Love」が自民党の国政選挙の際にCFで使われた。しかし、その一方でTOSHIの洗脳騒動やYOSHIKIの迷走などかつてのファンを不安にさせるニュースも数多く報道されていた。特にYOSHIKIは日本で表立った音楽活動を殆ど行わなくなり、アメリカでのVIOLET UKの活動を主体にプロジェクトを進めるも、10年近い歳月と数億とも言われる予算を費やしながらも現在まで正式発売された音源はテストミックス1曲のみという結果である。これには公私共に深い信頼関係にあったHIDEの死去が自身に与えた精神的なダメージが大きかったためであることを後に語っている。

日本国内のみならず、海外、特に東アジア、東南アジア圏でのX JAPAN人気も相当なものである。韓国では「Tears」が、映画『僕の彼女を紹介します』挿入歌として、日本文化解禁後の韓国映画において初の日本語楽曲使用となった。また、ヨーロッパ圏ではXの楽曲をカヴァーするバンドも現れている。後述の再結成発表の場でもアジア圏から東京に駆けつけたファンやリアルタイムでXを知らない若者たちの姿などが多く報道されていたことから、解散後も新たなファン層を開拓していたと言える。


2007年再結成
2007年には再び再結成の話が急浮上した。これはTOSHIが「YOSHIKIと再結成する話し合いを進めている」と同年2月10日に自身のホームページ上で明かしたことによるものだった。そのメッセージでTOSHIはX JAPANのかつてのマネージメント事務所社長がTOSHIのライヴ会場に何度も足を運び、他のメンバーが再結成したがってるがTOSHIはどうだろうかと、頼んで来たと話している。再結成に対して否定的であったTOSHIは、最初は頑なに断り続けていたが、あまりにも何度も来られたため、YOSHIKIにも確認し、共通の友人でもあるアーティストにも応援と期待を頂いて話を進めているとTOSHIはそのメッセージで話していた。共通の友人でもあるアーティストとは小室哲哉のことであり、小室もmyspaceに持っている自分のブログで英語で再結成について言及していた。

また、2007年2月13日発売の週刊誌・週刊女性では、TOSHIがインタビューに答え、「近々YOSHIKIがいるロサンゼルスに行く予定です。とりあえず音出してみようと思っています」とも話していた。

しかし2007年3月にX JAPANのリーダーとして活動の鍵を握っていたYOSHIKIが、自分のmyspaceブログ(項目YOSHIKIの外部リンクを参考)紙面を通じて「そのような事実はない」と英語ではっきり否定する発言を述べており、その直後TOSHIのホームページから再結成を言及したメッセージがなんの説明もなく削除されたことから、事実上2007年のX JAPANの再結成は無いことと考えられた。しかし、その後YOSHIKIがスポニチの取材に対し、「ぼくの意志は固まっている。ファンの人生でもあったバンドだから、慎重に意見を聞きつつ復活の準備を進めている」などと語ったため、再結成の可能性は濃厚になった。[1]

そして、2007年2月14日にはソニー在籍時(即ちX時代)のアルバム『BLUE BLOOD』『Jealousy』の2枚がリマスター発売され、また、2007年3月21日にはTOSHI自身のオフィシャルサイトにて、ロサンゼルスのYOSHIKIのスタジオを訪ね、およそ10年ぶりに共に演奏したことを明らかにし、その際にセッションした楽曲はYOSHIKIがhideへの追悼曲として作曲し、2005年のYOSHIKIのソロアルバム『ETERNAL MELODY II』に収録していた「Without you」であったことも明かし、YOSHIKIとのプロジェクト、新曲のリリースの動きが進行していることをほのめかした。実際、X JAPANが解散し10年、結成から25年、メジャーデビューから18年経ったことになる。

そして、スポニチの報道から4ヶ月後の2007年10月18日、オフィシャルホームページに『緊急告知』という形で活動再開が正式に発表され、東京都港区台場のアクアシティお台場屋上において、新曲「I.V.(アイヴイ)」のプロモーションビデオの公開撮影を10月22日に行う旨が報道された[2]。同日めざましテレビで同曲の一部分が公開された。また、「I.V.」はハリウッド映画『SAW4』の全世界メインテーマソングに決定しており、この楽曲でX JAPANは念願の全世界デビューを果たすこととなる。この曲には亡きhideのギター音をデジタル加工して使用するなどまぎれもないX JAPAN5人の楽曲として制作された新曲であるが、この時点での音源化は未定とされており、発売の詳細発表はおよそ3ヵ月後の正式発表まで待つこととなる。また、世界デビュー曲ということもあり、歌詞は英語でDAHLIA製作時に問題となったTOSHIの発音などもYOSHIKIによって指導が行われたという。復活のXデーとなった22日にはお台場にファンが3000~10000人ほど集結し、救急車まで出動する事態となり、危うく撮影中止も懸念されたものの、無事撮影は行われ、存命中の4人そしてYOSHIKIに抱きかかえられた人形のHIDEが揃い、10年ぶりにX JAPANの『5人』がファンの前に姿を現した。この撮影では『HIDEも世界に連れて行く』という意味合いが強く、前述のHIDE人形のほか、彼の立ち位置には空席のマイクスタンドとギターが設置されていた。さらに同日めざましテレビや各種雑誌媒体によるYOSHIKIの単独インタビューも行われた。撮影終了後にはファンに向かってメンバーが復活の挨拶を行い、2008年春を目処に東京での復活コンサートを計画していることなども明らかにされた。YOSHIKIが語るところでは春のコンサート以外は殆ど何も決まっていないに等しく、今後X JAPANが継続した活動を行うのかどうかやアルバム製作があるかどうかなどは自身もわからないとしていた。

後日、TVでのインタビューに YOSHIKIはXに終止符を打つ為の再結成で綺麗な形で終わらせる為であり、長期間の活動はしないとのビジョンを語った。また、HIDEの後任のギタリストに関しては、ゲストと言う形をとり、HIDEのポジションを空けておく、Xは常にHIDEと一緒という発言から新たにHIDEのギターを収録することが不可能なことやTOSHIとの確執が完全に解消されたわけではないといった趣旨の発言からも、長期の活動は難しいのが現実だろうと思われる。なお、TOSHIは復活後のソロコンサートで「X JAPANもやりながら癒しの音楽もやっていきたい」と語っていた。

一方でTAIJIはこの件に関して一切コメントを発していない。


2008年~


再結成発表後に真っ先にXが行った活動は過去のライブ映像を完全な形でデジタル化することであった。 その第一弾として発売が発表されたのはXが『X JAPAN』として行った最初のライブであり、日本人初のドーム球場での年越しコンサートでもある「日本直撃カウントダウンX JAPAN Returns」の完全版である。 CMは2007年12月5日の「FNS歌謡祭」の桑田佳祐の出番直前に解禁され、そのコピーは「X JAPANがついに帰ってきた」というものであった。 当初このDVDは12月30日盤、31日盤と特典をセットにしたBOXとが2008年1月発売とアナウンスされたが、後に延期された。延期理由は「BOXに新曲のPVを付属する」というもので、ここで10月に撮影された『I.V.』のフルバージョンが初商品化となる予定である。

YOSHIKIは今後も過去の映像をデジタル化することを公言しており、「DAHLIA TOUR FINAL」や「THE LAST LIVE」の完全版の発売予定がアナウンスされている。

2008年1月20日、YOSHIKIによる、一般ファンも招待制で出席可能の記者会見が渋谷アップルストアで行われた。この会見で同年3月28日、30日に、東京ドームで2Daysの復活ライブが行われることが発表された。また、会見同日に先行予約が開始され、23日の時点では既に予約が10万枚分を越えていた。この予想以上の反響に応え、当初の予定を変更しドームの後方席も開放し増席することを決定し、さらに夏以降の追加公演と、Xにとって初の海外公演となる欧米・アジアツアーの年内の発表も明かされた[3]。復活ライブは『X JAPAN 攻撃再開 2008 I.V. ~破滅に向かって~』と、かつてのXの東京ドーム3DAYS公演と同じ名前が付けられ、28日は「破壊の夜」、30日は「創造の夜」と命名された。立ち位置に付いても触れており、「HIDEがいたときと同じ配置で行く」と改めて『5人のX JAPAN』によるコンサートであることが強調された[4]。さらにこの会見で「I.V.」のiTunes Storeなどにおける全世界23ヶ国同時発売が発表され、これによってX JAPANは音源発売という形で世界に向けて動き出したことになり、本格的に世界進出を実現させることになった。

また同日夕方、タワーレコード渋谷店において、X JAPANメンバーと招待されたファン160人によるトークライブが行われ、長年確執が報じられてきたYOSHIKIとTOSHIの間でも和やかに言葉が交わされていた。

さらに公式ページには「I.V.」「Without you」を収録したX JAPAN自身が完全監修した日本語楽曲ベストアルバム発売計画がX月X日発売予定とされている。

Posted at 2008/01/30 18:01:20 | コメント(4) | トラックバック(0) | X JAPAN | 音楽/映画/テレビ

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